第二部 VS氷取沢女学院 第三章 2
ドンッ!
ベンチ裏の、球場内に設置されたカメラの目が届かないところまで通路を歩いていくと、突然
振り返った梨花にユニフォームの胸ぐらを掴まれ、そのまま椿は背中から壁に叩きつけられた。
「オイコラ橋本。てめぇ……なんで川島のサインに首を振った」
「す、すみません!すみません‼」
「謝って済む問題じゃねぇだろうがッ‼」
振り上げた右拳を椿の顔の目がけて、しかし寸前で顔から数センチも離れていない後方の壁へ
向きを変えて叩きつけると、「ひッ⁉」という怯えきった声があがった。
「てめぇ、去年の決勝でも同じことをしてホームラン食らったよなぁ?あの時のことはもう忘れ
たのかぁ⁉」
椿は答えない。――否。答えられなかった。
環のおかげでせっかく塞がりかけていた心の傷を抉られ、顔の前で腕を交差させたまま
ただ泣きじゃくり、「すみません」を繰り返すしかなかった。
「いいか?今のてめぇなんぞ川島がいなくちゃ三流以下のピッチャーなんだよ!いつまでも
勘違いしてるんじゃねぇぞ⁉」
「すみません……すみません……すみません……もう二度としません……許して下さい……」
梨花が掴んでいた胸ぐらを突き放すように強く押して解放すると、椿は壁に背中をもたれかけ
させながら、力なくズルズルと崩れ落ちていく。その姿を見下しながら梨花は舌打ちをし、
「あたしはこの試合だけは絶対に負けられねぇんだよ!もしこれ以上失点しやがったら二度と
マウンドに上げねぇからな‼」
怒声を唾のように吐き捨てると、椿の返事を待たずベンチへと一人戻って行った。
自分以外は誰もいなくなった静まり返る通路に、椿のすすり泣く声だけが響いていく。
そのまましばらくの間、泣き声は消えることはなく……
椿は身じろぎ一つせず、ただひたすら一人で泣き続けるしかなかった。
氷取沢女学院に入学した橋本 椿には二つの誤算があった。
一つは鬼のように厳しく怖い新監督の存在。
そしてもう一つは――川島 菫という一つ年上の先輩の存在であった。
「え……?女子野球部にまだ部員が残っているんですか……?」
椿達が入学してすぐに、この頃はまだ活動停止中の女子野球部に籍だけを置くべくまず職員室へ
訪れると、予定外の情報が顧問の教師から伝えられた。
「ええ、一人だけね。二年生の名前はなんだったかしら……ああ、そうそう。確か川島さん
だったわ。
去年まで顧問をなさっていた先生は異勤になってしまったし、私も新しい監督と顧問が決まる
までの繋ぎ役でしかないから面識はほとんどないんだけどね」
まるで他人事のような現顧問の言葉に、椿達は揃って神妙な顔を見合わせた。
不祥事を起こした女子野球部には誰も残っていないはず。そう聞いていたのに話が違うでは
ないか。
とりあえず現在の女子野球部の状況について一通り聞いてみたものの、有益になりそうな話は
何一つ得られず椿達は職員室を後にした。
「……どうするの、椿?先輩がいるなら女子野球部乗っ取り計画は練り直したほうが
いいんじゃ……」
「ほんと、椿って昔から詰めが甘いよなー。ちゃんと調べとけってのー」
「う、うるさいな!あたしもどうしようか今考えてるところじゃん!」
廊下を歩き出した椿を先頭にして、その後ろをぞろぞろとついてくる中学時代の仲間達の
中から声をかけてきた山吹 佳乃と田中 絵里香に彼女は振り向かないまま言葉を返す。
確かに噂だけを信じ、きちんと入学前に確認をしておかなかったのは椿のミスであった。
けれど悪いのは自分一人だけとは考えず、佳乃達だって確認を怠ったんだからで同罪じゃんと
心の中では誤算の原因をなすりつけていた。
そんなふうに狂った予定をどうするか話し合いながら廊下を歩いていると、階段にさしかかった
ところで急に椿が立ち止まる。
かと思えば今度は段飛ばしで勢いよく階段を駆け上って行き、踊り場に辿り着くと同時にこちら
を見上げる仲間達の方を振り返り――
「決めた!予定通り、皆で女子野球部に入部するじゃん!」
両手を広げながら高らかに自分の考えを示してみせた。
「先輩がいるっていってもたったの一人じゃん?こっちは九人いるんだし、よく考えればビビる
必要なんてないじゃん?」
「で、でも氷取沢女子野球部の上級生だよ?上下関係にはめちゃくちゃ厳しいって噂は椿も
知ってるでしょ?」
「それこそ心配しすぎだって佳乃。今でも残ってるってことは例の暴力事件とは無関係な
人だろうし、むしろそこら辺は先生達から耳にタコが出来るほど注意されているだろうから、
あたし達にキツく当たってくる可能性は低いはずじゃん?」
「まぁ……それはそうかもしれないけど……」
「それにさっきも言ったけど、こっちは九人もいるんだ。もしあたし達の邪魔になるようなら、
逆に村八分にして追い出してしまえばいいじゃん!」
「そう上手くいくかねぇ」
基本的に絶対に勝てる賭け以外は好まない蓮 環が不安気な声を上げるが、ここまで言い切った
手前、椿も引くつもりはなかった。
「なら昼休み、その先輩とやらを偵察しに行こう!もし手に負えないくらいヤバそうな人だった
ら改めてどうするか考える!それでどうじゃん?」
強引に推し進める椿のプレゼンに仲間達は「まぁ、それなら……」と妥協を示し、とりあえずの
方向性は決まったのだった。
そして昼休み。
昼食を後回しにし、菫を探すため二年生の教室をローラー作戦で1組から尋ねて回っていた
椿達は、4組まで来てやっとその手掛かりを得た。
「川島さん?あの人なら隣の5組のはずよ」
突然訪ねて来たにも関わらず親切に教えてくれた上級生に礼を述べると、一度教室を出て、
言われた隣の教室へと全員で視線を送る。
「あそこに女子野球部の先輩が……」
「よ、佳乃。ちょっと中の様子を見てきて」
「な、なんで私が⁉ 言い出したのは椿なんだから、あなたが行きなさいよ!」
佳乃の言葉に椿以外の全員が『そうだ!そうだ!』と声を合唱させる。流石は三年間同じ
チームで一緒に野球をしてきた仲間達。息はぴったりだった。
「わ、分かったよ!ちょっと冗談で言っただけじゃん……」
そのちょっとには半分以上の本気を込めていたのだが、ともあれ椿は仲間達の輪から
追い出されるようにして、一人で5組の教室へと向かっていく。
そして開いたドアの廊下側から顔だけを半分ほど出して、そーっ……と中の様子をうかがった。
教室の中にはクラスの半数以上の生徒がいた。まだ昼食を取っている者。昼食を食べ終わり、
仲の良いクラスメイトの席で談笑する者。黙々と次の授業の予習をしている者――
そんな自由に昼休みを過ごしている上級生達を、椿は一人一人教室の手前側の席から順に
見ていく。
(女子野球をやってるんだから体育会系っぽい人を探せば……)
しかし椿の想像する先輩像と一致する生徒は中々いない。
そうこうしているうちに最後の一人――窓際の最後列で、ブックカバーのついた文庫本を
一人で読んでいる生徒に視線が辿り着いた。
窓の外から射し込む光に照らされ、綺麗に輝く栗毛色の髪を肩の右側で結った落ち着きのある
雰囲気を感じさせる上級生。
どこかクラスメイトとは一線を引いてるかのように、ぽつんと一人で読書の世界に耽る彼女を
見て椿は自然と首を横に振っていた。
(あれは絶対違うな……。体育会系ってより文系……むしろクラスに一人はいる根暗の
ぼっちじゃん)
でも……と椿は心の声に付け加える。
(凄く……綺麗な人だな……)
同性の椿から見ても美人と思える彼女に目を奪われ、思わずそのまま暫く見入ってしまう。
するとその視線に気づいたのか、不意に顔を上げて読書を中断すると、迷わずこちらへと
向けてきた。
「――ッ⁉」
一瞬だがはっきりと目が合い、椿は慌てて顔を引っ込めて隠れる。
驚きで跳ねまくっている心臓を胸の上から手を当てて必死に鎮めると、大きく深呼吸をしてから
もう一度教室内の窓側最後列の席を覗き込んでみた。
すると彼女は先程と全く同じ姿勢のまま、こちらを見つめ続けていた。当然また目が合い、
椿は自分でも信じられない反射速度で再び顔を引っ込めた。
今度は驚きだけではないおかしな動きを心臓がしだす。運動をした訳でもないのに呼吸が浅く、
速くなっていく。
「つ、椿……どうかしたの……?」
傍から見れば怪しげな行動を繰り返して様子がおかしくなっていく椿に、佳乃が恐る恐る声を
かける。
すると椿は何故か顔を真っ赤にさせて、
「てっ、撤退!今日はもう撤退じゃん!」
「え⁉ な、なにがあったのよ⁉」
その場から大急ぎで離れようとする椿の慌てっぷりに佳乃達も戸惑い、顔を見合わせる自分達に
向かって突っ込んでくる彼女にとりあえず道を開けようとした――その時だった。
「ま、待って!」
文字通り教室から飛び出してきたその声に、椿は思わず足を止めてしまった。
「あ、あの……。何かこの教室に用があったんじゃないの……?」
先程目が合った少女は背を向けたままの椿に向かって優しく微笑むと、声もその微笑みと同じ
柔らかさを感じさせながら問いかける。
しかし椿は振り返らない――というよりも、彼女と目が合った瞬間からおかしくなった自分の
心と真っ赤になった顔を見られたくなくて振り返れなかった。
「ね、ねぇ椿……聞かれてるよ……?」
そんな椿に佳乃が声をかけるが、やはり先輩である少女に背を向けたまま何も言わずのまま、
動かぬのままであった。
椿の様子を、少女も困った顔で小首を傾げながら周囲にいる佳乃達とを交互に見返していると、
ふと彼女達の制服の襟についた校章に気づいた。
「その校章の色……もしかしてあなた達、一年生かしら?」
「は、はい。そうですけど……」
椿の代わりに佳乃が答える。
「一年生がわざわざ二年生の教室まで来たってことは、もしかして誰か知り合いを探して
いたの?」
「いえ、実は私達……女子野球部の川島先輩を探していまして……」
「私を……?」
さらに首を傾げた少女――川島 菫を見て、その場にいた全員が『えっ』と声をハモらせた。
「今の女子野球部に在籍しているのは私だけだし、名前も川島 菫だから間違いはないと思うの
だけど……」
思わぬ突然のエンカウントに、椿以外の全員が戸惑わせた顔を見合わせる。
そのまま円陣を組むように前屈みで輪になって顔を寄せ合うと、菫には聞こえない声量で
緊急会議を始めた。
「ど、どうする皆?いきなり大当たりが向こうから来ちゃってるんだけど……」
「どうするもなにも……こうなった以上は挨拶だけでもしといたほうがいいんじゃない?」
「だなー。それになんか思ってたより良い人っぽいぜー?」
円の外で使い物にならなくなっている椿の代わりに佳乃を議長にして、環と絵里香がそれぞれ
意見を述べる。
他の仲間達もそれに対し異議はなかったようで、とりあえずまとまった意見を佳乃が代表して
伝えようとした――その瞬間だった。
「あ、あの!あたし達、女子野球部に入ろうと思ってるんです!」
「ちょっ⁉ 椿⁉」
フリーズしていたはずの椿が突然再起動し、菫に対して面と向き合うと大声で告げる。
挨拶だけで済ますつもりが入部宣言までしてしまった彼女に佳乃が驚いていると、
「嘘……本当に……?」
佳乃以上に何倍も、いや何百倍も菫は驚いた顔で重ねた両手を口元に当てると、大粒の涙を
ポロポロと溢れさせた。
「えっ⁉ な、なんで泣くんですか⁉」
「だって……あんなことがあったから……。今年の新入部員はいないだろうなって思っていた
から……本当に嬉しくて……」
あんなこととはもちろん昨年の暴力事件である。そして菫の予想通り、椿達がいなければ
この年の新入部員はゼロであった。
良い意味で予想を裏切られた菫は嬉し涙を流し続ける。
そこには噂で聞いていた鬼のように怖くて厳しい先輩など存在せず、ただ一人のか弱そうな
少女がいるだけであった。
と、そこで二年生の教室からヒソヒソと話し声が聞こえてくるのに椿は気づいた。
そしてさらに気づく。この状況を知らない人が見たら、自分達が大勢で菫を泣かせているように
見えるのではないか。
「あ、あの川島先輩……。なんかめっちゃ誤解されてるみたいなんで泣き止んでもらえると
助かるんですけど……」
「う、うん……ごめんね……」
菫はハンカチを取り出すと、育ちの良さを伺わせる品のある仕草で両目を拭う。
しかし拭ったはずの目端にはすぐにまた涙が溢れてきて、「あ、あれ……?」とまた同じように
ハンカチで拭う。
結局――菫が完全に泣き止むまで五分程それを繰り返し、その間、椿達は教室の中から刺す勢い
で届く上級生達の視線で針の筵にされていた。
先輩のくせに涙脆くて、頼りなさそうな人。
それが椿の感じた菫への第一印象であった。
そして、菫への誤算はそれだけでは終わらなかった。
【続く】




