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短編

サンドバッグ・シンドローム

作者: 奈良ひさぎ

サンドバッグ・シンドローム【英Punching-bag Syndrome】現代病のひとつ。突然気を失ったように呆然としてしまい、あらゆることが手につかなくなる症状を指しこう呼ばれる。ストレスを溜め込むばかりで発散しない人に多くみられる傾向があり、ストレスの多い現代社会ならではの疾患と言える。2019年頃から急速に患者数が増加、話題となった。



 ある日の夜。飯を食い終わって風呂に入り、テレビをつけるとちょうどサンドバッグ・シンドロームとかいう病気の特集をやっていた。何でもストレスを溜め込みすぎた人によく見られるらしく、発散しようとせず我慢する人は危ない! と医者っぽい白衣を着たおっさんが偉そうにしゃべっていた。俺はソファで風呂上がりの缶ビールをあおりつつ、適当にその話を聞いていた。


「そんなふざけた名前の病気あるんだな」

「何でも、サンドバッグみたいにストレスを受け続けるのに耐え切れなくなって発症、ってところに由来してるらしいわよ?」


 妻が隣に座って話しかけてきてくれた。俺は正直、こうして家でのんびりビールを飲むので十分ストレス発散になっているので、自分には関係ない話だと思っていた。もっとも、そうした油断をしている人に限って大変なことになる、というのは世の常なので、気をつけないといけないのだが。


「ストレスって怖いんだな」


 さっきの胡散臭い医者のおっさんはまだしゃべっていて、今度は「症状は急速に進行します、最悪の場合寝床から起き出すことができない、寝たきりになる恐れがあります!」と力説していた。しゃべればしゃべるほど嘘臭く見える人ってほんとにいるんだな、と思いつつ俺はテレビを消した。


「あ、ちょっと。見てたのに」

「そうか、ごめん」


 何だかんだ妻は見ていたらしい。俺は次の日の仕事が朝早いということもあって、テレビをつけるだけつけてさっさと寝ることにした。


「ストレスの溜まりすぎ、ね……」


 その夜寝付くまでには、いつもより少しだけ長くかかった。




 翌日妻と初めて顔を合わせたのは、結局仕事が終わって帰ってきてからだった。


「あ、おかえりー」

「ただいま」


 いつも通りのやりとり。しかしリビングに足を踏み入れた瞬間、一言では言い表しがたい違和感が俺を包み込んだ。


「……ん?」

「どうしたのー?」

「ご飯……作ってる?」

「え?」


 帰ってきたのはいつも通りの時間。この時間なら妻は何かしら夕飯の支度をしてくれているはずだった。しかし今日は、どうもそんな様子がない。鍋を火にかけてしばらく待っている、という風でもなかった。

 しかも俺が確認すると、たっぷり間を開けた後にぼうっとした感じで妻がつぶやいた。


「あ……忘れてた。ごめんね?」

「いや、別に悪く言ってるわけじゃないんだけど」


 とはいえ俺自身もそうやって毎日やっていることを一瞬忘れて、すぐに思い出すというのはよくあることだったので、特に気には留めなかった。しかし妻の様子がどこか変なのは、その時だけに収まらなかった。


「なあ。……ちょっと?」

「……んー?」


 慌てた様子でキッチンに立ってくれたのはいいのだが、そのまま再びぼうっとし始めた。それもほんのわずかな時間とかではなく、ぽかーんと虚ろにどこか何もない一点を見つめている感じで、俺がじっと妻を見たくらいでは一向に気づく様子がなかった。


「あ、ごめんね」


 声をかけるとさすがに気づいて、再び手を動かす。しかし数分と経たないうちにまた手の動きが止まって、さっきと同じく何もない壁を見つめだす。さすがに俺もおかしいな、と思い始めた。


「どうした? なんか考え事でもしてんのか?」

「え? ううん、別に」

「そっか……」


 それはおかしい。よほどの悩み事でもなければ、あそこまで物思いにふけったような顔をすることはないはずだ。これは俺の偏見とかではなく、十人が見れば九人は確実に俺と同じことを言うだろう、という自信があった。


「ほんとにないか? 心配事とか、俺が力になれそうなことなら相談してくれても……」

「ないわ。ごめんね、心配かけちゃって」


 妻のその言葉で少し安心した。隠し事をしているような言い方ではなかったからだ。だが、まだ心のもやもやは残っている。妻の様子がいつもと違うということは、最近あまり妻とゆっくりした時間が過ごせていない俺でも分かった。なら、妻は一体どうしてしまったのだろうか。


「……サンドバッグ・シンドローム」


 昨日テレビでやっていたのを、ふと思い出した。見た時は何から何まで胡散臭い番組だな、としか思えなかった。今も正直、信用できるかできないかと言われればできない。だが、目の前の妻の様子を見れば見るほど、まさに昨日紹介されていた症状そのものに思えてきた。


「マジかよ……」


 まさか目の前で見ることになるとは。俺は慌てて少しでも情報がないものかとネットで調べる。おそらく昨日の番組の録画はしていないだろう。


「何も手につかなくなる……やっぱりそうなのか」


 一番に出てきたのはそれらしく書かれた記事。くだらない広告があちこちに入っていて目がチラチラした。諦めて他のサイトも見てみるが、どれも症状については同じようなことが書かれていた。


「対処法は……」


 これはサイトによってまちまち。自然に治った、とかいうそんなバカな、と思う記述があると思えば、大人しく病院にかかったらよく分からん薬を出された、と書かれていたり。だが一つだけ、説得力のある話をしているものがあった。


「ストレスの原因になっているものを取り除く……」


 少し考えてみればうなずける。ストレスを溜め込みすぎることで発症するなら、溜め込んだストレスを解消して、そのストレスの原因をなくしてやればいい話だ。妻のただならぬ状態を前にして混乱していたらしい。


「なあ、ちょっといいか?」

「……なに?」


 またたっぷり時間が開いた後、のんびりした返事が返ってきた。やはりちょっと心配がぶり返すが、なるべくその態度を妻に見せないようにしつつ言葉を続ける。


「最近イライラしてることとか、不満に思ってることとかないか? 何でもいいんだけど」


 そう言いつつ、夫婦らしいことはたいていしているし、少なくとも家のことで俺が抱く不満はほとんどなかった。だからこそ単純に、妻が何を不満に思っているのか知りたかったのだ。


「……ご飯。かなあ」


 のんびりした語調の割にはすぐに返答があった。


「ご飯?」

「最近……あまり外で美味しいご飯が食べれてないかなあ、って」


 それで俺は気づかされた。結婚してしばらくして仕事が忙しくなって、休日なんかに二人でどこかへ出かける余裕がなくなっていた。俺も妻ももともと、家の外でたまにおいしいご飯を食べる、というのが好きだった。それがここ半年、いや一年はできていない。それ以前は一ヶ月に一回か二回外食をしていたのが、今ではぱったりなくなってしまっていた。

 何となく心のどこかでは気づいていたはずなのだ。だが、妻が何も言わないのをいいことに、俺も言い出そうとしなかった。


「そっか……そうだよな。ごめん」

「……いいの。最近、忙しそうだったし」

「いや。忙しいってことにかまけて、言い出そうとしなかったんだ。本当は一ヶ月に一度美味い店に行くことなんて、できないわけもないのに」


 俺は柔らかい笑みを浮かべる妻に向かって頭を下げた。そしてちょっと今更かもな、と思いつつも口にする。


「今日の夜、どっか食べに行こう。何が食べたい?」


 妻がより嬉しそうに明るい笑顔を浮かべた。せっかく久しぶりに二人で出かけるんだ、いつもより値が張っても妻が喜んでくれるならどこへでも行こう。

 悩んだ末妻が選んだのは、肉にこだわったビフテキの店だった。いつもより値段が高いことにためらいを見せる妻の手を握り、車に乗る。


 それ以来夫婦で時々外食に行く習慣は復活し、妻の症状は嘘のようになくなった。それはどれだけ叩いても跳ね返ってくる、まさしくサンドバッグのようであった。

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