車ない
紅葉の時期から京の都は人、人、人の大賑わい。北は青森、南は長崎からと長い距離で何百キロという途方もない距離を3ヶ月から1年かけて京の都にやってくる。上を向いて進んで行けばとっくの昔に宇宙に出てるぐらいの長い距離。
上方から京までの道のりはおおよそ6ヶ月。暑い夏のセミの鳴き声を聞き乍ら寒い京の町を想像して旅立って行き、又ある者は寒い時期に寒い世界を想像して京に旅立って行く。
勿論その道中で、その季節の風物詩を楽しみ乍ら旅をしているわけだからさほどの問題はないのだろうが、其れでも京の町に着く頃には疲れ果てているという事になる。
其処でこの時期にもなると車屋と言う商売が大層人気のある仕事に取り上げられ、猫も杓子も車屋を始める事になる。
理由は簡単。
この時代、長旅、旅行なんて言えば聞こえは良いが、そんな事に現を抜かせるのは隠居した老夫婦に母娘と相場が決まっている。勿論旅行者の中には男連中も混じっていたりもするが、大抵の男連中は仕事を休めないと嫁と娘を送り出して家で留守番と言うのが世の習わし。
男は此処ぞとばかりに羽を伸ばし、嫁は亭主の浮気を気にかけながらも、旅先での情事を想像し乍ら誇顔。
大変なのは娘と残されたその彼氏。どちらも浮気をするのではないかと往復半年から2年の間ハラハラ、ハラハラと時間を過ごしていく。そんなに心配なら行かねば良いとも思うがそこは女の性と言うか行かなきゃ損ということで結局行ってしまう。
そんなこんなで長旅で疲れ果てた老夫婦に母娘。ここに働き盛りの男がいれば幾分旅も楽になるがそうそう上手くはいかないもので、結局疲れ果てた体で思う存分観光なんかできるもんかって所から、京の観光は車で回るのが一番と一気に広まった。
この車屋と言うのは平たく言えば人力車で、人が車を引いて京の観光名所を回っていくという何とも力自慢の男仕事。そんな中で、男に負けるかって気迫の娘の姿もちらほら見かけるが、勿論ここにお蝶の姿は見当たらない。目につくのはお蝶の悪友光八の姿。
世間の流れに乗って父の源蔵に車を買ってもらったがどうも上手くいかない。上手く行かない所か一日の売り上げが二文て時もある。
団子が一本二文だから団子と変わらない。此れでは何をしているのかサッパリと分からないが、其れでもどうにかしなければという危機感もなく、今日も当たりの客を引いたにもかかわらず儲けてやろうという気迫が全く見えないでいる。
この当たりと言うのは、観光に使ってくれる客の事で、名所から名所へと車で客を運び届けるだけでなく一緒に回り乍ら名所案内を請け負う仕事のことである。
この仕事が実に美味しい。
安く見積もっても五匁は下らないし、丸一日ともなれば20匁ぐらいの儲けになる。そんな美味しい仕事も光八に掛かればタダの五匁で終わってしまうし、下手をすれば貰わず仕舞いって事にも為りかねない。此れでは今度こそはと源蔵が金を叩いて買った車も宝の持ち腐れである。
「なんや珍しい。光八がこんなトコにおるで。」
そんな光八を揶揄するように田螺車屋の奉公桃香が声を掛けてきた。
貴船神社の石段下で呑気に煙草を吹かしながら光八は声のする方をプイッと向くと、なんや桃香か。と、言って又煙草をふかす。
「なんやてあんたこないな所で何してんの ?」
「何て…。客待っとるんや。」
「は ? 待っとるてあんた当たり引いたんかいな。」
「せや。」
と、煙草をプカリ、プカリ。
「せやて。呑気やな。」
「呑気て…。待っとけ言われたら待っとらな仕方ないやろ。」
「ふ〜ん。そんなんしてるさかいあんたは儲けられへんねん。」
「なにがやね。ほなどないせい言うねん。」
「どないもこないもあるかいな。その客はどうせ恋占いした後は床で酒飲むんやろな。」
と、桃香は貴船神社の道沿いに並ぶ料亭を見やる。
「おぉぉ、なんやそないな事言うてたな。」
「言うてたなて…。あんたなぁ、その間に何人の客を麓まで送れるおもてんねんな。」
「さぁ、二回は往復できるんちゃうか。」
「ほんま。他人事みたいに。」
と、言った所で石段を降りてきた参拝客が、車ええか。と声を掛けてきた。
「へえ。おおきに。」
と、元気良く応答したのは桃香である。桃香はそのまま客を車に案内すると、手際よく客を乗せて走り去って行った。光八はそれを見やり乍ら煙草をプカリ、プカリ。
車を求める客と目が合わぬようにプカリ、プカリ。
其れでも車宜しいか。と、声をかけてくる客には手をプラプラと振りながら、あかん、あかん。と、言って追い払う。こんなだから結局儲かるものも儲からない。
ちょいっと頑張って麓まで送るだけで五十文は頂ける。勿論麓にも車を探す客はいるので往復で100文。
これをもう一往復で二百文。
雪が降り積もる山の中で、一刻近く客を待つ事を考えれば動いている方が体も温まる。ましてやそれで金になるのならと車屋は休む暇なく車を走らせる。
どんなに頑張っても師走も二十日を過ぎれば世間は正月支度。そうなれば誰も働かぬと今の内に荒稼ぎ。
然れど、儲けられる車屋も光八にかかれば閑古鳥。
折角の当たりを引いても観光案内が出来ないとあっては途中で客もはいさいなら。結局貰える金は五匁の半分にも満たぬ二匁を貰えれば神様仏様。
と、その現場にガックリ来ているのは光八ではなく父の源蔵である。
父の源蔵は京都でも名の知れた万屋三刀屋の番頭を務めているので、金には困ってはいないが其れでも車は安い買い物ではない。
其れでも何をやっても続かない。後から来た若い者にドンドン抜かれて行っては仕事が嫌になって辞めてしまう。其れでも口だけは大層達者な内弁慶。
そんな光八でも今度こそはと言われればこれが仏心に親御心。信用するも、しないもしないわけにはいかず、二つ返事で車を買ってやった。
それで稼ぐ上がりが一日一匁にも満たない日が続けばガックリきても仕様がない。其れでも世間は景気が悪いのだと、無理やり自分に言い聞かせるが耳に入ってくるのは景気の良い話ばかり。
やれ、今日は四十匁稼いだだの、お礼金に一両頂いただのと、聞こえてくるだけで頭が痛くなってくる。
「そんな羽振りのええ客なんぞおらんやろ。」
と、言ってみるが、源蔵はんもっと世間を見なあきまへんで。と、言われて笑い者。そこで儂の倅は一日一匁も稼げへんでーー。何て口が裂けても言えない情けなさ。
そんなこんなで結局源蔵は光八の幼馴染であるお蝶に相談を持ち掛ける事にした。
「はぁ、せやけどおっちゃん…。それは無理やおまへんか。」
と、お蝶も困り顔でボソリ。
「なんや…。お蝶ちゃん素っ気ないな。」
と、お蝶の機嫌を取る為にと甘味亭田楽に連れてきたが余り意味がない。
「そないな事言うたかてなぁ。…せやし車買う前にわてが言いましたんや。車買う前に車屋に奉公させなあきまへんて。」
「せや。お蝶ちゃんの言う通りやったんや。せやけどあれがどうしても言うたら…。なぁ…。」
「なぁ、違います。身から出た錆どす。自分でなんとかしなはれ。」
「そない冷たい事言わんといてぇや。」
と、あったかい善哉餅をズズリ。
「せやけどなぁ。今やったら異人はんもお寺回りしてはるし、観光客もぎょうさん来てはるしなぁ。儲けられんはずない思いますよって。儲けられんのはあれがサボっとるだけどすやろ。やる気のない光八に頑張れ言うのは酷や思います。」
「そないアッサリ言いないな。」
「せやかてあれは口ばっかり達者で努力せえへんし、頑張らしませんし、やる気おませんし。楽して儲ける事ばっかりや。どうせ車屋やる言うたんも簡単に儲けられるおもてやっただけやさかいな。」
「いや…。まあなぁ。お蝶ちゃんの言う通りや。あれは、なぁ。」
「そうどすやろ。せやさかいあないにブクブク太るんと違いますか。働きもせえへんのに食う事だけは一人前やし、車屋、車屋言うてわての奉公先に一日二回もうどん食いにきますんやで。ほんでなんぼ儲けたんやて聞いたら、六十文も儲けた言うて威張って言いますねん。ほんま阿呆やおまへんか。六十文てうどんも食えやしまへんえ。それで百六十文のうどん頼みますねんで。ほんま驚ますわ。あれはどないええように言うても阿呆どす。あれは救いようおまへん。諦めて川にでも捨てたらどないどすか。」
と、言いたい事を言い終えると餅をパクリ。
善哉をズズ。
そして、満足な笑顔を浮かべてニコリ。
源蔵は自分の倅をけちょんけちょんに言われてブス。
分かってはいるが流石に腹が立ってくる。然れど何も言い返せない情けなさ。ガックリと頭を垂れるとチロリとお蝶を見やる。
「お蝶ちゃん其の善哉旨いやろ。」
「なんどすか。わてを善哉で釣るつもりどすか。」
と、お蝶がジロリ。
ガックリと項垂れた源蔵がグッタリ。
お蝶はそんな源蔵を見やり、ハァ…。とため息を吐くと矢張り少しでも力になってやった方が良いのかとも思う。
然れど、こればっかりはどうにもならぬ。世の車屋は客を持て成す為にあれやこれやと努力しているのが事実。
儲けただの礼金がどうのと言っても、実際はそれに至るまでには相当な努力をしているわけだ。自分で書物を読んで勉強する者もいれば、どの場所に連れて行けば喜ぶのかとか、どの場所で何を見せるのが一番いいのかとか、自分の足を使ったりと日夜研究をしているのだ。だから客が喜び礼金を弾む訳だが、光八にそんな志が有るはずもなく。
一刻も車を引くことなく、疲れたと言っては煙草を吹かし、腹が減ったと言っては飯を食う。結局車を引いているよりも休んでいる方が長いのだ。挙げ句の果てには、昼前に疲れたと言って家に帰って昼寝をしている。
全く、これで儲けられるのなら何の世話もない。
それに光八が車を引くようになってからは、頻繁にお蝶の奉公先である三条うどんに顔を出してはつまらぬ話を聞かされる。この時期は車屋だけでなく、甘味屋もうどん屋も土産物屋から何から何までもが忙しいのだ。
いくら店でうどんを食っているからといっても、仕事の手を止められてはたまったものではない。
正直迷惑なのだ。
だから、お蝶が乗り気でないのは光八のやる気のなさだけが原因ではないのだ。
光八の馬鹿さ加減にうんざりしているのが正直な所である。
其れでも…。
源蔵を見ていると少し哀れな気持ちになってくる。
それに光八が仕事を頑張るようになれば、無駄に光八の相手をせずに済むかもしれないと、ほんま、仕方おまへんなぁ。ほな、明日朝一番に行きますさかい。光八に車の用意するように言うといておくれやす。と、お蝶はもう一度吐息を吐く。
「え ! お蝶ちゃんほんまかいな。」
「へえ。行かして貰いますよって。ちゃんと光八に言うといておくれやす。」
まったく、飛んだ災難や…。
と、思いながらも仕方がない。源蔵の為と言うよりは、寧ろ自分の邪魔をされない為の防衛策と考えれば些かではあるが納得できないでもない。お蝶は源蔵と約束を交わすと、奉公に行く時間だと言ってスタスタと田楽屋を出て行った。
そして、アッという間に次の日が訪れる。
朝五ツ。
お蝶は約束通り光八の家に着いていた。
「光八、光八。」
と、軒先から大声で光八を呼ぶと、寝ぼけた顔の光八がヒョッコリと二階の窓から顔を覗かせる。
「おぅ…。おはようさん。」
「おはようさんちゃうがな。あんた今起きたやろ。」
「おぅぅ。すまんすまん。直ぐに行くわ。」
と、言って光八はパチリと窓を閉める。
全く…。と、思い乍お蝶は、カバンから焼き芋とあんころ餅を取り出しパクリと食べる。直ぐに出てくるだろうと雪がチラつく外で待っていたが、結局光八が出てきたのはお蝶が持ってきていた焼き芋とあんころ餅三つを食べ終わる頃だった。
カラリト玄関を開け光八が顔を出すと、あんた…、か弱い乙女をどんだけ待たすねん。と、ブルブル震え乍お蝶がジロリと睨む。
「どんなけて。中で待っとけや。」
と、サラリ…。普通の顔で光八が答える。
「直ぐに出てくる思たんやボケ。」
「ボケ言うな。ほんで何処行くねん。貴船か ?」
「はあ。誰がこない寒い中貴船なんか行くねん。阿呆ちゃうか。大体貴船なんか行って何すんねん。」
「何て…。参拝して床で一杯キュッてやつやろ。」
「せやから、誰が朝っぱらから一杯キュッてすんねん。其れにな、あんたみたいな体たらくな人間が貴船行っても何ぼの儲けにもならへんやろ。大体貴船で参拝する阿保な奴もおらん。あそこは恋占いしてキャアキャア言う所や。」
「あぁぁ、せやな。」
「せや。恋占いやったら其処の清明神社にでも連れてったらええねん。その方がよっぽど効率がええわ。」
と、言い乍らお蝶は番傘をヒラリと広げヒョイっと車に乗る。
「ふ〜ん。ほな何処行くねん。」
「ええか。あんたみたいな体たらくな人間はな。嵯峨道中記か東山道中記がええねん。」
「何やそれ ?」
と、言い乍ら光八はユックリと車を走らせ始める。
「まぁ、取り敢えず今日は清水寺から行ってみよか。」
「清水寺 !!」
と、驚いた様に光八が答える。
「何や。文句あるんかい。」
「いや、文句て…。それはあれか。東山道中記っちゅうやつか。」
「せや。」
「ふーん。ほな嵯峨道中記言うのは何なんや。」
「嵯峨道中記言うのは嵯峨天皇ゆかりの地を回る旅や。」
「何や。そっちの方がええやんけ。」
と、言い乍らオッチらヨッチら。
「ほな、あんたに聞くけど嵯峨天皇言うたらなんや。」
「何やて…。」
と、オッチらヨッチら。
オッチらヨッチらと車を走らせる。
「せや、写経と十三詣りが有名やな。」
光八の返答がないのでお蝶が答える。
「おぉぉぉ、せや。よう知っとるな。」
「偉そうに…。ほんまあんた分かってんのかいな。まぁ、光八は十三詣りの時に、渡月橋で振り向いて才能落としてしもたさかいしゃあないけど。」
「ようそないな事言うな。」
と、ヨッチらオッチら。
光八は車を走らせる。
「何にしてもやな。あんたに難しい話は酷やろ。そやさかい東山道中記が一番ええねん。」
「ええねんて。せやけど清水寺て…。お前あそこの坂知ってるか。そんなもん人乗せて登れへんで。」
「何言うてんねん。桃香でも客乗して登っとるがな。」
と、チラリと周りを見やり、光八を見やる。
オッチらヨッチら、オッチらヨッチらと光八が車を引いている。
お蝶は一度大きな欠伸をすると、所で、あんた何でこないな所におるん ?。と、一向に進まぬ景色を見やり乍ら言った。
「何でて…。清水寺行くんやったらこの道しかないやろ。」
「わてはそないな事言うてやしまへん。」
「ほな、何やねん。」
「何やねんて。何で未だにあんたん家の三軒隣におるんか言うてんねん。」
「いや、そんなもんやろ…。」
と、言った光八の横を車屋がスイスイ、スイスイと抜いていく。
「あんたな…。そないな事やさかい一匁も稼げへんねん。」
と、ガックリと項垂れるとブツブツ、ブツブツ…。
結局、名所説明よりもブツブツ、ブツブツと文句の方が多く口から出ていく。
デブだから行動が鈍いだの、
男のくせに情けないだの、
デブ、デブ、デブ…。と、悪態をつく。
それでも光八はヨッチらオッチら。
ヨッチらオッチら。
何を言おうと光八の速さは変わらない。
馬鹿にされてもコケにされても気にもとめずにヨッチらオッチら…。
で、文句も言い疲れたお蝶はウッツラ、ウッツラ。気がつけば深い眠りに落ちている。
雪がチラつく中でコックリ、コックリ。
コックリ、コックリ。
やがて熱い視線を感じて目が覚める。
ハッと慌てて周りを見やると、道行く人の視線がジロジロ、ジロジロと自分を見やっている。
何や、何やとキョロキョロと周りをさらに見やると、気の所為か景色が止まっているではないか。
そして、時折クスクスと笑い声まで聞こえてくる。
何や、何や…。
どないなってるんや。と、お蝶は、光八…。と言いかけて言葉を飲み込む。
いるはずの場所に光八がいない。”光八…。おらん ? 何でやねん。”と、その先を見やりお蝶は顔を真っ赤に染め上げた。
あまりの衝撃にお蝶は言葉にならない声が喉から、ゲッ、ゲッ…。
慌てて車から飛び降りると、道のど真ん中で寝ている光八の頭を力一杯叩いた。
「こら ! あんたこないな所で何しとんねん !」
と、更にパチリ、パチリと頭を叩く。で、漸く目を覚ました光八はムクリと体を起こし、おぅ、起きたんけ。とボソリ。
「起きたんけちゃうわ。あんた道の真ん中で何寝てんの。」
「何寝てんのて。お前が寝てるさかい儂も少し寝よおもてやな。」
と、光八の返答にお蝶は意味が分からない。
はぁ ?
と、目を丸く見開き周りを見やる。クスクス、クスクスと笑い声が耳を指す。
「わ、わてが寝てようが何してようが、清水寺に行くんがあんたの仕事やろな。」
「いや、お前は、そう言うけどやな。結構しんどいねん。」
と、ノッソリと立ち上がると光八は大きな伸びをした。
はぁぁ…。もぅ、ほんまに最悪やわ。と、お蝶は袖から懐中時計を取り出し時刻を見やる。
お蝶の予定では十時には清水寺に到着し、高台寺を回ってお昼には南禅寺の湯豆腐屋に行くはずが、既に時刻は十二時を回っている。
「予定めちゃくちゃやわ。」
と、言うお蝶に、何や寝たら腹減ったな。と、光八。
ほんま腹つわ…。と、思いながらも気を取り直して車に乗ると、清水寺はもうええわ。取り敢えず南禅寺に行こか。と、言うお蝶に光八は、先に飯食おうや。と、駄々をこねる。
ほんま、何でやねん。と、思うがここはお蝶ペシリと光八の頭を叩き、わては南禅寺の湯豆腐が食べたいねん。と、一蹴。
「南禅寺て…。お前、ここ東山五条やで…。」
「それがどないやねん。あんな、わては朝五ツにあんたを迎えに行きましたんやで。それが何で清水寺行くまでに昼九ツ過ぎてますのんや。ほんまやったら高台寺はん回って南禅寺はんによってから湯豆腐を食べに行く予定どしたんやで。」
「そんなん言うても、昼九ツ何やさかいしゃあないがな。」
「しゃあないちゃうわ。あんたが寝てるさかい悪いんやろな。ええから、さっさと行きなはれ。」
「行きなはれて…。南禅寺の湯豆腐屋て高いやんけ。」
と、ブツブツ、ブツブツ言い乍ら光八は車を走らせる。
「高かろうが安かろうがあんたには関係あらへん。」
「あらへんて…。ほな儂は何食べんねん ?」
「ほんまに、あんたは…。食うか寝るかしかないんかい。ええか…。車屋はん言うたら、ただ飯食えるんが醍醐味やろな。」
「ただ飯 !」
と、光八声を荒げてお蝶を見やる。
「せや。観光のお客はん連れてったら、お礼に言うてただで馳走してくれはるんや。」
「ほんまかいな。」
「せやがな。せやけどただ連れて行っただけやったらあかんで。馳走してくれる店と、してくれへん店があるさかいな。」
「何やそれ…。そないなもんどの店がそうかわからんやんけ。」
「せやさかい、其処が腕の見せ所なんやろ。ええか、阿呆なあんたでも分かるように説明するさかいよう聞きや。まずな、店の前に着いたらすぐにお客はんを案内するんやのうて、まずあんたが店に入るんや。
ほんでな。お客はんが湯豆腐を食べたい言うてはるさかいに連れてきました言うねん。そこで中居はんが、車屋はん寒い中おおきに、良かったら車屋はんも中でどないどすか。って言われたらその店に客を案内するんや。」
「ほう。ほんで ?」
「そんなけや。分かりやすいやろ。」
「おぅ…。まあな。ほんでどうぞって言われんかったらどないすんねん。」
「次の店で同じこと言うねんや。」
「おおお。成る程な。」
「せや、ちょっとはやる気出たか。」
「おぅ、出た出た。ほなちょっと頑張って南禅寺行こか。」
と、食う事に目がない光八、ここぞとばかりに車を引いて走り出した。
と、言ってもやはり遅い事に変わりはない。何とかかんとか着いたには着いたが時刻は昼八ツ半。もぅ、腹が減りすぎて何がなんだか分からない。
それでも光八、汗をブンブンかき乍ら、ただ飯が食えると喜んで南禅寺の参道に立ち並ぶ湯豆腐屋清光庵に入っていった。
「すんまへん ! すんまへん !」
玄関をカラリト開けるなり光八は大声で中居を呼ぶ。すると、奥からパタパタと中居が程なくしてやって来た。
「あ、えろうすんまへん。」
「へえ、車屋はん。いつもお世話になっとります。」
「へえ、いや、こちらこそ。あ、ほんで、すんまへん。湯豆腐食べたいお客はんがおりまして。」
「へえ、そらおおきに。」
と、中居がニコリ。
…。
…。
と、光八。車屋はんも寒い中おおきに〜。の台詞を待つが、中居はニコリと笑みを浮かべるだけで台詞は出てきそうにない。
「へえ、ほんで儂も寒い中ここまで来ましたんや。」
と、取り敢えず自分から言ってみる。
「へえ、車屋はん。寒い中ご苦労はんどしたな。」
「へえ、儂も頑張って寒い中来よりましたんや。」
「へえ、よう分かります。せやけど店の営業は暮六ツからなんどす。」
「は ?」
「せやさかい暮六ツからどす。」
と、中居が更にニコリ。
光八はブス。
何や、せっかく来てやったのにどう言うこっちゃ。と、悪態が口から出かけたが、ここはお蝶に言われた通りあかんかったら次の店…。と、光八、そうどすか、えろうすんまへん。と、言ってそそくさと店を出て行った。
店を出ると急いで車を引いて隣の店に。で、次も同じようにお蝶を置いて店に入っていく。その間お蝶は雪が降る真冬の外に置いてけぼり。
”ああ寒…。いらん事言わんかったら良かった”と、後悔先に立たず。仕方なく光八の報告をちょこんと車に乗ったまま待っている。
で、光八先ほどと同じように玄関を開けると大声で中居を呼んだ。
「すんまへん。すんまへん。」
「へえ、へえ…。おおきに。」
と、同じように中居が玄関にやってくる。
「えろうすんまへん。お客はん連れて来よりましたんやけど。」
「へえ、車屋はん。いつもおおきに。どうぞ、お客はん連れてきておくれやす。」
と、今度もお蝶が言ったような言葉は出て来ない。光八は首を傾げ中居を見やる。そんな光八を見やり中居も首を傾げる。
「あの…。車屋はんどないしはりました ?」
「え、いや、外は寒おますな、思いまして。」
「そうどすな。雪もチラついてますさかい。相当な寒さや思います。」
「へえ、そらもう凍えるか思いよりました。儂もこの寒さの中お客はん連れて来よりましたさかい。もぅ、寒うて寒うて。」
「へえ、存じております。せやさかい、早うお客さん連れてきておくれやす。」
「それはそうなんどすけどな。儂も寒うて寒うて。凍えそうなんどすわ。」
と、中々次の行動に移らない光八に中居はイラっとした表情で光八を見やる。
「へえ、せやさかい早うお客さん中に案内せんとお客はんが凍えてしまいますよって。」
「へえ、せやけど儂も寒うて寒うて…。」
と、光八も上手く言葉に言い表せず何度も同じ事を繰り返す。
「あの、車屋はん。寒いのはよう分かりましたさかい。早よお客はん案内して、車屋はんも暖を取らはった方が宜しいんやおまへんか ?」
「暖どすか。」
と、漸くその先の道が見えたのか光八は目を輝かせて中居を見やる。
「へえ、車屋はんのお部屋も用意してありますさかい。早よお客はん連れてーー。」
と、中居が言い終える前に、そう言う事やったら。と、光八は喜んでお蝶を呼び行った。
はぁ…。と、中居が訳わからぬまま首を傾げている間に、光八は万遍の笑みを浮かべてお蝶を客だと言って連れてくる。
訳はわからぬが連れてきた相手が呉服問屋石見屋の娘…。否、息子であれば常得意である。中居はニコリと笑みを浮かべお蝶を奥の部屋に案内しに行った。
で、光八そのまま玄関でポツリ。
勿論、車夫と客が同じ部屋に通されるはずはないのだが、其処は光八。てっきりお蝶と同じ部屋に通され和気藹々で食事ができると思っていた。
勝手に調子が狂った光八はブスっと不貞腐れて玄関で煙草をプカリ。
そこに戻ってきた中居がビックリ仰天。
「車屋はん ! 何してはるんどすか。」
と、慌てて煙草を取り上げる。
「な、何てーー。」
と、光八。
「車屋はんおいたは困ります。火事になるやおまへんか。煙草は部屋で吸うておくれやす。」
と、ブツブツ言い乍ら光八を部屋に案内すると、其処に先に来ていた車夫が二人、火鉢の前で暖を取っている。
それを見やり光八は”こいつらも湯豆腐目当てで此処に来よったんやな”と、ニンマリ笑みを浮かべ乍ら、お疲れはんどす。と、如何にも遣り手であるように振る舞ってみせる。
「へえ、お疲れはんどす。」
と、言って車夫の一人がジッと光八を見やり、ひょっとして光八はんどすか。と、聞いてきた。
「へえ、そうどすけど。どこぞでお会いしましたかいな。」
と、光八ジッと車夫を見やる。
「いやいや、何言うておますんや。車夫の光八言うたら有名どすがな。」
「え…。儂が有名どすか。」
「へえ、そらもう。車夫仲間では有名どす。」
と、言うともう一人の車夫が、あぁぁ、あの有名な光八はんどすか。と、これ又驚いたように口を挟む。
「え、いや…。まぁ。儂もそんな有名になっておますか。」
さて…。如何な理由で自分が有名なのかはさっぱり見当もつかぬが、褒められて悪い気はしない。光八は埃顔で目を輝かせキリッと二人の車夫をみやる。
「へえ、車夫の光八言うたら娘の間でも名が通っておます。」
「せやせや…。儂らも肖りたいていつも思てましたんや。」
「ほぉ。そうどすか。何や、儂も知らんうちに有名になったもんどすな。」
「へえ、名が通る言うのはそう言うもんどす。」
「いやぁ、通りで最近娘の視線が気になってしゃあない思てましたんや。」
何て話をしている間に障子がスーッと開くと、光八待ってましたの如く中居をジロリと見やる。
「斉藤はんがおかえりどす。」
で、中居が言うと。へえ、おおきにすんません。と、言って車夫の一人が席を外す。光八は何や違うんかい…。と、ガックリ頭を垂れるが、いかせん湯豆腐だけに時間が掛かるのだろうと。気を取り直して煙草をプカリ。
「そう言うたら光八はんは自分の車をお持ちやとか。」
と、残った車夫が話しかけてくる。
「へえ、そうどす。」
「はぁぁ、その若さで自分の車を持ってるとか凄いどすな。儂なんか未だーー。」
と、言った所で再び障子がスー。
光八はやっと来たかと中居を見やるが、何かを持って来た様にはとてもじゃないが思えない。すると、松本はんがおかえりどす。と、中居。
「へえ、おおきにすんまへん。ほな、光八はん。道で会うたらよろしゅう頼んます。」
と、残りの車夫も出て行った。
そして光八、煙草を吹かしながら首を傾げてみせるが、勿論誰も見ていない。はぁ、えらい遅いな。と、煙草を吹かして腹の減りを誤魔化せど飯は疎か茶も出て来ない。
たまりかねた光八、障子を開けて中居を探して大声で呼ぶと、何事かと中居が慌てて光八の所にやって来る。
「車屋はん。どないしはりました。」
中居は目をまあるく見開いて光八を見やる。
「いや、どないもこないも。儂も腹空かせとるんですわ。」
と、溜まり堪らず本音がポロリ。すると中居が、あぁぁ、そらえろうすんまへん。わても気がつきまへんどした。ほな、車屋はんこちらにどうぞ。と、言って光八を別の場所に連れて行く。
「へえ、何や我儘言うたみたいですんまへんな。」
と、中居の後をテクテク進む。
「いえ、わての方こそ気つきまへんで、えろうすんまへんどした。」
「いや、儂も分かってもらえたらそれでええんどす。何や言うても儂も今や有名人どすさかいにな。」
「有名人どすか ?」
「へえ、車夫仲間の間ではちょっと名の知れた存在なんどすわ。」
「へえ、そうどすか。有名人とか聞いたら名前を聞きとうなりますな。車屋はん宜しかったら名前聞かせてくれはりますか ?」
「へえ、名乗る程の者やおまへんけど、舒洲光八いいます。」
「舒洲光八 ? 光八てあの光八はんどすか。」
「へえ、儂が其の光八どす。」
「はぁぁぁぁぁ…。おたくはんがあの光八はんどすか。」
「へえ、中居はんも儂の噂は聞いたはりますんやな。」
「へえ、光八はん言うたら、仕事もでけへん、家の金を食い潰すだけの穀潰しや言うて…。そらもう有名どす。」
そう言うと中居がニコリ。
ニコリの意味は解らぬが、名乗る程の者でなかった事は重々に理解できた。
何やそれ…。
何やそれ…。
と、見ず知らずの中居に車夫に馬鹿にされ、知らずとはいえ優越感に浸って踏ん反り返っていた自分が惨めで泣きそうになる。
「ほな、光八はんゆっくり温かい物でも食べてきておくれやす。」
と、止めに中居は玄関まで光八を連れてくるとそっと手を外に向けた。
「は ?」
と、光八中居を見やる。
「光八はん堪忍しておくれやす。わても良かれと思てしましたんやけどな。車屋はんもお腹は空きますわな。無理に引き止めてすんまへんどした。」
と、中居。
「…。へ、へえ。おおきにすんまへん。」
と、馬鹿にされて有頂天。挙げ句の果てに飯にもありつけず。光八はそれ以上の言葉を見出せず、ガックリと頭を垂れてトボトボと出て行った。
それから暫し、
ホッコリ体が温まったお蝶がご機嫌で店から出てくると、車の前でしゃがみ込んでいる光八がいる。
もっこりと雪を積もらせた光八を見るや、お蝶は慌てて光八の所に駆け寄った。
「光八 ! 光八 !」
急いで雪を振り払うと光八の顔をペチペチと叩く。
「痛い…。痛い…。」
「何やあんたびっくりするがな。」
「おぅ…。」
「おぅ…。って元気ないな。湯豆腐食べたんやろな。」
「食べてへん。」
「食べてへん ? 何やちゃう物が出てきたんか ?」
「茶も出て来ひんかった。」
「茶もて…。あんたちゃんと聞いたんやろな。」
「聞いた。」
「ほな、なんで出て来ひんかったんや。」
「知らんがな。」
「知らんがなて…。あんたが聞いたんやろな。ちゃんと車屋はんも食べて行っておくれやすって言われたんやろ。」
「部屋があるさかい暖をとってって。」
「部屋があって暖をとっておくれやす言われたんか。」
「そうや…。」
「ほんで暖はとれたんかいな。」
「とれた…。」
「とれたんやったら何でこないな所で雪に埋もれてるんや。」
「腹が減ったさかい蕎麦食いに行ったんや。」
と、光八がお蝶を睨む。
「さよか。ほんで何でわてを睨むんや。」
「お前が嘘つくからや。何が湯豆腐や。茶も出て来ひんかったやんけ。儂…、儂めっちゃ楽しみにしとったのに…。」
そう言って光八がポロリ、ポロリと涙を流す。
「何や。男のくせに気持ちの悪い。其れにわては嘘言うてへんがな。あんたが勝手に暖をとっておくれやす。言う店選んだだけやろ。何も出て来ひんか、暖はとらせてくれるんか、馳走してくれるんかを見極めるんがあんたの腕と器量や。ほんま人の所為にすなブタ。」
そう言うとお蝶は、サッサと車に乗り込み、グズグズしてんと南禅寺行くで。と雪を丸めて投げつけた。
「お前…。慰めたろ言う気ないか。」
「あるかい。気持ち悪い。ええから早よ行くで。」
「お前はほんま人の気持ちの分からん奴や。」
と、光八はヨッチらオッチら車を引き始める。
「体たらくなあんたの気持ちなんか考える気にもなりまへん。」
「何が体たらくや…。儂かて、儂かてな…。」
と、ヨッチらオッチら。
「儂かて何や」
「儂かて好きでこんなんなったんちゃうねん。」
と、光八の返答にお蝶は後ろでゲラゲラ笑い声をあげて笑い出す。
「何やねん。お前まで人を馬鹿にして。」
「馬鹿にしてて、馬鹿やろな。何が好きでなったんちゃうわや。一日働いて六日休んでるような人間が何言うてんねん。やっと仕事始めた思ても、頑張らへんし、努力せえへんし。疲れた言うて道端で寝てるし、そのくせ食う事だけは一人前や。これが好きでなったん違ごたら何やねん。やる気ないあんたにこんな事言うても豚に耳くそや思うけどな。そんなんやから二束三文の娘にも相手にされへんねん。」
と、ガスガス光八の頭を蹴ってみる。
で、光八更に涙を流してお蝶を見やると、先程の嫌味な言葉が脳裏にポット蘇る。
グルグル、グルグルと嫌味な中居の言葉とお蝶の言葉がグルグル。
グルグル、グルグルと頭の中を駆け回る。
光八更に涙を流して今度は声を出して泣き始めた。
「何やねん。ほんま鬱陶しい。」
「鬱陶しい言うな…。儂かて、儂かて皆なと同じように稼ぎたいわ。」
「そう思うんやったら努力したら宜しいがな。」
「努力しても稼げへんのや。」
「あのなぁ…。あんたの物差しで物言いな。普通の人が努力してる努力せな稼げへんわな。大体あんたいつ努力したんや ? 家で昼寝するんがあんたの努力かいな。」
「五月蝿いわ。努力、努力て…。お前はお父か !。」
「はぁ…。」
と、もう訳がわからない。
訳が分からないからついつい笑ってしまう。
ケラケラ、ケラケラとお蝶が笑う。
「笑うな !」
と、光八。
然れど笑うなと言ってもおかしいものは仕様がない。
お蝶は暫し高笑い。
光八ブスッと拗ねて余計に泣き散らす。
「あああ、もぅ。分かったから。取り敢えず南山寺行ってやな。永観堂行って銀閣寺まで行ったらわてが鶏鍋おごったるさかい頑張りいな。」
と、お蝶が言うと光八ピタリと泣き止んで、ほんまか。とお蝶を見やる。
「ほんまや。せからお気張り。」
「ほんまにほんまやな。」
と、光八。降りしきる雪を見やり、グツグツと湯気が上がる鶏鍋を想像する。
「へえ、へえ、ほんまどす。車代も貰てご飯も食べれて宜おますな。」
そう言うとパチリと片目を閉じた。
「ふ〜ん。ほんで鶏鍋て何処の鶏鍋や。」
「銀閣寺の鶏鍋言うたら決まってるやろな。」
「銀杏亭か !」
「せや。銀杏亭の鶏鍋をわてがおごったるんやで。せやから泣いてんとさっさと行くで。」
と、お蝶の計らいで湯豆腐は食なんだが、鶏鍋は食えると光八喜んで雪が降り積もる中、南禅寺に向かって車を走らせる。
と、言っても湯豆腐屋から南禅寺までの距離は目と鼻の先。それでも体たらくの光八には大仕事。
南禅寺に着くと、早速お蝶を下ろして観光説明あれやこれ。勿論観光説明はお蝶が光八にあれやこれ。
お蝶の口から白い息がフワフワと出てくる冬の空。白い息から連想するは鍋の湯気。二人は雪が降り積もるお寺の中であれやこれ。
あれやこれと…。車夫と中居に馬鹿にされた事もあり、光八必死にお蝶の説明を聞いている。お蝶も初めてみる光八の真面目な態度に気を良くしたのか、悪態つかず優しく…。
優しくあれやこれ。
そして、気がつけば永観堂からあっという間に銀閣寺。そして日もどっぷり沈んだ宵五ツ(しちじはん)。
お蝶と光八は銀杏亭で大豪遊。
「光八、今日は良う頑張ったやん。お疲れさん。」
「おぅ、お前こそ色々とおおきにな。」
と、言って二人はお猪口をコツン。
グツグツ煮えたぎる鍋を見やり光八ヨダレをたらり。
気張った汗がキラリと光って希望がピカリ。
鍋が出来たと二人は鍋をつつき始めて兎に角食べる。
食えや、飲めやとほっこり体も温まった所で光八を見やると流石に驚かされる。
お蝶が少食な所為か光八が異様に大食いに見えてしまう。
「ほんま、よう食うな。」
と、光八の食いっぷりに感心しながらお蝶が言う。
「おぅ、おぅ…。美味いからな。」
「せやろ。気張った後のご飯は特別美味しいやろ。」
「おぅ、おぅ。」
と、光八。飯を食いながら首を縦にフリフリ。
酒をクイ。
そんな光八を見やり、なぁ、光八…。あんたも頑張ったら出来るんやさかい。もう少し頑張ってみ。そう言って酒をトクトクと光八のお猪口に注いでやる。
光八はそれをクイッと飲み干すと、そやな…、今日ので少し自信ついたし、明日から頑張ってみるわ。と言ってジロリとお蝶を見やる。
「どないしたん。」
「お前が女やったら儂…。儂は命に代えても大切にすんのに。」
「いや、それはわてが嫌や。」
と、お蝶はあからさまに嫌な顔。
「嫌言うなや。」
「はあ、嫌なもんはいやや。大体わてはデブ嫌いやねん。」
「何や、朝から人の事、デブデブて。大体誰がデブや !」
「あんた以外誰がおんねん。」
「阿呆。儂はデブちゃうわ !」
「何がデブちゃうわや。思いっきりデブやないか。ほんま何言うてんねん。ビックリするわ。」
何て事を言い乍ら、夜もたけなわ。余り遅くならないうちにと二人は家路に着く事にした。
で、その日以降お蝶の思惑通り、光八が三条うどんに顔を出す事はなくなったのだが、そうなると嬉しい様で何か物足りないと思うのが心情と言うもの。其れでも頑張っているのだと思うと心なし嬉しくもある。
そんなこんなで六日が経とうとした頃、ヒョッコリと源蔵が三条うどんに顔を出した。
「あ、おっちゃんやん。おいでやす。」
「お蝶ちゃん久し振どすな。」
と、何やら浮かない顔。
「そうどすな。所で光八は気張っとりますのんか。」
「それなんや。」
「ん…。」
と、嫌な気配を感じたお蝶はソロリと源蔵から遠ざかる。其れを源蔵、お蝶の袖を掴んで、お蝶ちゃん、儂困っとるんや。と、ゲッソリ。
「な、何かおましたんか。」
と、お蝶、恐る恐る聞いてみる。
「それがやな。あの動く箱をな。」
「動く箱 ? どすか。」
「せや。あの異人はんが乗ってる動く箱どすわ。」
「あぁぁぁ、あれの事どすな。」
と、程よく三条うどんの前に止まった動く箱を見やる。
「せや、あれや。光八今度はあれを買え言いまんねん。」
「はぁ…。あの西洋の車をどすか。」
「そうなんどすわ。何でも車屋があの西洋の車を取り入れたらしいて。客を全部持って行かれる言いましてな。五日も前から家で不貞寝どすわ。」
「んな阿呆な。取り入れた言うても何ぼもおまへんやろ。」
と、返答しながら五日前 ? と、逆算して考えると、あれから一日しか働いていないことになる。
お蝶は、えっと思い乍ら源蔵を見やると、ほな、結局あれが働いたんは一日だけどすか ? と、怪訝な表情を浮かべ乍ら聞いてみた。すると源蔵、一日 ? 何言うてますんや。一日も何も、その西洋の車がどうたら言うて半日で帰って来よりましたんや。と、困り顔。
「半日て…。あれ明日から頑張る言うてましたで。」
「へえ、そうどす。あれも、帰って来た時は、お蝶ちゃんのお陰で自信ついた言うて、明日から頑張る言うてましたんや。」
「はぁ…。ほんで半日でただいまどすか。」
「そうどすわ。もぅ、儂ガックリで、ガックリで。」
「そら、わてもガックリどす。」
「ほんで、車、車言うて…。ほんま、儂困っとるんですわ。」
と、憔悴した源蔵に、もぅ、ほっときなはれ。と、溜息一つ。微かな期待を持った自分が情けないやら、阿呆らしいやらで、お蝶はガックリと頭を垂れる。
結局の所光八が気張って仕事をしたのは、馬鹿にされたくないとか、稼ぎたいとかそう言った類の事ではなく。
ただ単に…。
鶏鍋が食べたかっただけなのだ。
「お蝶ちゃん…。あれ何とかならんやろかなぁ。毎日仕事もせんと、車ない、車ない言うて。」
「ほな、西洋の車買うてやったら宜しいがな。」
と、もぅ、真面に答える気にも、考える気にもなりはしない。お蝶はプイッとそっぽを向いたまま答えると、そないな金流石におまへんがな。あったらカッコの悪い、お蝶ちゃんに相談なんかしまへんやろ。と源蔵。
「へえ…。そう言われましてもなぁ。」
と、矢張りお蝶はそっぽを向いている。
「お蝶ちゃんの気持ちも分かりますけどな。そう膨れんと…。なぁ…。せめて車ない、車ない言うて駄々こねるんを辞めさすだけでもええんや。」
「はぁ…。せやけどなぁ。」
と、表に止まっている車をチラリ。
そして源蔵に視線を戻すと…。
「こればっかりは、車ない。」
と、お蝶…。ボソリと言ってそそくさと厨房の中に逃げていった。