第二部 VS氷取沢女学院 第三章 7
菫は自分を含めて九人揃ったのを確認すると、左手に着けたグローブで口元を隠してから話し
出す。
「まずは状況を確認しましょう。七回の裏、ノーアウト満塁で二点ビハインド。
ここで追加点を許したら、勝つのはちょっと難しくなってしまうわね」
「そんなことは言われなくても皆分かってますよ。あたしが聞きたいのは、川島先輩が
このピンチをどう凌ぐつもりでいるのかってことです」
「ちょ、ちょっと椿。先輩に向かってそんな口の利き方はマズいって……」
まるで菫をわざと怒らせようと挑発しているかのような口調の椿を、慌てて環が咎めようと
する。
しかし菫は「いいのよ、蓮さん」と彼女に微笑んでから、その笑みを他の後輩達にも向けて
言葉を付け加える。
「グラウンドに立ったら先輩も後輩も関係ないわ。だから皆も私を先輩だと思わず、
言いたいことは遠慮せずに言ってね」
しかし椿を除く一年生達は、その言葉に戸惑いながら顔を見合わせるばかりであった。
それはそうだ。今日は無礼講だと言われたからといって、本気で目上の人に対して馴れ馴れしく
する者がいないのと同じである。
ましてや一年生が菫と一緒に野球をするのはこれが初めて。そういった状況も含め、両者の間に
はまだまだ大きな溝が感じられた。
もちろん菫にもそれは分かっていた。
だからこそ、この試合中に己のプレーで彼女達に信頼できる選手であると認めてもらわなければ
ならない。
その為の一手を、まずは迷わず打っていく。
「じゃあ、私の考えている作戦を説明するわね」
そして、順を追って菫が一つ一つ丁寧に作戦内容を伝えていくと――
全てを語り終える頃には、全員が目と口を大きく開くポカーンとした表情で固まっていた。
「私はこれが最善の策だと思うのだけど、どうかしら?」
「ど、どうって……それ本気で言ってるんですか……?」
「もちろん。まだ一ケ月だけど、あなた達を見てきて出来ると思ったから立てた作戦よ」
椿の問いに菫は迷いなく答えた。しかしそれで、はいそうですか分かりましたと納得できるよう
な代物では到底なかった。
菫の立てた作戦は限りなく博打。しかも大博打だと全員が感じるほどの大胆すぎる物であった。
「あたしはいいと思うぜー。練習試合なんだから試せるもんは試したいし、何より普通に
守るより遥かに面白そうだしよー」
そんな中、まず菫の策に乗ったのはショートを守る絵里香であった。
これに対して彼女と二遊間の守備でコンビ組むセカンドの萩原 純が慌てて、
「ほ、本気で言ってんのかよ⁉ 作戦の肝になるのはオレ達なんだぞ⁉」
「なんだー?自信ねーのかー?」
「そういう問題じゃねぇだろ⁉ 大体、先輩の言う通りになるって確証はあんのかよ!」
「大丈夫よ」
口論を始めた二人をなだめるように菫が口を挟むと、彼女達に向けていた微笑みをそのまま
椿へと向ける。
「私は信じられなくてもいいから。でも私達のエースを信じればきっと大丈夫」
「うっ……」
なんの前触れもなく突然菫から信頼を向けられ、思わず赤くなってしまった顔を背けて隠す椿。
「二人だけではなくて橋本さんにも大きなプレッシャーがかかってしまう作戦だけど、
お願い出来るかしら?」
「ま、まぁ……今は先輩が指揮権を持ってるんだから、あたしはそれに従いますよ。
拒否っても後で監督にバレたら怒られるだけですし……」
「そうだぜー。監督代行に逆らったら、誰かがポロッと本当の監督に告げ口しちゃうかもなー」
「ぐっ……!汚ぇぞお前……!」
絵里香がわざとらしくニヤニヤしながら純に向かって言うと、彼女は悔しそうに額に青筋を
立てて睨み返してきた。
「わーったよ!先輩の言う通りにすればいいんだろ!けど、どうなってもオレは責任とらねぇ
からな!」
さらには頭から湯気を吹き出させながら、自分の守備位置であるセカンドへと一人だけ勝手に
戻っていく。
その背後から「ありがとう、萩原さん」という菫の声が聞こえたが、純は振り向かずに
「フンッ!」と鼻だけを強く鳴らした。
いち早く反対に回った純が一応は納得したこと。そして何より自分達のリーダー格である椿が
やると言ったこともあり、他の一年生達も不安は隠せないものの菫の策に従う姿勢を見せる。
そして再び自分達の守備位置へと散っていくと、ちょうど梨花も相手監督との話をつけ終わった
らしく、相手ベンチから選手が出てきた。
中断前と同じく塁を全てランナーで埋め、いつでも再開できるように準備が整っていく。
「じゃあ橋本さん。打ち合わせ通りにお願いね」
菫も守備位置へと戻る前に椿に声をかけるが返事はなかった。
先程は援護してくれたのにまた塩対応に戻ってしまった彼女に、菫は困ったようにまた眉を
下げると、しかしそれ以上は何も言わずに小走りで駆けていく。
「すみません。お待たせしました」
そしてすでに再開の準備を整え終わっていた主審と打者に一言謝ると、キャッチャーマスクを
着けて腰を下ろした。
打者が右のバッターボックスに入り、主審が試合再開を宣言する。
同時に菫の作戦通り、セカンドを守る萩原 純とショートの田中 絵里香、さらにはセンターの
蓮 環の三人が前へと進み出てきた。
「前進守備……?でもどうしてあの三人だけが……?」
その一風変わった守備隊形を、佳乃はベンチから不思議そうな顔で見守っていた。
ノーアウト満塁の場面では、得点を許さない為にホームベースでフォースアウトを狙う前進守備
を敷くのは定石ではあった。
しかしその場合は内野手全員が前に出るのが普通である。
そうすることで守る者同士の隙間を少なくし、打者へもプレッシャーをかけられるからだ。
故に佳乃の常識からすればこの前進守備は中途半端に感じられた。
「ハン。なかなか面白ぇマネしやがるじゃねぇか」
しかしベンチに戻ってくると自分の隣に腰を下ろした梨花には菫の意図が分かっているのか、
グラウンド上の守備位置を眺めながら口端を緩めた。
(けどいいのか?そいつはてめぇの思い通りに上手くいかなければ、一気に一年坊どもの
信用を失う諸刃の剣だぞ)
無論それは菫も承知の上であろう。
しかし一年振りの実戦とは思えぬほど落ち着いた様子の菫を見て、決して勝算なくこの賭けに
出たのではないのは分かる。
そして梨花はこの作戦において最大の鍵となる、マウンド上の椿へと視線を移した。
菫から出されたサインを確認し、椿は一度大きく息を吐いてからセットポジションに入る。
同時に自分へプレッシャーをかけようと大きくリードを取ってくる三塁ランナーを逆に目で
牽制すると、すかさず投球モーションに移った。
投じたストレートが外角高めのコースに決まる。バッターはそれに手を出してこなかったが、
きっちりストライクゾーンには入っていたのでカウントは稼げた。
「ナイスボール!」
菫からの返球を受け取り、椿はもう一度息を吐く。
満塁の状況で緊張しない投手などいない。しかし自分の投球の生命線であるコントロールは
中断を挟んでもなお健在であると安堵し、手応えも感じていた。
(……先輩の言ってた通り、バットを振ってこなかったな)
事前の打ち合わせで聞かされていた菫の予測では、このバッターはツーストライクに追い込まれ
るまでは、打つのを得意としているコース以外は振ってこないと言っていた。
その読み通り今の球も含め、これまでの打席ではアウトコースへの球をことごとく見送って
いる。スコアブックに記録しながらベンチから見ていた菫はそれに気づいていた。
そして二球目。今度は同じアウトコースでも低めにスライダーが決まる。
これもバッターは見送り、あっさりとツーストライクと追い込むことに成功した。
菫の読み通りなら、ここからはアウトコースの球でもバットを振ってくるだろう。
すでに自分を打ち取るための――
否。この状況を打破するための布石が敷かれいるとも知らずに。
その仕上げとなる球を椿に投げさせるべく、菫はこの試合で佳乃が一度も使っていなかった
サインを出す。
予定通りに提示された三球目のサインを確認して、椿はこれまでで一番大きな深呼吸をした。
セットポジションに入り、グローブの中で念入りに球の握り方を確認していく。
それはまだ試合では一度も投げたことがない変化球。
高校に入ってから梨花に教えられて投げ始めたので、練習量も足らず完成度は極めて低い。
菫には隠していたが、この球を要求通り上手く投げられる自信は三十%もなかった。だから
作戦を聞かされた時、それを正直に言うべきか迷ったが、椿はそうはしなかった。
(皆が…あの人があたしを信じてくれてるんだ。それに応えてこそエースってもんじゃん!)
何を考えているのか分からない菫に対して思うところは色々とある。
言いたいことだって山ほどある。
何もかもがありすぎて、つい彼女に強く当たってしまった。
けれど今は試合中だ。それら思いの丈はこのピンチを乗り切った後にでも存分にぶつけてやれば
いい。
椿はもう一度、今度は小さく深呼吸をして全神経を右手の五指の爪先まで集中させる。
そして左足を上げて投球モーションに入り――運命の三球目を投じた。
(やばっ……!コースが甘くなった!)
投げた瞬間、すぐにそう悟った。
変化させることに集中しすぎて、二球目と同じコースへ投げるつもりだったその球は
イメージよりも高く、内側へと寄ってしまう。
ど真ん中への失投にはならなかったものの、それでも打者からすれば打ちごろにしか見えない
その球に対し、当然バットは振られてくる。
二球続けて同じ軌道を描く変化球に対し、タイミングも合っていた。
こうなってしまったらもう椿に出来るのは祈ることだけ。
(頼む……!そこから落ちろ……ッ!)
その願いが通じたのか、椿の投げた球がバットに当たる直前にさらなる変化を見せた。
右打者から逃げるように横へ曲がるスライダーの軌道はそのままに、そこから縦への変化も
加わり、球が横に滑りながら沈んでいく。
それは今まで通りのスライダーだと思って狙いを定めていたバットの芯を外し、目論見通りに
下側で叩かせことことに成功した。
「よしッ!」
完全に勢いを殺され、力なくセカンドの正面へと転がる打球を見て、椿は投げ切った直後の
姿勢のまま、心の中でガッツポーズをした。
そして打球が転がる先でグローブを構える純へと視線を移す。
(うおっ!マジで三球目でボテボテのゴロが来たよ!)
菫が立てた作戦通りの展開になっていることに純は驚きながらも、前進していた守備位置よりも
さらに前へ出て捕球する。
もし指示に従わず定位置で守っていたら、打球が遅すぎて逆に内野安打になっていたかも
しれない。
(この土壇場で新球を投げた椿もヤベぇけど、それを本当にやらすあの人もヤベぇだろ!)
自分でも気づかぬうちに笑みを浮かべていた純は間髪入れずに、ホームベース上に立って
キャッチャーミットをこちらへと構えている菫へと送球する。
その球を菫がベースを踏みながら受け捕りワンアウト。さらに流れるように一切の無駄のない
華麗な動きで、すかさず三塁へと投げた。
前進守備に参加していなかったサードの亜麻根 玲子はすでにベースカバーに入っており、
菫からの送球を待ち構えていたグローブには寸分違わぬコントロールで球が収まった。
「やった!ダブルプレー!」
「いや、まだ終わりじゃねぇ」
これで菫の作戦は成功したと思い、痛みを忘れて喜ぶ佳乃の隣で、梨花はこの一連のプレーには
続きが残されていることを冷静に見抜いていた。
その慧眼通り、玲子はそこからさらにセカンドへ送球する。
「えっ⁉」
それを見た佳乃が驚きの声を上げた。
サードからの送球はファーストよりもセカンドのほうが距離が短いため、どちらがより高い
確率でアウトを狙えるかを考えればそれはセオリー通りではある。
しかしそれはあくまで守備隊形が通常であった場合の話だ。
今は打球の処理を行ったセカンドの純はもちろん、同じく前進守備を敷いていたショートの
絵里香も、二塁ベースまで戻るにはこのタイミングでは間に合わない。
なら誰がセカンドのベースカバーに?
――その答えはすぐに出た。
「そうか…!環!」
二遊間と一緒に定位置よりも前に出て守っていたセンターの蓮 環が駆けながら二塁ベースの
カバーに入りに行く。
どうして外野をセンターだけ前進させたのか佳乃にはずっと疑問であったが、このため
だったのだ。
一塁ランナーはまだ二塁まで到達しておらず、タイミング的にはこれでスリーアウト。
トリプルプレーの完成――のはずであった。
しかし、玲子の送球が逸れた。
二塁ベース上に環が到達する直前に投じられたその球は、彼女とは入れ違いになる形で後方へと
流れて行ってしまう。
環が慌てて体を捻り、反転させながらグローブを着けた左腕を伸ばすが届かない。
そのまま無人の外野へと転がってしまうかに思えたが、予め不測の事態に備えてカバーに入って
いたライトの神那 美央がなんとか追いつき、最悪の展開は免れた。
しかしその間に一塁ランナーは三塁まで進んでしまい、トリプルプレーでチェンジのはずが
一転。ランナーは一・三塁へと変わり再びピンチを迎えてしまう。
「す、すみません!わ、私のせいで先輩の作戦が……」
送球ミスをした玲子が顔を真っ青にして真っ先に菫に謝る。
それに対し菫はキャッチャーマスクを外した顔をいつものように優しく微笑ますと、
「大丈夫よ、亜麻根さん。ダブルプレーは取れたし、切り替えてあとアウト一つをしっかり
取りにいきましょ」
「は、はい!椿もごめんね……」
「別に点を取られた訳じゃないんだから気にすんなって。次のバッターを仕留めればいいだけ
じゃん」
椿も特に怒るでもなく本心からそう言ってくれているのが玲子にも伝わり、二人には申し訳ない
と思いつつも安堵の息をつく。
しかしエラーをした事実が消える訳ではなく、その表情は固く強張ったままであった。
そして完璧に進んでいたはずの作戦を台無しにしてしまった責任を、玲子以上に感じている者が
いた。――環だ。
(私のせいだ……。私がセカンドに入るのが遅れたから、玲子にどこへ送球するか迷わせ
ちゃったのが原因だ……)
始めこそ菫の指示通り前進守備を敷いていた環であったが、作戦を最後まで信じ切れず、
もし長打になったら……と考えてしまい三球目の時点で後ろへ三歩ほど下がってしまっていた。
たったの三歩ではあったが、それがなければ玲子が投げる瞬間には二塁ベースの上で動かぬ的と
していられただろう。そうすれば送球だって逸れなかったはずだ。
「環!」
名前を強く呼ばれたのに気づき、ハッと顔を上げる。するとレフトの桜田 あざみが自分の後方を
指さし、
「守備位置!元に戻すようにって先輩から指示が出てるよ!」
言われて自分が前進守備のままであるのに気づき、慌てて定位置まで下がる。
らしくなく動揺を見せる環を見ながらあざみはやれやれと心の中でため息をつきながらも、
彼女に対して同情していた。
(まぁ、ぶっちゃけあの作戦があそこまで見事にハマるとは私だって思ってなかったもんね。
自分が環の立場だったら同じことしてただろうし)
作戦が完璧にならなかったのは送球をミスした玲子でも、独断で守備位置を下げた環でもない。
言われた通りに動けば絶対に大丈夫だという信頼関係を、菫と自分達が築けていなかったのが
一番の原因だ。そう、あざみは分析していた。
そしてそれは菫にも分かっていた。
(やっぱりそう上手くはいかないわよね……)
椿達の前では自信満々に言ってみせたものの、実のところ成功率は五分五分だと考えていた。
いや、信頼の不足を加えれれば勝算は半分を切っていたのが本音だ。
(それでも追加点を許さずツーアウトに出来たのは十分に上出来だわ)
それにこうなる展開を想定していなかった訳でもない。
故に菫には作戦が不完全に終わろうとも焦りは一切なかった。
さらなる一手はすでに自分の頭の中で決まっている。
キャッチャーマスクを被り直し腰を下ろすと、一塁と三塁のランナーをそれぞれ順に顔を向けて
確認する。
そして正面に向き直り、まずは椿に牽制のサインを出した。
そのサイン通りに椿が三塁へ牽制球を投げる。しかしランナーは素早い反応を見せると、
機敏に帰塁してしまいアウトにすることは出来なかった。
それどころか、玲子が椿に球を投げ返すと、挑発するように先ほどよりもリードを大きくして
きたではないか。
今の三塁への戻り方を見ても、ランナーは足と走塁技術に相当な自信が有るのだろうと菫は
確信した。
ならばこそ、付け入る隙が有る。
牽制に備えて再び三塁ベース上へと戻った玲子に向けて、菫は顔を正面に向けたまま
ランナーには気づかれぬよう視線だけを送る。
(お願い亜麻根さん、気づいて)
その願いが通じたのか、玲子が一瞬だけ驚いた表情になる。それを確認して菫は視線を
マウンド上の椿へと戻した。
(えっ⁉ な、なに今の⁉)
菫と目が合った玲子は必死に平静を装いながらも心臓をバクバクと大きく鳴らしていた。
やはり先程のエラーを根に持たれているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
菫の視線は怒って睨みつけてきたといったものなどではなく、自分に何かを伝えようとしている
ものであった。
菫が何を狙っているのかなど分からない。
けれど何かを狙っているであろうことだけは玲子にも分かった。
そして、それが自分にも関係してくるのだろうということも。
【続く】




