第二部 VS氷取沢女学院 第三章 5
ベンチの中で佳乃はまさに針の筵であった。
機嫌悪そうに組んだ足の上に肘を乗せ、頬杖をつきながら何度も小さく舌打ちをする梨花と
二人っきりな状況なら誰だってそうなる。
さらに鎮痛剤はまだ効いてこなくて左手首は痛いままだし最悪だ。
「あ、あの……監督……」
空気に耐えられなくなったのと痛みを紛らわせたい二つの気持ちから佳乃が口を開く。
すると梨花は相変わらずしかめた顔を正面に向けたまま、
「なんだ?」
「さっき川島先輩と話していたことなんですけど……」
すると梨花の眉間に一層のしわが寄っていくのが横顔からでも分かった。
あ、これは間違いなく地雷を踏んだ。
一瞬痛みを忘れるほど自分が振った話題に佳乃が後悔していると、梨花は髪をかきむしりながら
一度大きく舌打ちをする。
「まぁ……お前らにも知る権利くらいはあるか」
しかし意外にも苛立ちを押し込めると、やはり顔は佳乃には向けてこないまま言葉を続けて
きた。
「あいつが元々選手だったってのは本当だ。お前と同じキャッチャーで、あの事件さえなければ
一年でレギュラーになっていたかもしれないレベルだって前の監督から聞いている」
「やっぱり……野球をやっていたんですね……」
その頃の氷取沢女子野球部のレギュラー候補となれば、間違いなく県内でもトップレベルの
捕手であったと考えていいだろう。
しかし選手であったかもしれないという予感はあったものの、そこまでの選手であったとは
思いもよらなかった佳乃は驚きを隠せなかった。
「なんだ。気づいてたのか?」
「なんとなくですけど……。私達によくアドバイスをしてくれましたし、今思うとそれが
選手の目線で教えてくれるから凄く理解しやすかったっていうか……」
「ハン。そんなことすんなら初めからマネージャーなんかになるんじゃねぇっての」
「あの……、どうして川島先輩は野球を辞めてしまったんですか?」
「知らねえよ。前の監督から聞いた限りじゃ、事件の責任を感じてって話だったけどな」
「でも、その事件に関わっていた部員は全員退部させられたって聞きましたし、今残っている
川島先輩はなんの関係もないはずなんじゃ……」
「だから知らねぇって言ってんだろ。まぁ、あのクソ真面目そうな性格だ。どうせ自分が
なんとか出来たはずだとでも思い上がって、いらねぇ責任を一人でしょい込んでるんだろうよ。
後は……お前らに気を遣ってるのもあるだろうな」
「え……?」
「中学で同じチームだった仲良しこよしの奴らが、試合が出来る人数でそのまま丸々揃って
入部してきたんだ。お前が川島の立場だったらどうだ?」
「ちょっと……輪に加わりにくいですね……」
「ましてやお前らは、めんどくさい先輩が一人もいなくなったと思ってたからうちに入って
きたんだろ。
だったらそれに気づいたあの考えすぎの馬鹿が、自分は身を引いたほうがチームやお前達の
ためだって考えてもまぁおかしくはねぇわな」
「うっ……」
自分達が氷取沢に来た理由を見透かされていて、佳乃が言葉に詰まる。
「で、でもそこまで分かっていたんなら、もっと早く監督から川島先輩に選手への復帰を
促してあげてもよかったんじゃ…」
「無理やり野球をやらされてる奴なんて戦力の足しにもならねぇよ。むしろ邪魔になるだけだ。
それに……」
そこまで言うと梨花は何かを思い出したように目を細め、
「自分がなんのために野球をやってるのか分からないままグラウンドに立ったところで、
そいつのためになる物なんて何一つねぇからな……」
今は無人のマウンドを見つめながら、過去の自分と重ねながら愁いを帯びた声で呟いた。
「……監督って、意外と繊細なんですね」
「あ”?喧嘩売ってんのか、てめぇ?」
「す、すみません!失言でした!」
思わず声に出してしまった口を慌てて両手で塞ごうとしたが、そこで左手を怪我していたことを
思い出し、痛みで顔を歪める。
それを見た梨花は腕時計で時間を確認すると、一度目を閉じてからゆっくりと立ち上がった。
「……時間切れだ。どうやらあたしの見込み違いだったみたいだな」
そして、「氷取沢!集合しろ!」と椿達に招集をかける。
すると椿達は即座に全員駆け足でベンチの前まで集まってきた。
「悪いが山吹の代わりの当てが外れた。試合は中止。あたしは山吹を病院に連れて行くから、
お前達はいつもの時間までサボらず自主練習を――」
「ま、待って下さい!」
梨花の声を遮り、栗毛の髪を乱した少女が息を切らせながら駆け寄ってきた。
【続く】




