茨の棘
寒い冬が通り過ぎると京の町にも心地よい春が訪れる。心地よいお天道様がヒョッコリ顔を覗かせおはようさん。ムクリト布団から起き上がり、眠たい眼を擦って伸びをする。
窓から差し込む金色朝日。
春の日差しが心地よく、
蒟蒻俎板ヒラリと隠し、
今日も殿方探しに精を出す。
と、お蝶はカラリト窓を開けると、朝の空気をお腹一杯に吸い込んだ。そしてチラリと見やる軒下には今日も沢山の若者が群れている。ニンマリと笑みを浮かべお蝶は今日もムフフと上機嫌。
寒い冬が過ぎ去って、
春の訪れと同時に満開咲くは恋の花。
「お蝶さん、おはようございます。ー
軒下から多くのお若者が朝の挨拶ご苦労さん。お蝶はお姫様気分で言葉をかえす。ニンマリと浮かべる笑みが怪しく輝き男心を鷲掴み。
「お蝶さん。儂今から道場行ってきます。」
「お蝶さん。儂も今から道場に行ってきます。」
「儂も…。」
「儂も…。」
と、朝からお祭り騒ぎの大賑わい。御近所では有名な呉服問屋石見屋の一人息子石見蝶華も、地方からやって来た維新志士見習い達には無名の逸材。京で見つけた花は美しく、それは手の届かぬ高嶺の花。
せめて、
せめてとお蝶見たさに集まる若者は後を絶たず。朝からお蝶のご機嫌伺いに精を出す。お蝶もこれ見よがしに胸元をハラリとはだけさせチラリと見やる軒下若者間抜け顏。
頬を真っ赤に染め上げて戻す仕草が愛おしく。
誰もお蝶が男乃娘だとは思いません。
「皆はん今日もご苦労さんどすな。日の本の為に気張って来ておくれやす。」
と、お蝶はそう言うと窓をカラリと閉じて身支度に取り掛かる。
此れが最近のお蝶の日課である。
鏡の前でニンマリとした顔を見やり乍髪をかき上げる。相変わらず流行りに逆らう様に桃割れはしていない。頭の天辺で一つでに髪を括ると耳飾りをつけて紅を引く。
外の陽気な天気に合わせるように振袖よりも普段着を好んで着るようになったが、地方の若者が増えた事で朝から浴衣を着込んで奉公に行くようになった。
お蝶曰く普段着は大人っぽく見えるが、浴衣は可愛らしく子供に見えるからだそうだ。と言っても未だ未だ子供の十八才。何を着ようと子供である。
そんな恋に憧れる十八才。真逆の満開全開恋の華に我を忘れてしまう程喜んではいるが。ふと、我に帰れば不安が胸中を襲う。
如何に可愛かろうと、美しかろうともお蝶は男なのだ。
チチは無いがナニはある。
ナニがあればせっかく咲いた満開の華も一気に枯れて行く。
お蝶は浴衣の上からグッと股座を押さえふぅ、と吐息を一つ。
まぁ、此れも毎日の日課の一つなのだが、毎朝同じ悩みで吐息を吐く。
そして何事も無かったように家を出るとカラカラと下駄を鳴らしながら奉公先の三条うどんまで歩いて行く。勿論、地方から来た若者以外はお蝶を女として見ていないので、お蝶にはとても詰まらない道のりである。
一度道場の使いの最中の若者に会った時”こんな面恋人をほっとくなんて、京の男は見る目がないんですね。”と言われた事がある。
お蝶は全くその通りだと思う。例え中身は男でも可愛さだけで言えば、そこらに居る娘どもの数倍は可愛いのだ。
”ほんに見る目おまへんわ。”
と、ボソリ。
ボソリ。
ボソリ、ボソリ。
と、ブツブツ言い乍気がつけば三条うどんに着いている。三条うどんに着くと隣の長屋で仕事着に着替えーー。
否、小窓からエロイ視線を感じる。お蝶がプイッと振り向くと人影がサッと消えた。此れも若者がゾロゾロとこぞって京の町にやって来るようになってからだ。
”ほんま、人気者言うのも考えもんやな。”
と、お蝶は小窓をパタンと閉じる。
全く油断も隙もない。
間違ってもナニを見られるわけにはいかないのだ。其れを見られた瞬間満開に咲いた華が一気に散ってしまう。
”やれやれやわ。”などと言い乍も其れでも満更悪い気はしていない。寧ろ此の感覚が心地よい。心地良いがかなり焦る。
お蝶はサッサと着替えを済ませると、長屋を出て店の中に入って行った。
「お蝶ちゃんおはようさん。」
店に入ると女将のお豊が声を掛けてきた。
「女将はん。おはようさんどす。」
と、挨拶するとキョロキョロと店内を見渡し”お徳は未だ来てへんの ?。”と訪ねた。お徳とはお蝶と同じ三条うどんで奉公している十四才の娘である。
「せや、最近来んのえらい遅いねん。」
「ふぅん。そうなんや。せやけど昨日は早かったやん。」
「早い言うてもいつもよりは遅かったで。」
「せやったかいな。」
と、言い乍厨房に向かうと大将の吉兵衛におはようさん。吉兵衛はお蝶を見やり”お蝶ちゃんおはようさん。今日も面恋な。”と、鼻の下を伸ばしてお蝶を見やる。
勿論、吉兵衛もお蝶が男である事は知っているが可愛いものは可愛いのだとお蝶を女の子として接してくれている。
お蝶はそんな吉兵衛が好きだった。と、言っても恋心は抱いていない。いない所かお蝶の恋はゴッコなのだ。好きだの惚れた等は飽くまでも遊びの延長線上なのだ。
だから、誰か一人を好きになるよりも寧ろ今の状況が続く方がお蝶にとっては楽しい。出来ればずっと続けばと思っているのだがその壁は非常に高い。
「おおきに。大将はいつもわての事面恋言うてくれるさかいわて大好きや。」
と、上目使いでチロリ。
その仕草に吉兵衛は更に鼻の下を伸ばすと”お蝶ちゃん天婦羅食うか ? ”と、出来立ての天婦羅を一本お蝶に渡す。お蝶は串に刺さったキスの天婦羅を受け取ると早速パクリ。口元をユンルリと緩め”大将の揚げる天婦羅はほんに美味しいな。”と言ってパクリ、パクリ。と、気分良く天婦羅を食べていると客席からお豊の大きな声がきこえてきた。
「お、お徳ちゃん ! あんた何やその顔 !」
と、店にやって来たお徳を見やるなり驚きの声を上げる。其の声につられてお蝶が客席に行くとお蝶もびっくり仰天口をあんぐり開けてお徳を見やった。
「お、お徳ちゃん。あ、あんた遂に桶屋に売られたんかいな。」
と、お蝶。
「な、何言うてますのん。そんな訳あらしまへんやろ。」
「ほ、ほな、何やのその真っ白な顔は ?」
「別に…。只わても美に目覚めただけどす。」
「美てあんた。そないな白塗りしてどないするきやの ?」
と、お豊。
「これが世の殿方が求めとる姿なんどす。」
「殿方て。」
と、お豊はジンマリとお徳を見やっている。お蝶はお豊の耳元で”お徳ちゃん何や勘違いしとるな。”と、ボソリ。
「勘違いなんかしてまへん !」
聞こえていたのだろうムキになってお徳が声を荒げる。
「いや、せやかて。白塗りしてるんわ桶屋の娘だけやで。」
「ほんな事わてかて知ってます。知ってますさかいわてもこうやって白塗りにしてるんどす。」
「いや、せや言うても。あれは白塗りがええんやのうて、仕草が色っぽいさかいええんや。」
お豊が言う。
「もぅ、何なんどすか。そんなにわての白塗りがええんどしたら女将はんらも白塗りにしはったらええやないどすか。」
そう言うとお徳はプイッと顔を背けて厨房の中に入っていった。その直後、吉兵衛の笑い声が聞こえたのは言うまでもない。
「女将はんも明日から白塗りやな。」
と、お蝶がチロリ。
「阿呆言わんといてんか。誰があないにけったいな化粧するんや。」
「お徳ちゃんしとるがな。」
「ほんまになぁ、お徳ちゃんのお母はん何も言わんかったんやろか。」
「ほんまやなぁ…。」
「あ、其れより今日から蝶華定食始めるさかいにな。」
「蝶華定食 ?」
「せや、最近あんたの人気が急上昇やさかい。其れにあやかって作ったんや。」
「ほぉ、ほんで。其れはどないな物何どす ?」
「キツネうどんにキスと鱧と海老の天婦羅、白米、漬けもんが付いとる。」
「え ? 其れ普通の天婦羅定食やん。」
「阿呆やな。蝶華定食は其れに宇治茶が付いてるんや。」
「う、宇治茶て。ほんで幾ら何どす ?」
「百文や。」
「ひゃ、百文 ! 宇治茶が付くだけで二十文も上がるんかいな ? 女将はん其れやり過ぎどすわ。」
「何言うてんのん。蝶華定食はこの可愛いお蝶ちゃんが全て運んで行くんやさかい皆んな注文するわな。」
「え、全部わてが…。」
「せや。あんたが持っていくさかい蝶華定食なんや。」
「いやせやかて他のもわてが運ぶんやろ。」
「うん。まぁな。」
「まぁなて…。あきまへんやん。それ詐欺ちゃうん。」
「阿呆。詐欺でもなんでもないわ。ーーまぁええ。見てたら分かるわ。この蝶華定食の爆発力を…。」
と、お豊は不敵な笑みを浮かべ入り口を見やる。と、其処に厨房から戻ってきた白塗りのお徳が”何なんお蝶ちゃんだけずるいわ”と言ってきた。
頬をプクッと膨らませたお徳がお豊を見やる。お豊はそんなお徳を見やり”ほな、おたふく定食でも作ろか ?”と言った。お徳は更に口を膨らませると目頭に涙を溜めながら”何や、お蝶ちゃんばっかり…。わてかて、わてかて…。”と、シクシク泣き出した。
「あぁぁぁぁ、そう言う事かいな。」
と、お豊はお徳の頭を撫でる。
「わてかて、わてかて男の人に可愛い言うて貰いたい。」
「うんうん。お徳ちゃんの気持ちわかる。せやけどあんた不細工やしな。」
と、サラリとお蝶。
「五月蝿いわ。お蝶ちゃんにわての気持ちなんか分からへんねん。大体お蝶ちゃんお…。」
と、お徳が言いかけた所でお豊がお徳の口を押さえた。
「あ徳…。この先は絶対領域や。何人たりとも侵入でけへん場所やで。」
と、お豊が睨めつける。お徳はスッと視線を逸らし頷く。
「ええな。蝶華定食の売り上をおおきゅう左右する大切な部分や。絶対にバレたらあかんねん。お徳…。あんた、分かってるやろな。何があっても口外したらあかんねんで。それとお蝶…。絶対にバレるようなことがあったらあかんねんで。」
殺気にも似たオーラを纏ったお豊が言った。二人はただ、ただ首を縦に振り続けた。
其れから暫し、開店準備に追われ乍パタパタと埃を払い机を拭いて外に出す床机の用意を整えて、桶に水を入れて表に出るとあらびっくり若者ゾロゾロニタリ顔。お蝶はニコリとお愛想振りまくご苦労さん。
「お蝶さん。いつ見ても綺麗です。」
「其の姿も似合ってます。」
「お蝶さん。お疲れさまです。」
と、あっという間にお蝶を取り巻き方々から聞こえるお褒めの言葉アレやコレ。お蝶はとっても上機嫌で笑顔で受け答え。只、此れでは打ち水が出来ないので諦めて店に戻ろうとした所で、若者の一人がスッとお蝶に花を差し出した。
「うわ、綺麗どすな。」
と、其の真っ赤な花を見やりお蝶が言った。
「はい。私の故郷の花で茨と言います。
「茨どすか。綺麗な花どす。わて初めて見ました。」
「はい。お蝶さんに似合うと思いまして。良かったら受け取って下さい。」
と、若者が差し出す茨をお蝶は喜んで受け取った。
「おおきに。わて大事に育てますさかい。」
「はい。あ、わし善次郎いいます。」
「善次郎はんどすか。おおきに。」
そう言ってお蝶は店の中に戻っていった。
店に戻るとニタリと頬を緩め、早速お豊に茨を見せた。茨を見やりお豊も”綺麗やな、へぇ初めて見たわ”と言って暫し二人でその花を見やっていると、お徳もチラリとその花を横目で見やり”ふん”と口を膨らませていた。恋に興味を持ち始める十四才。どうやら宿敵は男乃娘のお蝶のようである。
其れから、お蝶は厨房に行き桶を借りるとその中に水を入れて茨を入れた。
「ほんま、あの人ら道場で修行してるんとちゃうの。ほんま、だらしないわ。」
と、お徳。
「男言うのはそう言うもんや。目当ての女には現ぬかすもんや。さぁ、そんな事より開店するで。」
と、お豊は暖簾を掛けに表に出て思わずニタリ顔。外に出て初めて分かる若者大漁おおきにご馳走さん。
これだけ多くの若者がいれば、さぞや蝶華定食も売れるだろうと狸の皮算用。で、開店と同時にぞろぞろと入ってくる若者ぎょうさん頼むはすのうどん。
あくせくと運んで下げて、お蝶は若者に話しかけられ戦力低下。早く頼めと願う蝶華定食全く売れず。
若者がぞろぞろと入ってくるお陰で、他のお客が入れず外で待ちぼうけ。されどお蝶と喋りたいとやってくる若者はうどんを食ってもアレやコレやと話しかけてくる。
それを何やかんやと捌き乍客の流れを作っていくが、頑張っても、頑張っても一人十文のすのうどん。
挙げ句の果てに他の客は店に入れぬと違う店に行ってしまうので商売上がったり。まぁ、普通に考えれば維新志士を志す若者が百文の蝶華定食を頼める筈もなく。常連客が蝶華定食を頼む事などなく。店は流行れど売上上がらぬ貧乏くじである。結局閉店まで賑やかな時間が続いたが売上はほとんど上がらなかった。
まぁ、これも若者が京に来る様になってからはいつもの事なのだが…。
「何や、お蝶ちゃんの所為でえらい目におうたわ。」
と、お徳がぼやく。ぼやく気持ちは良く分かる。お豊もぐったりし乍お蝶を見やる。
「な、何…。蝶華定食が売れんかったんはわての所為やないで。」
「分かってるわな。わての読みが甘かった。次は本気で行く。」
と、お豊の目がキラリと光る。
「ほ、本気 ?」
「せや…。いつ迄も餓鬼等の好きな様にさすかい。すのうどんでベラベラ喋れると思うなよ…。ふ、ふ、ふ、ふ、ふ…。」
と、お豊の不敵な笑い声を耳に残し乍、お蝶とお徳は着替えをすませると家路に向かって歩き出した。
「お徳ちゃんまた明日。」
「うん。ばいばい。」
と、お徳はそっけない。”何や、可愛げないな”と、ボソリと言うが、まぁええかとお蝶は茨をクルクルと振り回しながらカラカラと歩いて行く。
暗い夜道を歩いていると向こうから提灯の明かりが二つ。何のけなしに歩いていると”お蝶 !”と、呼ぶ声が聞こえた。フト前方の蝶をチンを見やると提灯がゆらゆらと近づいてくる。
”お蝶ちゃん”
と、呼ぶのは友達の桃香である。続いて光八がやって来た。
「桃香と光八やん。何してんの ?」
「今から風呂屋に行くねん。」
と、桃香。
「風呂屋 ?」
「せや。光八が風呂行こう言うて誘て来たんや。」
「へええ、そうなんや。」
「おう。儂の家建ててる最中やさかいな。」
「儂の家て…。燃やした張本人が偉そうやな。」
「五月蝿い。それはええねん。」
「ほんでな、お蝶ちゃんも誘おうおもて家に行ったら、奉公行ってる言うから二人で行くとこやったんや。」
「そっか。」
「せや、お蝶ちゃんも一緒に行こうな。」
「うぅぅぅん。せやな。風呂で疲れとるか。」
と、お蝶は桃香と光八と風呂屋に行く事にした。
来た道を戻りカラカラと今度は三人で歩く。途中お蝶は桃香に茨を見せながらキャアキャアと声を上げながら喋っている。そして、暫し歩き風呂屋の前まで来るとフト見覚えのある若者とバッタリと会った。善次郎である。
「ぜ、善次郎はん。」
「あ、お蝶さん。」
と、二人はジッと見つめ合う。
「え、善次郎はんて茨くれはった人 ?」
と、桃香が問う。
「せや。この人が善次郎はんや。」
「へええ。」
と、桃香が善次郎を見やる。
「ふぅぅぅん。」
と、何やら気に入らぬ顔で光八が善次郎を見やる。
「ほんで、善次郎はんこないなとこで何してはるんどす。」
と、お蝶。
「いや、道場の風呂が壊れた見たいで、今日は風呂屋に来たんです。」
「そ、そうなんどすか。」
と、お蝶は眉間にしわを寄せる。
「お蝶はんも風呂ですか ?」
「へ、へえ…。」
と、言い乍お蝶はお腹を押さえた。
「お蝶ちゃんどないしたん ?」
「あ、あかん…。女の子の日になったみたいや。」
「お、女の子の日て…。」
と、桃香。
「お蝶さん大丈夫ですか ?」
「だ、大丈夫どす。せやけどわて風呂には入れん様になりました。」
「はぁぁ、お前何言うてんねん。」
と、光八。そんな光八の耳元で”善次郎はんと風呂屋に入ったらバレテまうやろ。”と、ボソリ。
「あぁぁぁぁ…。」
と、納得した光八は”それやったらしゃあないな。”と言って風呂屋の中に入って行った。「あ、光八…。」
サッサと風呂屋に入っていく光八を見やり桃香が言った。
「桃香。わて今日は帰るわ。」
「うん。分かった。ほな、お蝶ちゃん気をつけて。」
「お蝶さん。わしが家まで送りましょうか ?」
「いえ、大丈夫どす。」
「善次郎はん。お蝶ちゃんは大丈夫やさかい風呂入りまひょ。」
と、桃香が助け舟を出す。
桃香良う言うた。と、グッと親指を突き立てお蝶はカラカラとまた家路に向かって歩き始めた。
あぶない、あぶない。混浴の風呂屋何かに行くもんやないな。と、ブツブツ。
ブツブツ、ブツブツ。
人気者言うのも考えもんやな。うかつに風呂屋にも行かれへん。
ほんま、行動が制限されるんは困ったもんや。とブツブツ。
ブツブツ、ブツブツ。
そんなお蝶の苦労など露ほども知らず。京の蝶華の噂は野を越え山を越え。集まる若者も維新志士を志す者だけではなくなって行った。
朝からやいのやいのと集まる若者に次第にお蝶の気分はお姫様。始めは二階の窓から見せていたその顔も親父に頼んであつらえた屋上の高見台から姿を表すようになった。
着る浴衣も特別あしらえで、奉公の行きも帰りも若者に囲まれて。
奉公先では、三条うどんの隣の長屋を改造して、蝶華定食専用の蝶華専用席を作りお蝶が運んで喋って大賑わい。お陰で常連客も戻ってきて言う事なし。
春の訪れと同時にやってきた恋の華、桜が散っても恋の華は散りません。浮かれて舞ってお姫様。貢物も茨程度じゃ収まらず。金銀財宝高価な物が集まります。
西洋の首飾りや光る石。
綺麗な着物に髪飾り。
島原の太夫も指を咥えて羨む京乃華。
清楚でおしとやかで、優美に色気を醸し出す。
然れど、
然れど、
見せてはいけないその体。
嬉しさ半分、辛さ半分。
然れど、
然れど、
辛さは直ぐに消え去って。
浮かれて天狗の鼻伸びる。
気がつけば我天下の蝶華也。
と、お蝶の人気が高まれば高まる程、お蝶の振る舞いは傲慢になって行った。傲慢と言っても元々お金持ちの子供なのでお金に目が眩む事はなかったが、事人気者である事に対しては免疫がなかったのでズッポリと嵌って行った。
わては、誰よりも可愛いのだ。綺麗なのだ。と言った部分が強く出てくるようになった。
それが気に入らないのがお徳である。
毎日目の当たりにされるお蝶人気にイライラが募っていく。
お蝶ちゃんは男やのに。
男やのに。
男やのに。
と言えぬ辛さの藻どかしさ。
「お徳ちゃん。お銚子一本持ってきて。」
と、お蝶の小間使いにされて。気に入らぬ気持ちが肥大する。
「へえへえ。」
と、言って持って行くお銚子一本。お蝶は若者の隣に座ってお喋り三昧。しかも給金はお蝶の方が少し高い。これは年齢と働いている年数の違いだけなのだが何故か気に入らぬ。「お徳ちゃん返事は一回どす。」
と言ってお銚子を貰うと若者についでやる。お徳はプイッと顔を背けると店に戻って行く。
”ほんま、何なん。腹立つは…。”
と、ブツブツ、ブツブツ。
しかし、気に入らぬのはお徳だけではない。
お蝶目当てで三条うどんに来ていた若者達も気に入らない。三条うどんに行ってもお蝶には会えず喋れず。只、すのうどんを食って帰るだけ。
悔しいから帰りに長屋を除いてお蝶を見やる。そして、お蝶の楽しそうな顔を見やりがっくり肩を落とす。
此れでは楽しくもなけりゃ嬉しくもない。結局、長屋にいるのは金持ちの若者、殿方だけである。
お蝶を取り巻いているのも結局はその類。道場に通う若者には余り時間がない。朝お蝶の顔を見に行って。昼飯時にこっそり道場を抜け出して会いに来る。これが楽しみで頑張っているのにと…。何だか楽しみを奪われたようで腹が立つ。
お蝶に茨を渡した善次郎も矢張り詰まらぬ日々を過ごしていた。善次郎は毎日お蝶を思い。お蝶は善次郎の事など忘れていた。
人気者とはそう言う物だ。もといお蝶は誰か特定の人と恋をしたいとは思っていない。だから人気者であることが楽しくて仕方ないのだ。だから善次郎の事を忘れていても致し方ない。
いつもの様に店が終わると長屋からお蝶が出てくる。
いつもの様に多くの若者がお蝶が出てくるのを待っている。
お姫様。
お姫様。
立ち振る舞い。優雅に優美に見せますやります演じます。
艶やかに、清楚に言葉を交わし歩き出す。
そこにチラリと見える知った顔。どこの誰かは覚えていません知りません。
プイッと顔を背けお蝶はカラカラと進んで行く。
善次郎は寂しげに頭を垂れてため息一つ。高嶺の花。掴み取るのは金持ち貴族。貧乏人には野に咲く雑草お似合いか。
「お兄はんは行きまへんのか ?」
そこに声を掛けて来たのは雑草お徳。
「君は ?」
「わ、わては三条うどんで奉公しとる徳代といいます。」
「お徳さんですか。」
「へ、へえ。」
と、お徳は頬を染める。お蝶とお豊、吉兵衛に笑われて白塗りはやめたので血色が良く分かる。
「儂には高嶺の花ですわ。」
「そ、そうなんどすか。わ、わて。わては高嶺の花やおまへんえ。」
と、さして興味もなかったが、お蝶への対抗心で思わず言葉が出てきた。
「いや、その気持ちも結構です。」
然れど、サラリ。
「へ…。」
「雑草は雑草でも、せめて花ぐらい咲いていて欲しいですからね。」
と、善次郎はスタスタと歩いて行った。
お徳はブスッと頬を膨らませ、行きつけの天婦羅屋台権兵衛に向かっていった。ブツブツと
ブツブツとお蝶の人気が急上昇してから、やたらとブツブツ言うようになった。ほんの少し人気がある程度なら別になんとも思わない。
然れど、
然れど、
あの異様な人気にあの態度。
しかも生まれも育ちもお嬢様。
対する自分は貧乏暇なしお金なし。父は魚を売って母は傘貼りで生計を保っている。何なんだ。
何なんだこの違い。
しかも雑草って…。
腹が立つ。
腹が立つ。
思い募ってやけ食い、バカ食いデブまっしぐら。
「お徳ちゃん今日はぎょうさん食うな。」
と、権兵衛の主人が言う。
「ほっとって。わて今日はいらいらしてんねん。」
「そうかいな。ほな、何も聞かんさかいぎょうさんお食べ。」
と、お徳のお陰で売り上げ上がったわ。と心の中で喜びながらニコニコとお徳を見やる。
お徳はひたすら食べてお金を置くと”おちゃんほな”と行って家路に向かって歩き出す。歩きながらまたブツブツ。
ブツブツと言っていると目前に見える人だかり。
真逆、真逆と見遣っているとお蝶を取り巻く男達。その中に宿敵お蝶がニコリと微笑み浮かべて歩いている。
「あ、お徳ちゃん。」
と、お徳を見つけたお蝶が声を掛ける。
「お、お蝶ちゃん。」
「お徳ちゃん、こないなとこで何してはんの ?」
「お、お蝶ちゃんこそこないなとこで何してたん。」
「此れから皆はんとお食事よばれに行くんどす。」
「ふーん。男の人といる時は舞妓みたいな話し方すんねんな。」
と、嫌味を一つ。
「なんやのん。嫌味な子やね。ひょっとして…。」
と、チラリ。意地悪な目つきでお徳を見やる。
「な、何。わては焼き餅なんかやいてへんで。大体わてとお蝶ちゃんは全然違うんやさかい。」
「ほな、何どす。その可愛げのない態度は。女子は愛嬌どすえ。」
「ふん。何なん。何が愛嬌や。愛嬌もクソもお蝶ちゃんは…。」
”男やろ”と言いたかったのをお徳は我慢した。
「お蝶さん何ですこの膨れたフグみたいな子は ?」
「あ、この子わての奉公先のお徳ちゃん。」
「お徳 ? 徳利みたいな顔やな。ひょっとして徳利言う名前か。」
別の若者が言った。
その言葉に周囲の若者がゲラゲラと笑う。
ゲラゲラと
ゲラゲラと笑う声が耳を刺す。
我慢ならずお徳は俯きしくしくと涙を流して泣き出した。
「ちょ、ちょっと何言うんどすか。お徳ちゃん泣いてるやおまへんか。可哀想に言い過ぎどす。」
と、お徳に駆け寄りお蝶はギュッとお徳を抱きしめる。
「あ…。すみません。」
「皆はん。言うてええ事と悪い事がおますんやで。此れでもお徳ちゃんは女子どす。」
「お、お蝶ちゃん…。」
「ほんま。お徳ちゃん堪忍な。皆はんお徳ちゃんの事知らんさかい、こないな事言うんや。お徳ちゃんは、顔は柏餅みたいに大きいし、お尻は伸ばしたうどん生地みたいに大きいけど、おチチは小さくて乳首は桜餅ほどの大きさがあるし…。」
「お、お蝶ちゃん…。」
「見た目もほんまブサイクやけど。気立てのええ、ええ子なんどす。」
そう言い乍お蝶がポロリポロリと涙を流す。
「お、お蝶ちゃん。それ言いすぎちゃう。」
と、お徳。
「え、何が ?」
「え ? と違う。何やのん。柏餅とか、乳首が桜餅とか。言い過ぎやわ。」
「何が。全部ほんまの事やんか。」
「何やのんほんまの事て。そんなん言うたらお蝶ちゃんなんか…。」
と、お徳は言葉を飲み込む。
然れど、
然れど、
「お蝶ちゃんなんか…。」
溜まりに溜まった鬱憤やっかみはもぅ止まらない。お蝶は慌ててお徳の口を塞ごうとするが少し遅かった。
「お蝶ちゃんなんか、男やんか !」
と、お徳。せえいっぱい大きな声で言った。
お蝶ちゃんなんか男やんか…。
男やんか…。
男やんか…。
男やんか…。
”あ…。”
と、我にかえったお徳は口を押さえるが、そんなものは後の祭り。お蝶は固まったまま”お徳ちゃん…。それ、言うたらあかんやつや”とボソり。
「え、男 ?」
お徳の言葉を聞いた取り巻き連中からざわめきが…。
「いや、聞き違いやろ。」
「え、でも…。」
と、言い乍一人の若者がスタスタとお徳を抱きしめるお蝶の所にやって来てチョン。絶対領域の股座をチョン。フニャリとあってはならない場所に柔らかい感触がフニャリ。
「あ、儂そろそろ故郷に帰る日やった。」
と、若者はそう言ってスタスタと歩き出す。
「お、おい、ちょっと待てや。」
と、確認しに行った若者を止める声。
「聞くな聞くな。儂らも帰ろう。」
と、横にいた若者が冷や汗を拭いながら歩き始める。
「あ、儂明日からオランダに行くんやった。」
「あ、儂も…。」
「明日討ち入りか…。」
と、ゾロゾロと、ゾロゾロと。
あっと言う間にお蝶を取り巻いていた若者の姿が消えていった。残されたのは枯れた京乃華と哀れな雑草。二人は暫し無言のまま抱きしめ合っていた。
そして悲しいかな、お蝶が男乃子である話は朝が来る頃には、京都中の若者に知れ渡り、朝が来て窓をカラリト開けても誰もいない。
騒がしく、朝のガヤガヤが懐かしく。
お蝶は大きなため息を吐くと高見台に上がって行った。
心残り、
切なくて、
ポロリと涙が溢れます。
「お蝶さん…。」
と、感慨に耽っている所にお蝶を呼ぶ声が聞こえた。お蝶は高見台からプイッと下を見やる。
「あ…。」
「お蝶さん…。おはようございます。」
と、軒下から一人の若者が声を掛けてくる。
「ぜ、善次郎はん…。」
「お蝶さ…。お蝶ハン。今日はす…。エライ、暗い…。ドスな。」
と、善次郎はなれない京都弁で言った。それを聞いたお蝶はプッと笑い乍”何やのんその変な京都弁。”とゲラゲラ笑った。
「お蝶さ…。ハンにはヤッパリその顔が一番のおおりま…。におおてどす。どす ?」
と、更に善次郎はいびつな京都弁で言う。お蝶はお腹を抱えながらゲラゲラと笑う。
「もぅ、善次郎はん。笑かさんといておくれやす。もぅ、お腹ちぎれそうやわ。」
「お蝶さんが、暗い顔してるからや。ヤッパリ笑ってる顔が一番や。」
「善次郎はん…。おおきに。ほんに善次郎はんはお優しいどすな。」
「そんな事ありませんよ。でも、驚きました。」
「…。」
善次郎の言葉にお蝶はシュンと俯く。
「お蝶さん…。お蝶さんに上げた茨の茎には棘が有るんです。」
「棘、どすか ?」
「はい。お蝶さんに上げる前に儂がその棘を取ったんです。」
「ヤッパリ善次郎はんはお優しい人どすな。」
「まぁ、何て言うか綺麗なものには痛い物が付いている言うことです。」
「へ、へえ。えろうすんまへんな。」
と、更に更にお蝶はがっくりと項垂れる。
「儂は茨の刺は取れても、お蝶さんの刺を取る事は出来ません。セヤカラ友達として食事にでも行きませんか ?」
と、ニコリ善次郎が言った。その言葉にポロポロと涙を流しお蝶は善次郎を見やる。どうやら恋の花は完全に枯れてはいなかった様だ。
お蝶は満遍の笑みを浮かべ乍”へえ、喜んで”と答えた。