間章 墜ちた名門 2
そして、あの事件から二年の月日が流れ――
「ナイスボール!椿!」
投球練習でボールを受ける二年生捕手、山吹 佳乃は世辞ではない賛辞を呈しながら投手へ
返球する。
しかし褒められた同じく二年生投手の橋本 椿は、どこか納得していない表情で右肩をグルグルと
回し、
「う~ん……。やっぱり菫先輩に受けてもらわないと調子が出ないなぁ」
サイドスローの投球フォームで、握り直したボールを再び投げた。
120km/hを超えるストレートが佳乃のキャッチャーミットに収まり、スパーン!と心地良い音を
立てる。
しかしそれでも椿は、「ん~……」と首を傾げた。
「……あなたねぇ」
流石にその態度にイラッとした佳乃が立ち上がると、ズカズカと大股で椿に歩み寄りながら
その顔目がけてキャッチャーミットを全力で投げ込んだ。
「ひあっ⁉ ちょ、ちょっと佳乃!なにすんのさ!」
「投球練習に付き合ってあげてるのにその態度はなに⁉ 私じゃキャッチャーとして不足だって
言うなら一人で壁にでも投げてれば!」
「べ、別にそうは思ってないじゃん!ただ菫先輩と比べると、どうしてもボールがミットに
収まった時の音が物足りなく感じるというか……」
「一緒でしょうが!」
今度はキャッチャーマスクがもの凄いスピードで飛んできて、避けられなかった椿の顔面に
直撃して仰け反らせた。
それで少しは溜飲が下がったのか、佳乃は一度足を止めて深い深いため息をつきながら前髪を
手でかきあげると、まだ顔を両手で押さえて悶絶している椿へと再び歩み寄って行く。
「あの人の足元にすら及ばないなんて私だって百も承知よ。投手を気分よく投げさせられる
キャッチングだけじゃなくて、キャッチャーとしての才能全部が逆立ちしたって勝てっこないもの」
「ご、ごめん……。でも、本当にそういうつもりで言ったんじゃないから……」
「いいわよ。菫先輩に比べたら椿を満足させてあげられないのは事実だもの」
落ちている自分のキャッチャーミットとマスクを拾いながら、佳乃は「けどね」と言葉を紡ぐ。
「私は椿にこの学校で一緒に野球をやろうって言われたあの日から、一度だってあなたの正捕手で
あるのを諦めたことなんてないんだからね」
左手にミットを付け直し、その手で椿の胸をポンと叩く。すると彼女は顔を俯かせたまま、
もう一度「ごめん……」と謝った。
椿と佳乃は同じ中学の女子野球部出身である。彼女達だけではない、現在の氷取沢女子野球部に
在籍する二年生は、全員が同じ中学のチームで野球をしてきた仲間であった。
中学最後の県大会では決勝まで勝ち進んだ実力校で、後一歩のところで優勝こそ逃したものの、
当然そのレギュラー陣には女子野球部の有る高校からスカウトの声がかかる者もいた。
そんな中で、エースでありチームの中心であった椿がチームメイトに提案したのだ。
全員で氷取沢女学院に行こう、と。
椿達が中学三年生になった直後の五月初頭。氷取沢女子野球部の三年生が暴力事件を起こした
せいで、活動停止状態であるのは誰もが知っていた。
そこからさらに残っていた一、二年生の部員が全て抜けたという噂も聞こえてきていた。
名門と呼ばれた女子野球部を持つ人気校から一転、氷取沢女学院の名声は地に墜ちていた。
故に椿と交流のあった他校の実力者達は、誰もそんな氷取沢へ進学するとは口にしなかった。
だが、むしろそこに椿は目をつけたのである。
活動停止といっても一年間だけだと聞いている。ならば自分達が入学して一ケ月だけ我慢すれば、
女子野球部は再び活動できるのだ。
しかも先輩もいない、真っ白な状態の自分達だけのチームで。
椿の立てた大胆な計画に、チームメイトはこぞって興味を示し、最終的には全員が乗った。
そして中学を卒業した椿達は、予定通り氷取沢女学院へ進学したのだが――けれど二つの誤算が
生じるのを、この時はまだ知る由もなかった。
「オラァァァ!橋本ォッ!山吹ィッ!なにサボッて遊んでやがるんだァッ!」
グラウンド中に響き渡った怒声に、二人は同時にビクンッ!と身を震わし、反射的に背筋を
伸ばした。
恐る恐る声の聞こえたほうを見れば、遠くから腕を胸の前で組んでこちらを睨みつけてきている
ユニフォーム姿の、一回りは歳が離れてそうな髪の長い年上の女性が一人。
現在の氷取沢女子野球部の監督、土屋 梨花だ。
――そう。彼女こそが椿にとっての誤算その一であった。
暴力事件のイメージを払拭しようと躍起になっている氷取沢だ。きっと更迭された監督の後任は
『緩い』人が選ばれるだろうと椿達は思っていた。
しかし活動が再開し、監督として新たにやって来たのは、氷取沢女子野球部のOGである彼女で
あった。
梨花の性格を一言で表すのなら『超体育会系』。
そして指導方針も氷取沢女子野球部OGらしく『超スパルタ式』……かと思いきや、そうではない。
そこはやはり監督に就任する際に、耳にタコができるほど上から言われたのだろう。
梨花がかつての氷取沢女子野球部のような練習を選手に課すことはなかった。
代わりに彼女は部員一人一人に、自らの一ヶ月間の練習メニューを考えさせた。
その上で一対一で話し合い、足りない練習メニューや無駄があれば修正し、煮詰めていく。
あくまで練習は部員の自主性に任せ、しかし少しでも手を抜こうとすれば今のように容赦なく
怒声が飛び、尻を叩く。それが梨花の監督としてのスタイルであった。
「投球練習に身が入らねぇなら代わりに走ってろ!ちんたら走ったら回数を増やすからな‼」
「うへぇ……マジでぇ……」
「もぉ……椿のせいだからね……」
そして自分で立てた練習メニューをきちんとこなせない者には怒声だけでなく、ペナルティも
科せられた。
とはいえ、これでもかつての氷取沢女子野球部に比べれば十分すぎるほど緩くなっていたが、
椿達が求めた緩さのイメージとは雲泥の差であった。
椿と佳乃は愚痴を零しつつも、急いで投球練習を行っていたブルペンに自分達の野球道具を置き、
ペナルティが追加されないうちにグラウンドの外周を走り出す。
「ねぇ……。なんか監督って最近ピリピリしてない?
組合せ抽選会から帰ってきてから特にそんな気がするんだよねぇ」
「その理由、椿は知らないの?」
「知る訳ないじゃん」
「多分だけどね、今年の県大会に鶴川高校が出てきてるのが関係あると思うよ」
「鶴川?ああ、十年振りの出場だかで少し騒がれてたとこだっけ?
でも、なんでそれが監督の不機嫌の理由になるのさ?」
「はぁ……。あなた、本当に何も知らないのね……」
並んでランニングを続けながら、二人は梨花に気づかれないよう顔を前に向かせたまま会話を
続ける。
「監督がうちのOGなのは知ってるでしょ?あの人が二年生でエースとして選ばれた年、
県大会の決勝で戦って負けた相手が鶴川だったのよ」
「つまり監督は、その時負けた鶴川に今回も負けたくないと思ってるってこと?」
「まぁ少なくとも対抗意識があるのは間違いないでしょうね」
「うへぇ……。別に監督が鶴川をどう思うが勝手だけどさぁ、それをあたし達にまで
押し付けないでほしいじゃん……」
と、そこで。
今日行われている県大会の試合を偵察しに行っていた菫が戻ってきたのが、椿の視界に入った。
「菫先輩!お疲れ様です!」
「あっ!ちょ、ちょっと椿!」
すると椿はランニングコースを外れ、尻尾を振ってご主人の帰宅を出迎える忠犬が如く、
まっしぐらに菫目がけて走っていく。
止めようとした佳乃であったが、同時に梨花の視線にも気づき、これ以上の巻き添えはご免だと
心の中で椿に謝りながら一人ランニングを続けることにした。
「次の試合の相手、どこになりました?」
「監督の予想通り、鶴川高校に決まったわ。
データはしっかり取ってきたから、これから監督と解析するわね」
そう言って菫は微笑むと、ビデオカメラとスコアブックが入ったバッグを軽くポンと叩いてみせた。
「なら、あたしもお手伝いします!」
「気持ちは嬉しいけど……いいの?さっきから監督が凄く怖い顔でこっちを見てるわよ?」
「あ……」
そこでやっと椿は、自分が今置かれている立場を思い出した。
両目を瞑りながら恐る恐る視線を感じる方へと顔を向け、チラッと片目だけ開けて確認すると、
そこには想像の八割増しで怒りのオーラを全身から放つ梨花の姿があった。
「はぁぁしぃぃもぉぉとぉぉォォッッ。今日は随分と元気みたいじゃねぇかぁ?
もう三十周追加するか⁉ああん⁉」
「ひぃぃぃぃッッ!」
「ほら、早く行かないと本当に追加されちゃうわよ」
「は、はい!それじゃ菫先輩、また後で!」
慌てて走り続けている佳乃の隣まで全力疾走で戻り、ランニングに復帰する椿に菫は小さく手を
振って答えた。
「川島ァッ!てめぇもさっさとこっちに来て報告しやがれッ!」
「あっ、はい!すぐに行きます!」
そして菫もまた、バッグを抱え直すと小走りで駆け出した。
【続く】




