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ラスト サマー

作者: ハラ・エロ

 駅前のレンタカー店で借りたバンに乗って山林を抜けると、写真の光景よりも些か卑小な野原が広がっていた。でも、そんなことは気にせず、僕たちは停車したバンのスライドドアを勢いよく開けると、その大地へ飛び降りた。ここから僕の物語は始まり、そして終わりも始まった。完璧な締章だと思った。

 僕たちは手続きを済ませると手際良くテントを張り、バーベキューの準備をした。とはいえ、僕は手慣れた友人らの指示通りに動くだけだった。僕はこのようなことに教養も経験もなかったのだ。僕は少し申し訳なく思った。そういうこともあってか僕は少し顔色がよくなかったらしい。友人の一人である恵美が僕を心配して声をかけてくれた。

 「智、大丈夫?」

 僕は大丈夫だと言ったが、やはり気になったようで何度も同じことを聞かれた。三回ほど聞かれたくらいに僕は少し酔ったかな、とだけ言った。本当はお酒に酔ってなどいなかった。僕は酒を一滴も飲まない主義なのだ。だけれども、そんな僕の酒事情なんてちんけな事案は彼女にとってマイナーなタレントの熱愛報道よりも興味のないことだろう。きっと露呈しやしない。僕はそうやって軽く見積もっていた。

 「嘘。君は嘘をつくときはいつも左上を見るの」

 彼女にはお見通しだった。仕方ない。僕は嘘を認めた。すると彼女は少し逡巡した後に笑って答えた。

 「そんなこと気にするなよ。誰にだってできないことはあるし、君にしかできないこともきっとあるよ。君は今回が初めてのキャンプなのでしょう?」

 恵美はそう言って僕を励ました。僕は少し気が楽になりながらも、やはり心の淀みが完全に消えたわけではなかった。僕にしかできないことなど一つだってありはしないのだ。だから、彼女の意見は僕の心には響かなかった。でも、気持ちは些か楽にはなったのだ。僕はありがとう、と言って準備を再開した。

 今日は大学の友人たちとキャンプに来ていた。大学四年生、学生生活最後の夏だ。留年をしたり、大学院にいったりするような人は僕らの中にはいなかった。だから、本当に最後なのだ。最後だと言うのにみんなはその悲惨な現実を気にするような言動をしなかった。まるで僕だけが違う世界に住んでいるようだ。やがて準備が終わり、僕たちはさっそくバーベキューを始める。

 「智、何ぼけぇと立っているんだ? 食えよ」

 和樹はそういって僕の目の前になんとなく置かれていた真っ白い皿の上に肉を置いた。彼はとても優しいのだ。彼は玉蜀黍を齧りながら僕に笑顔を向けた。そして、次の瞬間には他の仲間と話だし、そしてふざけ始めた。僕の心は少しだけ痛んだ。

 僕は彼らと友達ではあるのだけれども、厳密には彼ら同士の関係と僕では少し差異があった。僕は彼らと知り合ってからまだ一年半ほどしか経っておらず、他のみんなはもう一年生の時からの仲間だった。

 僕がまた悄気ていると、恵美が近づいてきてくれた。

 「また悪い顔してる」

 僕は恵美の顔を見た。彼女の顔は優しさで満ちていた。

 「君は悲観的に考えすぎているんだよ。もっとポジティヴに考えなくちゃ」

 僕も同意見だ。でも、そうすることは僕にとっては非常に困難であった。僕は右下にある地面を見つめながらポツポツと返答した。

 「そりゃ、できたら、いいけど。無理、なんだ、もん」

 彼女は少し呆れた顔をした。何がそうさせたのかはわかるのだけれども、どうしたらそうさせなくてすむのかはわからなかった。

 「頑張るの。そのままで大人になっていいの? もう成人してるんだけどさ」

 僕は黙った。

 「なぁんか、智が働いてるとこ想像できないなー。そういや、就職決まった?」

 僕は首を横に振った。彼女はそれっきりその話題はやめて、準備中に起こった面白い話やら、ここには来ていない友達の話やらをした。僕は小さく相槌を打ってはいたけれども、全く内容が頭に入ってこなかった。

 僕は就職することはないのだ。とはいっても、ニートになると言うわけでもないし、フリーランスや少し変わった職に就くつもりもなかった。

 恵美の話がひと段落つくと僕はトイレに行ってくると言って席を立った。数歩歩いて振り返ってみると、恵美は別の男子と話をしていた。ここには女子は恵美を含めて三人しか来ていない。和樹を始め、男子たちはその事実を少し、いや、かなり残念がっていたけれど仕方がなかった。何故なら、このメンバーを集めたのは僕だからだ。

 僕は少ない友人の和樹に学生最後の夏キャンプ計画を提案し、彼と僕の共通の知り合いである和樹の友達数名を集めた。しかし、その中の一人、石上が、女子がいないのなら行かないと言うものだから、これまた僕の数少ない友人の一人である恵美に女子の参加者を募るようにお願いをした。彼も彼女も快く引き受けてくれた。そして男子九名、女子三名の計十二名がこのキャンプに参加している。

 僕ではなく、この人たちが集めたならばきっともっと大所帯にできただろうし、もっと華やかなキャンプになっただろう。その点についても僕は申し訳なく思った。僕は人見知りで、知らない人とは行きたくないと言ったのだ。そして、今日、この有様であった。僕のこの最後の試みは全くの失敗で終わるという予感がした。僕はキャンプ場のトイレで用を足すことをせず、手だけを洗って出た。そして隣の茂みの奥に入っていく。少し入ったところに川があったのでその岸に腰をかけた。そして今までの人生を回想してみるのだった。

 僕は会社勤めの父と専業主婦の母の間に生まれた。当時では普通の家庭だ。特にこれといった問題もなく僕は健康に育った。一人子だったし、両祖父母にとってもたった一人の孫だったので親戚一同からも可愛がられて育った。でも、僕は幼稚園の頃から周りに馴染めなかった。そして何にも興味を示さなかった。当初は構ってくれた両親や親戚も、他の孫や僕の妹ができると彼らの方に行ってしまった。僕は幼い子供で、一応は可愛かったのだろうけれども、他の同世代の幼児に比べれば見劣りするものだったのだろう。

 そのまま小学校に上がっても相変わらず何にも興味もなく、友達もできないままだった。僕はそのことに関して悩みなんて持たなかったし、困ってすらいなかったのだが、周りの大人は僕を変だと言った。その後、大人たちによる僕への試みはいくつか行われた。僕は疲弊し、大人への憎悪を膨らませた。大人は僕に彼らの常識を押し付けてきた。僕は彼らを嫌悪した。

 中学に入っても僕は相変わらず無趣味無関心な人であった。この頃になると大人たちは僕への試みを諦めていた。僕は相変わらず何にも興味はなかったが、嫌いなものだけはどんどん増えていった。友情努力勝利、正義、綺麗事、労働、伝統、義務、勉強、交友……。僕は世の中の大半を嫌い、憎み、そして貶していた。

生きる価値も見出せず、惰性で生きてきた。呆然と死にたいと思うようになった。人生が辛いわけではなかった。ただただ、つまらなかったのだ。面白くないテレビを消すように、好きでもない曲がかかったラジオを止めるように、僕はこの人生を終わらせたいと純粋に思うようになった。

 そんな僕が少し変わったのは高校三年の春だ。進路の紙を提出しろとクラス担任に執拗に言われたため、放課後に職員室にそれを持って行った時のことだった。

 「本当に就職でいいんだな?」

 僕は職員室に入り、僕の担任はどこにいるのかと他の教員に尋ね、教えてもらった生徒指導室の扉を開こうとしたとき、担任の声が聞こえてきた。

 「はい」

 女子生徒が答える。

 「しかし、君は成績もいいし、いい大学にもいけるだろうに」

 「でも、うちにはお金がないんです。母子家庭で、もう祖父母も他界していますし、奨学金を借りるにしても返すのが大変だと聞きますし」

 「そうか、まあ、無理にとは言わないよ。君の進路だからね」

 会話が消えた。きっと扉が開く。僕はそう思い、とっさに掃除用具入れの裏に隠れた。予想通り彼女は扉を開け廊下に出てきた。そしてそのまま教室へ向かって行った。彼女の顔は決意に満ちた凛々しい顔をしていたが、その凛々しさとは裏腹に、彼女の後姿は小さく丸まっていた。

 僕は彼女がそこを通り過ぎてから四十秒ほど数えて部屋に入った。

 「君か。どれ、進学ね。地元の学校か。まあ、君らしいな。君の成績ならいけるだろうが、気は抜くなよ。君は恵まれているんだ。大学にいけない子もいるのだから」

 担任が言わんとしていることはわかっているし、誰のことを言っているのかも理解できた。僕は部屋を出て生徒玄関へ向かった。

 僕は自分が恵まれているとは思ったことはなかった。幸か不幸かはその人の価値観だし、相対的なものでしかないからだ。先ほどの女子生徒のことは少し不憫に思わなくはないが、とはいっても彼女よりも貧しい人はいくらでもいる。彼女だけを可哀想だなんて思えなかった。そうやって一人、頭脳内独白に興じながら、僕は生徒玄関へ向かう。

 生徒玄関には先ほどの女子生徒がいた。僕は内心、彼女を意識していることを自覚しつつも、気にしていない素振りで靴を履いた。靴が玄関のタイルと奏でるコツコツとした音が空間に響き渡る。僕は外へ向かった。彼女とすれ違う瞬間、彼女が泣いていることがわかった。僕は衝動的に足を止めた。

 「だ、大丈夫?」

 僕は思わず聞いてしまった。こんなことは生まれて初めてだ。彼女は大丈夫とは言ったものの、泣き止む気配がないので置いては帰れなかった。僕はおいおい勘弁してくれよと思いつつも僕は彼女の側にいた。それでも彼女は泣き止まないから、僕は居た堪れなくなって進路の話を聞いてしまったことを伝えてしまった。

 「聞いてたの。そう。そうなの。あたしの家、貧乏でね、もう高校に通うのもいっぱいいっぱいで、今もバイトして生活してるんだ。だから、大学には通えないの。幸い、今のバイト先がこの先も雇ってくれるらしいからいいんだけど、なんだかあたし悲しくて」

 僕は黙って聞いていた。

 「何であたしはこんなに貧乏な家に生まれたんだろうって、もっと普通の家に生まれて、普通の暮らしがしたかったって思って。周りのみんなが何不自由なく遊んだり、生活したりしているのをみると惨めで情けなくて、辛いの。もう死にたくなるくらいに」

 「じゃあ、死んじゃえばいいのに」

 僕は軽はずみでそう言ってしまった。それが失言だったと気づいたのは彼女に指摘された後だった。彼女は顔色を変えて僕のことを最低と罵った。彼女の涙は止まった。

 「ああ、すみません。あの、僕は、日頃から死にたいって思っていて、でも、死ねなくて。だから死ぬ理由があるのが羨ましいと言うか。別に、価値観とか考え方が違えば、その、当然の、合理的な考察というか。でも、傷ついたら、ごめんなさい」

 僕は精一杯謝った。彼女はしばらく唖然として僕を眺めた。そして少し思案する素振りを見せてから僕にこう放った。

 「あなたいつも一人で何考えてるのかわからない気持ち悪いやつだなって思ってたけど、本当に気持ち悪いやつなんだね。でも何か、腹立たしくなくなってきたわ。気持ち悪いのもここまでくると一周回ってどうでも良くなるんだね」

 彼女は笑った。その時ちょうど夕陽が玄関の柱から顔を出し、僕らを茜色に染めた。彼女は涙を制服からはみ出したセーターの袖で拭いた。その仕草が、僕を動かした。

 「あの、僕、あまり物とか買わないから、お金余っていて、もし良ければ、僕のお金、使ってよ」

 突拍子もない発言だった。彼女は驚いて最初は断ったが、失言のお詫びだと言ったら了解してくれた。僕は家に帰ってから両親に塾に通いたいと告げ、そのための塾代を受け取ると翌日、彼女に渡した。彼女はそれで塾には行かず、模試代や参考書代や入試代に回した。僕は古本屋でバイトを始めた。仕事もそこまで大変ではなかったし、何より、誰かのために働いていると思うと気合が入った。

 それまでの僕の人生に於いて、目的なんてなかったけれど、そのとき初めてそう呼べるようなものに出会った。僕は少し生きている気がした。どうして息をしているのか、どうして飯を食うのか、どうして働くのかを感覚で理解した。

 それから、僕と彼女は放課後に誰もいない空き教室で待ち合わせ、僕がお金を渡し、彼女がありがとうと言うという行事を繰り返した。僕たちはそこでよく世間話などの他愛のない会話を交わした。僕にとってこんな経験は初めてだったし、唯一の生きがいになった。彼女は僕にとっての初めての友達だった。同じクラスだったが、教室では会話を交わさず、月に一回ほどだけ、話すだけの関係になっていた。僕はそれをとても気に入っていたし、彼女も同じように思ってくれていたらいいなと思っていた。

 時は過ぎ、3月になると僕らは同じ大学に合格した。彼女は頭が良かったので他の大学に行けたのだが、僕と同じ地元の大学を受験した。彼女は、いくらバイトしても、僕がお金をあげても、遠くの街で一人暮らしするには足りないから、と言った。また、僕と同じ大学もいいかなって思った、と言われた時は、僕はたまらないほどに嬉しかった。

 僕らは大学に入学すると偶に一緒に食事をしたり話をしたりした。

 「智くん、友達できた?」

 「できてないよ。僕は一人が好きなんだ」

 僕はいつもそう答えた。友達は彼女しかいなかった。でも、何一つ不満はなかった。僕はそれで持たされていたのだ。

 「そうなんだ、智くんらしいね」

 僕らはそんな当たり障りのない会話をした。それ以上の深い話はしなかった。何かが壊れてしまうことを恐れていたし、僕にとって唯一である彼女を壊すわけには行かなかった。

 夏を過ぎると僕らが会うことは滅多になくなった。彼女はバイトに追われていて、それでいて友達も多かったから、そういったことに使う時間が多く必要だった。僕は相変わらず無趣味無関心で、バイトと授業以外は特に何もなかった。お金は彼女に渡し続けた。彼女は何度も拒否したけれど、それでも僕は受け取って欲しかった。この関係が続くことを祈っていた。彼女のことや自分自身のことなどは考えていなかった。今が続くことが何よりの理想だった。だが、そういう保守的な行動が僕の過ちでもあった。日々は着実に変化していたのだ。

 大学一年の後期に入って一ヶ月ほど経ったある日、僕は彼女に呼び出された。その日はお金を渡す日ではなかった。

 「もうお金くれなくていいよ。何とかなりそうだし。今まで本当にありがとう。感謝している。今までの分はそのうち返すよ」

 僕はついにきたかと思った。僕と彼女をつなぐ唯一の渡し船だったお金が、不必要になると、僕らの間には何もなかった。僕はそのことが残念だった。僕らが変わらずにいるにはお金は必要なものだったのだ。

 僕らが会うことはなくなった。キャンパスは同じだったが、学部学科は違ったので授業も被らない。僕はどうにかして彼女に会おうと校門で彼女を待ってみたり、食堂で探したりしてみたが一向に彼女は見つからなかった。

 そんなある日、授業が終わり帰ろうとした僕に一人の女子学生が話しかけてきた。

 「君が智くん?」

 僕は一瞬耳を疑ったが、どうやらこの女性は僕に用があるらしい。僕は首肯して、何か、と尋ねた。

 「私、鈴木恵美っていうの。亜美のお友達。サークルが一緒なの」

 ああ、ここで恵美とは知り合ったのだった。そして亜美というのがお金をあげていた女子の名前だ。

 「あなたに彼女から預かっているものがあるんだけど」

 恵美は風呂敷に包まれた品を取り出した。僕たちは講義室の端っこでその風呂敷を開けた。中からはお金と手紙が入っていた。手紙には、今までありがとう。これからは自分で何とかするので大丈夫です、と書かれていた。

 「何このお金。え、どういうこと?」

 彼女は僕に質問した。彼女は風呂敷の中身を知らなかったようだ。であるならば驚くのも無理はない。僕は仕方なく理由を説明した。

 「ああ、だからあの子、中身は帰ってから開けるように伝えてねって言ったのか」

 どうやら恵美は約束を破ったらしい。

 「ははあん。あんた捨てられたんだ。可哀想に。あの子、最近彼氏が出来たんだよ。それでお金を返しに来たんだね」

 僕はくらッとした。彼女に恋人ができようと僕には全く関係ないことなのに、なんだか無性に悲しくなった。僕は何か大きな勘違いと、大きな期待をしてしまっていたように思えた。僕らの間には本当にお金しかなく、それ以外には本当に何も存在していなかったのだ。

 「そんなに落ち込むなよ。ほら、恋人としては認められなかったけど、友達としてなら認められているんじゃない?」

 恵美はそう励ましてくれた。これが彼女からの最初の励ましだった。僕は頷いた。恵美は亜美と話をできる時間を作ってくれると約束してくれた。

 当日、僕らは三人で会うはずだったのに、亜美の彼氏までついてきた。彼は終始僕を睨み続けた。亜美は今までの感謝を僕に述べたが、ついに彼氏が口を開いた。

 「お前、亜美のこと好きなんじゃないだろうな!?」

僕は大きくビビりながらも答えた。恵美が心配そうに僕を見守っていた。

 「い、い、いいえ! そんなことはありません! 僕は亜美さんとはよいお友達で、ただ、成り行きで、お金を渡すことになったに過ぎず、ええ、僕はお金が有り余っていたわけですから、ですから、ですからですね、つまり、そういうことなのです」

 彼は亜美に二度と近づくなと僕に乱暴に罵倒して、彼女と去って行った。そうして、僕は全てを失った。亜美は何も言わなかった。僕の目を見ることもなく、彼の方を注視していた。僕も何も言わなかった。

 初めから僕と亜美は全くもって他人だった。そして成り行きで僕は彼女の学費を工面してあげていただけの関係で、別に一緒に遊んだりする仲ではなかった。僕に友達があまりにいなかったせいで彼女が友達に見えていただけで、本当にそんな大した関係など築けていなかったのだ。そして僕は今まで友達なんていたことはないし、これからもつくることはないだろう。

 けれども、恵美は僕を励ましてくれた。

 「最低だよね、今まで学費を出してくれていた人を見捨てて彼氏をとるなんて。私、彼女のこと見損なったよ。君は悪くないんだから」

 彼女はそう言った。でも、傷つくものは傷つくし、失ったものは何も戻ってこなかった。それに僕は知っている。この台詞を吐いた後も、彼女は亜美と楽しそうに話をしていることを。彼女は僕を慰めるために同情してくれているのに過ぎず、心からそう思っているわけではないのだ。結局人は他人に寄り添うことはできないのだ。僕は誰よりもそのことを知っているつもりだった。そして、誰よりもその考え方に沿った行動をしてきていたのに、結局は甘えてしまっていたのだ。

 僕はそれから誰とも話さなくなった。一人で退屈な講義を受け、意味のないバイトをした。バイトは数週間後に辞めた。恵美は授業で会うと僕に話しかけてきた。僕と話した後で、友達のもとへ帰って行き、彼らととても楽しそうに会話をした。

 僕は一人で学食に向かい、一人で味のしないラーメンやうどんを食べた。学食は他に大勢の学生で混み合い、笑顔で何かを語らっていた。どうせ大した話ではなかった。授業では教授がこれからの世界や国内は深刻なことになると話していたが、僕には全くもってその危機感はなかった。隣の学生は寝ていたし、後席のやつは友人と話していた。最前列の学生はしきりにペンをノートに何かを書き込んでいたが、僕にはいったい何を書き込んでいるのかはわからなかった。キャンパス内では音楽系サークルが楽器を弾いていた。下手ではないけれど巧くもなかった。駅まではデモ活動が行われ、今の政治に対する批判を述べていたが、誰も僕のこの憂鬱に対しては語らなかった。商店街の衣料品店のセールも僕には関係なかったし、テレビコマーシャルには惹かれなかった。動物の番組に出てくる動物たちは一体何を思っているのだろうか。でも、どうでも良かった。僕は夕飯を食べると風呂に入り、布団に寝転がった。そこから寝つけることができるのは数時間後だった。それまで僕の頭の中では形容し難い塊と、信頼できない社会についての考察が蠢いていた。こんな生活は大学の二年目が終わるまで続いた。

 僕は川の水に手を浸してみた。冷たい感覚が手から手首、そこから少しだけ腕に伝わったがそれ以上は上がってこなかった。十秒ほど浸した後、掌で水を掬って顔を洗った。僕は何を考えていたんだっけ。

 僕はどうでも良くなった。この森で首を吊ればきっとみんなは驚くだろうし、この黒い塊は彼らに乗り移って、永遠にこの世に存在できるだろう、と思った。この面白い試みを実行しようと僕は道のない森の中を進んだ。しかし、途中でロープを持っていないことに気がついてその計画は頓挫した。僕は仕方なくみんなのところへ戻った。

 「お前、今までどこに行ってたんだ?」

 石上が僕を問いただした。僕はちょっと腹部が痛かったと誤魔化す。すると彼はなんだ、ウンコか、と笑った。

 「お前の肉、とっといてやったぞ」

 石上は僕に肉をとって置いてくれたらしい。僕はありがとうと言って席に座り、その肉を食らった。もうすぐ生命活動を停止させようとしている肉体に、生きていた動物の死骸を取り込んだのだ。この動物はこんな僕のために殺されたのかと思うと不憫だった。みんなはバーベキューをやめ、木登りをしたり、奥の河原で遊んだりしていた。

 石上は相変わらず、河原で遊ぶ水着姿の女子たちを嬉しそうに眺めていた。僕には彼が良くない人にも見えるし、悪くない人にも見えた。とても困った。僕はテントに入るとロープを取り出した。その瞬間、誰かがテントに入ってきた。

 「あれ、智。戻っていたのか」

 和樹だった。僕はまずいなと思った。このロープについて聞かれたら非常にまずいことになる。僕は急いで言い訳を考えようとした。しかし、僕が口を開く前に、和樹の軽快な唇が動き出す。

 「ロープ……、ああ、智も木登りをするのか?」

 僕はああそうだ、と答えた。じゃあ俺も一緒に行くよ、と彼はついてきた。僕は気があまり乗らないままみんなの集まる木に向かった。僕たちが木へ到着すると、みんなはおーい、といって歓迎してくれた。僕はロープを和樹に渡した。僕は木登りなんてできないから木下で彼らを茫然と見上げているだけだった。

 「おーい、智。ロープに捕まれ」

 和樹は僕を呼んだ。僕は指示通りロープに捕まった。そして彼らはロープを引き上げた。僕はロープにしがみ付き、彼らの腕力に任せた。

 僕はロープを離しそうになりながらも、最終的にはみんなに抱えられて木の上に到着した。初めて木の上に立った。景色はさぞ美しいのだろうなと思ったが、あまり地上と変わらなかった。地面から数メートルしか離れていないからかもしれない。でも、みんなは歓声をあげた。僕にはよくわからなかった。

 「どう、楽しくない?」

 和樹は僕に聞いた。僕はあまり下と変わらないと答えた。

 「ははは、まあ、そんなに高くないしね。でも、木の上は木の上、この状況を楽しまなくちゃ。ほら、俺たちは今、木の上に立ってるんだぜ? 最高だと思わないか?」

 思わないね。僕は正直に返答した。

遠くの方に女子と数名の男子が川遊びしている姿が目に入った。石上は恵美ちゃんかわいいなあと呟き、このキャンプ中に告白すると言い出した。僕は降りたいと言った。石上と和樹は僕が降りるのを手伝ってくれた。でも、着地した瞬間に、僕は尻餅をついてしまった。和樹が透かさず僕の手を取り、僕の汚れたズボンを叩いて汚れを落としてくれた。

 「大丈夫? ごめんよ、しっかり支えられなくて」

 彼は謝った。彼に過失などなかった。僕の鈍臭さが悪かったのだ。それでも彼は謝った。それが彼なのだ。どこまでも気が利いて、お人好しだった。その事実は僕を傷つけた。僕にはできない行為だったからだ。僕は自分の存在意義が見出せずにいた。彼は僕の腕を掴んで僕を立ち上がらせたが、僕の心はまだ地面に転がったままだった。

 僕が初めて彼に会った日もこの様な為体だった。

 大学三年に上がると、僕の専攻科目ではゼミナールが始まった。僕は一人で研究ができるところを選択した。決して研究したいことがあったわけではなかったのだけれども、誰かと関わるよりかは随分と気が楽だった。

 ゼミナール初日、僕は教室の扉から最も遠い列の前から三番目の席に腰をかけた。しばらくして仲良さげな女子三人組が教室に入ってきた。そのうちの一人が恵美であることに気づいたのは彼女に話しかけられた後であった。

 「あれ、智、ゼミ一緒じゃん。よろしくねー」

 僕は気怠そうに、ああ、と返すと彼女は友達の元に帰っていった。それから憂鬱なゼミナールが始まった。通常に授業よりも少人数体系だから僕の気配は普段よりも大きくなってしまう。といっても、僕の存在意義が大きくなることは一切なかった。

 ゼミナールは各個人が研究したいテーマを決め、それについて毎時間、発表や報告をした。他人のことには興味ないので、ゼミメイトがいったいどんなテーマについて研究しているのか頭に入れていなかった。その日に発表する人は事前に決めていた。

 ある雨の日だった。僕はいつものようにゼミナールに参加すると予定していた学生が欠席しているから僕が発表しろと先生に言われた。僕は用意していないと答えた。先生はおかしいな、連絡はゼミ生に流したはずなのに、と返答した。僕は知らないと答えた。すると一人の学生が立ち上がった。

 「俺は俺が知っているゼミ生全員に連絡を回しました。しかし、彼のことは見落としていたのです。これは俺のミスです。ですから彼は悪くありません。大変申し訳ありませんでした」

 彼は先生に謝った後、僕にも謝った。その姿は素直で誠実な印象を僕に与えた。彼が和樹だった。彼は先生が僕に向けた全ての感情を一手に引き受けたのだ。彼のその優しさと度胸は僕を感心させるには十分だった。

 そして、彼は僕をチャットグループに招待した。僕は初めてそういったものに属した。それからも彼は僕を昼食や飲み会に誘った。その度に僕は断った。彼は来たくなったらいつでもおいでよ、とだけ言うとそれ以上無理には誘わなかった。

 それからもゼミナールは続いた。ある学生は貧困問題を唱え、他のある学生は能力の高い人たちへの待遇の悪さを批判した。女学生はフェミニズムについて語り、とある学生は昨今の左翼を間違っていると言った。

 相変わらず、街では少女が泣いていたし、老人が怒り散らしていた。若者は彼らを糾弾し、自分たちの行動に祝杯をあげた。

 僕はなんだか全てが馬鹿馬鹿しくなった。それでも和樹たちは笑顔で過ごしていた。僕は何故彼らが笑っていられるのかわからなかった。彼は僕に楽しいからだよ、と言った。僕は混乱した。

 僕は彼らの信仰や信条が分からぬまま過ごしていた。僕は彼らの生き方に興味があることに気づいた。僕は自分自身に驚いた。

 「君はネガティヴすぎるんだよ。もっと気楽に生きなよ」

 恵美はそう言った。彼女が消しゴムを借りに来たときに僕が質問したのだった。僕は自分がネガティヴであることは知っていたけれど、ポジティヴというのが具体的に何を意味しているのかがわからなかった。

 「それはね、視点を変えると言うことだよ。同じ景色でも、視点を変えたら全く別の景色に見えるんだ。同じ景色を見ていても、感じ方は人それぞれじゃない? どのようにその景色を捉えるかで全く別のものに見えるんだよ。同じものでも、幸せと思えば幸せだし、不幸だと思えば不幸になるし」

 彼女はそう回答した。僕はわかったような、わからないような気に陥っていた。でも、相変わらず、肝心な視点の変え方についてはわからなかった。

 それから就職活動が始まった。僕はいつもの如く、面倒ではない職種を探して、特に意欲があるわけでもなくそれに取り組み始めた。

 エントリーシートの書き方を教わるため、大学の就職説明会に参加した。僕は例によって入り口から最も遠い前方の席に座った。席は三人掛けで僕はその右端に座った。長い間、余った二席には誰も座らなかった。説明会が始まって数分たったときに慌てて入ってきた数名が僕の隣の席に座る。席にありつけなかった数名は僕の横で立って説明を聞いた。

 やがて定型的な説明会は終わった。僕の周りにいた人たちが会話を始めた。

 「就職か。いよいよ俺たちも社会人になるんだな」

 「ああ、これでもう学生は終わりか。今のうちに遊んどかないとなぁ」

 「そうさ。社会に出たら今までみたいにはいかないぜ。これからは過酷で残酷な未来が待ってるんだ」

 「卒業する前に楽しいこといっぱいしようね」

 彼らは去っていった。僕はその場に座ったままだった。体の芯が重くなって立てなかったのだ。まるで一本の釘が僕と椅子をくっつけてしまったのではないかなと思った。

 僕は今まで何もしてこなかった。あれだけ時間があって、自由な環境があったのにも関わらず、何も取り組んでこなかった。僕は何にも興味も意義も感じられなかったけれど、感じようと試みたこともなかった。ああ、一度あった気がする、でも、挫折した。たった一回の挑戦と挫折で全てを決めつけてきたのはこの僕であった。

 僕は悲しくなった。そして今までの自らの行いを悔いた。急に何かに取り組みたくなった。その週のゼミナールで、僕は運良く和樹にグループの遊戯に誘われた。僕は承諾した。彼は僕をボーリングに連れていった。勿論、初めての経験だった。和樹の他に数名いた。僕はうまく球を投げられなかった。それを見てみんなはゲラゲラと笑った。僕はやるべきではなかったと思ったが、彼らはそれがいいんだと言った。僕は初めてこの世に存在している気がした。僕はとても嬉しかった。

 その夜、僕はスマートフォンで「大学生 友達 遊び方」と検索した。僕は出てきた写真の中から最も楽しそうな写真を見つけ、それがバーベキューをしている情景だと知った。翌週、僕は和樹をバーベキューに誘った。これは僕の初めての社交的な試みだ。

 そして、僕はこのバーベキューで楽しい思い出を作ったら自殺をしようと決心した。どうせ社会に出たって楽しくないし、きっと存在する意味を見出せないだろうと思ったからだ。楽しいはずの学生という立場でさえ楽しめないのだから、それ以上に楽しくない社会などきっと地獄もまた地獄であろうと思った。

 和樹は驚いていた。でも、すぐに無邪気な笑顔でやろう、と言った。

 恵美を誘ったときも驚いていた。

 「やっと人生を楽しめるようになったんだ。見方は変わった? 同じ景色でも、違う景色に見えたでしょ? キャンンプ楽しみだな。川遊びやキャンプファイヤーとかしたいな。そしてみんなで楽しい写真を撮ろう。あと山の景色を撮りたい。木の上から撮ったら映えるかな? ちょっと地上とは違った景色が撮られそう」

 彼女はそう言って笑った。

 「もう一度、僕を木にあげてくれないかな?」

 僕は和樹に希求した。

 彼はいいよ、と笑って答えた。彼はさっきと同じように木の上からロープを垂らし、僕はそれに捕まった。僕はロープを強く握りしめ、そして時々自分の足で木を蹴った。僕は木の上に着くとまた景色を見た。僕は息切れをしていた。景色は、やはり、先ほどとはあまり、変わらなかった。川で遊んでいた男女が河原の方からこちらに近づいてきていた。

 「おーい」

 恵美は僕たちに手を振った。僕の周りのみんなも手を振り返した。僕も真似してみた。しばらくして彼らも木に登ってきた。あまり大きな木ではないから、木の上は僕らで満員になった。僕は落ちそうになったけれど、和樹と石上が支えてくれた。周りを見ると他の人も落ちそうになりながら隣の人と支え合って落ちないように工夫していた。

 和樹は景色を見ながら綺麗だなぁ、と言った。みんなはそれに続いた。

 「あの山の木、きっと紅葉樹だよ。紅葉した景色も綺麗なんだろうなあ」

 春樹が言った。彼は植物に詳しかった。

 「また秋も来ようよ。みんな揃うかわからないけど」

 美崎が言った。彼女は離島出身で、卒業後は地元に就職すると言っていた。

 「次はバイクで来たいな。誰か後ろに乗せてやるぞ」

 智也は女子の方を向いて言った。彼はバイクと女性が好きだった。

 「じゃあ、オレは車を運転するよ。普通免許しかなきから普通車な」

 祐司は智也を睨みながら言った。智也も睨み返した。彼は少し人を揶揄うことが趣味だ。

 「うちは怖いから車で」

 七海は控えめな口調で言った。智也は残念がっていた。智也は彼女が好きなのだろうか。

 「じゃあ、俺が乗るよ」

 真也が智也をフォローした。彼は智也と仲が良く、同じスポーツサークルに所属している。

 「秋だけじゃなくて、冬も春も来ようよ。いつ来てもいいじゃない」

 悠太は空を見上げながら呟いた。彼はよくポエムのようなことを言うのだった。

 「卒業してもみんなで行こう。きっと時間くらい作れるさ」

 涼がみんなに向けて笑顔を放った。彼はいつも明るいことを発する人だった。

 恵美はだね、と相槌を打ち、それまでに彼女ができるかなと石上が言った。和樹がどうだろうね、と返した。僕は……。

 僕はまた来ようと言った。

 僕の目の前には、写真の光景よりも些か壮大な野原が広がっていた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公の内面を克明に描いた、魅力的な作品でした。 モラトリアムや気怠さと、それに『自殺』を絡めているとこと作品に引き込まれていき、このキャンプが終わったら実行するという主人公の計画がミステ…
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