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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
悪辣虚構テラー
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3-2


 ≪漣の空≫様、ご感想ありがとうございました!


 ここからお話が少しずつ進んでいる。予定でした。進んでいる。……はず。


 楽しんでいただければ幸いです。始まります。


 

 今週に入って三度目の、支部64号局、つまりリンカたちの住まいへの呼び出しである。


 例の聞き取り調査について報告した日曜日、そのきっぱり七日後に〈上司〉との面接があると聞かされてうんざりした水曜日、そして本日金曜日。


 放課後に帰路から大きく逸れ、暮れ始めた夕日に目を細めて眩しいなんて文句を垂れながら住宅街を抜け、さてもう少しで到着だ、何の用事かしらとぼんやり思った、そんなところで。


 私は思わず足を止めた。


「…………、え」


 目の前でごく自然に起こったそれに、私は愕然としたのだった。


 急ぐ視界の中に捉えていたはずの、一本入った路地入口にあった道端のごみ箱が突然〈消失〉した。視界の外に流れたということじゃない。そこにあったごみ箱が、何かに呑み込まれるようにして無くなったのを、私は視界の片隅に見てしまった。


 黒い油絵具で塗り潰しているような図だった。ペットボトル専用の灰色のごみ箱の上に、厚くのっぺりとした絵の具をぶちまけてしまった感じ。それなのに一秒とせず、その場所には何もなかったかのようにアスファルトが広がっている。消えた……塗り潰された、そんな印象の、意味不明な現象。


 極めつけに、一瞬見えた淡い光。


 ごみ箱の下に、まるでそれを囲うかのように展開した、幾何学的な模様の走る丸い図形が私を混乱させた。


 薄気味悪いその光景はあまりに非現実的で、私は自分を守る二重円を展開するのも忘れて立ち尽くした。悪い夢でも見ている気分で、頭の中を疑問符と動揺と焦燥が埋め尽くす。


 それがミスだったと後悔したのは三秒後のこと――――路地裏から、一人の男が姿を現した。


「さて、まさか見られるとは思ってもみなかったが……、どうしたものか」


 冷たく鋭利な声音と共に、路地の闇から溶けるように現れた、そいつの目に背筋が凍りついた。


 学生服らしいブレザーの十代後半らしい人物なのだが、正体不明の存在感と威圧感があって、ただそこにいるだけでこちらが圧迫されているような気分になった。年の頃はそう変わらないのに、どうしてか尊大でただ者ではないと思わせる雰囲気。


 そして、細いフレームの眼鏡の奥の瞳は、これまで見たどんな目よりも冷たい。


 こちらをただの物体としかみなしていないようなその視線に防衛本能が喚起された。鋭く一呼吸、二重円を展開。ほどよく怯えた態度を《見せて》、その実私自身はいつでも逃げられるように身構えておく。


 それに気付いているのか、いないのか。男は傲然(ごうぜん)と顔をあげて、無表情に告げる。


「俺は非効率的な殺生は好まないが、見られたからには貴様を始末すべきかな。どう思う、〈武器(ウェポン)〉」


 私に対してではない問いかけ。しかもなぜか私の方を向いて言われたその言葉に、私は途方も無く嫌な予感がして振り返ろうとした。


 が、一瞬遅い。しゅ、という小さな音が首元から聞こえたかと思えば、じわりと痛覚が刺激された。視線をそっと下げれば、着ていたパーカーの襟に、赤い点が生まれていた。何かで首を、薄く、切られた……? そう理解するのが通常よりも相当遅れる。


 今の今まで気付けなかったのに、息がかかるような超至近距離にいた何者かが薄く笑う気配。


「うん? あぁ、アタシはどっちでもいいけど? そもそも別に、≪あの人≫から殺せって指示があったわけじゃないし」


 若い女の声だ。同じくらいの年代か? ただしその声は投げやりで、言葉の通りどっちでもよいのだ、と主張するような声だった。けれどこの気負わなさが、逆に恐怖心を煽る。


「あ……あの人……?」


 こんな状況でそんなことをしてる場合じゃないでしょ! そう制止する心を、どうしてか黙殺していた。ただでさえ出来の良くない私の頭は、考え事を三つも四つも並行できるキャパシティなんてない。それなのに現状からの脱出方法ではなく、今の言葉の意味を思考しようとする自分が理解不能だ。待て待て、私は命と秘密組織、どっちが大事なんだよ?


 その問いかけに答える声はなく、代わりに脳裏に閃いた電撃的思考を口にした。


「あの人……あなたたち、〈人形〉に操られてるの? 神木深丘、洗脳魔法の神木深丘に……?」


 返事は無かった。代わりに、与えられていた首筋への痛みがわずかばかりに増して、私は怯えた表面と焦った裏面との両方で表情を歪める。


 首に与えられているその痛みこそが、私の言葉が正解だと物語る何よりの証拠だった――――しまった、とまるで他人事のように考える。


 私の最初の任務だった先週の休日から一週間と経っていないが、既に他の支部でも彼女の襲撃による被害が出ているという報告があった。百茎県内外関わらず、主に一般人を洗脳しての攻撃であったらしい。


 だからすっかり油断していた。まさかここにきて魔法使いを洗脳しての襲撃だなんて……!


 前回の魔法使いの襲撃に際しては、ササが容赦なく焼いたなんて恐ろしい撃退法を聞いている。だが今回彼女の救援は望めまい。今連絡する術はないし、彼らがこちらの到着が遅いことに気づいて誰かをよこしたにせよ……、時間的には、間に合わないはずだ。あの中に瞬間移動の魔法使いなんていない。


 今この瞬間に見込める助けはない。


 となれば、自分ひとりでどうにかするか、時間稼ぎをするかしかないわけだ。


「……どうして私を狙ったの?」


「んー? 新人で、頭回んなそうで、≪攻撃系≫じゃないらしいから……かなぁ? ねぇねぇ、このジョーキョーでよくそんなこと聞けるね? もしかしておバカ?」


 私の問いに小馬鹿にしたような口調で答えた背後の誰か。余裕綽々、付け入ることくらいできそうな態度であるにも関わらず、私はどう動いたものか困っていた。これがもし、接近されていない状況で囲まれていただけなら、私の≪幻≫を見せてそちらに気を取らせ、その間に脱出……くらいはできたはず。


 しかし現状後ろにひとり、正面にひとり。超至近距離の背後と、距離はあるが一瞬たりとも視線を外そうとしない眼鏡の前方。その手は使えない。かといって至近距離だから肉弾戦に出るなんてのは漫画の発想で、ド素人の私にそんなことができるはずもなく。


 となれば、他に何か手はないか――――悪い頭をフル活用しようと思考のギアを切り替えたそのとき、突然、私の耳に高笑いが響いてきた。


 それはどうも、正面の男が現れた路地の奥から聞こえてきているようで、徐々に徐々にその笑い声は近づいてくる。全身に緊張が走った。この状況で高笑いなんて、可能性はひとつしかない。


 三人目の敵が、現れた。


 それはまずい、ますますいただけない。ただでさえ詰みと言える現状で更に増援? 冗談じゃない、そんなの死亡フラグ以外の何でもないじゃないか!


 この世界は漫画でもなければフィクションでもない。


 私は作り話は得意だけれど現実を作り話に変えることはできない。


 絶体絶命のピンチになれば助かる確率はほぼゼロ、必死ということは必ず死ぬ。それからは逃げようがない。どんなに英雄的な人間であろうと、それが現実に存在するなら、現実という分厚く堅く大きな壁に勝利することはできない。


 人間死ぬときは死ぬのさ、なんて言うが。


 そうやって割り切れるのは、格好いい散り方をするとわかっている、もしくは慢心しているどこぞのどなたかだけ。人間どうあれ、ふつう、死ぬのは怖い。それが私みたいな詐欺師だったとしても―――――、


「ーっ、はははははっ、はーっはっはっはっ! ホッホウ、あっは、分かっているのだねェ少女!!」


 高笑いの主が、まるで思考を邪魔するようにそんな台詞を述べて、私は思わず眉間に皺を寄せた。


 分かっている? ……何が?


「そりゃあそうだ、どうあれ人間は死ぬのは怖い。闇の世界に安住を求める悪魔でさえも、死に対しては恐怖し涙ぐむのだ、ただの矮小(わいしょう)な一人間が死を恐れないならそれはただの傲慢でしかない。けれど多くはそれを忘れている。人間格好良く散りたいものだと夢を見ている。キミはその点分かっていると言ったのだよ、聞こえたかね?」


 そ、りゃあ聞こえたが。


 待て――――待て待て待て。


 私はさっきの思考のプロセスを、果たして、≪言葉にしたか≫?


「―――――ッ!?」


「大丈夫、キミの思っていることは正しいよ。キミは考えを言葉になどしていない。我輩の魔法の一過程として、そんな力があってね。我輩は今、キミの思考を≪なぞっている≫のさ」


 あっけらかんと、簡単に、声は言った。


 中性的な声域なので、男か女かは判断できない。正面の男の横に滑るように現れたそいつは、見た目からも性別が判断しづらかった。女子で言うならベリーショートだが、男子で言うなら少し長めの髪。にやりと口は上向きの弧を描き、ぶわっと背中から吹き付けた強い秋風に裾の長い黒のマントが翻って、それは皮肉にも、ファンタジー小説で見かけるような魔法を使っている最中の姿のよう。


 履き古した様子のショートブーツをきゅっと鳴らし、その人物は被っていたシルクハットを目深に下げた。そして、優雅に一礼。


「我輩は〈刻文(スカルプチュア)〉。闇の使徒として俗世に降り立った、死神の眷属さ」


 私は瞬間、二重円の力の方向性をシフトチェンジした。


 それまで見せていた≪怯えた自分≫を解除、数瞬の間を置かずに後ろの人物を指定して、《殴られたような錯覚に陥る》魔法を行使。怯んだところで相手の腕から抜け出し、彼ら襲撃者から距離を取ろうとして、


「無駄なのだよ、少女」


 急激な目眩に突然襲われた。


 ガツンと側頭部を横殴りにされたような衝撃と同時、街並みと襲撃者を映していた視界が黒く眩み、まったく状況と関係ないというのに瞼の裏に一つの情景が過ぎる。それを見て、私は戦慄した。


 そこには二人の人間がいた。私を見て、にこりと微笑む二人。その顔に見覚えがある。大いに見覚えがある、いや、忘れるはずもない、忘れられるはずもない。


 それはかつて失ったはずの面影で「……え」二度と世界に戻りはしない幻影だと「なん、で」私は分かっていたから「うそだ」きっとこれも夢か自分の都合良き回想だと思ったのに「うそだ」私は無意識か意識的かもはや分からなかったけれど「なんでなの」彼らに何か言おうと口を開いた「っ、は」だが口はぱくぱくと金魚のように開閉を繰り返すのみで「やだ」そこからは何の声も発せられず「いやだ」そのもどかしさに手を伸ばして何かを叫ぼうとしたそのときに「う、あ」彼等はその微笑みを消して突然に「……て」その顔から表情を消し「う、っ、いや」まるで能面のような顔で私を「あ」見て「あ」見て「あ」見て「あぁぁ」いつの間にか彼等の間にいた桐彦までもが「めて」無表情なままで「やめて」それに違和感と言い知れない恐怖を感じて「ねが、い」名前を呼ぼうとすれば「おねがい」彼等は私を指さして「めて、いやだ」機械も「ききたくない」さながらに「やめてよ」タイミングを「やめて」合わせて、


 ――――お前みたいな詐欺師なんて誰も必要としない。×××いいのに「やめてっっっっ!!」


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いっっっ!!


 まだ刺客がそこにいるのは分かっていたけれど、私はたまらず座り込んだ。全身がオーバーヒートして異常に熱く苦しい。抗う力は抜けきって虚脱感が支配し、動くことはままならないままで、心臓はいつ壊れてもおかしくないほどに早鐘を打つ。その脈がかえって恐ろしくて私は両腕で自分を抱き締めた。玉の汗が額から流れ、両目の淵(ふち)から何かが滴ってわずかに回復した視界の中でアスファルトを穢した、そう、穢した。


 忘れていた。


 自分がいかに穢れた、大嘘つきの詐欺師だったか。


 詐欺師だと先輩に告げられたのは不覚にもそのことを忘れていたからだ。自分がおかしいのだと忘れていたからだ。忘れていなかったら、自分が異端者である、なんて言えるはずもなかったのだ。


 目を固く閉じ耳を塞いでも、声は私を苛み罵倒する。刻み込まれたような彼らの表情は無のままで、私はそれから目を逸らしたくて目をこじ開けた。そこに映る無機質なアスファルトも、だが、すぐに闇に溶けて消える。回復したはずの視力が、また、夜より暗い黒色に侵食されているのだ。


 このままでは何かが壊れる、と全思考回路が大音量で警鐘を鳴らした。その何かは一度壊れれば二度と直らないかけがえのないもの、壊すな、壊れたら終わりだと悲鳴と怒号が飛び交う。


 だけれど、私はそれらの警告を一切無視した。


 ただただ静かに私を蝕む黒色を放置することを決めた。もうどうにもならないと思ったし、どうしようとも思わなかった。


 脳裏に響いていた声たちに混じり、過去に聞いた誰かの声が蘇る。


《嘘を妄信しなさい。虚構は君を殺すけど》


 ああ、そういうこと。


 その通りだ。虚構で外側を塗り固めてきた私は、とんでもなく脆弱だった。虚構に身を委ねることは、つまり自殺行為だったんだ。


 内側を攻撃されれば、私はどんな生物より弱い。


 刺客らしき声が耳朶に微かに聞こえたけれど、何を言っているのか分からない。でもなんだか、それもどうでも良くなってしまって。


 私の中でがらがら音を立てて、何かが壊れていく音。それを、それだけを聞きながらそっと意識を手放そうとした、そのときに。


「っ、紀沙っ!!」


 そんな声と一緒に、私の左腕が引っ張り上げられ、泥に沈みつつあった私の意識は引き戻された。


 唐突なことに思考回路が回らない。視界が一気にクリアになる。黒い染みがところどころにできたアスファルトから訳もわからず視線を上向けてみれば、そこには思いもしなかった人物が立っていて、私は掠れた声でその名を呟いた。


「と……き、ひろ。くん」


「……お前、大丈夫かよ」


 返ってきたのは、そんな慮る(おもんぱかる)ような声だった。いつもの眠たげな調子が吹っ飛んでいて、やけに真剣。最初、魔法について問い詰められたときに聞いた覚えのある二度目の声音をちょっとおかしく思って、私は笑おうとした。


 だが、代わりに頬を雫が伝って、私は首を傾げた。あれ。あ、れ?


 トキヒロは依然座り込んだままの私を一瞥してから、顔を不意に上げた。取られた左腕に力がこもる。そして、これも私は初めて聞く、敵愾心と怒りに満ちた低い声が、彼の喉から響いた。


「やりすぎだ、あんたら。うちの新人の精神をぶっ壊してどうするつもりだったんだよ。テストって言うにはあんまりじゃないのか? リンカさんが聞いたら黙ってないぞ」


 この言葉に、あれ、と違和感。……テスト?


「……えぇぇ? そ、そんなこと言われてもさぁ、アタシと早鳥(サトリ)は打ち合わせ通りにやったよ? ね、ねぇサトリ?」


 私が視線を伏せたままなので姿は見えないが、私の背後を取っていた女がひどく狼狽した様子でそう言い繕う。これにも違和感。……打ち合わせ?


「首を切れとは誰も言っていなかったと思うがな。貴様もやり過ぎには変わらないだろうが、重大なコントロールミスをしたらしいのは貴様じゃなく、そこの大馬鹿者じゃないのか」


 女の台詞を肯定するような、正面にいた男の言葉。……え?


「おやおや、ひっどいなぁサトリってば。我輩はただ、新たな同胞の深層を視て、そして入団の儀を執り行ったまで。いやはや、少女の魔法が思ったより複雑な回路で妙な触れかたをしてしまったようだが、我輩は我ら〈三人衆〉の描きし崇高なるシナリオに基づいた宿命を果たしたまでっていだぁッ!?」


「つまりミスったってことじゃない鍵鳴(カギナ)!! ミスを隠そうとすんじゃないわよバカぁ!! 〈三人衆〉がひとりともあろう者が恥ずかしくないの!?」


「なっ、何を言うかね小春(コハル)!? 我輩は血の導くまま、常のごとく行動を起こしたまでだ! どうしてこうまで甚大な衝撃を彼の者に与えているのか我輩も理解できん! ゆえに、我輩は責め句の十字架を背負う必要はないと神はおおせであるぞッ!!」


「その言い訳が情けないからやめなさいって言ってんのよ!?」


 突如として始まった口論を右から左へ聞き流していた。というか言葉が耳に入ってこない。テスト? 打ち合わせ? 違和感詰まりまくりの台詞と、トキヒロが彼らに対して取った態度、ごく普通に応じた彼等の様子。それだけが頭を回る。


 何だかすべてが空回りしているような、奇妙な気分のまま、私は答えを求めるように再度トキヒロを見上げた。彼は私の視線に気付くと、本当に呆れたように、そして申し訳なさそうにため息をついた。


「……悪かったな。こいつら、リンカさんの上司……そして、≪魔法同盟≫全体を総べる最高幹部の、〈三人衆〉だよ」


 言われて初めて、私は彼ら三人全員を見た。視界に飛び込んできた彼等の容姿に、私は目を瞬かせる。


 正面にいた男が眼鏡だったのは気付いていた。


 背後を取っていた少女は思った通り、十代前半くらいで、セミロングの髪の両サイドと纏ったセーラー服の手首にはピンク色のリボンが結わえられている。


 シルクハットの少女か少年か分からなかった三人目の人物は、よく見れば左目に漆黒の眼帯。


 数日前の、トキヒロとササの会話を思い出す。


『……、うん、多分平気だろ。あぁ、でも叱られはするだろうなぁ。オレあいつ苦手なんだよね、あの眼鏡』


『……あたしは寧ろ、眼鏡のほうがやりやすいけど。リボンとか眼帯は……相手するのが辛い』


 19支部局でトキヒロたちの名乗った、中二病全開のコードネームについて尋ねたときの、ユウキの嫌そうな顔と台詞を回想。


『手前もしばらくしたら名付けられる、魔法の名前だ。名づけ方が中二くせェのはしゃァない……名付けるのが中二病だからな。正直もう二度と会いたくねェ。手前の担当があのイカレ眼帯じゃねェことを祈るぜ』


 中二病、イコール、イカレ眼帯。


 奇妙な気分が形となって浮かび上がってきた。激怒する気も失せた。事実がパズルのピースのように繋がって一枚の絵になる。ああ、そう、そういうことなの……?


 全国三千人の魔法使いを総べる、最高位魔法使いを示す呼称〈三人衆〉。その彼等との初対面が、これほどまでに馬鹿げた、ミスの重なりまくった、出来の良いとはお世辞にも言えないものだなんて、一体誰が想像したというのだろうか。


 依然頬は濡れたまま、私は目の前の光景をぽかんを眺めることしかできなかった。






「いやぁ、ほんっとゴメンねきぃちゃん!! うちの大馬鹿中二病イカレ眼帯がとんだ迷惑を!!」


 あの後一言も口を利こうとしなかったトキヒロを先頭に支部局へ戻り、私の顔が少し赤い(無論、泣いたからだ)のを見つけたリンカとなぜかシュンまでが〈三人衆〉に雷をぶち落とし(さすがのシュンも物理的な雷は落とさなかった。三人衆とはいえど、感電死を免れることは不可能に近いらしい)、結局支部局へ来てから二時間の時間が経過したのち、リボンの少女はそう言って勢いよく頭を下げた。


 会って二時間、しかもあのファーストコンタクトにも関わらず既にあだ名だ。そして年下らしいけれどタメ口だ。存外馴れ馴れしい。……あれ、私が言えた話じゃないか。トキヒロにあだ名つけてるし。


 とは思いつつも、私は苦笑いを浮かべた。勿論笑える心境ではなかったので、≪幻≫である。


「……いいよ、別に。事故みたいなものなんでしょ? カギナちゃんも悪気があったわけじゃないんだから、気にしないでってば。それにコハルちゃんが謝ることじゃないし」


「うぅん……いやでも、やっぱり嫌な気分になっちゃったでしょ? その……とっきぃの言う通り、危うくきぃちゃんの精神、ぶっ壊すところだったみたいだし、さ……」


 しゅんとして眉を八の字にした、リボンの少女。本名を、璃南小春(るりなコハル)というそうだ。


 ちょっと変わった苗字ではあるが、ぱっと見は中学三年生くらいの見た目のごく普通の女の子。やたらリボンが好きなのか数が多いという特筆すべきはそのくらいで、セーラー服ではどこの学校か判断できないけれど、とても魔法使いの秘密組織のトップのひとりには見えない。


 そのコハルちゃんの座るソファの後ろに仁王立ちしたシュンは、大袈裟なのではと思えるくらいのため息をついた。


「あのさぁー、おっかしいなと思ったら、どうあれ昔みたいにカギナの頭ぶん殴ってでもいいから止めろってボク言ってあったよね? いくらコントロールは完璧って言ったって、制御が利かないときだってあるんだから気を抜かないでよ! カギナを植物人間作った前科者にでもするつもりだったワケ?」


「そんなわけがあるか。無論途中でやめさせたが、何故か魔法が進行したんだ。俺やコハルやカギナに言われてもどうしようもあるまい。貴様がいたところでどうにもならなかったと思うぞ、シュン」


 シュンの怒り心頭な台詞に応じたのは、壁にもたれて目をつむり、静かにこちらの話を聞いていた眼鏡の少年、こと鳩木早鳥(はとぎサトリ)。先ほど支部局長と雷使いの怒濤(どとう)の言葉攻めを受けて、残り二人が涙目状態だったのに対し、眉ひとつ動かさずにいた鋼鉄(こうてつ)の心臓を持っていると思しき少年である。


 今も反省しているのだかしていないのだか、何事もなかったかのような涼しい顔でいて、それが気に食わなかったらしい。コハルの隣で足を上げて体育座りの姿勢を取っていたもう一人が、恨めしげに彼を睨み付ける。


「他人事だと思って、キミは随分と余裕だな、サトリ……! 昔はあんなに泣き虫ですぐ怒って、我輩がちょっかいを出すと日本男児とは思えぬくらいに暴れたキミが、今やクール気取りか……キミは一体どんな魔法書を入手したんだ。絶対に悪魔に魂を売ったろう。キミはファウストかね!」


「貴様、遺言はあるか。痛みも苦しみもなく≪塗り潰す≫準備はできているぞ」


 こう言われては対抗できないのか、≪彼女≫は悔しげに歯噛みした。――――そう、性別不詳、三人目の人物は少女だったのである。


 被っていたシルクハットを脱いで、むすっと頬を膨らませている彼女の名前は、古坂鍵鳴(こさかカギナ)。初登場時の優雅さはどこへやら、今は完璧に拗ねた子どもの態度そのもので「不満だ!!」と全身で表現しまくっている。……言わせていただくが、彼女も今は、どう見たって秘密組織のリーダーではない。手首に巻いた包帯に「封」とか墨で書くな。イタイ。


 ササもその気はあるものの、彼女があの段階で踏み止まっているのはこんなにも痛々しい中二病をこじらせた人物がごく身近にいたからかもしれない。ユウキが煙たがるのも正直理解できるというか、あんまり関わりたくない人種だ。いや、あの初対面でやられたことが尾を引いているのかもしれないけど。


 その彼等を順繰りに見回して、私はそっと幻のこちら側でため息をついた。


 彼らが曰く。あの襲撃は、新人である私へのテストだったのだという。


 通常テストは三人のうちの一人がやってきて行うのだけれども、今回は八年間存在が気付かれなかった、いわば特殊例。それに興味を惹かれたサトリによって三人揃っての面接が仕組まれたが、いつもと違うのは人数だけでなく、その方法も異なった。


 新人魔法使いの魔法の種類を訊いて、それと合う相性の三人衆を派遣し、新人にあった魔法を使わせてのテスト。勿論事前に本人に告知は行く。これが普通のテスト。


 だけれど、今回は告知自体が嘘で、抜き打ち的に行うことを決めたのだという。これは気まぐれみたいなものだと言われたときは殺意が芽を吹きかけた。


 サトリが主に行う判断力を見るテストと、コハル担当の実力確認型テスト、そしてカギナの担う一番えげつない、ちょっと特殊な魔法使いに対して行われるテスト。三種類すべてを融合させたテストだったわけだが、予想外にカギナの魔法が効きすぎたのだか何だかで、簡単に言えば、あのとき私の精神は殺される寸前だったらしい。言われてみればそんな気がしないでもないが、正直普段から自分の感情を殺しまくっている私はいまいち実感が湧いていない。ただあんな目に遭うのはもう二度と御免だとは思う。


 昔の傷口を無理矢理に抉るわけだ。えげつないと言われても仕方あるまい。


 あんな真似を、目の前で拗ねるこの少女がやってのけたのか……と思うと、魔法よ分別を持てと叫びたい気分だった。与える人間を見極めやがれ。〈人形〉にせよ、カギナにせよ、私にせよ、もう少し人間を観察してから選べっつぅの。ロクでもねぇ。思わずユウキ的な奴にキャラチェンしそうだ。


 ふつふつ沸いてくる怒りを無理矢理に押し込めようと試行錯誤を重ねていると、ひとしきり上司を叱り飛ばすなりキッチンに入ってお茶を用意していたらしいリンカが戻ってきた。その表情はまだ怒りが抜けきらないのか不機嫌そうで、そんな顔が珍しいのだろう、お茶を出されたコハルがその顔を見てびくりと震えた。


 普段なんでも笑って許す人間ほど、怒ると怖いって言うしなぁ……。実際、あの剣幕で凄まれたら涙目必須だ。無理だ。幻抜きでは私は持たぬ。


 確実に怯えている二人の少女上司を完全無視して、リンカはこちらに目を向けた。


「紀沙ちゃん、ごめんね。怖かったでしょ?」


「……いえ、そんなことないですよ! ちょっと昔のこと思い出しただけですし。心配するほどのことじゃありませんから! そんなことより、どうしてあのときトキヒロくんが来られたんですか? バイト帰りとか?」


 はぐらかすように質問し返した。二重円が加速して目が痛くなってきた。そろそろやめろという警告だ。だが、無視。


「あぁ、それ……うん、トキヒロくんは確かにバイト帰りだったんだけどね。イオリくんがたまたま《喋って》たのよ、それでテストが予想外に容赦なさげだって言うから、トキヒロくんに行ってもらったの。間に合って良かったわぁ、ホント」


「喋る……?」


 今この場にいないイオリの名前が出たことに驚きつつも問い返すと、リンカは何かを思い出すような遠い目に一瞬なって、曖昧な笑みを浮かべた。


「《会話(トーク)》。イオリくんの魔法の名前は聞いているでしょ? イオリくんのはトキヒロくんと同じ《干渉系》でね、……簡単に言えば、物体専門のサイコメトラー、ってとこかな」


「物体専門のサイコメトラー……サイコメトラーって、あの、人の心を見たりする?」


「そう。イオリくんは《物の言葉が分かる》、《物と意思疎通できる》。だから、会話って魔法なの。紀沙ちゃんの危機を教えてくれたのは、あのあたりにあった街灯らしいよ?」


「が……街灯……」


 命の恩人は街灯だった。


 いや、恩物、なのか? これは後でイオリくんにどの街灯だったのか教えてもらわねば。丁寧に頭を下げて手を合わせてお礼を言おう。


 ……傍から見るととんでもなく滑稽だけれど。


 しかしこれで、あの少年にはどう見てもミスマッチな魔法の正体が判明したわけだ。物との意思疎通か、便利そうな魔法である。人の苦手そうな彼にはある意味うってつけ、無機物とはいえ話し相手がいるということなんだろう。


 と、ここで私はもう一人の命の恩人(こっちは人間だ)が、ここに帰ってきてすぐ姿を消していたことに気付いた。お礼を言うことも頭から吹っ飛んでいたが、ここはきちんと礼儀を弁えるべきだろう。私はこの部屋に三人衆とリンカとシュンしかいないのを確認してから、問うた。


「ね、トキヒロくんは? まだお礼言ってないから言っておきたいんだけど……」  


「……、あれ。トキヒロどこ行ったんだろ……部屋かなぁ。珍しいや、あいつ部屋にいることほとんど無いのに。あ、行くなら行ってきなよ! そこの奥の階段あがって二階の、手前から三番目の部屋ね!」


 リビングの奥をひょいと指差し、シュンはさっきまで上司に見せていた表情を一変させた明るい顔でそう言ってくれた。ありがと、と笑いかけてソファを立ち、階段へ向かう。


 そういえば、この支部局で二階に立ち入るのは初めてだなぁ、なんて思いながら一段目に足をかけて、ふとリビングを振り返る。すると、ソファ越しにこちらを見ていたカギナと目が合った。


 その視線が、彼女の年には似合わないほど思慮深く聡明なもので、なぜだかとても申し訳なさそうだったのは気のせいだったのだろうか。





 紀沙が階段の向こうに消えたのを確認して、リビングで口を開いたのはリンカだった。


「で、どうなんです」


「と、いうと?」


「合格なんですかと聞きました。紀沙ちゃんをあんな目に遭わせておいて合格じゃなかったら、さすがの私でも怒りますけど」


 有無を言わせないその口調に、うぐっ、とコハルが喉を詰まらせた。様子を窺うようにサトリに視線を投げる。考えるように目を閉じていた彼は、片目を開けて彼女の救いを求める視線を受け取り、至極重いため息をつく。


「……俺からすれば、判断力は中の下。さほど頭はよくないと見える。そもそも洗脳されていたら、自分が洗脳された手先であると明かすわけがあるかと思い至らなかった点はマイナスだ。だが伸びしろはあるんじゃないのか。教育係にもよるだろうが」


「あ、アタシ的にはその~、うん、とりあえず近接戦向きじゃないのは確かだねぇ。運動神経は良い方なんだろうけど、勘が無いっていうか、センスが無いっていうか? そもそも後ろを取ったときだって普通に歩み寄っただけなのに、クリーチャー出現! みたいなカオされたし」


「サトリの台詞に乗じてより調子に乗ってんじゃん……」


 ずばずばと欠点を指摘したコハルに呆れ返って、シュンはやれやれと芝居がかった仕草で頭を振った。まったくもってこの上司、もとい少女はすぐに調子に乗る。赤信号をひとりで渡るのは嫌うが、みんなで渡れば怖くない主義だ。根は悪い娘ではないのだけれど、そのあたりが≪昔から≫彼女に関わる人間の悩みの種である。


「……我輩は、文句なしの合格であると判定した」


 ぼそりと、消え入りそうな声で呟いたのはカギナだった。紀沙を見送った後にまた膝を抱えていた彼女は、まっすぐにシュンたちを見回して、包帯を巻いた右のてのひらをじっと見つめた。


 いつも無駄に元気なカギナにしては珍しいその態度に、サトリの片眉がぴくりと持ち上がった。この場にイオリがいなくて良かったと思わせるくらいに冷たい視線でもって、同僚を睨む。


「どういうことだ」


「知っての通り、我輩の魔法は〈刻文〉。我輩の指定したイメージを対象の脳に≪刻みつけ≫、その思考や精神状態を律する、もしくは攻撃する作用がある……いつも我輩はテストのとき、新たな同胞のこれまで辿りし軌跡を大ざっぱにトレースして、≪同胞が魔法を得るに至った原点≫を選び取って、それを同胞の思考に呼び起こして反応を見て、合否を決めている」


「そんなことは誰でも知っている。何が言いたい」


 この支部にいるユウキにも、未だ仕事で部屋にこもりきりの≪色分(カラー)≫も、そのテスト方法であったはず。そんなことはリンカもシュンも、勿論同僚である彼等も知っているのに、カギナはそこから先を言いづらそうに視線を泳がせた。


 数分間の沈黙が場を支配してから、彼女はすぅ、と覚悟を決めたように深呼吸をしてから、一声に告げる。


「あの少女、≪声を聴いている≫んだ。我輩たち三人衆以外は知るべくもない、我らが盟主、そして仇敵――――〈終〉の声を、聴いている」


 



 こんこん、と二度ノックを鳴らすと、扉の向こうから「……なんだ」とくぐもった返答が聞こえた。


 なんだか劇的に機嫌が悪いらしいトキヒロに無視されなかったことに安心しつつ、「紀沙だけど、ちょっといーい?」と言えば、無言で部屋の扉が開いた。


 改めて至近距離に並ぶと、こいつの背は本当に高い。先程道路で見上げたときとの体感的身長差は、こちらが立っているんだから物理的には縮まっているはずなのにあまり変わらなく見える。のそっとドアを開けたトキヒロは頭を気だるげにもたげていて、表情は伺えなかった。


 あれ、なんかちょっと怖い、なんて思いながら得意の二重円を展開して、私はにっこり微笑んだ。


「トキヒロくん、ホントにありがとね! いやぁ、さっきはどうも危なかったらしくてさぁ。私よく分かってなかったんだけど、トキヒロくんが来てくれなかったら本気で死ぬところ、植物人間になるところだったってシュンくんが言ってたよ。ありがと、助かった! 命の恩人っ!!」


「…………」


 あら? と私は幻のこちら側で顔を引き攣らせた。返事がない。まるでしか……いや違う違う、そんなことを言っている場合じゃない。私、何か彼の癪(しゃく)に触るようなことを言ったっけ? うん? ごく普通にお礼を言っただけだけど……?


 返事が無いのは不安なことだった。私はわたわたと焦りながら言い添える。


「私よく発言が軽々しいなんて言われるけど、これはホントだよ? 私だってあんなところで死ぬのは嫌だし。アスファルトの上とか冗談じゃないよね、人間もっと格好良くさ、こう、劇画的に最期を迎えたいじゃん? いや、これは別にトキヒロくんのおかげで死に場所が変わったとかそういう意味じゃなくて、単純に助かったよって言いたいだけなんだけど。一応私にも家族ってものはいるしさ、弟なんてまだ小学生だし先生はズボラだから、しっかり者長女の私がいなくなったらあの家保たないもの! まだ死ぬわけにはいかなか――――」


「嘘だろ」


 私の言葉が終わらぬ内に発せられた、トキヒロのたった一言。その言葉に、私は凍りつく。


 そして、続けられた、台詞に、


「本当にありがたく思ってるなら、その魔法、解けよ」


 目を、見開いた。








 暗い、暗い、古本屋の跡地で。


 にたぁと赤い唇が裂けた。実に愉快そうに、ゲームを楽しむ狂人のように、彼女――――神木深丘は嗤う。


 すべての準備は整った。あらゆる役者は揃い、あらゆる手札は揃った。


 舞台はこの国で一番天に近い、あらゆる生き物を睥睨する、首都東興の中心にそびえし鉄塔展望台。


 数日後の正午、その場を訪れるだろう観光客たちは、ただ彼女に操られるだけの傀儡(かいらい)となろう。それが自分の能力値の限界など呆気なく越えることなど、彼女は勿論了承済み、織り込み済み。どうあれ、大量の人質がいる。それも一般人にのみ引き金を絞った人質が。


 史上最悪の魔法使い。そんな汚名をかぶろうとも、彼女は止まるわけにはいかないのだ。


 そのためには――――己の脳髄と精神と肉体など、等しく、価値は無い。






 

「――――って! 俺はストーカーかよっ!?」


 思わず少年は叫んだ。隠れていた電柱の影から響いたその声に、近くにいた小鳥がぱたぱたと羽ばたく。


 ちっと荒い舌打ちをしてから、少年は足元に転がしていた学生鞄を蹴飛ばし、手にしていたオペラグラスを再度覗き込んだ。視線の先には、一軒のシェアハウス。


 自慢の視力とオペラグラスであっても、その表札は非常に見づらかった。だが少年は既に数時間にわたって、その家を観察し続けている。太陽の落ちた時間帯だったが次第に目が慣れ、六人分の表札を確認できていた。


 ポケットに乱雑に突っ込んであった手帳には、本来今日こなすつもりだった勉学のスケジュールと並んで、確かめた表札の名前が思ったより丁寧な字で書かれている。


「……『小柳』、『藤澤』、『滝仲』、『堺戸』、『佐々』に『秋羽根』……うちの学校に、んな名前の生徒いねぇよな」


 様子がおかしいのには気付いていた。


 遠回しで不器用な励ましを受けた数日前から、どうにも動きが不自然で、本人は隠せているつもりだろうが違和感が拭い切れていなかったのである。何かを言いたげに、けれど踏ん切りがつかない、そんな様子。もし同年代の健全男子なら「もしかしてこれは!?」と恋愛フラグを大いに期待するところなのだろうが、残念ながら相手がタチの悪い自称詐欺師であることを知る彼としてはそんな可能性を考える前から切り捨てていた。


 その違和感が正解だと気付いたのは水曜日。いつものように帰路についた帰宅部男子である彼は、たまたま道の向こうを走っていくその人物に気付いた。しかし以前、彼が小学生の弟に導かれて(半ば強制的に)連れて行かれた家とはまったく違うルートである。その方向には高校生の好むようなこれといった娯楽は何もない。何となく気になって後を追ってみれば、このシェアハウスに辿り着いたというわけで。


 どこの店に道草するでもなく、シェアハウスに寄り道?


 疑問、疑問、疑問。いつもは勉強と、行方不明の従姉妹の行く末にのみ使っていた脳を無理矢理に起動して、彼は思考した。


 そして、考え始めて数時間。その日の内に、彼はひとつの言葉を思い出した。


『ふん、いいですよっ、そのうち先輩が泣いて平伏すようなスーパーお役立ち情報を手に入れてやりますからぁっ! 幸いその筋の情報がこれから増える予定ですんでっ、覚悟しててくださいよ? そのときはケーキバイキングに付き合ってもらいますからっ!?』


 ケーキバイキングって安いところは大体言い難い味だけど、高いところ行こうとしてねぇだろうなあいつ――――じゃなくて。


 問題は前半部分。


 泣いて平伏すようなスーパーお役立ち情報。その筋の情報筋がこれから増える。


 この二点だ。


 そして一つの推論に辿り着き、彼は昨日一日をかけて母校の卒業アルバムや生徒名簿を調べ上げて、その推論が正解であろうという確信めいた感情を得るに至っている。


 本日は先に彼女があの道へ急いだのを確認してから、別のルートを使ってシェアハウスへと辿り着き、様子を見ることにしたのだった。気分は探偵だが気は緩められない。もしも彼の推論通りなら、あいつは彼に黙って超有力情報源と接触していることになるのだ。その確たる証拠を掴み、問い詰めてやらねば気が済まない。


 その証拠を掴める日は今日では無いかもしれない。けれど、今日かもしれない。


 我慢だけは昔っから得意なんだよ、と少年は鼻を鳴らした。にたり、と企むような笑顔で、少し乱れた学ランの襟を直す。


「さて、あの詐欺師の嘘を見破るのは中々スッキリすっからな――――借りがあるのは嫌いだし、あの借りを返してひと泡吹かせてやる。これで成績下がって学年一位じゃなくなったら、あいつ恨み倒してやる」


 ひどく理不尽な文句を並べつつ、彼はオペラグラスの先に映る家を凝視し続けた。



 



 

 

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