第二部 VS氷取沢女学院 第三章 3
五月に入り氷取沢女子野球部の活動停止が解け、土屋 梨花を監督として迎えた新体制で始動して
から二週間。
高校生活にも慣れてきた椿達は、その日の練習を終えてもすぐには帰らず、部室でダラダラと
過ごしていた。
「うぁ~……疲れたぁ~……。あの鬼監督、あたしにだけ厳しすぎじゃん……」
「まぁまぁ。監督なりの期待の裏返しなんじゃない?あの人も現役時代は投手だったって
聞いてるし」
制服に着替え終わるとすぐ長椅子の上に仰向けで寝転がり、体をぐったりとさせる椿を
宥めながら、佳乃もその隣に腰を下ろす。
「それにうちのOGだっけかー?あんな事件があったのに、学校側もよくそんな人選を
したよなー」
「でも練習メニューは基本私達のやりたいようにやらせてくれるし、サボらなければ柄と口の
悪いだけで根は良い監督だと思うよ」
「あざみはあの人に目をつけられてないからそう言えるんだって……。
あんな昭和のヤンキーみたいなのにずっと睨まれながらグチグチ言われるのがどれだけ
キツイか、あたしに代わって体験してみなよ……」
「あっ、それは遠慮しておく。これからも私達の人柱として頑張ってね、椿」
「うぅ~……。なんであたしだけがこんな目にぃ~……。完全に大誤算じゃん……」
「誤算っていうか意外といえば川島先輩にも言えるかもね。まさか選手じゃなくて
マネージャーだったとは思わなかったわ」
佳乃が切り替えた話題に、体をだらけさせたままの椿がピクンと反応する。
「良い人だよね。本当なら私達がやらなくちゃいけないような雑用まで全部やってくれるし」
「だなー。あたしもこないだサボッてるの監督に見つかって怒られてた時、間に入って庇って
くれたぜー」
あざみと絵里香が菫を褒めるたび、椿の眉間にはしわが寄っていき、こめかみがピクンピクンと
震える。
「でもよー、あの人ってマネージャーの割には妙に的確なアドバイスをくれるんだよなー。
こないだも言われた通りにバットの振り方を変えてみたら、めっちゃバッティングの調子が
よくなったしさー」
「そうそう。私もスローイングのコツみたいなのを教えてもらってから、送球のコントロールが
よくなった気がする」
菫からアドバイスを受けたのは絵里香と佳乃だけではなく、他の者達も何かしら一度は経験が
あったようで自分も自分もと語りだしていく。
「で、椿はどんなアドバイスをしてもらったの?」
「……してもらってない」
そんな中、話の輪に加わらずにいた椿に佳乃が尋ねると、彼女は不機嫌さを一切隠さぬ顔で
答えた。
「そ、そうなんだ……。もしかすると投手は専門外なのかもね……」
「別に気を遣わなくてもいいよ。あんなの野球の上手さじゃあたし達に勝てないから、
それ以外のことでマウント取ろうとしてるだけでしょ。
先輩の威厳を保つために必死すぎて哀れじゃん」
「なんかよー、椿って川島先輩の話になると機嫌悪くなるよなー」
「別に悪くなってないじゃん」
「どう見ても怒ってるじゃねーかよー」
せっかく盛り上がっていた話に水を差され少しムッとなっていた絵里香が喧嘩腰になりながら
椿に噛みつくと、佳乃が「まぁまぁ」と仲裁に入る。
しかし椿は態度を改めず、イライラしたままフン!と鼻を強く鳴らすと長椅子から起き上がり、
「……帰る。あたしのいないところで先輩の話をして盛り上がればいいじゃん」
「もう椿ってばそんな言い方して……。なら私も一緒に帰るよ」
「悪いけど今日は一人で帰りたい気分だから」
気を利かせてくれた佳乃を冷たくあしらうと、鞄を手にして部室を出る。
腹いせにドアを思いっきり音を立てて締めてやろうかと思ったが、流石にそれは大人気ないと
自重した。
そして締めたドアのすぐ前で、椿は天を仰ぐと右手で顔を覆った。
「はぁ……。なにしてんだろ、あたし……」
即座に仲間達へ不快な態度をとってしまった罪悪感に襲われ、大きなため息をつく。
どうも菫のことになると冷静さを欠いてしまう。その理由は自分でもなんとなく分かっていた。
初めて彼女と出会ったあの日――恥ずかしい話だが、あの二年生に対して一目惚れのような
気持ちを抱いてしまった。
この人と一緒に野球をやってみたい。直感的ではあったがそう思ったのは生まれて初めてのこと
であったし、だからこそあの場で入部を即決した。
しかし菫は女子野球部員であっても、選手ではなかった。
練習初日に行った自己紹介で自らをマネージャーだと名乗ったあの時の、後頭部に160km/hの
剛速球を直撃させられたような衝撃は今でも忘れられない。
もちろん菫は何も悪くはないし、入部前にきちんと聞かなかった自分が悪いだけなのは分かって
いるが、そこは年頃の複雑な乙女心。簡単に割り切れる物ではなかった。
淡い想いは色を失い、後に残ったのはもやもやとした曇天の心のみ。
菫のことを考えると無性にイライラするし、だから椿はもう出来るだけ彼女を意識しないように
していたし、自分から彼女に関わろうともしていなかった。
――それなのに。
「……そんなところで何してるんですか?」
なんとか一度心を落ち着かせた椿は、部室の入口から少し離れた場所に一人で立っている菫に
気づき、無視をする訳にもいかないので気は進まぬが声をかけた。
すると菫はビクン!とこちらが逆にびっくりするほど体を大きく震わせ、ぎこちない笑顔を
こちらへと向けてくる。
「あっ……うん……。練習用のユニフォームを洗濯し終わったから持ってきたんだけど、
みんな楽しそうにお喋りしていたからなんだか入りづらくって……」
両手で持った満杯の洗濯籠を椿に見せながら、おどおどした様子で言ってくる菫のせいで、
せっかく落ち着かせた心がまたざわめき立つ。
先輩のくせにいちいち後輩である自分達の顔色をうかがおうとするのが、椿は一番気にくわな
かった。
「別に気にせず入ればいいじゃないですか。川島先輩はマネージャーでも『一応は』女子野球部
の一員なんですから」
だから思わずその部分を強調して言ってしまった。
そんな自分にも嫌気がさし、苛立ちはさらに募っていく。
それでも菫は作った笑顔を保ったまま、けれど困ったように眉を下げると、
「うん……橋本さんの言う通りかもね……。ごめんなさいね……練習で疲れてるのに
つまらない立ち話をさせてしまって……」
(またすぐに謝る……)
自分に自信がないのか、すぐに謝ろうとするところも椿は嫌いだった。
また一つ苛立ちの役が揃い、このままでは数え役満となって感情が爆発してしまいそうだった
ので、その前に立ち去ろうと決めてしまう。
「じゃあ私は帰りますから。さようなら」
「あ、うん……。さようなら、橋本さん……」
部室から離れていき、肩越しにチラリと後ろを振り返ると、菫は先程の場所で突っ立ったまま
動かずにいた。
多分、部室から後輩達が出てくるまでそうしているつもりなのだろう。
どうやら自分の言葉など聞くつもりはないようだし、なら好きなだけそこで立っていればいいと
椿はフン!と鼻を強く鳴らして顔を前に戻した。
「……ホント、マジでウザい」
そして吐き捨てるように呟くと、さっさと菫の存在を感じられないところまで行きたくて、
疲れきった足に鞭を入れ歩みを速めた。
そんな椿と菫のギクシャクした関係が一変したのは、それからさらに二週間後。
県大会を一ケ月後に控えた最中に行われた、他校との練習試合がきっかけであった。
「よ、佳乃⁉ 大丈夫⁉」
ホームに突っ込んできたランナーと交錯したキャッチャーの佳乃が、グローブを着けたままの
左手首を逆の手で押さえながらうずくまる。それを見た椿が慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫……じゃないかな……。ちょっと捻っちゃったみたい……」
苦痛に顔を歪ませ、額からは脂汗を滲ませる佳乃。
守備についていたチームメイト達も慌ただしく周囲に集まってくる中、ベンチから出てきた
監督の梨花がその輪をどかしながら最後に歩み寄ってくる。
そして佳乃の左手からキャッチャーミットを外すと、患部と思われる部分を慎重に動かしながら
怪我の度合いを確かめていった。
「……どうやら骨まではいってねぇみたいだな。捻挫ってとこか」
思っていたよりも大事には至らなかったようで、椿達だけではなく、顔色を変えて駆けつけた
相手チームの監督もホッと胸をなでおろす。
「まぁ素人判断だから病院で見てもらうまではまだ安心できねぇけどな」
「す、すみません……。大会前の大事な時期に怪我をさせてしまって……」
「いえ、試合中の事故なんで仕方ないです。それにこいつのポジショニングが悪かったのも
原因ですし気にしないで下さい」
「そう言ってもらえると助かります……」
「ですが試合は一時中断させてもらっても構いませんか?」
「え、ええ。それはもちろん」
相手監督の了承を得ると、梨花は佳乃に「立てるか?」と確認してから肩を貸して一緒に
ゆっくりと立ち上がる。
「ごめんね、みんな……。ヘマしちゃって……」
「佳乃が謝る必要なんてないじゃん!それより今は自分の心配をしなって!」
「だなー。でも試合はどうすんだー?佳乃以外にキャッチャーが出来る奴なんていないしよー」
「人数的にも八人になっちゃうし、試合はもう中止したほうがいいんじゃ……」
あざみの言葉に一年生全員が顔をうつむかせる。
そしてその判断を催促するように、自分達の監督へと視線を向けた。
梨花は少し考える間を取ると、やがて椿のほうを向き、
「橋本。肩は冷やさないようにしておけ」
「は、はい。でも佳乃がいないんじゃ誰がキャッチャーを……」
いつでもまたすぐに投げれるよう準備はしておけという意味であったので、梨花は試合を
続行するつもりでいると悟った椿がチームメイトも抱いている疑問を投げかけるが、
「てめぇは言われたことだけやってればいいんだよ」と言わんばかりに睨まれたので口を
塞いだ。
そして梨花は地面に置いたままであった佳乃のキャッチャーミットを拾い上げると、
その持ち主に付き添いながらベンチへと戻っていく。
その二人の後姿を椿は心配そうに見つめていると、ふと視線の先にあるベンチの前で救急箱を
両手で抱きかかえながら、自分以上に心配そうな顔で佳乃を見つめるジャージ姿の菫がいること
に気づいた。
「や、山吹さん!大丈夫⁉」
「多分軽症だ。若いし安静にしてりゃ大会までには治るだろうよ」
まるで自分が怪我をしたかのような悲愴な声の菫に梨花が代わりに答えると、とりあえず佳乃を
ベンチに座らせて安静にさせる。
そしてプロテクターを外すよう菫に指示すると、自身は代わりに受け取った救急箱の中から
市販の鎮痛剤を取り出し、キャップを外した水のペットボトルと一緒に佳乃の隣に置いた。
「気休め程度にしかならねぇだろうが飲んどけ」
「片手で飲める?手伝いましょうか?」
「い、いえ、それくらいは大丈夫です……」
プロテクターを外してくれている菫に対し、佳乃は恥ずかし気に堪えると器用に右手のみで
錠剤を口に含み、持ち替えた水で胃にへと流し込む。
喉が渇いていたこともあり多めに水分を摂取すると、そこでやっと「ふぅ……」と一息つくこと
が出来た。
「すみません……川島先輩にもご心配をおかけしちゃって……」
「ううん、私なんかに気を遣わないで楽にしてて。監督、早く彼女を病院に……」
「んなことは分かってる。それより川島。急いでユニフォームに着替えてこい」
「え……?」
梨花の言葉に驚いたのは菫だけではなかった。佳乃も思わず梨花の顔を見上げる。
「聞こえなかったのか?今すぐユニフォームに着替えてこいって言ったんだよ。
お前にも渡しておいただろ」
「で、でも私はマネージャーですし……」
「この期に及んでまだそんなことを言ってんのか、てめぇは」
梨花は怒気を含んだ声で吐き捨てると菫に詰め寄り、その右腕を掴んで彼女の目の前まで
持ち上げた。
「ならこの手のマメはなんだ。昨日今日に出来た柔らかいマメじゃねぇ。何年も――それこそ
今日までいくらマメが潰れようが一日たりとも休まずバットを振り続けなければ、こんな固い
マメにはならねぇはずだよな?」
「…………」
問い詰められ、菫は何も言い返せないまま梨花から顔を背ける。その反応で梨花の言う通りなの
だと佳乃にも分かった。
「自分はマネージャーだ。それがチームのためになるんだって、てめぇに嘘をついて。
それでもここに燻っていた炎は消せなかったんだろうが!」
掴まれていた右手を自分の胸の上に押し付けられ、菫は唇を噛み締めながら口を真一文字に
結んだ。
意地でも認めるつもりはない菫の態度に梨花は舌打ちをすると、乱暴に掴んでいた腕を離し、
「勘違いしてるみてぇだからはっきり言ってやるよ。今のてめぇがやってることはこれっぽっち
もチームのためになってねぇ。自己満足したいだけの、ただのままごとだ」
「――――ッ!」
自分がしてきたことを否定された上にコケにもされ、流石に頭にきたのか菫が梨花を睨み
つける。
しかし梨花は一歩も怯む様子すらなく、むしろ嬉しそうにフンッと鼻で笑ってみせると、
「少しは良い顔が出来るじゃねぇか。それだよ、あたしが見たかった顔は」
「あなたに……あなたに私の何が分かるんですか⁉ 私がこの一年間、どんな気持ちで
女子野球部に残っていたかも知らないくせに‼」
「ああ、知らねぇよ。それに興味もねぇ。
あたしは母校の女子野球部を立て直すためにここへ戻ってきたんだ。
そのために必要なのは選手としてのお前であって、マネージャーとしてのお前じゃねぇ。まして
やくだらねぇ感傷なんてもっと必要ねぇ」
「私はあなたの駒でも道具でもありません!」
「ハンッ。それをお前が言うかよ。自分の贖罪のためにあいつら一年坊を利用している
お前がよ」
「――――ッ⁉」
嘲笑う梨花の言葉に、菫はハッとさせた顔をみるみる青ざめさせていく。
「ち、違う……私は……そんなつもりじゃ……」
「10分だけ時間をやるから頭を冷やしてもう一度考えてこい。
何が本当にチームのために。後輩のためになるのか。
そしてお前自身が本当に望んでいることをな」
「私は……私は………」
菫は顔を隠すようにうつむかせると、両手を爪が食い込むほどに握りしめ、自問するように
何度も小さな声で呟き――
「あっ!川島先輩⁉」
突然、ベンチから飛び出した。
背後から届いた佳乃の声を無視して、そのままどこかへと走り去ってしまう。
(ってか速ッ⁉ あの人、あんなに足が速かったんだ⁉)
あっという間に姿が見えなくなってしまった菫に佳乃は唖然とするしかない。
さもありなん。それは普段のおっとりとした菫のイメージとはかけ離れすぎていた。
そんな中で梨花は髪をかきむしりながら大きなため息をつき、ドン!と勢いよくベンチに腰を
下ろした。
「そういう訳だ山吹。悪いが病院はもう少しだけ待ってくれ」
「は、はい……分かりました……」
この状況ではそう言うしかなく、佳乃は右手の痛みも忘れかけながら頷いた。
【続く】




