恋時雨
競演が再開して又誘っていただいた事に感謝です。
約2年ぶりなんですかね。だから2年ぶりに京乃華を書きました。そして2年ぶりに自分が書いた小説以外の小説を読むことになります。
恋時雨
シトシトと降り続く長雨も祇園祭が中頃に差し掛かる頃にピタリと止んだ。雲の切れ目から久し振りのお日様が顔を覗かせ夏の始まりを告げる。
ジメジメとした梅雨が終わりカラッと晴れた日の訪れであるが、いかせん京都の夏は梅雨が終わってもジメッとしている。盆地の所為か湿気が多く気怠い日々が続くのだ。
暑く気だるく何も良いことがない。だから京都に住む町人達は夏になると早く冬になれと望む。だが、そうなると底冷えの冬は極端に体を冷やす。だから冬になると早く夏になれと望むのだ。だが、冬なら着物を重ね着すれば寒さは凌げるが夏は裸になっても一向に涼しくはならない。その点では夏は大層厄介な季節と言える。
そして、今年も例年通りに夏が訪れる。石見蝶華はコレまた例年通り縁側に腰を下ろし団扇で暑さを凌ぐ。
朝の日差しが徐々に強まる朝五ツ半。木の桶に井戸水を浸し足をつけ木陰で火照った体を冷ましている。川の水で体を冷やすというのも良いがこう暑くては川に行くのも一苦労である。だから蝶華は縁側に腰を下ろしダラダラと日が暮れるのを待っている。日が暮れれば奉公先の三条うどんに奉公に出かけるのでそれまでの時間つぶしである。
徐に空を見上げると澄み切った青空が広がり木々の緑が心地よく心を和ませる。赤い紅葉も綺麗だが緑の紅葉もコレまた素晴らしい。暑い夏を涼しく和ませてくれる。時折鳴り響く風鈴の音色も相まってなんとも言えない気分に包まれる。が、それでジメジメとした暑さが無くなるわけではない。
何をせずとも汗が体から吹き出し汗の匂いが異様な臭気を放つ。この匂いがさらに暑さを増幅させる。南蛮人のキャサリンから貰った薔薇の匂いがする石鹸で体を洗ってもすぐに汗が噴き出してくるのであまり意味がない。要するに薔薇の匂いが香るのは一瞬だという事である。その後は又汗の臭気に包まれるのだ。
井戸水で冷やした手拭いで体を拭いてもこのベタついた肌と火照りは拭えない。蝶華はこのベタついた感触が嫌でたまらないのだ。”はぁぁ、早冬にならへんかなぁ”と蝶華はお日様を睨めつけようとするが、真夏の日差しは強く睨めつけるなどとんでもない事である。蝶華は手で光を遮り冷やした緑茶を一口飲んだ。全く夏とはなんとも厄介な季節である。
「おっ蝶ちゃん。遊びましょ。」
と、そんな中塀の外から蝶華を呼ぶ声が聞こえた。幼なじみの広前桃香である。桃香はこの暑さの中でもすこぶる元気が良く。京都の蒸し暑さを克服している唯一の娘である。勝手口のある縁側の塀から蝶華を呼んだのは蝶華がそこにいるであろうと踏んでのことだ。
「おるで、入っといで。」
と、気だるそうに蝶華が答える。
「はーい。」
と、元気いっぱいの声が響き勝手口の戸が開いた。蝶華は”フゥ”と吐息を吐き勝手口を見やる。ほどよく丸々と水風船のように膨らんだ桃香が入ってきた。
桃香はもともとふっくらとした娘である。それは桃香の母親も姉の桃花もふっくらとしているので、家系的にふっくらとしているのだろうが桃香は群を抜いて太っている。それでも去年の今頃はここまで太ってはおらずふっくらとした可愛らしい感じであった。其れが去年の秋頃から大食いに目覚め今ではいつ競りにかけられてもおかしくない状況になっているのだ。其れでついたあだ名が”出荷待ち”である。このあだ名をつけたのは桃香の奉公先の番頭である。
「なんやあんたまた太ったんとちゃうか。」
と、桃香を見てゲンナリとする。この蒸し暑い中で桃香を見やるのは大層な苦痛だ。友達だから敢えて口には出さないが暑苦しい。
見ているだけで体の体温が三度は上昇したように感じる。其れがこちらに近づいてくるにつれ周囲の温度が十度は上昇した様な感じだ。これには心地よい新緑も爽やかな音色の風鈴も太刀打ちできない。当然桶に貯めた冷たい井戸水も沸騰まじかの湯に変わるだろう。
「お蝶ちゃんは相変わらず失礼やな。これでも痩せたんや。」
桃香の返答に蝶華は首を傾げジロジロと桃香を見やる。桃香は大きく膨らんだ乳をブルンブルン震わせている。桃香に限ったことではないが夏になると襟をまくり上半身をむき出しにして歩く人が増える。
特に桃香のように…。否、やめておこう。
「痩せた ?」
と、”あんた、ええかげんにせなほんまに競りにかけられんで”と言いそうになるのを必死に堪える。
「流石にこんだけ暑いと食欲も無くなるわ。」
「はぁ…。」
と、蝶華はパタパタと団扇で桃香の熱気をはねのける。
「まぁ、そんなことはどうでもええんや。って、言うかあんたなんやのんその格好…。帯も締めんとだらしないな。」
と、桃香はチロリと蝶華を見やった。
「帯もて…。乳ブラブラさせてる人に言われたないわ。」
蝶華は桃香のデタラメの様に大きな乳を見やる。
「乳ブラブラて。チンチン見たいに言わんとって。其れに、これはこれでええねん。ちゃんと帯も締めてるし。」
と、桃香は帯をパンっと叩いて見せた。
「帯締めてたら何でもありかいな。其れよりどないしたん ? こんな早よに来て。」
「あぁぁ、そうそう。お蝶ちゃん今日暇なん ?」
「今日 ? 今日は三条うどんで奉公があるねん。」
「そうなん。なんやぁ。」
「”なんやぁ”ってどないしたん ?」
「紫乃氶はんの怪談見に行かへんかなおもて。」
紫乃氶とは鯖煮一座の歌舞伎役者で幕末で一番の人気を博している。桃香はその一番人気の紫乃氶に熱を入れているのではなく主に紫乃氶の相方を務めている女形の朝顔にご熱心なのだ。
「紫乃氶はんの階段 ? そんなん見てどないするんや ?」
と、蝶華はチラリと部屋の奥にある階段を見やった。
「そんなん見ててお蝶ちゃんも好きやん。」
「好き ? いや、好き嫌いの問題か ? 寧ろあれを見て喜こんだ事はないで。」
と、更に階段をチロリ。
「なんで ? この前めっちゃ喜んでたやん。」
「階段見てか ?」
「せや。」
「嘘や。」
「ほんまや。キャーキャー言うてたやん。」
「階段見てか ?」
「せや。去年も紫乃氶はんの怪談見て喜んでたやん。」
「去年 ? わて紫乃氶はんの階段なんか見た事ないで。て言うかなんで紫乃氶はんはわざわざ階段なんか作ってるんや ?」
「なんでて、そりゃ皆んなを怖がらすためやろ。」
「怖がらす ? 階段で ? 其れはどんな階段や ? 針が出てるとか直角の階段とかか ?」
「針は分かるけど直角の怪談てなんや ?」
「何やて階段やろ。」
「怪談な。」
「階段。」
と、蝶華は部屋の奥にある階段を指差した。
「いや、お蝶ちゃんあれは階段や。」
「せや、階段や。」
「ちゃうやん。わてが言うてんのは怖い方の怪談や。」
と、桃香はケラケラと笑った。
「怖い方てあれか、皿割るやつか ?」
「皿割るやつて何で其れ限定なん。」
「有名やからや。」
「まぁ、そっち系のやつや。」
と、桃香は蝶華の横に腰を下ろすと樽の中に足を突っ込み樽を自分の方に引き寄せた。必然的に蝶華の足は外に出されることになる。まぁ、此れは毎度の事なので蝶華は手拭いで足を拭き乍”そっちか”と言った。
「ほんまにお蝶ちゃんはおっちょこちょいさんやな。あ、早々ほんでな今回はあれやねん。」
「あれ ?」
「そう、あれ。今回はな”戦国時代に散った落ち武者と悪魔の城主。其れに立ち向かう聖武者と八人の従者。長い旅路の果てに待つ結末とは。そして聖武者の使命。”が同時公演なんやで。」
「え、”戦国時代に散った落ち武者と悪魔の城主。其れに立ち向かう聖武者と八人の従者。長い旅路の果てに待つ結末とは。そして聖武者の使命。”ってひょっとしてあれか。」
「せや、去年やった”鎌倉の闇武者と平家の祟り其れに立ち向かう源氏の末裔と光のお猪口の行方。破られた禁呪の中から現れた闇の魔王と百匹の魔獣。”の続編やで。」
「うわぁ、わてあれめっちゃ見たいやつや。あれて確かあれやんな。」
「せや三部作のやつや。」
「ほなあれか、今回ので完結や。」
「せや、初めのは信長が閻魔大魔王に成って終わったんや。」
「せやせや、ほんで次のが秀吉が鬼の王になったんやったな。」
「せやったせやった。せやけど二作目に信長出てきいひんかったな。」
「確かにせやな。主人公も紀州の剛腕武士菊丸後天から那覇の英雄市川秀麿に変わってたしな。」
「せやな、せやけどよう考えたら鎌倉も平家も源氏も関係なかったな。」
「秀吉の時代やからな。」
「菊丸と市川は親戚かなんかなんかな ?」
「いや、全く関係ないらしいで。」
「信長が閻魔大魔王になって秀吉が鬼の王になったやん。」
「せや。」
「ほんで菊丸と市川はどうなったんやったっけ ?」
「菊丸は地獄に落とされて、市川は確かな…。ーーあ、せやせや、蜥蜴姫と結婚したんやった。」
「ああ、確かにそんな話やったな。え、という事はあれ。今回の主人公は市川の子供かな。」
「違う思うで。」
「え、何で ?」
「だって其の後琉球に帰る市川と蜥蜴姫は嵐にあって海の藻屑になったやんか。」
「あぁぁ、そうかぁ…。」
「…。」
「…。」
と、二人は顔を見合わせ首を傾げた。
「続きもんか ?」
蝶華が言った。
「多分…。」
困惑した表情で桃香が言った。
「まぁ、ええわ。なんにしても今日はうち無理や。明日やったらええけど。」
「明日 ? ほな明日でええよ。」
「ええの ?」
「ええよ。どうせ暇やし。」
「暇 ? 車屋の奉公は ?」
「夏は暑いから休業やねん。」
「そうなんや。」
「せや、こんな暑い日に働けるかいな。水浴びしてる方がましやわ。」
「ふーん。さよか。」
と、蝶華は桃香を見やりさらに太っていくのだろうと思った。
「其れよりせっかく見に行くんやったら紫乃氶はんに手紙でも書こかな。」
と、徐に蝶華が言い出した。
「手紙 ? わぁ、それええな。其れやったらわても朝顔はんに手紙書こ。」
「其れええな。書こ、書こ。」
と、蝶華はスクッと立ち上がり桃香を自分の部屋に招いた。
蝶華の部屋は二階の室町通り側にある。位置的に日差しが強く差し込むので夏場は基本的に部屋にいる事は少ない。其れでも今日のように友達が来ると自分の部屋に招く。奉公人の部屋や親の部屋を使うという手もあるがバレれば怒られるので其れはしない。特に奉公人の千野代祢が父の煎餅や母の絹枝に告げ口するのだ。
二階に上がると長い廊下が目に止まる。蝶華にとっては普通の光景だが普通の町人の桃香にとってその光景はいつ見ても異様である。
度を超えた大きな家は一階が呉服店になっているとはいえ其処らの旅館よりも大きく、家の真ん中に日本庭園があり家の裏には石見御苑と言われる庭園が存在する。桃香が入ってきた勝手口はこことはまた別の場所である。
この光景が桃香にとっては異世界であり高見台から覗く二条城の庭園よりも素晴らしき事は誰の目から見てもあきらかだった。
それだけ石見煎餅が異人相手にぼろ儲けしているという証拠なのだが、この状況を見やりその儲け方が異様である事がわかる。
そして何よりも凄いのが店の天井が大きな鉢になっておりその中に川獺が泳いでいる事だ。まぁ、川獺といってももともと鉢の中に川獺がいたわけではない。
この鉢の中にはもともと鯉が飼われていたのだが、蝶華が川辺で見つけた川獺をこの鉢に入れたところ全て食べられてしまったらしい。もっともその前にはどこから仕入れてきたのか鰐を泳がせていたが鰐の自重に耐えられず鉢が崩壊した事がある。
まぁ、何にせよ蝶華は自分の部屋の天井の鉢には川獺を入れなかった。だから普通に千匹程度の金魚が泳いでいるだけである。
「はぁ、せやけどいつ来ても凄い部屋やな。」
障子を開けると又なんとも言えぬ別世界が広がり桃香は溜息をつく。部屋の中にはなぜか廊下らしきものがあり、所どころ壁で区切られた部分が存在している。中には部屋の中にさらに小部屋があったりと何とも言えない空間が存在していた。
「わては普通の部屋がええんやけどな。」
と、蝶華は言うが桃香にとっては贅沢な悩みである。
「せやけどこれ全部ほんもんの金やろ。」
と、部屋の随所に張り巡らされた金箔を見やる。
「せや。」
「なんやお姫様になった気分やわ。」
「あんた毎回おんなじ事言うてんな。ええかげんなれたらどないや。」
「なれへんわ。」
確かにそうそう慣れる事は出来ない。
「ふーん。まぁ、この部屋で待っといて。」
と、蝶華は襖を開けた。
「なんや、どこ行くん ?」
「暑いさかい氷持ってくるねん。」
「氷 ? そんなええもんあるん。」
「うちには何でもあんで。でっかい氷あるさかいその氷の後ろで代祢に扇がせるわ。」
「扇がせる ?」
「せや。氷の後から団扇で扇がすねん。ほなら冷たい風がくるんや。」
「へー、冷たい風がなぁ。せやけど代祢ちゃん可哀想と違う。」
「代祢はええねん。」
と、言って蝶華は部屋から出て行った。
其れから程なくして身の丈ほどあろう大きな氷を持った蝶華とブスッと拗ねた表情の代祢が部屋に入って来た。代祢は大きな桶と芭蕉扇の様な大きな団扇を持っていた。
「代祢ちゃん久しぶり。」
「へえ、久しぶりどす。」
と、代祢は桃香と目を合わせず言った。その素振りに桃香は自分の胸を痛めた。
「ほらほら、代祢なんかに気使ってんと半紙と筆用意してんか。代祢は其処に桶置いてサッサと用意する。」
「へえ、へえ。此処でよろしおすか若旦はん。」
と、代祢は部屋の窓側に桶を置いた。
「は ? あんた今若旦言うたか。」
ジロリと蝶華が睨めつける。若旦とは若旦那の事である。
「そんなんわて言うてまへん。」
と、代祢は目を反らす。
「ほんま生意気な子やわ。」
そういい乍ら蝶華は桶の中に氷を置いた。
「ま、まぁまぁお蝶ちゃん…。」
と、桃香は無駄に気を使う。
「代祢なんかに気使わんでええねんで。こいつは善次郎はんの入浴覗きながら股座…。」
と、蝶華が言った所で代祢が大声で其れをかき消した。
「善次郎はん ?」
桃香が問う。
「せや、傘貼りの善次郎はんや。代祢はその…。」
「お、お嬢はん。わ、わてはよ扇ぎとうおす。」
余程言われたくないのか代祢は卑屈な表情を浮かべながら被せる様に言った。
「ふん。初めからそうやって素直になってたらええねん。黙っといたるさかいはよ扇ぎ。」
「へえ、ほな扇がさしてもらいます。」
と、代祢は襟をまくり、上半身裸になった。十五才とは思えぬ豊満な乳が露わとなるが別段恥ずかしい事ではない。寧ろ今から大量の汗をかくのに着物など着ていられない。其れにこの時代では普通の事である。
で、代祢の頑張りの甲斐あって部屋の中が少し涼しくなった。部屋の中の風鈴も団扇に扇がれ心地よい音色を奏でている。
気がつけば蝶華の汗は程よく引いていたが、桃香は相変わらず大量の汗を拭き出させていた。
「朝顔はんに何て書いたらわての気持ち伝わるやろ。」
汗をブルブル吹き出させながら桃香が言った。
「冬は予想以上に役立ちますって書いたらどないや。」
桃香の腹の肉を見やり乍ら蝶華が言った。
「冬 ? 何で ?」
「別に何でもあらへん。」
と、蝶華はスラスラと筆を進める。
「はぁ、せやけどお蝶ちゃんはスラスラと書けるんやな。」
「わては天才やさかいな。」
「ふーん。ちょっと見せて。」
と、桃香は蝶華の半紙を取り上げ勝手に読んだ。
「紫乃氶様。わては紫乃氶様の怪談を見物して好意を持ちました。紫乃氶様は歌舞伎界の将軍様です。わては紫乃氶様に恋をしました。わては毎晩紫乃氶様の…。何これ ?」
「手紙やん。」
「子供の作文かおもたわ。」
「子供の作文てあんた失礼やな。」
「失礼も何もお蝶ちゃん何にも分かってないな。」
「何が ?」
「何がて、手紙には候をつけなあかんねんで。」
「早漏 ? 早漏をつけるて何なん ?」
「せやから手紙には候が必要やねん。」
「必要て、あれは別に必要ないんとちゃうか。」
「必要やの。」
「ふーん。手紙に早漏ってどう関係あるんやろ。いくのも早いけど手紙届けんのも早い言う事かいな ? なぁ、代祢あんたしってるか ?」
「へえ、知りまへんけどわて早漏は嫌どす。」
とても疲れ切った声で代祢が答えた。
「わても嫌や。て言うかあんた既に経験済みかいな。可哀想に十五で中古になってまいよった。」
「中古て…。あんたらほんま何言うてんの。大体嫌やて。好き嫌いの問題やないがな。」
「好き嫌いの問題やないて、ほな何か、あんたは三擦り半で満足できるんかいな。」
「はぁ、三擦り半 ? 三擦り半って急になんなん。そんなん満足できるわけないやん。」
「わても嫌や。そんなん早漏で満足できる娘はおらへんねん。」
「候で満足 ? お蝶ちゃん何言うてんのん。」
「せやから早漏やろ。入れて直ぐいってまう。」
「いや、そうやのうて”ございます”とかそういう意味のほうやで。」
「え ? あぁぁ、そっちかいな。早漏、早漏言うさかい早いやつかと思たわ。」
「早いやつて、そんなん考えんのお蝶ちゃんだけやで。」
「何言うてんの。代祢もそう思てたはずや。せやろ。」
「へえ。そうどす。」
さらに疲れ切った声で代祢が答えた。
「ほら見てみぃ。わてだけやないやん。」
「二人して助平なだけや。ほんまに。」
「助平は健全な証拠や。それよりその候言うのはどこにつけたらええん ?」
「どこて、せやから何々で候って感じでつけるんや。」
「何々で候なぁ。ふーん。と言うことはや、わては紫乃氶様の怪談を見物して好意を持ちました何々で候。でええんやな。」
「なんでやねん。何で何々をつけるんや。」
「つけろ言うたんは桃香や。」
「違うわ。わてが言うたんは例えや。せやから、もう…。そのあれや。何々の部分にわては紫乃氶様のが入るんや。」
「あぁぁ、そう言うことかいな。ほなこうやな”わては紫乃氶様の怪談を見物して好意を持ちました。わては紫乃氶様の候”でええんやな。」
「なんでそうなんねん !!」
「何が違うねん !!」
と、馬鹿な会話が飛び交う中で、代祢はフラフラになり乍ら団扇で氷を扇いでいる。その力は次第に弱く驚くほど弱々しくなっていく。
仰がれている蝶華達は気づかないが、夏の日差しはお日様が昇るほどに強く温度も上昇していっている。蝶華達はひんやりと心地よいが、直接日の当たる場所で団扇を仰ぐ代祢にとっては堪ったものではない。
時折こっそりと氷をなめて暑さを誤魔化そうとするが、とてもじゃないがそんな事では追いつきそうにもなかった。が、蝶華がそんな代祢に気を向ける事などなく、桃香も手紙のやり取りに夢中である。
「何が違うねんて。せやから何々のとこに”わては紫乃氶様の怪談を見物して好意を持ちました。”が入るんや。」
「あああ…。」
「あああって、それ以外に何がある言うねん。」
「何がて、あんたの説明が悪いんや。」
「わてか ? なんでわてや。ほんまお蝶ちゃんは阿呆なんか賢いんかよう分からんは。」
「よう分からんわて、わては阿呆でもないし賢もない。ただ普通に天才なだけや。」
「普通に天才て何やそれ。」
「普通に天才は普通に天才や。て言うか、何やわて面倒臭なってきたさかい候無しのやつにするわ。」
「するわて…。まぁ、別にええけど。」
「せやろ。別にそんなんのうても気持ちは伝わんねん。」
「ほたら好きにして。そんな事よりわては朝顔はんに書く手紙の方が大事やさかい。」
「何や、朝顔はん、朝顔はんて。女形の何がええんや。」
と、自称世界一可愛い男の娘を名乗る蝶華は口を膨らませた。
「お蝶ちゃんには分からへん事や。」
と、桃香はチロリと蝶華を見やる。
「何や、わてには分からへん事て。」
「言うても分からへんよ。」
「何や急に。へんな子やな。」
「変やない。お蝶ちゃんみたいに何から何まで恵まれてる子には分からへんねん。」
「何が ? わて何も恵まれてへんで。」
と、どの口が言ったのか。桃香と代祢は驚きの表情で蝶華を見やった。
「恵まれてへんて…。十分恵まれてるやん。家もお金持ちやしお蝶ちゃんも可愛いし。」
「家が金持ちて…。せやから言うてわてには何もないで。お父はんもお母はんもわてには小遣いくれへんし、逆に奉公で稼いだ給金も半分は家に入れろ言われてんのに。それにわてが綺麗な着物着て歩いてんのも店の宣伝のためや。わてが可愛いからしてくれてるんとちゃうで。まぁ、その分の給金は貰てたけど。」
「嘘やん。」
「ほんまや。世の中そんな甘ないねん。其れにわては可愛さを維持するために毎日努力してんねん。」
と蝶華が言うと”よう言うわ。縁側で惚けとるだけやん。”と、風前の灯の様な声で代祢が言った。
「何か言うたか ?」
「何も言うてまへん。」
「フン。ドベが偉そうに。」
「へえ…。」
と、代袮。
「ドベ ? ドベてなんなん ?」
と、桃香。
「なんなんて、うちで毎年着物競技大会開いてるやろ。其れで毎年代祢はドベやねん。」
「あぁぁぁ、そう言うたら毎年そんなんやってるな。」
と、桃香が言った。
着物競技大会とは石見煎餅が主催する着物コンテストの事で、京都の町娘を集め着物美人を決める大会の事である。大会優勝者には優勝賞金金百両と一年間毎月二両の給金を貰い石見屋から貸し出される着物を着て街中を徘徊できる特典が付いてくる。
審査をするのは適当に選ばれた京都の町男千人。その千人の前で予選を突破し本戦への出場を決めた町娘達は舞台の上で舞を踊ったり、一発芸を披露したりするのだが、この大会には蝶華も参加するので裸体を披露する事は御法度となっている。
「わてはその大会で五回優勝してるねんけど代祢は毎年ドベ。」
嫌味混じりな言い方で蝶華が言った。
「ドベて。そんな意地悪な言い方しんといてあげて。そんなんわてがその大会に出てたら間違いなくわてがドベなんやから。」
と、桃香が言うと”ドベ ?”と、蝶華と代祢が声を揃へ桃香を見やった。
「え、なんなん。どうしたん。」
「いやいやいやいやドベて。」
と、蝶華と代祢。
「え、なんなん、なんなん。」
「いやドベて。」
と、蝶華。
「へえ、ほんまどす。ドベて。」
と、代祢。
「え、そやしなんなん。」
「いや、せやからドベて。」
と、蝶華
「へえ、ほんまどす。ドベて。」
「なんなんよ二人して。何が言いたいん ?」
「いやいや桃香はんドベて。」
「ほんまや。ちょっとそれはずうずうし過ぎるんとちゃうか。ドベも何も桃香は書類選考で落ちるがな。」
「はぁぁ !! 書類選考て何 ? それて参加申し込みの時点であかん言う事 ?」
「あかんもなにも。」
「あかんどすわ。」
「はぁ、なんやそれ。て、言うか代祢ちゃんまで何なん。わては代祢ちゃんを庇ってあげたのに何で代祢ちゃんまでお蝶ちゃんと一緒になってそないな事言うの ?」
「何でて、代祢はドベでも毎年本戦までは勝ち進んでるねんで。」
「そうどす。それを書類選考で落ちる人に慰めてもろても…。」
「嬉しない言うのか。」
と、桃香は代祢を睨めつける。
「全く…。」
と、代祢はフラリフラリと体を揺らしながら視線をそらす。
「それは嬉しい嬉しない言う問題やないな。」
と、蝶華。
「ほななんなん ?」
「屈辱やな。」
「屈辱て…。なんやわてはそないに不細工か。屈辱に思われるほど不細工なんか。」
「そやのうて、大会に出る娘は皆んな日々努力してる言う事や。」
「そうどす。わては日々自分を磨いてますんや。」
「磨いてるて、縁側で惚けとるだけや言うてたやんか。」
「それはお嬢はんどす。わては日々精進してますねん。」
「ふーん。精進なぁ。」
と、桃香は代祢を見やる。
「そら金百両貰えるんやさかい皆んな必死や。」
「金百両かぁ…。え…。ちょっと待って。という事はお蝶ちゃん五百両持ってんの ?」
「せや。五回優勝してるさかいにな。」
「しかも月二両も貰ろてんの ?」
「それは去年で終わりや。お徳の阿呆がいらん事言うさかいわては参加でけんようになったんや。」
「お徳ちゃん ? あぁぁぁ…。あれな。」
と、桃香は口を噤む。
お徳の阿呆とは三条うどんで蝶華と一緒に奉公している娘の事である。蝶華はそのお徳に男である事をバラされたのだ。
「お陰で贅沢三昧でけんようになってもうた。」
「いやいや、五百両もあったら十分でけるやん。」
「他人事やおもてほんまに。」
「そんなん思てへんよ。其れにお蝶ちゃんは可愛いし何とでもなるやん。わて何か努力してもどうにもならへん。痩せた所でべっぴんになれるわけでもないしな。」
「痩せたら何とかなるんちゃうか。」
と、完全に他人事である。
「なると思うか ? この顔見てみ。わて毎日この顔見んの苦痛でしゃあないねん。痩せた所で顔の形は変わらへんねん。せやからわて朝顔はん見たいな男の人に憧れんねん。」
「あれは化粧塗りたくっとるだけやがな。」
「そないな事あらへん。朝顔はんは普段でもべっぴんなお人や。」
「べっぴんて。べっぴんな男なんかこの世におるかい。」
「え…。目の前におるんですけど。」
と、蝶華を見やり桃香は大きな溜息をついた。
「何や、溜息なんかついて。ほんまに桃香に何か言うたって。なあ代祢…。よ…。」
と、代祢を見やると代祢は氷に抱きつくように倒れ込んでいた。
「大変や、代祢が死んでる。」
蝶華が思わず声を張り上げた。
「ひゃー代祢ちゃん。代祢ちゃん。」
桃香が代祢に駆け寄る。
「えらいこっちゃ、代祢が死んでもうた。」
「何言うてんの気失ってるだけや。」
と、蝶華の所為でえらい騒ぎになった所で、丁度日が暮れて代祢は部屋で意識を取り戻し、蝶華は三条うどんに奉公に出かけ四条通は祇園祭りで賑わい始めた。
その夜、桃香は罪悪感を感じたのか代祢を祇園祭に連れて行ってやりたいと煎餅と番頭の吉松に提案した。祇園祭と言う事もあり石見屋は異人客でてんてこ舞いだったが煎餅と番頭の吉松はそれを気持ち良く承諾した。
因みに異人客でてんてこ舞いと言うのは、祇園祭に合わせて異人客が浴衣を借りに来るからである。当然貸し出すだけでなく髪結いから着付けまで石見屋でこなしている。
代祢は毎年着付けを担当していたのだが、桃香の提案もあり今年は免除された。それどころか煎餅から小遣いまで手渡して貰上機嫌である。
ただ、代祢はその事に少しだけ気が引けたが、お祭りに行ける事の方が嬉しかったのだろう終始ニコニコと笑みを浮かべながら浴衣に着替えていた。浴衣は石見屋が異人客に貸し出している浴衣を貸してもらった。勿論桃香も浴衣を貸してもらいそれに着替えた。
代祢は月下美人と川が描かれた橙色の浴衣を選んだ。桃香はどら焼きが描かれた青色の浴衣を吉松から手渡された。桃香はその柄に不満を持ったが色がとても綺麗だったのでそれを着やる事にした。
浴衣に着替え終わると二人は提灯をぶら下げながら室町通を下り四条通に向かう。下ると言うのは南に向かって進む事である。道中桃香と代祢はつまらぬ話に花を添えながら時折夜空を見上げる。
ドン。と大きな音と共に花火が上がった。夜空を彩る花火は大きくその光はドップリと闇に埋もれた町並みを照らしだした。
「わぁ、綺麗やわ。」
代祢が言った。
「ほんまやなぁ…。」
と、桃香は代祢を見やる。代祢は心から喜んでいるようだった。確かに仕事から離れ祭りに行けるのだから嬉しいことに変わりはないが、なんだろうか少し違和感を感じた。
「代祢ちゃん。ひょっとして初めてなん ?」
桃香が問うた。
「初めてどすか ? 急にどないしはったんどす。わてこう見えても経験はありますんや。」
「経験 ?」
と、桃香は首を傾げた。
「へえ…。そやさかい”おぼこ”やおまへん言うことどす。」
と、代祢は頬を赤らめ答えた。
「おぼこ…。おぼこて代祢ちゃんまで…。」
桃香は”ふぅ”と溜息を吐き乍ら代祢を見やり”そやのうて祇園祭が初めてなん”と聞きなおした。
「祇園祭…。あ、あぁぁぁ…。そっちどすか。初めてどす。」
そう答えた代祢の顔は真っ赤に染め上がっていた。
「そっちどすかて…。それ以外何があんねん。ほんまに、そう言うとこはお蝶ちゃんにそっくりやな。」
「わ、わてはあないにけったいやおまへん。」
「けったいて…。まぁ、けったいやけど。其れより、初めててほんまなん ?」
「へえ、ほんまどす。祇園祭の時は毎年遅うまで仕事どすさかい。」
「いや、そうやのうて。小さい時とか行ってへんの ?」
どうも話が噛み合わない。
「小さい時どすか ? 小さい時て、わての出身は近江どすさかい。縁はありまへんどした。」
「どしたて…。あんた京都生まれちゃうんかいな。」
「へえ…。」
「へえって。バリバリの京都弁で喋ってるさかい。ずっとそやと思てたわ。」
真逆のカミングアウトである。
「覚えたんどす。」
「そうなんや…。」
「おかみはんが覚えろ言うて。大変どしたんや。」
「大変て…。そやろな…。近江言うたら隣やけど全然言葉ちゃうもんな。じゃけんとか、が、じゃ、とか…。」
「え ?」
と、代祢。首を傾げて見せた。
「ん…。」
「桃香はん、それ近江と違いますよって。」
と、ボソリ。
「嘘ぉ…。」
「じゃ、けん、が、とか言いまへん。」
「ほんま ?」
「ほんまどす。じゃ、けん、がは岡山とかそっちの人どす。」
「せやったかいな。」
「そうどす。」
と、代祢はケラケラと笑った。
桃香もつられてケラケラと笑った。
心底詰まらぬ話である。そんな詰まらぬ話も祭りの雰囲気で何故だか楽しい。そのまま二人はケラケラと笑いながら四条通までやってきた。四条通に出ると山鉾の提灯が周囲をボンヤリと彩っている。
真っ暗な闇の中に浮かび上がる山鉾と屋台の提灯の明かりは何とも言えない幻想的な空間を作り出し夜空に花開く花火が心を躍らせた。
「ふわぁ…。凄い人どすな。」
ただ、代祢の関心は幻想的な空間よりもここに集まった人の数に向けられていた。京都で一番のお祭りというだけの事はあり、訪れる人の数は尋常ではない。四条通に着いた途端人の数が千倍は増えたように感じた。
雑多した四条通りは隙間なく人で埋め尽くされ山鉾をゆっくりと鑑賞するといった余裕はない。勿論屋台ひとつとっても多くの人集りに溢れている。
ただ上を見やれば辛うじて鉾らしきものが見える事は見えた。長刀鉾、月鉾、鶏鉾、そして蒲鉾とどれがどれかは分からぬが取り敢えず鉾があるのだという事は確認できた。
辛うじてと言うのは、代祢の身長が百五十cmに満たないからで目に飛び込んでくるのがほとんど通行人の後頭部だからだ。桃香もほとんど似たような身長なので見える部分は同じである。
「そらそうや…。一番大きい祭りやさかいな。」
と、桃香は人を押しのけ屋台に向かう。
「へえ、せやけど人しか見えまへんな。」
「せやから毎年戦いやねん。」
「戦いどすか ?」
「せや、屋台に行くのも一苦労や。」
「屋台どすか ? 鉾は見まへんのか ?」
「鉾 !! あんたあんなん見てどないする気や ?」
「どないする気て…。鉾見るもんちゃうんどすか ?」
「代祢ちゃん…。よう覚えとき。鉾でお腹はふくれへんのや。」
と、桃香は代祢の手を掴むとグイグイと人ごみの中に入っていった。
「へ、へえ…。確かにそうどすけど。わて鉾見たいどす。」
と、チロチロと周囲を見やろうとするが、中に入れば入って行くほど周囲の感覚が狭まっていき気がつけばギュウギュウ詰めの中にいた。
これでは、鉾を見やるどころか夜空に花開く花火さえ見えない。見えるのは人の頭だけである。
「も、桃香はん…。わて、い、息でけまへん。」
もみくちゃの中で代祢が言った。言ったが桃香からの返答はない。どうやら桃香には聞こえていないらしい。ただ、代祢の手を握る手に力が入っている事は分かった。
成る程…。
正しくこれは戦いだ。
と、代祢は拳をギュッと握りしめ必死に人を押しのけた。が、か細い代袮の力では押す所か逆に押されて行くだけである。
「代祢ちゃん…。」
今度は桃香が代祢を呼んだ。が、代祢の時と同様代祢を呼ぶが返事がない。桃香は後手に振り返るり様子を伺おうとするが見えるのは代祢の手だけである。
「こらあかん。」
と、桃香は人を押しのけ代祢を引き寄せる。
「あんたちゃんとついてこなあかんやん。」
何故か代祢は桃香に怒られた。
「そ、そないな事言わはっても。わても必死なんどす。」
「必死 ? それは必死さが足らなすぎるわ。」
”祭りで必死こくてなんやねん…。”と、代祢は言いそうになったが、好意で連れてきてもらっているので我慢した。
「ええか、気合や。祭りは気合やで。」
「へ、へえ。気合どすな。」
もみくちゃにされながら代祢が答えた。
「ええか。気抜いたら押し潰されんで。安全地帯に着くまで気合抜いたらあかんで。」
桃香は押し寄せてくる人を弾き飛ばしながら言った。
何とも…。お祭に来て必死、気合。全く意味がわからない。何よりも何処にこれだけの人がいたのか不思議でたまらない。押し寄せてくる人の波は自分をあらぬ方向へと押し流そうとする。桃香が手を引いてくれていなければ皆目見当もつかぬ場所に流されて行ったに違いなかった。
なんなのだろうか。代祢はもみくちゃにされ乍らこの祭りの一体何が楽しいのか ? 楽しい部分を見いだす事が出来なかった。
「代祢ちゃん。せっかく来たんやし金魚すくいでもする ? 当てもんでもええけど。」
「金魚すくいどすか。」
やりたいと言える状況ではない。
「せや、当てもんでもええよ。」
と、言った桃香の表情は確かに必死さが伝わってはくるものの、何処となく当たり前と言った感じも伝わって来る。
「へえ、其れより一寸休憩したいどす。」
「休憩て。あんた来たばっかりやで。」
矢張りこれが当たり前なのだ。
「せやけど、限界や。」
と、しゃがみ込もうとしたが、如何にもしゃがみこむ事すら無理のようだ。
「なんやだらしない子やな。ほな一寸あっち行こか。」
と、桃香はチラリと向こうに視線を向けた。向けたが見えるのは人だけである。その向こうに何があるのか ? 最早さっぱりと分からない。
だから、代祢はポロリと涙を流した。もうどうにも出来ないのだ。もみくちゃにされながら右も左も分からない。目前の人しか見えない状況でどうしたら良いのかも分からない。既に鉾も見えない。周囲の雑多した声で花火の上がる音も聞こえない。否、花火は今も上がっているのだろうか ? そして何故桃香に責められているのかも分からない。否、これは納得できないと言うべきか。
何にせよ、もう…。
もう…。
泣く以外何ができるというのだろうか。
取り敢えず代祢は大声で泣いた。
泣いて泣いて泣いた。泣きながらチロリと桃香を見やるとさすがに心配そうに自分を見ていた。が、押し寄せる人は何一つ気を使うことなく代祢を押しつぶそうとする。
「グエ…。」
無駄に泣いていたので変な声が出た。
「代祢ちゃん。頑張るんや。泣いても何も変わらんのやで。頑張ってあっちまで行こ。」
優しく桃香が言った。泣いても何も変わらない事は既に身をもって体験した。だから代祢はひとまず泣くのを止め桃香の進む方向に付いて行く事にした。
さて、其れからどれだけ歩いたのかはさっぱりと分からないが、フト我に帰る事ができた頃には既に代祢は道の端で座り込んでいた。
右横には桃香が腰を下ろしている。代祢は桃香を見やると”桃香はんすんまへんどした”とぼそりと言った。
「ええよ。其れより代祢ちゃん大丈夫 ?」
優しく桃香が問うた。
「へえ、大丈夫どす。」
「それやったらええんや。」
と、其れから二人は暫し道行く人を眺めた。
人の行列は耐える気配がない。寧ろ徐々に賑わいを見せる祭りは先程よりも人で賑わっている様にも思えた。
ギュウギュウに押し合いへし合いする人々を見やり代祢は恐怖を感じた。この祭りの何が楽しいか ? 代祢の知っている祭りとは大幅に違うこの祭りは、最早代祢にとって祭りではない。
「代祢ちゃんどうする ? 当てもんでもしに行く ?」
そう桃香が問うと代祢は首を横に振りチロリと石見屋がある方向を見やった。
「あぁぁ…。帰りたいんやな。」
「へえ…。」
「ほな、お蝶ちゃんとこでうどんでも食べてから帰ろか。」
桃香の提案に代祢は首を縦に振りニコリと久し振りの笑顔を見せた。勿論その笑顔はとても歪なものだ。
何にしても二人は又雑多した人ごみの中に紛れ歩き始める。ギュウギュウに…。先程よりも更にギュウギュウな人ごみに揉まれながら四条通を東に歩き河原町通りを上がった。
河原町通りを少し北上した頃ぐらいから押しつぶそうとする勢いが一気に弱まった。代祢はホッと肩を撫で下ろし着崩れした浴衣を手際よく整えた。桃香は人ごみに揉まれ暑かったのだろう襟をまくり無駄に大きい乳をブルブルと震わせていた。
「せやけどえらい人どしたな。」
チロリ…。後手に振り返り代祢が言った。
「毎年こんなんやで。」
「そうなんどすか。」
「せや。京都で一番のお祭りやさかいにな。」
「へえ…。わて死ぬか思いましたわ。」
「もぅ、代祢ちゃんは大袈裟やな。」
「大袈裟ちゃいます。わてほんまに死ぬか思いました。」
「死ぬて…。ほんまに、代祢ちゃんぐらいの娘は喜んで男漁りに来てる言うのに。」
「男漁りどすか ?」
「せや。祭りの時は何や知らんけど彼氏できやすいねん。わてもお蝶ちゃんも代祢ちゃんぐらいの時はよう漁りに来たもんな。」
「え ?」
と、代祢は桃香を見やる。
「なんなん。わても昔はぽっちゃりさんやったんや。これでももてたんやで。」
「そうなんどすな…。」
と、徐々に代祢の機嫌が直る頃、桃香と代祢は三条うどんに到着した。祇園祭の所為か三条うどんは雑多した人で溢れている。
「一杯どすな…。」
店内を覗き込み代祢が言った。
「ほんまやな…。」
と、桃香も店内を覗き込んだ。店内には忙しなく働く蝶華と徳代の姿が目に止まる。
去年の経緯を踏まえ二人は険悪な中なのかと思っていたが、見る限りそういう風には見えなかった。其れどころか二人は時折笑顔で何かを話しているようにも見えたので仲直りしたのかとも思ったが蝶華の性格を考慮すると、蝶華は文句は言うが腹は立っていなかったのだろうと思った。
そんな二人を見やっていると其れに気づいた蝶華が”桃香”と声を張り上げた。
「お蝶ちゃん。」
と、桃香が手を振った。
「何や代祢連れてどないしたん ?」
「うん。うどんでも食べて帰ろかおもて。」
「帰る ? なんやあんたらもう帰るんかいな。」
「うん。代祢ちゃん疲れたみたいやねん。」
「疲れたて…。あんた、今行ったばっかりちゃうん。」
と、蝶華は代祢を見やる。
「へえ…。せやけどわて疲れました。」
「疲れたて。根性ないな。」
”根性てなんやねん”そう言いたかったが代祢は言わなかった。
「まぁ、ええわ。席空けるさかいちょっと待っとき。」
と、蝶華はそういうと入り口手前の客の所に行った。
「お蝶ちゃんそんなん悪いしええよ。」
「かまへんよ。この甚五郎はんはわての贔屓やさかい。」
と、蝶華は甚五郎と呼んだ男に寄り添い何やら話をすると甚五郎は快く席を桃香に譲ってくれた。
「甚五郎はんおおきにな。」
「かまへん。かまへん。」
と、甚五郎とその連れ五人は席を立った。
「桃香。ここおいで。甚五郎はんが席空けてくれたさかい。」
と、手招きで呼ぶ。
「ほんまにええの ?」
「ええよ。はよおいで。」
と、蝶華が言うと桃香と代祢は席に向かった。すれ違い様甚五郎に桃香と代祢は頭を垂れ”おおきに”と言うと甚五郎の連れが代祢を見やり”この娘可愛いな”と言った。
「わてどすか ?」
嬉しそうな表情を浮かべ代祢が答える。
「せや。めっちゃ可愛い。」
「可愛いやなんて。おおきに。」
と、チロリ。代祢はうわ目使いで連れを見やった所でペチリ。蝶華にデコを叩かれた。
「早よ座って注文しよし。」
そう言って蝶華がジロリと代祢を見やる。
「へ、へえ。すんまへん。」
と、代祢はしぶしぶ椅子に腰を下ろした。
それを横で見ていた甚五郎は連れに”今度紹介したるわ”と、言って蝶華を見やると”へえ、ほな今度紹介さしてもらいます。”と蝶華が答えた。
「蝶華はんほんまどすか。」
連れが問う。
「へえ。ほんまどす。」
「うわ、儂めっちゃ興奮するわ。帰ってちんちん洗とこ。」
と、連れは股座を弄る。
「何阿呆な事言うとんねん。」
と、甚五郎は連れに軽く肘打ちを入れると”ほなまた来るわ。”と言って店を出て行った。蝶華は甚五郎を見送ると又パタパタと店内に戻る。
この一連の状況の中で一人蚊帳の外の桃香は非常に気分が悪い。蝶華には贔屓がいて代祢は可愛いと声を掛けられて…。桃香は見向きもされずうどんを選んでいる。しかも無駄に大きな乳を出しているにも関わらずにである。
「おかしな話やで。」
ボソリト桃香が言った。
「どないしはったんどす ?」
代祢が問う。
「別になんでもあらへんよ。其れより代祢ちゃん何食べる。」
「わて天婦羅がええどす。」
代祢が言った。これは天婦羅うどんの事である。
「ほな、わてもそれにしよ。」
と、桃香は蝶華に注文をしようと思ったが蝶華の姿が見えなかった。どうやら蝶華は厨房に入っている様だった。その代わりに女将の豊賀が店内にいた。が、その豊賀も忙しなく動いており桃香の近くにはいない。と、見やっていると徳代がヒョイっと顔を覗かせた。
「注文よろしいどすか ?」
フグ顔の徳代が言った。
「お徳ちゃん流石やわ。ちょうどええ頃合いやで。」
「そうどすやろ。」
「天婦羅二つな。」
「天婦羅二つどすな。おおきに。」
と、徳代は大将に注文を通しに行こうとして足を止めた。
「桃香はん何どすその柄 ?」
どら焼きが描かれた浴衣を見やり言った。
「え、柄 ?」
「へえ。それどら焼き違いますのんか ?」
「どら焼き ?」
と、桃香は改めて自分の浴衣を見やった。忘れていたがどら焼きの絵が描かれた浴衣を着やっていた。
「何やえらいけったいな柄どすな。」
けったいどころか良く良く考えれば恥以外のなんでもない。
「う…うん。でも色が綺麗やろ。」
と、言った桃香の返答も聞かず徳代はパタパタと厨房に走っていくと注文を通す前に大声で”お蝶ちゃん。桃香はんどら焼きの浴衣着てはるで”と言った。
何とも”類は友を呼ぶ”とは言うが蝶華の周りにはこう言った人間しかいないのかと何とも残念な気分になった。
当然その後、面白おかしく蝶華がやってきてどら焼きの柄を揶揄するのだ。全くとんだ晒し者である。
桃香はげんなりとした表情を浮かべ蝶華が来るものを待った。が、何時もと違い蝶華は来ない。恐らく忙しいので来たくとも来れないだけなのだろうと桃香はチロリと浴衣を見やった。
どら焼きの柄は巫山戯ているが矢張り何度見ても色は綺麗だった。だが、幾ら綺麗であっても柄がどら焼きでは締まるものも締まらない。
赤の紐に黄色の花があしらわれた髪飾り。綺麗な青色の浴衣。白に小舟の絵が描かれた帯…。柄がどら焼きでなければ最高なのにと桃香は思った。
「髭書いたらまんま” エモン”どすな。」
蚊の羽音よりも小さな声で代祢が言った。
「髭 ? 髭て何 ?」
その声を桃香は聞き逃さない。ジロリと代祢をねめつけ問うた。
「な、なんでもあらしまへん。」
と、代祢は視線を逸らした。と、其処に天婦羅二つを持った蝶華がやって来た。蝶華は天婦羅二つをテーブルに置くと桃香の浴衣をジロジロと見やり”ふーん。綺麗な色の浴衣やな。”と言った。
「せ、せやろ。柄は変やけど色は綺麗やねん。」
蝶華の思いもよらぬ言葉に桃香は少し戸惑った。
「せやけど、赤紐に黄色の花で白帯に船て…。髭書いたらまんま” エモン”やな。」
と、言ってゲラゲラと笑った。
蝶華がそう言ってゲラゲラと笑うのでそれを我慢していた代祢もゲラゲラと笑った。その笑いは厨房の奥からも聞こえてくる。その笑い声はフグ顔の徳代の声である。
「な、なんなんよ。皆んなで酷いわ。」
「ちゃうねん。ちゃうねん。可愛い言う事やん。」
そう言って蝶華は腹を抱えた。
「そうどす。桃香はんめっちゃめんこいどす。」
と、代祢は楽しそうにゲラゲラと笑った。その楽しそうな顔を見やり代祢の機嫌が直ったのなら”まぁ、良いか”と桃香は思った。
と、そんなこんなで夜は更けていき祇園祭が終わる時分に桃香は代祢を石見屋まで送り自分の家に帰って行った。
翌日、桃香は蝶華を誘い京都では有名な歌舞伎小屋南座にやって来た。鯖煮一座の怪談茶碗屋敷の女幽霊の見物の為である。今日の見世物を楽しみにしていた桃香だが、なぜか重い表情を浮かべていた。其れはここに来る道中で嫌な話を小耳に挟んだからである。どうやら紫乃氶と朝顔が恋仲との噂なのだ。
「はぁ…。」
桃香はその話を聞いてからズッと溜息ばかり、横にいる蝶華の気分も重くなる。
「噂は噂やん。其れに別に恋仲でもあんたが付き合える訳やないんやから。」
と、蝶華は慰めているつもりだが、どうにも棘がある。
「うるさいな。付き合える付き合えへんやないの。朝顔はんが男色言うのが辛いねん。」
「別にええやん。大体皆んなそうや。」
「違うわ。」
「違うんかなぁ。」
「違います。」
「そうなんかなぁ。」
と、こんなやりとりをしながらの到着である。二人は見世物代を払い中の座敷に腰を下ろす。
道中で買った天婦羅と握り飯を膝の上に置き開演を待つ。座敷はあっという間に満座になり周囲の雑多した声が日響き合う。桃香は余分に買った握り飯と天婦羅を頬張り乍らご機嫌な表情を浮かべている。その表情を見やりさっきまでのは何だったのかと、蝶華は首を傾げた。
「せやけどやっぱり凄い人やな。」
桃香が言った。
「せやなぁ。紫乃氶はんは人気あるさかいにな。」
「朝顔はんも人気あるわ。」
「まぁ、せやけど。紫乃氶はんおっての朝顔はんやさかいにな。」
「何言うてんの。朝顔はんは女のわてが見てもウットリするぐらいのべっぴんさんなんやで。」
と、桃香の言葉に”確かに毎日その顔見てたら誰見てもベッピンに見えるわな”と言いそうになったのを無理やり止めた。
「まぁ、綺麗けどな。」
と、無難に答えた所で幕が上がる。
舞台は怪談と言うだけあってオドロオドロとした感じが漂う作りになっている。古びた廃寺の中に朽ち果てた墓石がゴロゴロと置かれ柳がゆらゆらと揺れている。芝居小屋の暗さも相まって其れは想像以上に怖い。
蝶華は持参した天婦羅と握り飯を食べるのを忘れるぐらい見入っていた。心臓がドキドキと高なっていく。気温が下がった訳でもないのに背筋がゾクゾクととする。 女幽霊が茶碗を割るたびにお蝶は体を飛び退かせた。そして紫乃氶演じる法力武者愛知座衛門が登場した。
その瞬間ーー。
蝶華の鼓膜を破らんばかりの歓声が小屋の中に響き渡った。
”紫乃氶様”と、紫乃氶を呼ぶ声がほとんどだったように思うが五月蝿すぎて実際の所よく分からない。が、一つはっきり言える事は、この歓声の所為で全く怖く無くなったと言う事である。
蝶華はこの歓声に激甚である。
桃香は御構い無しに女幽霊役の朝顔に見入っている。
「何なんや一体。せっかくの芝居が台無しや。」
と、蝶華。
「まぁ、しゃあないわ。」
「しゃあなない。ほんまに。射撃依頼でも瓦版に出そかな。」
「射撃依頼 ?」
眉をしかめ桃香が言った。
「鉄くわ十三本求。」
「鉄くわ十三本求て…。あんたまさか。」
「せや、世界的に有…。」
と、蝶華が言った所で桃香が蝶華の口を塞いだ。
「ちょ、ちょっとお蝶ちゃん。あんた滅多な事言うもんやないで。ええか、世の中にはな著作権言うもんがあんねん。分かってるか。Do you understand ? や Do you understand ? Do you understand ?」
と、桃香の言葉に蝶華はうん、うんと二、三度頷いた。
「ほんまにビックリするわ。わてお蝶ちゃんがそないに大胆な子やとは思わなんだわ。ほんま背筋ゾッとしたで。」
「ええ案やと思たんやけどな。」
「思たとちゃうわ。ほんま怖い怖い。」
「せやけどその人すごいんやで百発百中やねん。」
「そうらしいな。」
「いやほんまに。だってな、一キロメートル離れた場所から弓矢で人を射抜くんやで。」
「え、弓矢でか ? それはその人が凄いんか弓矢が凄いんかどっちなんやろな。」「間違いなく弓矢や。」
「せやろな…。」
「そんな事より桃香何処で英語覚えたん ?」
「英語 ? あぁぁ。異人はんも客で乗せるさかい。其れでちょっとだけな。せやからお蝶ちゃんみたいにペラペラやないで。」
桃香の言う通り、蝶華は石見屋の常連客であるキャサリンから英語を習っている。「そうなんや…。そっか。何や世の中どんどん変わっていくな。」
「せやな。昔は異人はんなんか殆どおらんかったのにな。」
「九州からも人がぎょうさん来てるしな。これからどうなっていくんやろ。」
「さぁ…。なんにしてもわてらには関係のない話や。」
「せやな。」
と、二人はキャアキャアと煩い声色の中、芝居の続きを堪能する事にした。
其れから二刻程過ぎた頃芝居は終わり紫乃氶達は最後の挨拶を終え袖に戻っていった。芝居小屋の女子達は直様舞台裏に駆け寄り紫乃氶に手紙やら貢ぎ物を届けに走る。桃香も同じように行こうとした所を蝶華が止めた。
「どうしたん ? 行かへんの ?」
「今行ったかてゆっくり話もでけへんで。わてにまかしとき。」
と、蝶華は桃香を連れて外にでやる。外に出て暫し時間を潰していると中から女子達がぞろぞろと出てきだした。
「お蝶ちゃん皆んな出てきたで。早よ行かんとあえんようになるやん。」
「大丈夫や。ここの館長はんお母はんの友達やさかい。」
「え、そうなん。」
「せや。せやさかい関係者しか入れへん場所に行けるねん。」
「え、そんなんもっとはよ言うてえや。」
「え、前にも言うたで。」
「せやったかな ?」
「せや、さ、そろそろ行こか。」
と、蝶華は桃香を連れて再度中に入って行く。中に入ると館長の吉松新三郎が立っていた。
「新三郎はん。」
「お蝶はん久しぶりどすな。彦乃助は元気にやっとりますか ?」
「彦乃助 ?」
と、桃香は首を傾げた。彦乃助とは吉松彦乃助の事で石見屋の番頭を務めている男である。この吉松新三郎は彦乃助の兄である。
「吉松はんは毎日元気やで。わてはいつも吉松はんの世話になりっぱなしや。」
「はははは…。彦はお蝶はんの事弟…。いや、妹のように思とりますさかいにな。」
と、新三郎は彦乃助の様な爽やかな笑顔を浮かべた。
「へえ、感謝しとります。」
と、蝶華はぺこりと頭を垂れる。
「なぁなぁ、おばちゃんの友達て…。」
「せや、吉松はんのお兄はんや。」
「吉松はんのお兄はん。」
「せや、お母はんと新三郎はんは昔恋仲やってん。」
「え、恋仲 !!」
「いやいや、恋仲て。もう、二十年以上も前の話どすよって。まぁ、そんな事よりささ、こちらにどうぞ。紫乃氶はんと朝顔はんがそろそろ来られますよって。」
そう言うと新三郎は舞台裏に続く廊下を歩き始めた。
「新三郎はんおおきに。」
その後を付いていきながら蝶華が言った。
「おおきに。」
桃香も新三郎の後ろを付いていきながら言った。
「まま、このぐらい絹枝はんの要望に比べると容易い御用どす。」
「なんやお母はんはなに言うてるんやろ。」
「へえ、絹枝はんは酒の席を持たせろだの、見世物に使った着物が欲しいだの、石見屋の着物を使わせろだのともうむちゃくちゃどすさかいにな。」
「はぁ、お母はんらしいわ。」
「そうどすやろ。絹枝はんは昔から我儘どしたからな。仰山の男が手玉に取られてましたわ。」
などと話していると突然桃香の雄叫びが響き渡った。
驚いた蝶華は慌てて桃香を見やる。すると桃香は前方を指差したまま硬直していた。
「な、なんや、桃香どないしたんや ?」
「あ、あ、あ、あれ…。」
「あれ ?」
「ど、どないしはったんどす ? ひょっとして幽霊 ?」
と、新三郎。
「あ、あれ。あれ…。」
「なんや、どないしたん。」
と、蝶華が指差す方を見やり”あっ”と声をだした。其処には仲睦まじく手をつなぎ歩いてくる紫乃氶と朝顔の姿があった。
「やっぱりや…。噂は本当やったんや。」
と、言った桃香の瞳にはうっすらと涙がたまっていたのが見えた。
「桃香…。」
「わ、わて、わて見とうなかったわ。」
そう言うと桃香は走ってその場を離れていった。
「も、桃香…。」
「桃香はん…。」
「はぁ、えらいこっちゃ。」
「お蝶ちゃんえろうすんまへんどすな。」
困った表情を浮かべ新三郎が言った。
「そんなん。新三郎はんは悪うおまへん。悪いのは…。」
と、チラリ。
新三郎もチラリ。
「な、なにか、儂等悪いことしましたか ?」
そう言った紫乃氶と朝顔が握りあう手をチラリ…。
ジロリ、ジロリ…。
「あ…。」
と、二人は慌てて手を離すが時すでに遅し。桃香は多大なショックを受け走り去った後である。
「新三郎はんすんまへんけどわて…。」
「へえ、桃香はんのとこに行ってやってください。」
「へえ、ほなまた。」
と、言い残し蝶華は桃香のもとに向かった。
しかし、面倒臭い話である。好きな殿方に恋仲の相手がいたというのならともかく、元々高嶺の花である歌舞伎役者に恋仲の相手がいたぐらいで多大なショックを受けるなど愚の骨頂である。が、あまりきついことを言うと桃香もムキになりぐちぐち言う時間が無駄に伸びてしまう。それはそれで迷惑な話。
どうでも良い話をうんうんと聞いてやるのが一番なのだが内容が内容だけに本音は聞く気にもならない。それでも友達だからと蝶華は桃香を追いかけ鴨川の河原で暫し桃香を慰めた。
結局慰める傍ら、桃香にみたらし団子十本、天麩羅五本、柏餅四個、桜餅十個を貢がさせられた。それらを全部平らげると桃香は少し落ち着いたのか泣くのをやめた。
「お蝶ちゃんみっともない姿晒してもうてごめんな。」
「何言うてんの。別にかまへんがな。」
「うん…。」
「それよりうちですき焼きでも食べよ。」
「すき焼き !! すき焼きて牛食べるやつちゃうのん ?」
牛と聞いて桃香の目はキラリと光る。
「せや。お父はんが最近牛にはまってんねん。桃香もおいで。元気でるで。」
「ほんまに ? ええの。わて牛食べてみたかってん。お蝶ちゃんおおきにな。」
と、今食べたものは何処へやら。滅多に食べる事が出来ないすき焼きと聞いて桃香の気分は絶好調に高まった。
全くげんきんな事である。先程までの恋の悩みは何処へやら、所詮は高嶺の花の恋である。恋破れた所で所詮はその程度なのだ。
蝶華の家に招かれた桃香はご機嫌な表情を浮かべ蝶華と与祢の分の肉をペロリと平らげた。おかげでその日、蝶華は’野菜だけを食べる事になったのだが、実はこのすき焼き煎餅が倒れた与祢の為に拵えさせたものだった。だから煎餅はこっそりと与祢に自分の分の肉を与祢に与えた。勿論其れが蝶華にバレないようになのだが、とうの蝶華は桃香のご機嫌とりに追われ其れどころではなかったのでさほど苦労する事はなかった。
で、夜は更け就寝の時間がやってきた。結局この日桃香は蝶華の家に泊まる事にした。夜道は危険だからと絹枝が言い出した事もあるが、桃香自身が食べ過ぎて動けなくなっていたのが一番の原因である。
そのお陰で布団に入ると桃香はあっという間に寝入ってしまった。蝶華は桃香の相手をする必要がなくなったのでホッと肩の荷を降ろし桃香の横で寝息を立てた。
其れから夜の闇はどんどん更けていき。其れに伴い部屋の温度も寝るのに適した温度まで差がていく。が、其れもつかの間、夏の日の出は早く気温が上がるのも相当早い。冬ならば絹枝に起こされてもなかなか目が覚めぬが、こう暑くては絹枝に起こされる前に目が覚める。
朝が来て目を開けると既に夏の日差しが差し込んでいた。垂れ流れる汗を拭い蝶華はフト桃香を見やる。桃香は尋常ではない汗を拭き出させながら寝息を立てていた。
これは偏見ではない。
偏見ではなく事実の話、その汗が異様に臭い。何を食べればこんなに臭い汗をかけるのか聞きたくなるが臭い話に花を添えるのは嫌だから知らぬふりをして風呂場に向かった。
朝一番で水を浴び薔薇の香りの石鹸で汗を落とす。例え一瞬でも汗の匂いから解放されるのであれば其れは其れで良い。汗の匂いを落とし火照った体を冷ます。其れから髪を結い化粧をし縁側で時間を潰すのだ。これが蝶華の夏の日の日課である。
が、今日は異様な臭気を放つ桃香が部屋で寝ているので髪結いと化粧はせず縁側で新緑を眺めることにした。
「蝶華。」
母の絹枝が蝶華を呼んだ。
「どうしたん ?」
「表に紫乃氶はんと朝顔はんが来てはるけど。」
「紫乃氶はんと朝顔はんが ?」
「あんたに会いたいそうや。」
「わてに ? 何やろ、すぐ行くわ。」
と蝶華は手拭いで足を拭き、一度自分の部屋に戻ると昨日渡し忘れた手紙を胸元に入れ店に向かった。
適当に髪を束ねながら早足で廊下を歩く。家が大きいだけあって縁側から部屋、部屋から店までの距離は其れなりにある。
蝶華は桃香にすぐに用意するようにと母にことずけを頼み店の軒先に顔を出した。
「蝶華さん。昨日は申し訳ない。」
と、蝶華を見やるなり紫乃氶と朝顔が頭を垂れた。蝶華もつられるように頭を垂れ二人を見やる。
紫乃氶はこれといって普通だったが朝顔は女形の姿で訪れていた。と、言っても芝居の時の様に派手な衣装に身を包んでいるわけではない。女性の着物を着て軽く化粧を施している程度だ。其れでも息を飲むほどに美しい。
しかし舞台で見ていた時は全くそんな風には思わなかったが、こうして近くで見やると彼が男である事の方が不思議に思えた。否、寧ろ女よりも女である様に思える。成る程…。桃香が憧れるのも無理はないと納得させられる。ただ蝶華としては素直に其れを認めるわけにはいかない。何故なら蝶華は自分がこの世で一番美しい男子だと思っているからだ。ただ、素直に認めたくないだけで張り合う気はさらさら無い。
「紫乃氶はんと朝顔はん。わての方こそ昨日はすんまへんどした。態々時間とってもろたのに。」
だから素直にこういう返答ができる。
「いえ、儂等が玄人としての意識が低すぎただけです。」
「そんな事おまへん。恋愛は自由やさかい。其れに桃香が大人気ないだけどす。」
「其れでも贔屓の桃香さんに辛い思いをさせてしまいました。本当はいの一番に桃香さんの所に行くべきなんですが、残念な事に吉松さんも蝶華さんの家しか知らないらしくて…。」
「そらそうどすわな…。其れやったらここで少し待ってておくれやす。桃香うちに泊まってますさかい。」
「本当ですか。」
「へえ。すぐに呼んできます。」
と、蝶華はニコリと笑みを浮かべ桃香を呼びに行った。
蝶華は自分の部屋には行かず風呂場に向かった。風呂場に着くと桃香が丁度風呂から上がった所だった。
「ちゃんと薔薇の石鹸で体洗ろたか ?」
「うん。洗ろた。」
「朝顔はんが待ったはるで。」
「ーー。」
蝶華の言葉に桃香は一瞬言葉を失った。
「どしたん ?」
「ほんまなん ?」
「ほんまや。」
「朝顔はんが ?」
「せや。」
「お蝶ちゃんわてをからこうてる ?」
そう言った桃香の目頭には涙がうっすらと浮かんでいる。
「朝からそんないなことするかいな。」
「ほんまに ?」
「ほんまや。」
「なんやわて夢みてるんかな。」
「そうかもな。」
「わて、わて…。」
「ほら、いつまでグズグズ言うてんの。いつ迄も待たしたら悪いやろ。」
「せやな。せやな。」
と、桃香はニッと笑みを浮かべ朝顔がいる店先に向かった。
店先には紫乃氶と朝顔がニコリと笑みを浮かべ立っている。桃香はその姿を見やりポロポロと涙を零した。
「桃香さん。昨日はごめんね。」
ニコリと笑みを浮かべ朝顔が言った。その口調はとても優しく、透き通る様な声は自然と桃香の胸にスーッと入り込んでいった。
桃香の心臓がドクんと高鳴る。その鼓動は次第に大きく強くドクンドクン打ちつける。正直言葉が出なかった。
必死に…。
必死に首を横に振るのが精一杯だった。
「私達の軽率な行動の所為で辛い思いをさせてしまった事をお詫びさせていただきます。自分達が役者として未だ未だ未熟だという事を思い知らされました。」
「そ、そんな事…。」
声にならない声で桃香が言った。
「いえ、あれから私達は桃香さんの手紙を読ませて頂いたんですよ。本当に心洗われました。」
「わ、わての ?」
「はい。あの時これを落としていかれましたので。失礼とは思いながら拝見させて頂きました。」
と、朝顔は桃香の書いた手紙を見せた。
「わての手紙読んでくれはったんどすか ?」
「はい。感動しました。」
「おおきに、朝顔はんおおきに…。」
「いえ、お礼を言うのは私の方ですよ。どうですかそのお礼と言っては何なのですが今から食事にでも行きませんか ?」
「わてと ?」
「はい。」
「せやけどわて…。わて…。その気持ちだけで十分どす。」
「え ?」
「わてはこの先も朝顔はんの贔屓でおりますよって。」
「桃香さん。」
「ええんどす。こうやって朝顔はんがわてに会いに来てくれはった言うだけでわては幸せどすさかい。其れにわてこんな幸せな気持ちになれたん初めてどす。せやからこれ以上の幸せ求めたらバチが当たりますよって。」
「桃香さん…。」
「その代わりこの先もし朝顔はんに何かあったら絶対にわてに連絡貰えますか。わて、わてのできる限りの事さしてもらいますよって。」
「桃香さん…。ありがとう。その時は必ず手紙を送らせて頂きます。」
「へえ、出来たら何かある三ヶ月前には手紙もらえたら嬉しいどす。」
「え ? 三ヶ月前 ? ん…。其れは一寸難しい話ですね。私は占い師ではありませんから先の事は分かりませんよ。其れに、それは流石に焦りすぎでしょう。」
と、朝顔がクスリと笑った。
「そ、そないな事おまへん。手紙は早漏言いますやろ。せやから早いに越した事おまへんねん。」
頬を真っ赤に染め上げ桃香が言った。
蝶華は桃香の横で”それ、わてが間違えたやつや”と、口をポカンと開け桃香を見やる。紫乃氶はゲラゲラと笑いながら”桃香さん上手い事言いますね”と言って更にゲラゲラと笑う。つられて朝顔もケラケラと笑った。
何とも愉快な笑い声が店の軒先に響き渡る中、母の絹枝がヒョイっと顔を覗かせ”いつ迄もこんなとこで喋ってんと、上がってもらい”と言ってきた。
「あ、いや…。そんなあつかましい事…。」
と、紫乃氶が言うと”せやな、せっかくやし牛でも食べて行ってもらおか”と、蝶華が被せるように言った。
「牛 ?」
と、朝顔が問う。
「何言うてんの牛は昨日桃香ちゃんが全部食べたやないの。」
そう言って絹枝が桃香を見やる。
「え ? 全部 ?」
と、朝顔が桃香を見やる。恐らく朝顔は桃香が牛一頭丸々食べたのだと思っている。
「せやった…。ほな冷たい蕎麦でも頼みに行ってくるわ。」
と、残念な事にその真実を朝顔に伝えようとするものは誰もいない。とうの桃香もまさか牛一頭食べただなんて思われているとは露ほども思っていないので否定すらしない。否、寧ろ全部食べたのは本当の事なのでしたくとも出来ない。
「そやな。ほな代祢に行ってもらうわ。」
と、絹枝。
「え、いや…。そんな図々しい事。」
「何言うてますのん。うちの子らがなんや迷惑かけたみたいやし、それにわてもお芝居の事色々聞かせて欲しいどすさかい。」
と、絹枝は紫乃氶と朝顔を家の中に招く。
「あ、いや…。すみません。それじゃぁ、お言葉に甘えさせていただきます。」
そう言い乍ら紫乃氶は敷居を跨いだ。
「へえ、へえ、気になさらずに。」
と、言い乍ら絹枝は不意に遠くを見つめた。
「どうなされました ?」
朝顔が問うた。
「いえ、蝉の鳴き声がしたさかい。」
「蝉ですか ?。」
「へえ、今年も蝉時雨に悩まされるのかと思うとゾッとしますよって。」
と、絹枝が言うと”桃香には蝉時雨やのうて恋時雨やな”と蝶華が言った。
「恋時雨 ? 何それ。」
桃香が問う。
「時雨の後はお日さんがパッとさすやろ。せやから、一つの恋が終わっても又新しい恋がパッと始まるいう事や。」
「え…。新しい恋 ? そっか新しい恋かぁ…。 恋時雨なんやええ響きやなぁ。」
「フン。桃香はんには恋より蝉の方がにおてます。」
と、代祢が言った。代祢はいつの間にか絹枝の後手に立っていた。
「あ、お代祢ちゃん。え、って言うかなんでなん。何でわては恋より蝉なん ?」
「そんなん決まってますやろ。蝉は食べれても恋は食べられまへん。」
「え…。ちょっと待って。わて蝉なんか食べた事ないけど。」
「フン。桃香はんは何でも食べるんや。牛も蝉も全部食べたらええねん。」
そう言うと代祢はそそくさと店の中に消えていった。
「なんや、今日は代祢ちゃんえらい機嫌悪いな。」
と、絹枝が言うと”昨日桃香が代祢の分の牛を食べてもうたからな。”と蝶華が答える。
「あぁぁ。そら桃香が悪おますな。」
と、絹枝が言うと朝顔がクスリと笑い”桃香ちゃんは色気よりも食い気なんですね。”と、言った。
「そ、そないな事おまへん。」
と、桃香は顔を真っ赤に染め上げ答える。その横で蝶華がケラケラと笑った。
釣られて絹枝と朝顔もケラケラと笑った。
ケラケラと
ケラケラと…。
ケラケラと笑いながら四人は家の中に入って行く。
「あ、そうそう。桃香さんに一つお尋ねしたい事があるのですが。」
不意に朝顔が言った。
「へえ、なんですやろ ?」
「手紙に書いてあったのですが”冬は予想以上に役立ちます”あれはどういう意味なんでしょうか ?」
「え、あああ、あれは…。」
と、返答に困る桃香の横で”それ、書いたらあかんやつや。”と蝶華がボソリと言った。
「え、そうなん ?」
「そらそうや。」
と、蝶華は又ケラケラと笑った。笑いながら”せや、わても紫乃氶はんに手紙書いたんやった。”と紫乃氶を見やった。
「え、儂にですか。」
嬉しそうに紫乃氶が言う。
「へえ、そうどす ちょっと待っておくれやす」
と、蝶華は胸元から手紙を取り出した。
「いや、これは嬉しいな。朝顔には有って儂にはないから寂しかったんですわ。蝶華さん必ず返事は書かせてもらいます。」
「ほんまどすか。わてめっちゃ嬉しいどす。」
「ええ。でも桃香さんみたいに急かさんといて下さいよ。」
「急かすやなんていややわぁ。わての手紙には”候”が付いておまへんさかい。ゆっくりでかまいまへん。」
と、蝶華は紫乃氶に手紙を手渡し、チロリと桃香を見やった。
お日様の光が照りつけ始める朝五ツ半。徐々に暑さが増していく夏の空。雲の切れ間から蝉梅雨が京都の町に降り注ぎ始めた所でお終いです。
祇園祭のシーンですが、桃香と代祢が夜の街に繰り出します。江戸時代の祇園祭が実際どうだったのかを知りませんので現在の屋台が出る時間帯(18時〜23時)に合わせました。作中での時間帯は19時頃です。作中で花火が上がりますが実際の祇園祭に花火は上がりません。因みに屋台が出ていたかどうかも定かではありませんのであくまでも一つのお話として受け入れてやっていただければ幸いです。