6.敵対のツケ
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ベラシュゴー山の南、うっそうと生い茂る木々の中で一部だけ切り取られたような空間。そこに堂々とその巨大な体躯を構えているのが、アシュルドワルドとの同盟を秘密裏に進めていたモルダン公爵の居城『ダレストーア城塞』である。
今やそこには亜人だけではなく、多種多様な異形の者どもも軍に加わっている。
その中でも一際凶悪な風貌の悪魔たちに守られた主人の間。そこには所狭しと並ぶ見事な調度品の数々とかなりの腕利きの鍛冶職人によって作られたであろう見事な武具の数々が飾られていた。
そんなかなりの広さを持った部屋。主の男、モルダン公爵はその威厳に相応しい装飾華美な椅子に深く腰を落とし、己の眼前の水晶に映る光景に意識を縛りつけられていた。
モルド・ラ・ムサへの道筋を進む軍団。貧相な犬顔のコボルトに醜悪な外見のゴブリン、そして数百を越える屍の群れ。その後方から、見るだけでその強烈な腐敗臭が辺りを漂う事が分かるようなブヨブヨとした腐肉の塊がその身を震わせながら後に続く。その集団にあの小僧の姿はない。
モルダンの背筋に怖気が走る。百を優に超える下級悪魔の精鋭兵たちを容易く押しつぶすような力を単身で持った人間。それはつまり、神山に降り立ったのはこの世に災厄を齎す者であると、モルダンが判断するには十分であった。
「おおっ」
嗚咽が漏れる。あれだけの悪魔を召喚し使役するのにモルダンが捧げた貢物、兵として鍛え上げるための時間は無駄であったのだ。
モルダンは決して侮っていた訳ではない。どんな地獄の軍隊が現れても対処できるようにこちらも悪魔を戦力に加え、神山を囲むように城壁を築き、隣国アシュルドワルドへと使者を送り続けてきた。
それがこの様である。天を裂く黒い柱の出現に早期に対処し、悪魔兵の中でも屈強な者たちを送った。それが壊滅だ。
――今ならまだ逃げられるだろうか。
モルダンの額を汗が流れ落ちる。ひやりとするような汗を感じながら、その緊張からごくりと自分の喉が鳴るのが聞こえるほどの集中力でこの後始末を考え込む。
モルダンは、きっと自分は逃げられないと、この命の期限は迫りつつあると直感してしまっている。
モルダンの頭を抱える手は震えている。魔導師として深淵の端を覗き込んだ。災厄に対抗するために。
そんなモルダンでさえ震えが止まらない。
「モルダン卿。モルダン卿」
数度のノックと共に声が扉越しに響く。
このような時に、と吐き捨てるように扉を睨む。モルダンの返事がないのにも関わらず扉越しからさらに声がかかる。
「モルダン卿、お客様です。お通ししてもよろしいでしょうか?」
恨めしい思いながらも内心では恐怖から一時であれ目を逸らすことが出来たとも思っている。それにどんな時であれ客室の客人を待たせるのは不味い。
「ああ、通してくれ」
モルダンがそう言葉を発する途中で無礼にも扉は開きはじめる。
「貴様!勝手に私の部屋に入る――」
開け放たれた扉の先には、焦点の合わぬ目線のドワーフの戦士と。
「失礼しますモルダン公爵」
悪魔を容易く薙ぎ払ったあの小僧が待っていた。
「モルダン公爵。貴方から最後に何かおっしゃりたい事は?」
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かつて王家の血筋を糧にのしあがった男の姿はそこにはなかった。現在は顔面蒼白なただのドワーフだ。出された杯を掴む手は震え、その華美な部屋には似つかわない程に怯えた男。
扉から外には兵たちの肉塊が散乱し、おびただしい血が床を深紅に染めあげていた。
その内部の装飾の美しさとは相反する死の臭い。繁栄と死の隣接する異様な場所。
モルダンは震える手を必死に抑えながら杯をテーブルに戻すと開口一番の言葉を放つ。必死に考えた。考えうる命を取り止めるための手段。
「私の――」
「そんなことはどうでもいい……」
モルダンの言葉は遮られた。命乞いさえ聞くつもりは始めからなかったかのように。
「伯爵、これを一つまみでいいから飲み込んでくれるかい? 悪いようにはしない。楽になる」
差し出された新たな杯には糸状の虫が蠢いている。
拒否権はないようだ。モルダンは杯から糸屑をつまみあげるようにすると一思いに口に放り込んだ。少年の視線が冷たく突き刺さる。
モルダンは大いに驚いた。飲み込もうとした矢先、虫は喉への道を拒絶した。それどころか鼻腔の方へと登り始めるではないか。
かぶりを振り、どうにかして言われたように虫を飲み込もうとする必死なモルダンは、冷やかな少年の言葉を聞いた。
「それは頭に侵入して意識を乗っ取るんだ。それだけだ。殺しはしない。だから抵抗はしなくてもいい。直ぐに楽になるよ」
少年の言葉を聞き終えたモルダンは驚くも、鼻に激痛が走るのを機に、次第に少年の下僕となる自分の運命を受け入れていった。
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モルダン公爵領での亜人とアンデッドの見慣れぬ軍団の侵攻を聞き、急いで戦線の構築の案をまとめる。
モルダン伯爵直筆の援軍の要請書類。今まで彼を王国の新たな秩序と持ち上げてきた貴族派閥の者たちはどう思うだろうか?
「いやはや、勇猛と名高い公爵様も情けないですな」
「いや、己の軍では対処できないと早期に判断できるのは聡明な証ですぞ。なかなか認められるものではありません。ここは公爵の顔を立て、援軍を送っておやりになるべきかと」
「これでは貴族派の面目は丸つぶれですな」
王党派の貴族や高位軍人たちの高らかな嘲笑が部屋中にこだまする。ガリュアス国の宮廷内では今まさに会議の真っ最中である。
煌びやかな装飾のされた衣服を着こなす貴族たちと、磨き上げられた礼服としての簡易な鎧などを纏った高位軍人は王を囲み、談笑する。
ガリュアス国王アシュロフは、その束ねた長い白髪を手で弄りながらも、この茶番に呆れた顔をする。
「これがモルダンとマクセルの姦計だとは思わぬのか……」
王の顔の皺がさらに深く刻まれる。王のため息交じりの言葉に気付いた者は少ない。
先々代の王弟マクセルはエルフ、大貴族モルダンはドワーフである。平時ではどちらかといえばその相性は悪い。
北のドワーフ、南のエルフと分かれてヒューマンの王を味方につけようと策を練るのが常であった。だが、だからといって手を組むことが無いとは言い切れまい。
煮え切らない王党派をここで打倒する事が両者の利益に繋がるのであれば、当然するであろう。
「軍を分断する訳にはいかぬ。これが策略でなくとも……だ」
王であるアシュロフの言葉を聞いても、口ぐちに開かれるのは賛同の声ではない。
「しかし、ガリュアスをこれ以上分断されたままでは、アシュルドワルドへの侵攻も出来ません」
「そうですぞ!ここはモルダン公爵に恩を売って、何とか侵攻の足がかりとするのが――」
「まったくですぞ。いつまでも国内が膠着状態では他国の良い笑い物です」
貴族たちの言いたいことは分かる。しかし、慎重を期すアシュロフ王としては、それは希望的観測の意見としか思えない。
「軍の方の者で……意見は?」
高位軍人たちも困ったように顔を見合わせる。貴族に賛同するも王に賛同するも、彼らにとってはどちらかの顔を潰すという行為に等しい。王や貴族の顔色を窺いながら下位の兵に無理難題を押し付けるのが彼らに出来る最善の方法であった。
「ではエドロイ将軍直轄の部隊にモルダン領の賊軍の討伐を任せるというのは?」
一人の高位軍人の言葉に賛同する様に言葉を被せる。
「それはよろしいですな。公爵軍と将軍の精鋭部隊であれば、その不可思議な賊の征伐も速やかに行われるでしょう」
「ですな。マクセル軍は今のところ動く気配はありませんし、今の警戒の状態で十分。ならば、不測の事態にも備えて、最低限の者でモルダン公爵領の不届き物を何とかしましょう」
王は頷く。貴族たちもそれに続く。高位軍人たちに顔に安堵の色が浮かぶ。
「我が国の誉高き軍人たちがそういうのであれば、それがよかろう」
ガリュアス王国国王アシュロフはただの戦いを好む侵略者ではない。自国とアシュルドワルド国との圧倒的な国力の差は、つまりガリュアス国内が人で飽和していることのあらわれでもある。
彼は国土にあった国民の数に口減らしをするか、国土の拡張を急務と考えている。それのための選択が隣国との戦争である。
戦争ともなれば職業軍人以外にも貴族領の騎士団、町々からの徴兵など見込まれる兵の数は多い。戦争は貴族派などの力を削ぐにも、貧困に喘ぐ民の反乱の意志を削ぐにも好都合であった。
それと共に他国を手に入れるのという代案の同時進行が狙いである。
しかし、そんな王も決して安全ではない。このガリュアスでは王の血を引く貴族はモルダン公爵を筆頭に多く、長寿なエルフともなれば先々代の王弟マクセルまでもがいる。アシュロフの失策を理由に、いつ背後を斬られるともしれない。
そんな何時崩れるとも分からない吊り橋を渡るようにして生きてきたアシュロフ王はある種の感覚を麻痺してもいる。恐怖とは何なのかが解らないのだ。
背後にいる味方の姿をした潜在的な敵意、直接的な王の抹殺のために放たれた他国の間者、そのいずれも彼にとっては恐れの対象ではない。
ただ彼は己が王であるがため、王としての責務を果たさんがためにのみ生きている。そんな男である。