第7話
マイナールと一緒に台所へ向かう道すがら、さっきの感触を忘れないように反芻する。
強化された自分をイメージして、虚空に向けてパンチする。
ぶつかってはいけないので目を開けたまま試すが、これでは気が散って中々イメージに集中できない。マフィアとの戦いになったらイメージどころではない。当たり前だが練習が必要だ。
しかし今日一日で色々と進歩できたように思えた。人知れず笑みも溢れてしまう。
勝手口から台所に入ると、いい匂いが鼻腔をくすぐる。
今日の晩ご飯はパンとスープであった。
「お姉ちゃん遅かったね」
「カナタさんに身体強化を教えていたの」
人にあんなことを言っておきながら、とミイナールが言いたいのはその表情から読み取れた。
「さあ、全員揃っているし食べましょうか」
「……これ、カナタさんが熾した火で焼いたパンですよ」
妹の心情を黙殺し、何事もないように振る舞うマイナール。そんな姉が腑に落ちていないミイナールだったが、どうにか折り合いをつけたようだ。
ミイナールの言葉に、子供達から次々に賞賛の声が上がる。
俺にとっては大したことでも、こちらの世界の人々からしたら大したことでもないのだろう。それでも、こう素直に褒められると気恥ずかしい。
パンはなにも入っていないプレーン。まだほのかに温かく、割るとこちらからもいい匂いが漂う。スープにはキャベツのような葉野菜と、見たこともない謎の野菜が入っているだけの物だったが、とても美味しい食事であった。疲れている体に染み渡っていくようだ。
楽しく食事の時は流れ、そして夜は更ける。
夜型の生活に片足を突っ込んでいた俺にすればまだまだこれからな時間であるが、小さな子供達は目をこすり、船を漕ぐ子も見受けられた。
そんな子供達を三人で手分けして部屋に送る。
窓から町の方を見ると、ポツポツと灯りが浮かんでいるだけでほとんど闇と変わりない光景だった。
子供達を寝かしつけると、孤児院の中で灯りが点いているのは俺達がいる台所だけになった。
その灯りもテーブルの上に置かれたランプだけで、部屋全体を照らせているものの明るいわけではなかった。互いの表情を読み取るのに支障がない程度である。
薄暗い中、孤児院の年長者が顔を突き合わせる。
「お茶でも淹れますか」
そう言って金属製のポットを用意して手の平に乗せたマイナール。なにをするかと思えば、その手を炎が包んであたかもコンロのようになった。魔法の便利な使い方ではあるが、庶民的な使い方でもある。
「小さい物ならこうした方が楽なんですよ」
炎を出すといういかにも魔法らしい魔法だったが、初めて見るそれがコンロの代わりというのはなんとも言えない。
俺の気持ちは余所にして、一から十までマイナールが用意した紅茶が出される。
「カナタさんのいた世界では、灯りはどうしているんですか?」
ランプの中には火種のように小石が収められていて、それが光を放っていた。きっと俺の知るランプとは構造から違うのだろう。少なくとも電球ではない。
それを眺めているとミイナールが問うてきた。
「電気だな」
「電気、ですか……」
どこか腑に落ちていないようなミイナールの言葉に、慌てて追加の説明をしようとする。魔法を使っているこちらの世界では、電気というものが知られていないのかもしれない。
しかしその心配は杞憂に終わった。
「電気が使えるってことは、カナタさんはお金持ちだったんですね」
一般的にも電気は知られているようだったが、今度は別の説明をしなければならなくなる。
「うちは別に裕福ってわけじゃないよ。普通の家だと思うよ」
「でも……」
「ミイナール。私達の暮らす世界とカナタさんの世界では常識も違うんでしょう」
自分の淹れた紅茶の味に満足したようにうなずいているマイナールが言う。
その言葉を受けてミイナールも「確かに……」と神妙にうなずいていた。
「こっちで電気っていうのは限られた人しか使えないみたいだな」
「電気の灯りに限らず電気を使った道具は、貴族の家や国の重要施設にしか使われていないんです。こんな風に魔石を使った物でも十分ですからね」
「つまり、金持ちしか使えないってことか」
「はい。高級品なんですよ?」
俺にとってはこの程度の明るさだと物足りなく感じるが、マイナール達にとってはこれが当たり前なのだろう。
確かに、表情を読み取るには十分で、頑張れば読み書きもできる。そして先ほど見た町の様子から考えるに、あまり夜遅くまで人々は起きていないのかもしれない。
ついでに俺のいた世界での電気の扱いを軽く説明する。俺自身、普段から何気なく使っていただけで仕組みもわかっておらず、改めて説明するのも難しかったがなんとか伝わっただろう。
「なるほど。こちらで言う魔力のような存在なんですかね」
「魔法みたいに操れないけどな」
操れないとも厳密には言い切れないが、先ほどのマイナールのようにその身一つでどうこうできる物でもないので間違いではないだろう。
曰く、目の前のランプも含めて、こちらの世界において動力には魔力が使われているらしい。俺がこの孤児院に連れられる時に乗った車も、運転する者の魔力を燃料にして走っているとのことだ。
「さて、カナタさん。こちらの世界はどうですか?」
「どうって言われてもな……」
真剣味が混じったマイナールの言葉に、思わず背筋も伸びる。説教されているわけではないのだが、マイナールに話しかけられると妙に緊張してしまう。
こちらの世界に来てから何日か経ったが、ほとんど寝ていたせいで体感では一日程度のことである。しかも行き倒れかけてミイナールと戦ったくらいだ。大した感慨もないし、あるとしても嫌な物だ。
しかし、それだけでもわかることはあった。
「ヴィデールさんに拾ってもらって本当に助かったよ」
自分が言われたわけでもないのに、二人の姉妹の表情は嬉しそうに綻んだ。
身内が褒められるのは俺だって嬉しい。
「右も左もわからない状態で、死にかけてたからな……。あの人がいなかったら本当に死んでたかもしれないよ」
そのもしもを想像してしまい、自分で言って自分を震わす。
ヴィデールさんに対しては恩がある。そしてそれと同じくらいに、
「二人にも感謝してるよ」
「私達、ですか……?」
「なにもしてないですけど……」
マイナールもミイナールも戸惑ったような声を出すが、それがどうにもおかしかった。
この二人は自分がなにをしたのかも自覚していなさそうだ。
「二人が世話してくれたから何とか気持ちも保っているんだよ。命はヴィデールさんに助けられたかもしれないけど、精神的には二人に救われているよ」
今日一日のことだけを顧みても、マイナールとミイナールの二人が俺のことを気にかけているのはわかっている。事あるごとに心配してくれていたのだ。
そうでなくとも、こうしてまともに話ができるだけでもいくらか気持ちは楽になっている。なにも知らない土地で話をする相手もいなければ今頃気が狂って妙なことをしていたかもしれないのだ。
二人の気遣いもそれだけではない。
俺にもやるべき仕事がある。だが今日は休んでいても構わない。その言葉選びも、ただ体を休めろと言われるよりも楽であった。
そして、客人ではなく同じ屋根の下で暮らす家族として認めてもらっているのだ。感謝をしないはずがなかった。
言い方は悪いが、俺を孤児院に置いてすぐに立ち去ったヴィデールさんは、俺の精神的ケアを怠ったとも言える。ヴィデールさんの忙しさを考えればそれも仕方ないのだろうが、ずっと俺のそばで寄り添っていたのはマイナールとミイナールである。
こう考えられるのも命を救ってくれたヴィデールさんのお陰だ。そこは忘れていない。
ランプの薄暗い灯りの中でも、マイナールとミイナールの顔が赤くなっているのがわかった。柄にもないことを言った自覚のある俺の顔も赤くなっているだろう。
そして誰ともなく、もう寝ようという話になり、どうにかして照れを隠したかった俺達三人は早々にそれぞれの部屋に戻って行った。
こうして俺の異世界生活の――体感で――一日目が終わった。