第二部 VS氷取沢女学院 第一章 3
「な、なんか凄い人ね……。これは早めに来て正解だったわ……」
一塁側ベンチの真上に位置する内野席の最前列に座りながら、仁美は人で埋まった球場内を
きょろきょろ見渡していた。
制服姿の膝の上には幾重に折りたたまれた白い布と、トランペットの入った楽器ケースが
置かれている。
「ね、ねぇ仁美……。女子野球ってこんなに人気のあるスポーツなの……?」
「し、知らないわよ。私だって女子野球の試合を見に来たのは初めてだもん……」
隣の席に座る、同じく制服姿で楽器ケースを抱えたブラスバンド部の友人――泉 春香の問いに、
仁美も戸惑いを隠せない様子で答えた。
ここからはグラウンドを挟んだ反対側。三塁側の氷取沢女学院の応援席には、自分達の部とは
比べ物にならないほどの人数と楽器を揃えた立派な応援団が、本番前の音合わせをしている。
それはただでさえ今日はブラスバンド部としてではなく、個人的な応援をしに来ていた二人を
委縮させるのには十分な光景であった。
(こ、こんな中で試合をするなんて、奈月も喜美も大丈夫なのかな……)
自分だったら絶対に無理だと、グラウンド上に立った己の姿を想像した仁美はブルッと身を
震わせた。
――と。そこで突然、主に三塁側の観客が一斉に沸き立った。
「え⁉ な、なに⁉ どうしたの⁉」
二人は軽くパニックになりながらも状況を把握するために辺りをきょろきょろ見回し、
指笛に混じる他の観客の声に耳を傾ける。
するとどうやら氷取沢女学院の選手達がグラウンドに姿を現し始めたのだと分かった。見れば
確かに、三塁側ベンチの中から次々と選手が出てきていた。
白いユニフォームの胸部分に『氷取沢』と横に書かれた紫色の文字と揃えた、同色の
アンダーシャツ。
創部してから何一つ変わらぬ伝統の勝負服に身を纏った主将――川島 菫を先頭にして入場して
きた選手達は、自軍ベンチの前で三塁側応援駅へと体を向けながら横一列に並んでいく。
「本日は私達、氷取沢女学園 女子野球部の応援にお越し下さり、ありがとうございます!
選手一同、最後まで全力を尽くしますので応援をよろしくお願いします!」
『よろしくお願いしますッ‼』
そして自校の応援団だけでなく、三塁側――否。球場にいる全ての観客に届けるように、
大声による挨拶からの一礼をしてみせた。
一糸乱れぬ統率された選手達の挨拶に、三塁側だけでなく一塁側からも拍手が起こる。
試合後に応援席へ向けて挨拶をするのはどこのチームも行っているが、試合前にも行うチームは
珍しい。伝統と礼節を重んじる氷取沢女学院らしい方針と言えた。
「ひ、仁美……。あっちのチーム、なんかめちゃくちゃ強そうだよ……?」
「きょ、去年の準優勝校だもの……。そりゃ……オーラ有るでしょ……」
遠目からでも分かる選手一人一人の堂々とした立ち振る舞いは、自信の表れでもあるのだと
仁美にも分かった。そんな相手に、友人達は今から挑むのだ。
(私がビビッてどうするの……!そんなんじゃ奈月達の力になんてなれやしない……!)
気合を入れ直すために自分で両頬を力一杯叩くと、何事かと隣の春香がビクン!と体を震わせた。
すると先程と同じように、再び球場がざわめき立つ。
今度は仁美も春香も何が起こったのか予想できた。その想像通り、自分達の席の真下から
鶴川女子野球部が姿を現す。
「奈月達が出てきた!」
興奮の余り、仁美は膝の上の荷物を落としそうになりながら勢いよく立ち上がった。
「ワオ!お客さんが一杯ネー!」
「な、なんでこんなに入ってるのよ……。二回戦まではガラガラだったじゃない……」
「それだけこの試合が注目されているということなのであろう。テレビ中継もされると聞いている
しな」
「ですわね。今日のカードが決まってからスポーツニュースやワイドショーを使って因縁の対決
だなんだと散々煽っていたようですし、放送局の目論見通り、見事に釣られてますわね」
ほぼ満員にまで埋まった観客席を見渡しながら、それぞれが思い思いの感想を口にする。
そんな中で奈月は誰よりも目を輝かせながら、
「向こうの応援席から音楽が聞こえます!お祭りみたいです!」
十年前、初めて球場に訪れた時と全く同じ感想を口にしてはしゃいでいた。
「あのねぇ……。あれはどっからどう見ても氷取沢の応援団でしょ。あたし達のために
演奏してくれるんじゃないのよ?」
そんな野球の試合になると緊張とは無縁になる奈月に、喜美は呆れながら説明する。
「ああいう応援団がいると、いかにも強豪校って感じがするであります……」
「ののあは五月蠅いのは好きじゃないニャ……」
「そうか?アタシは奈月と同じでテンション上がるけどな」
「でもやっぱり守ってる時に大音量で演奏されたり、歌われたりするとプレッシャーに
なるって……」
「で、あります……」
「なら自分達の為に演奏してると思ってしまえばいいのよ。プロの応援歌みたく歌詞を変えたり
選手名を言ったりするところは少ないから、意外とすんなり出来るものよ」
この手の敵の応援には慣れている陽菜の提案に喜美と海帆が同時に『なるほど』とハモる。
確かに奈月と梓、それにビビまでもが氷取沢応援団の演奏に合わせて鼻歌を口ずさんでいた。
「奈月~!喜美~!」
と、そこで背後から名前を呼ばれた二人は同時に振り返る。
声が聞こえた方を見上げると、仁美が防球の役割を果たす金網越しに手をブンブン振っていた。
「仁美ちゃん!来てくれたんですね!」
「えへへ♪約束したからね。それと例のやつも作ってきたよ!春香、ちょっとそっち持って!」
有無を言わさず一緒に来ていた友人を立たせ、まだ折りたたまれたままの白い布の端を
持たせると、それを一気に広げるため仁美が走り始める。
そして仁美お手製の横断幕がお披露目されると、奈月達からは一斉に『おお~!』と感嘆の声が
あがった。
横長の真っ白な布に、赤い墨汁で大きく書かれた『野球を楽しめ!』の達筆な文字。右下には
ちゃんと鶴川高校 女子野球部の文字も添えられていた。
「下の方にならつけてもいいって他のお客さんからは許可貰ったから、今から設置するね!」
「はい!ありがとうございます!」
「おっ、良い横断幕じゃない。奈月の友達が作ってくれたの?」
そこで一足遅くベンチから出てきた沙希が観客席を見上げると、一塁側応援席が今日一番の
盛り上がりを見せた。
歓声、指笛はもちろん、カメラやスマホで沙希を撮影しようとあちこちからシャッターを切る音も
聞こえ始める。
「流石は先生。大人気っスね」
「試合に出るのは私じゃないんだけどねぇ……」
苦笑いを浮かべながらもサンバイザーを取り、観客に向かってお辞儀をすると、
先程の氷取沢にも負けない大きな拍手が球場中から送られてきた。
喝采が収まらない中、沙希はサンバイザーを被り直して奈月達のほうへと向き直ると、
コホンと一つ咳ばらいをし、
「どうも勘違いしてる人が多いみたいだけど、今日の主役はあなた達だからね。
あの観客が帰る時には、私じゃなくてあなた達に夢中になっているような試合を今日も
やるわよ。さぁ準備はいいわね?」
『はいッ!』
気合の乗った教え子達の返事に沙希は満足気に頷き、パン!と手を叩いて鳴らす。
「氷取沢の練習が終わったら続けてうちの番だから、それまでしっかりストレッチをして
体をほぐしておきなさい。あと喜美と海帆は試合前にトイレを済ませておくこと」
「き、緊張してるからって、そんな何度も行きませんって!」
「で、ありますぅ!」
まずは体の前に心をほぐすための沙希の弄りに、一塁側ベンチ前は笑いに包まれる。
しかし、そんな和気藹々とした様子を苦々しく睨みつける者がこの球場内に一人だけいた。
「……ハンッ。悲劇のヒーロー様は大層な人気じゃねぇか」
三塁側ベンチに足を組んで座りながら、氷取沢女子野球部の監督である土屋 梨花は眉間に
しわを寄せながら毒づいた。
彼女もこの試合が世間からどう思われているかは知っている。だからこそ、これまで以上に
苛立ちを隠せなかった。
(因縁の対決?あたしにとって今日の試合は、そんな言葉で片づけられるほど生易しいもんじゃ
ねぇんだよ!)
十年前の決勝戦。エースとして好投しながらも、最後の最後で沙希にサヨナラホームランを
許してしまったあの日の記憶は一日たりとも忘れたことはない。
負けた悔しさ。全国大会へ届きかけたチャンスを潰してしまった無念。
そして何より、三年生の最後の夏を終わらせてしまったことへの罪悪感……
試合後、梨花は人目をはばからず誰よりも号泣した。そんな彼女に三年生達は揃って「あなたは
よく投げた」と慰めの言葉をかけてくれた。勝気な梨花ですら腰が引けるほど普段は厳しかった
先輩達が、である。
だからこそ余計に自責の念に駆られた。だが、いくら泣いて後悔したところで時間は巻き戻りは
しない。
ならばどうすればいいか。考えた末、梨花はその場で誓った。
「来年は必ず鶴川を倒し、先輩達の無念を晴らします」、と。
その日から梨花は練習の鬼となった。
ただでさえ厳しかった当時の氷取沢女子野球部の練習を誰よりもこなし、誰よりも厳しく自らを
律し、追い込んだ。
全ては打倒鶴川のため。
引退した先輩達へ出来る唯一の罪滅ぼしを目標にして、梨花はボロボロになるまでその身を
鍛え上げた。
そして二年連続でエースとして選ばれ、臨んだ高校最後の県大会……
しかし、そこに鶴川の文字はなかった。
梨花は呆然とするしかなかった。同時にやり場のない激しい怒りに全身を震わせた。
(あたしには先輩達との約束を果たすことさえ許されないのかよ……!)
沙希が肩を壊して野球を辞め、同時にチームも解散していたのは後で知った。しかし梨花にとって
そんなことはどうでもよかった。
三年生となった梨花が鶴川と戦えるのはこの大会が最後なのだ。
だからこそ己が全てを賭して大会に臨んできたのだ。
しかしその想いは裏切られた。事情はどうあれ、鶴川に勝ち逃げされたのは間違いなかった。
ふざけるな……ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなッッ!
心の底から鶴川へ対する憎しみの炎が燃え上がった。特に鶴川女子野球部崩壊の原因となった
沙希への憎悪は一段と激しかった。
抑えようのない膨れ上がった負の感情をぶつけるように、梨花はマウンド上で鬼気迫る投球を
続けた。
結果、その年の氷取沢女子野球部は全国大会への出場を果たした。
そして梨花はプロ志望届を出さず卒業し、高校女子野球の指導者になるための道を選び大学へ
進学する。
打倒鶴川だけを目標に野球を続けてきた梨花は、県大会や全国大会で鶴川よりも
強い他のチームにいくら勝とうとも、その心が晴れることは決してなかった。
故に悟っていた。
仮にプロになれたとしても、自分は生涯野球を楽しめず、つまらない人生を歩むだけだと。
自分の野球は、鶴川を倒すことだけに意味が有るのだと。
大学で指導者として必要な知識や資格を学ぶ一方で、母校である氷取沢で当時の監督に頼み、
コーチ見習いとして現場で経験を積ませてもらった。
梨花としては卒業後もそのまま氷取沢女子野球部のコーチとして、鶴川女子野球部が再び表舞台に
出てくる日を待ち続けるつもりであったが、監督の「氷取沢以外の現場も経験しておいたほうが
良い」という助言もあり、交流がある静岡の強豪校にコーチとして推薦してもらい、そこで
腕を振るうことになる。
そんなある日――梨花の耳に信じられない話が飛び込んできた。
氷取沢女子野球部の選手が暴力事件を起こし、一年間の活動停止処分。そして恩師である監督も
更迭されたというのだ。
監督に事実確認をした梨花は、事のあらましを全て説明された。
そして謝罪と共に後任として自分を推薦しておいてくれたことも伝えられる。
梨花は在籍していた静岡の女子野球部と話し合い、その年の大会を最後に母校へ戻る決意をする。
しかし戻った氷取沢女学院は、梨花を女子野球部の新たな監督として迎えるつもりはなかった。
早急にイメージの回復を成し遂げたい氷取沢としては、女子野球部のOG――しかも前監督の
息がかかっていた梨花ではそれが叶わないと判断していたからである。
何より同じ過ちを繰り返す可能性を危惧された。
だから出来るだけ氷取沢とは縁のない指導者を招こうとしていたのだが、火中の栗を拾おうと
する者は誰一人おらず、結局は前監督の指導方針を引き継がないなどの幾つもの条件付きの下、
やっと梨花に白羽の矢が立ったのだった。
学校上層部から不信感を抱かれたまま監督に就任した初年度。梨花は氷取沢女子野球部が
活動停止から明けたその年に県大会準優勝という結果を残し、名門復活のアピールに大きく
貢献した。
そして十人だけだった女子野球部も、以前とは変わったとの噂を聞きつけ、翌年には再び多くの
新入部員が入り、学校上層部も手のひらを返して今年こそ全国大会へと期待を梨花に
寄せ始めた――そんな頃であった。
鶴川女子野球部が復活したという噂を梨花が耳にしたのは。
しかも監督はあの立花 沙希だというではないか。すぐに真偽を確かめ、それが真であると
知ると、梨花は歓喜に――否。狂気に打ち震えた。
十年。
十年も待ち続け、その甲斐あってついにあの時のリベンジを果たせる機会が巡ってきたのだ。
それも沙希本人相手に。
さらに野球の神様は粋な計らいをしてくれた。
鶴川女子野球部が復活したその年に、こうして直接戦える場まで用意してくれたのである。
正気の沙汰でいられるはずがない。
(立花 沙希……。今日この試合でお前を完膚なきまで叩き潰し、あの日受けた屈辱を倍にして
返させてもらう!)
相変わらず遠目から沙希を睨みつけたまま、梨花は口元だけを不敵に歪ませた。
そこで自分に近づく気配を感じ、視線だけをそちらへ移す。
「監督。シートノックの準備が出来ましたのでお願いします」
「……ああ、分かった」
プロテクターを身に着けた菫に不愛想な返事をすると、ベンチから立ち上がる。
そして試合前の守備練習を行うため、ゆっくりとバッターボックスに向かった。
【続く】




