八幕 鉄仮面がありがとうを口にした?
つぐみさんと約束した、駅の近くにある何の変哲も無いファミレス。
約束した3時よりも30分も前にそこに着いたが、つぐみさんの姿は無かった。
これからまた彼女と同じ時を過ごせると思うと、それだけで心が踊りだす。
昨日は俺も緊張していてなかなか思うように話せなかったが、今日こそ彼女から色んなことを聞き、今日こそあの無表情な感じの顔を笑顔へと変化させてやろうと思う。
そう意気込みつつ、俺は半分にやけ顔で彼女の到着を待っていた。
今日は7月の8日で、俺の留年がかかった追試があるのが13日。
その13日までの間、俺はつぐみさんと一緒に数学の追試試験に向けての勉強を2時間だけ毎日することになっている。
未だ謎の多いつぐみさんは自分で『学ぶことが好き』と言っていた。
正直学力の程はどれだけか全く分からないし、もしかしたらこの一流進学校の数学に着いていくだけの学力がつぐみさんには備わっていないのかもしれない。
実はつぐみさんはまだ中学生ってことだって十分に考えられるし。
容姿や雰囲気から察するに、俺と同い年くらいかそれとも年上かというくらいなのだが。
いや、年下という可能性もなくはない。
かなり落ち着いた感じの雰囲気や、スラリと伸びた背丈(身長にして165センチ程度?)や落ち着き過ぎている雰囲気から年上を想像させられるのだが、顔のつくりがまだ結構幼い感じでもある。
結局彼女の年齢は一切分からないということだ。
でも彼女の学力がどうとか、そんなことどうだって良かった。
俺は彼女と一緒に時間を共有したいだけなのだから、勉強を教えてもらうなんていうのはこじつけでしかない。
まぁ、学力に関しては彼女がうんと頷いてくれたんだから、きっと大丈夫なんじゃないかなとは思ってはいるが。
逆に高校数学が全く分からなくて困っているつぐみさんなんていうのも面白いかもしれない。
とにかくこれから共有するたった2時間だけのつぐみさんとの時間は、俺にとって夢のような時間なのだ。
断腸の思いで包帯を外し、風呂にも入った。
着ている服だってここ一番のお気に入りの勝負服。
香水は嫌味にならないようにつけなかった。
学校にも怪我がひどくていけないと、ちゃんと欠席の連絡を入れた。
バイト先にも欠席の連絡を入れておいた。
つぐみさんとのスタディータイムは3時から5時で、バイトは5時からなので30分遅刻とかだったら行けるのだが、つぐみさんとのスタディータイムに延長戦があるかもしれないし、勉強中にバイトの時間のことを気にしたくない。
だからズル休みになってしまうかもしれないが、欠席理由は怪我ということにして欠席した。
まぁ、実際怪我人が調理場で働いてさらに怪我を負ってもマズイしな。
と、無理矢理自分を正当化しておく。
さぁ、これで俺を阻むものは何もない!
来たれ! 白いコートの不思議な少女よ!
「あ、つぐみさん。オーイ!」
約束した午後3時キッカリに、昨日と全く同じ白い長袖のコートを羽織って彼女はやってきた。
何故この暑い季節に白いコートなのか未だに彼女は答えてくれないが、理由はなんとなくだが分かる。
きっと彼女の持っている『剣』を隠したいからなのだろう。
昨日店から出るときに彼女は持っていた剣を白いコートの中(きっと背中にしょってる)にしまった。
あの剣を隠すにはシャツ一枚では不可能だから、ああやってもう一枚コートを着ているのだろう。
それでも長袖である意味がよく分からないが。
とにかく俺は白いコートと並んでファミレスの中に入り、係りの人間に案内された所に座った。
「只今留年の危機に瀕している北見恭介です。よろしくお願いします」
「…………」
椅子に座るなり、そう言って彼女に対して一礼。
意味は全くないのだが、彼女の反応がみたかった。
しかし彼女はいつも通り素の表情で一礼返すだけで、特別なリアクションは一切とってくれない。
仕方ないのでおろしたカバンの中から勉強道具一式を取り出して準備をする。
「あの、高校3年の受験数学に近いものなんだけど、つぐみさん分かるかな……?」
「……分かりません」
「………………」
「………………」
「おいおい、なんでやねーん」
「………………」
ダメだ。
おとなしく勉強を始めよう。
仕方ないのでノートと教科書を広げ、おとなしく勉強を始めることにする。
昨日つぐみさんとの勉強を脳内でシュミレーションをしていたのだが、何を質問すればいいのか分からないと困ると思ったので、少しだけ自分で勉強をして分からないところをまとめておいた。
さっそくその部分をつぐみさんに聞いてみる訳だが、つぐみさんは一瞬にして問題を解決してしっかりと俺に解説してくれた。
「ここの放物線の描く最大値はtになります。ですので……」
「ふむふむ……」
いつもと全く変わりの無いつぐみさん。
何一つ表情を変えること無く淡々と俺に問題を解説してくれた。
何も心配することはなかった。
つぐみさんが言っていた『学ぶことが好き』というのはどうやら本当のことらしく、俺が全く手に追えなかった数学の問題をいともたやすく解説してくれる。
確かに俺のやっている問題は基本問題ではあるが、それでも高校3年生で習う数学の問題。
中学を卒業してすぐに職に付く人もいるというこの世の中、ここまで数学に精通している人は少ない。
少なくともこのつぐみさんは高校3年生以上の学力は持っているということになる。
「ですので傾きが0以下の場合は最小値ではなく、最大値が……」
「あの、つぐみさんって大学生なんスか……?」
熱心につぐみさんが説明してくれている中悪いと思いつつも、そう聞いてみた。
「……いえ」
「……そうすか……はは」
最初は無視されるかと思ったが、一瞬だけ解説している口を止め、NOと答えてくれた。
だったらアンタ一体何年生なのさという質問が瞬時に思い浮かんだが、つぐみさんがすぐに問題の解説を続けてしまったので、とりあえずその疑問は飲み込んでおいた。
あまりに謎が多いつぐみさん。
年齢職業住所どころか、苗字さえも不明。
それでも教養はあるし、悪い人には全く見えない。
昨日彰二は気をつけろなんて言ってたが、そんなことしたら失礼な気すらする。
俺は、淡々と解説してくれているつぐみさんをよそに、なんとなくつぐみさんのその表情を見ていた。
まるで人形のように綺麗で、表情を変えないつぐみさん。
基本的に教科書やノートにさらさら字を書いていくだけなのだが、時折俺の方を見て確認をとってくれる。
俺はついつぐみさんの顔ばかり注ずっと見ていたので、そのつぐみさんの仕草にはドキッとさせられた。
声も透き通るように綺麗だし、手は白くて細いし、本当に人間かと思えるくらいつぐみさんは全てが揃っている。
俺が見とれてしまうのも無理はないと思う。
俺の思っていたような会話の展開にはならなかったが、つぐみさんの優しい声がたくさん聞けるだけで満足だった。
夢のような時間は本当にあっという間に過ぎ、時間は5時になってしまう。
俺は勉強に集中して時間なんか全く気にしていなかったが、彼女がふと声を掛けた時には既に時計は5時を指していた。
「あの……すみません。私はこれで……」
「あの、つぐみさんちょっと待って」
別に何かある訳ではなかったが、素っ気無く立ち上がるつぐみさんをなんとなく引き止めてしまう。
この2時間、本当につぐみさんは数学の解説以外のことを話さなかった。
俺が問題を解いている間は、まるで何か嫌なことがあったかのように無言を貫き通している。
少しはつぐみさんと楽しい話ができるかと期待したが、その期待は見事に空振りだ。
こんなに完璧に問題を解説してくれて、お陰で俺も少しは理解を深めたのに妙にガッカリしているのは、きっともう少し何か進展があってもいいと期待した俺がいたからなのであろう。
「…………」
「あの、つぐみさん、この後何かあるの? もしよかったらもっと勉強教えて欲しいんだけど……」
俺がそういういうとつぐみさんは考える間をほんの少しだけ置き、
「すみません。そう決めていますので。明日また、3時にここに来ます」
とだけ言って、本当に素っ気無い感じで俺の前からいなくなってしまった。
ファミレスに一人取り残された俺は何も注文しないで出て行くのもまずいと思い、とりあえず適当な飲み物を頼む。
この2時間は何やっていたんだと店員さんにあからさまに嫌な顔をされた。
俺もつぐみさんと満足に話すことが出来なかったので、本当に何やってたんだって感じだ。
「…………」
ノートに残ったつぐみさんの筆圧の薄い文字を眺める。
つぐみさんらしからぬ、あまり綺麗な文字とは言えない文字だが、確かにこれはつぐみさんが書いた文字なのだ。
(一体何者なんだろう……。つぐみさん)
現段階では分からないことが本当に多すぎる。
つぐみさんは色んな意味で今時の人間とはかけはなれた存在だ。
でも礼儀は正しいし遠慮深いし、絶対に悪い人ではないと思う。
俺はもっと彼女のことが知りたいと思った。
かたくなな彼女の心を開かせてやりたいと思った。
(………………)
今の状態では彼女が身の上のことを話してくれるようなことはなさそうだ。
でも、彼女から信頼を得ることができればそれも少し変わってくるかもしれない。
その為に俺は数学を勉強しようと思った。
数学をしっかり勉強して、追試でバッチリ合格できればきっとつぐみさんも喜んでくれるに違いない。
そうやって少しずつ信頼を得ることができれば、彼女は少しずつ自分のことを話してくれるようになるかもしれない。
そう思った。
(……勉強しねぇとな……)
実のところ今日のつぐみさんの授業、あまり身が入らなかった。
つぐみさんのことばかり考えていたからだ。
つぐみさんは嫌な顔一つしなかったが、何度も基本事項と思われる所を聞いてしまったし、何度も同じ問題の解説をさせてしまった。
そんな出来損ないの俺が生徒だったら普通「しっかり話を聞け!」とか、呆れられるに違いないはずなのに、彼女は同じ問題を何度も丁寧に解説してくれた。
そうはしてくれたのだが、そのままだったらやっぱり俺のプライドが傷つくし、つぐみさんに申し訳ない。
だから俺はそのファミレスで勉強を続け、家に帰っても数学を夜通し勉強していた。
そして次の日。
土曜なので学校は午前授業。
バイトは夜からだったので、今日は両方とも出席することになっている。
俺は学校が終わるとさっさと昼食を済ませ、昨日と同じ2時半にファミレスに着いた。
やはり彼女の姿はまだ見えない。
あの人は時間に正確な人だというのは昨日分かったことだ。
まるで自分の体内に時計が内臓されているかのように時間には正確な人だった。
待ち合わせの時間もぴったりに来たし、終了の時間も5時ぴったりだったしな。
そうとは分かっていても俺は30分も前にファミレスに着いてしまったのだ。
「おぉ! 福田じゃんか! 何やってんだ!?」
「…………」
つぐみさんを待ちぼうけしている途中、馬鹿王にでくわしてしまった。
俺は見て見ぬふりをしてやり過ごそうとする。
「なぁなぁ福田! これから穴を掘りに行こうと思うんだけど、一緒に来てくれよ!」
「…………」
馬鹿王は俺を発見するなり、笑顔で俺に近づいてきてそう言ってくる。
もちろん俺だってせっかくのドリームタイムを、こんな奴につぶされたくはないので無視を決め込む。
「ダメか?」
「…………」
「穴、掘りたいだろ?」
「…………」
いちいち突っ込み所の多い奴だが、とにかく無視。
なんとかしてやり過ごさないとつぐみさんとの時間は減ってしまうし、何よりつぐみさんに俺まで馬鹿だと思われてしまう。
「なぁなぁ、一緒に掘ろうぜぇ」
「うるせぇ! 俺は今人と待ち合わせして忙しいんだよ! 自分ひとりで掘ってきてくれ!」
「そっか……。じゃ、今シャベル持ってくるから待っててくれよ。ショベルカーは必要か?」
「もしもし? お宅、人の話聞いてますか?」
「聞いてない」
「聞いてないのかよ!! 俺は今人待ってるからお前と遊んでる暇はないんだよ!」
「何ぃ!? ひ、人を待ってるだと!?」
「そうだ。文句あるか?」
「まさか工藤の分際で彼女!? いやでも昨日このファミレスで工藤が……」
「何!?」
昨日のつぐみさんとの勉強を、この馬鹿王に見られたというのか!?
「工藤が勉強していて、隣に綺麗な姉ちゃんが座ってて、二人は楽しく会話してて……。そしてついに二人は場を考えずに顔を近づけ……」
「ちょっと待て!!」
「そこで二人の口が……ってところで次の妄想をすることに決めました」
「てめーの妄想かよ!? もういいよ! 帰れ!」
これだから馬鹿は嫌いなんだ。
「誰待ってんだ?」
「人!」
だんだんうざくなってきたので強い口調でそう答えてやる。
何でこうしつこく俺に絡んでくるのか分からないが、こいつはそういう奴なのだ。
誰彼構わず無駄に絡んでくる。お陰で大半の奴は迷惑しているのだ。
「男? 女?」
「お前にゃあ関係ない」
「目玉ついてる?」
「ついてない奴を人と呼ぶのか?」
「顔は一つ? 二つ?」
「二つあったら妖怪だろ!」
「なんだ。じゃ、いいや」
「…………」
なんだかよく分からないが、片瀬はそれだけを聞いて去って行った。
あぶねぇ……。
あやうく俺のドリームタイムが馬鹿に邪魔される所だったぜ。
と、思いながら引き続き白いコートを待つ。
そして約束の3時キッカリ。
1分も狂いもないような感じで彼女はこの場に現れた。
「あ、つぐみさん!」
「あーー!!! やっぱり女じゃねーか!!」
俺が爽やかにつぐみさんに挨拶。
つぐみさんは俺に対して頭を下げて返してくれる。
しかし、そこで何故か馬鹿王が再び登場。
「えー!? これが佐藤の彼女? 彼女?」
「ばっ、彼女じゃねーよ!! すいませんすいませんつぐみさん!!」
「…………」
この最悪の状況に頭がパニクってしまい、何故その場に片瀬が出てきたのか突っ込むことも出来ない。
片瀬は片瀬で失礼にも、じろじろとつぐみさんを見ている。
つぐみさんの方はあまり見ないでくれといったような様子で片瀬のことを見ていた。
「つぐみさんっつーんだ。じゃ、つぐみんって呼んでいい?」
「ダメだよ!! アホか! お前は早く帰れ!! 俺たちゃ時間がねーんだよ!」
「構いません」
「えぇーーー!!! ちょ、ちょっと! つぐみさん!!」
「おぉ!! なかなか分かる人じゃないっすか!! じゃ、つぐみん今から穴堀に行こうよ!」
「穴?」
「なに、ちょっと、滅茶苦茶失礼だろーが!! 謝れ!! つぐみさんに謝れ!」
「別に謝るようなこたぁーしてねぇべよ。なぁ、つぐみん」
「はい」
「…………」
あぁ、なんかもう嫌だ。
俺の幸せのひと時をこの馬鹿に潰されたと思うと無性に腹が立った。
それでもなんとか片瀬をつぐみさんから離してやんないといけない。
「待てよ! つぐみさんは俺と勉強の約束があるの! お前は一人で穴掘ってなさい」
「一人じゃ寂しいから誰かを誘ってんだよ。誰もついてきてくれないんだ。横田が来てくれんならいいよ」
「横田も熊田も行かねぇよ! つぐみさんも行かない! はい! シッ、シッ!」
俺は図々しくも神々しいつぐみさんの体に触れ、つぐみさんから片瀬を遮る。
すると片瀬はぶぅタレながらもなんとか俺とつぐみさんから離れてくれ、見事俺達の前からいなくなってくれた。
その代わり今度俺は片瀬と穴を掘りに行く約束が出来てしまったが。
「つぐみさんごめん! あいつちょっと頭がコレでね……。はは……」
「いえ……。私は構いません」
ファミレスに入り、席に着くと俺はまず開口一番片瀬のことを謝っておく。
片瀬の奴、このつぐみさんの神聖なオーラを読み取ることができなかったのだろうか?
これだから空気の読めない奴は困る。
でもさすがつぐみさんだ。
あの失礼極まりない片瀬の無礼など全く気にする様子もなく流してしまった。
この人の心は無限の空のように広いのであろう。
「ぶっ」
早速勉強道具を取り出そうとすると、店の中に片瀬が楽しそうに一人で入ってくるのを目撃してしまった。
片瀬は迷うこと無く俺達と隣の席に一人で座りだす。
丁度つぐみさんサイドからは見えないが、俺サイドからは見える位置取りだ。
早速絡んで来るのかと思ったが、片瀬は何故か絡んでくる様子もなくおとなしくそこに座った。
俺は気にしてはいけないと思い、つぐみさんとの授業に集中する。
「そうするとXの極限値は段々と2に近づいて行くことになります」
「…………」
つぐみさんとの授業に集中しているのだが、どうも片瀬の様子が気になってしまう。
幸いつぐみさんは片瀬の存在には気がついていない様子だし、片瀬の方もつぐみさんに絡んでやろうという感じではなかったので、俺とつぐみさんの勉強は妨害されずに済んでいた。
最初の30分までは。
「ぶっ」
途中、片瀬が突然真顔でテーブルの上に正座しだしたので、それを見た俺は飲んでいた水を噴出してしまった。
お陰で机の上にある教材は水浸しだ。
最悪なことにつぐみさんの腕にも俺の噴出した水がかかってしまった。
「ご、ごめん! 今すぐに拭くから!」
俺は慌ててそこにあった紙ナプキンを大量に取り出し、かかった水を拭く。
つぐみさんも「大丈夫です」と言いながら一緒になって水を拭いてくれた。
そうしている間にケタケタ笑う片瀬の存在につぐみさんは気がついてしまった。
まぁ、つぐみさんは何も気にしてない様子だったが、結局俺とつぐみさんの空間は少なからず片瀬に邪魔されてしまった。
「だから、Xが極限の値をとる時だけYのとる値も一つ、すなわち重解になるんです」
「成る程……」
でもさすがはつぐみさん、片瀬を発見したものの何のリアクションも取らずに解説を続けてくれた。
俺にとっても非常にありがたいつぐみさんのシラケ具合だ。
それからも片瀬の微妙な嫌がらせ(?)は続いていき、俺もいい加減ぶっ飛ばしてやろうと思ったが、その時俺はあることを思いついた。
『片瀬の馬鹿な行動でつぐみさんは笑ってくれるだろうか?』
俺は未だにつぐみさんの笑顔を見たことがない。
いや、笑顔でけでなく、怒った顔も泣いた時の顔も見たことがない。
なんとか彼女の笑顔を見てみたいと思った俺は、片瀬の馬鹿な行動の応援を始めることにする。
「困りますお客様。他のお客様の迷惑となりますので、やめて下さい」
「は~い」
黒ひげ危機一髪で遊んでいた所を店員に怒られる片瀬。
そこで俺はつぐみさんに断って一時勉強を中断し、片瀬に近づいた。
「いいか片瀬、やめる必要なんかない。お前は笑いの天才だ。ボケの天才だ。お前ならつぐみさんを笑わせることが出来る。今のまま続けるんだ」
「おぉ、山田も応援してくれるか! よし! あちしに任せろい!」
そうアドバイスをしてやると、片瀬の馬鹿はどんどんエスカレートしていった。
素なのか頑張っているのか、一人芝居やコントなんかもやっていた。
他の客席からはゲラゲラ笑い声が聞こえてくるし、笑いすぎて悶絶している客もいた。
何度も店員さんに注意を受けていたが、それでもめげずに片瀬は馬鹿を貫き通してくれた。
しかしつぐみさんは一切笑うこともせず、これだけ他の客から注目されている片瀬もまるで無視するような感じで、ひたすら俺に問題の解説を続けるだけだった。
「あの、すみません。もう時間ですので……」
「え……?」
片瀬が何をやっても結局つぐみさんは笑わなかった。
しかも気が付けばもうお別れの時間。
その間俺は何一つ学んでいないような気がする。
つぐみさんと話せた勉強以外のことも一つもない。
この2時間程後悔した時はない。
「また明日、3時にここに来ます。今日はどうもありがとうございました」
「つぐみさん!」
また俺は意味もなく退き止めようとするが、つぐみさんは構うこと無く店を出て行ってしまった。
何を急いでいるのか、時間を確認したら5時ピッタリだった。
(……今、ありがとうございましたって……)
確かに今つぐみさんはありがとうございましたと言った。
つぐみさんにしたことなんか俺は今日何一つない。
ただただ永遠と問題の解説を受けていただけだ。
もちろん食事だって一切奢ってはいない。
それなのにつぐみさんはありがとうございましたと、俺に頭を下げてお礼を言ってきた。
「う~む……」
まぁ、礼儀正しいつぐみさんのことだ。
とりあえず呼んで頂いてありがとうございました。と、そのありがとうございますの意味は受け取っておく。
「うぅ……すまぬ。拙者、ついにつぐみんを笑わすことはできなかったでござる」
「…………」
隣の席にいた片瀬が少しへこんだ様子俺にそう声を掛けてくる。
いや、片瀬は正直よくやってくれたと思う。
他のお客さんからさっきお礼(笑わせてもらったことへのお礼?)ももらってたし、大儀ではあった。
俺も実際奴のボケには小声で突っ込んだし笑わせてもらった。
だが、つぐみさんを笑わせることができなかった今となっては、もう何のいい所もない。
「明日もつぐみん来るって言ってたな。よ~し、明日は必ず……」
「せんでいい」
確かに俺もつぐみさんの笑顔は見てみたいとは思うが、それは今のところまだいい。
それよりも俺とつぐみさんの二人の空間をもう邪魔されたくはない。
俺だってつぐみさんが今日「もう時間です」と言った時に走った後悔を忘れた訳ではない。
明日からは普通の会話をして、普通に接して行こうと思った。