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《戯言辞典》様、そしてメッセージを下さいました方(お名前を表記してもよいものか分かりませんので伏せさせて頂きます。もしもメッセージを送るとき、お名前をこのような場で表記しても良いかどうか記していただけると幸いです。お手数おかけします)ご感想ありがとうございました!!
なんだか急にアクセス数が伸びまして、一日で98アクセスとか来て腰が抜けそうです。ドッキリだと思いました。読んで頂けて光栄です!!
それでは、始まります。楽しんでいただけると幸いです。
今日で遂に五か月が経った。
ありったけの怨嗟と憎悪、そして苛立ちを込めた瞳で淡く発光するディスプレイを見詰めながらその瞬間を迎えた『彼女』の心は、静かに凪いでいた。吐き出せる感情は全て瞳に込めた。涙は枯れ果てた。もう、心にはただの空虚しかない。
『彼女』は座り込んでいた、薄汚い廃墟の床から立ち上がった。かつては古本屋の入っていた古びたテナントは、既に誰からも使われることを忘れてひどく埃っぽい。縦長の長屋の形で、両隣には潰れた電気屋と明かりの消えた個人塾の建物が迫るこの場所には、シャッターの閉められた出入り口以外に光を得られる場所は無かった。勿論電気は回っていないので、『彼女』の見詰めていた携帯端末と床に置かれた蝋燭以外の光源は無い。
仄かな明るさしか頼るべくものがないそこは、しかし『彼女』にとって最適の〈潜伏場所〉だった。このあたりの地区は過疎化が激しく、この古本屋の残骸だけでなくて周囲の商店はほとんどが寂れ、人影なんてありはしない。街の空気を知っているように荒涼とした風が吹き抜ける通りはシャッター街。だから、『彼女』がここにいる事を知る者は誰もいないし、『彼女』がここで何をしようと気付く者は無いのだ。つい一か月前に見つけたばかりのそこは、『彼女』の存在が唯一許された場所でもあった。
こつん。一歩歩けば、コンクリートの打ちっぱなされた壁に大きく反響した。それは余計に『彼女』の心を静けさで満たす。ここに自分以外はいないのだ、と安心させてくれる証拠の音。ただし、同時に『彼女』が未だに追い続ける『あの子』が傍らにいないことを示す、寂寥感を掻き立てる音でもある。『彼女』はまるでその音を振り払うように、長く伸ばして背中へ流した髪を払った。ぱさり。乾いた音だった。
『彼女』は手にしていた携帯端末の画面を切り替えた。それは『彼女』が五か月前に断ち切ってきた、あらゆる関係の証の詰まるアドレス帳。全部で百七十一件と表示された画面には幾つかのフォルダ名が表示されていた。
ひとつめのフォルダは『知人』。全部で三十二件。ふたつめは『友人』。合わせて二十九件。合計六十一件。
残りの百二件のうち、六十二件――――それはかつての『彼女』にとっては所属先であり、広義に於いての同胞であり、そして生まれついてから二十二年の内、実に十年を過ごした秘密の組織。そして今となっては、『彼女』の憎み忌み呪うべく敵となった秘密の組織で知り合った、数多くの人間の名前が書かれている。――――フォルダ名は、『MA』。
『彼女』はその文字を見た自分の手に力が籠もるのを感じた。しかし非力な女性でしかない『彼女』に、携帯端末など握力だけで破壊することは出来ない。どんなに激怒しても、床に叩き付けるか水に沈めでもしない限りは壊すことが出来ないことが、『彼女』にとっては歯痒いことでもあった。こんなに憎んでいるのに、その繋がりを文字として見せつけてくるこれを、壊そうと思えば壊せるのに壊せない自分を指摘されているような気分になるからだ。
『MA』のフォルダの次は、『同僚』。十一名の人間の連絡先が書かれている。桜散る四月、未だ悲しみに打ち震える彼等に何も告げず、一方的に姿を消した自分。何度連絡をしようと思ったか知れない。何度も彼らから連絡は来た。それでも、『彼女』は彼等の寄こすメールや電話に一度も応じなかった。
「……違う」
応じなかった、のではなく。
応じられなかった、のだ。
それは『彼女』が居場所を知られるわけに行かなかったということもあるし、もし一度彼等の声を、言葉を耳に目にしてしまったら、自分の中にある絶対の筈の誓いが瓦解してしまいそうだということもあった。加えて『彼女』が五カ月を使って計画し、実行していることは紛れもない「悪事」。連絡が取れれば必ず首を突っ込んでくるだろう同僚たちを、巻き込むわけにはいかなかった。
違う、それだって言い訳に過ぎない。『彼女』はそれ以上の思考が何かを見つけてしまうのを恐れて、もうひとつ隣のフォルダに切り替えた。
三十六件のそのフォルダのうち、『彼女』は一つの番号を選んで電話を掛けた。少しの沈黙を経て、『もしもし』と応答。若い二十代後半の男の物だった。
明らかに戸惑ったような、迷惑そうな声が間抜けに続ける。
『あのー、どちら様ですか? 戸辺(とべ)ですけど』
「…………」
『すみませんけど、電話番号お間違えじゃありません? ……あの、聞いてま』
「≪金属バットは様子見の凶器≫」
男の言葉を遮って『彼女』は淡々と告げた。『え?』と、男の困ったような声。しかしその戸惑いを無視して『彼女』は繰り返す。
ずきり、視界に二重円が展開した。高速で回る文字列の羅列は、言葉に乗ってその毒を撒く。
「≪金属バットは様子見の凶器≫」
男が沈黙した。それは事情を知らぬ、傍から聞いていただけの人間には決して理解できないだろう沈黙だ。呆れた沈黙でも、困った沈黙でも無い。
『彼女』の取り決めた、男の心と思考を縛る言葉が全身に毒のように回り、染みて、効力を発揮するまでの時間。彼の理性と本能が、『彼女』の言葉の力から抗おうと無駄な努力をする時間。
だがその沈黙は僅か三秒で終わった。男が言葉を発する。
『≪だから、僕は殺せない≫』
「そう。お疲れ様」
『…………』
労いの気持ちなど一ミリですら入っていない言葉に男は反応しない。『彼女』の取り決めた、いわば枕詞(まくらことば)に導かれて呟いた呼応の言葉はまるで人形のように生気が無く、どこまでも虚ろだ。そして、こうなってしまえば『彼女』が終了の合図の言葉を言わない限り、必要最低限のことにしか答えない。
本来ならそんな中途半端な『洗脳』を、『彼女』は好まない。『彼女』は誰かを操るにせよ、それが暴露されないように振る舞うように指示できるだけの実力を持っている。にも関わらず、こんな雑で荒いやり方になってしまっているのは不本意極まりないことだった。
しかしそれも仕方のないことだ。何せ『彼女』は今も、『洗脳』を続行している人間が他に十八人もいる。『彼女』の中で定められた優先順位の高い者である彼らの立ち振る舞いは完璧だが、キャパシティの限界に等しい十九人目の彼はそうも行かないのだ。その力を使っている間は、立っていようと座っていようと、喩え眠っていようと疲労が付き纏うのである。
『彼女』は彼からすれば≪知っている≫はずの……より正確に言うならば、彼の記憶に『彼女』が無理矢理覚えさせた電話番号からの電話で、≪まるで知らないように振る舞った≫男の戸惑ったような反応から結果を推測しつつも、依然冷え切った声音で尋ねた。
「様子見の結果を報告なさい」
『金属バットで襲撃を決行。時刻は午後九時十七分。〈庇護〉、及び未確認の人間二人を捕捉。威嚇攻撃を試みた際、未確認の現象が発生、行動停止。対処を思考し決行を決めるまでの間に、脳内に〈魔法陣〉の侵入を確認、意識停止。意識浮上時、襲撃時の記憶を遡行できず、警察に保護されていた模様。〈魔法陣〉は〈遮断〉の使用する物と仕様が一致。……以上』
「…………」
『彼女』はしばし沈黙した。どうせ成功しまいという意味で〈様子見〉とした行動指示だったが、どうやら厄介だった〈蒼炎〉の登場は回避できたようだ。前回はとある〈魔法使い〉を使ったが、その際容赦なくその人物が焼き殺されかけたことによる学習は成功したらしい。
向こうが一般人に手を出せないのは理解した。加え、この男が電話番号をさも知らないように振る舞ったのは向こうにいる〈遮断〉の魔法使いの仕業であることも分かった。
「…………記憶を『遮断』されたのね」
『…………』
この場合の沈黙は正解という沈黙。
得心行った。そしてこうして男を『洗脳』し直せたことから、〈遮断〉の魔法は『彼女』に破れないものではないという収穫もある。だが、まだ疑問点は残っていた。
「未確認の人間二名と、未確認の現象について報告」
『個体一、十代半ばの少女。個体二、十代未満の少年。現象、鉄壁の出現。その際橙色の発光を確認、少女の目に二重円の〈魔法陣〉出現を確認。情報にある〈魔法陣〉とは一致せず』
「名前は?」
『否。確認できず。但し少年は少女の弟にあたることが会話から類推。及び、〈警察〉という言葉から思考し〈魔法使い〉についての知識は浅薄であると思われる』
「そう。……≪魔法陣は糸の如く、遠方にて望遠≫」
情報を整理しながらそう呟けば、『彼女』の脳裏に夥しい量の情報が雪崩れ込んできた。男が襲撃を決行した際の記憶だ。対象の頭に洗脳の魔法陣と共に組み込んでおいて正解だったと思う。『彼女』の力は洗脳するだけではない……洗脳中の記憶の共用も、大きな利点である。
その情報を既存の情報と組み合わせ、未確認の二人の顔と現象の特徴とを叩き込んでから、『彼女』は電話口に告げた。
「≪この番号は悪魔の待つ門扉の開く合図≫」
『≪だから僕はその番号を皮相で忘れ、心の奥底で地獄を望む≫』
ぷつり。
男の言葉を最後に電話を切る。これによりあの男の洗脳は解かれ、今『彼女』と話していたことも、『彼女』の存在すらも表面上は忘れたように振る舞う。ただし次に電話を掛ければ、本能に刻みこんである洗脳魔法の発動によって電話に出て、また同じように機械的に受け答えのみをするのだ。
『彼女』は何も言わずに携帯の画面を見詰めた。これであの男の面は向こうに割れてしまった。一応保険として魔法は組み込んだままだが、もう彼を使う機会は無いだろう。
おもむろに画面を切り替える。それは『彼女』が二カ月をかけて調べ上げた、十人の≪魔法使い≫について纏めたページだった。
そこに並んだ≪魔法使い≫の名前を睨み、その横に記載した魔法名を凝視した。
魔法同盟関東支部64号局局長、小柳燐花(こやなぎりんか)。〈庇護(ガーディアン)〉。
同上、二番目の登録者、藤澤伊織(ふじさわいおり)。〈会話(トーク)〉。
三番目の登録者、滝仲瞬(たきなかしゅん)。〈従雷(ライトニング)〉。
四番目の登録者、佐々舞菜(ささまいな)。〈蒼炎(フレイム)〉。
五番目の登録者、境戸時尋(さかいどときひろ)。〈遮断(シャットアウト)〉。
六番目の登録者、小柳悠樹(こやなぎゆうき)。〈夢測(フォーサイト)〉。
七番目の登録者、秋羽根葉月(あきばねはづき)。〈色分(カラー)〉。
しかしどれも、男の報告した『鉄壁を出現させる』という魔法には当て嵌まらないものばかりだ。そもそも二重円ということは≪精神系≫に類されるのであろうが、この支部局に精神系は一人もいないし、個人が使える魔法は一種類に限られ、それ以外を習得することは絶対に有り得ない。それに、男の見た少女の記憶も見たが、収集した情報に載っている画像の誰でもない少女だった。
となれば、必然可能性は絞られてくる。つまり、外部の者だ。それも、警察が無意味であることを理解していない、ごく新米。少なくとも、『彼女』の警戒する他の支部からの応援ではないことは確かである。
『彼女』はそっと息を吐いた。またやることが増えてしまった。まずはこの少女の身元を特定すること。次に魔法の性質について。どうせあの支部に取り込まれてしまうだろうから、その魔法について考察と観察を重ねた上で対策を組み直さねばなるまい。
「……困ったな。まだ他にもたくさん、やることあるのに」
『彼女』の敵はこの七人だけではないのだ――――むしろ彼等はほんの序の口、『彼女』の本当の敵は更に上にいる。
画面をスクロールすると、他の七人に写真と簡単なプロフィールが記載されているにも関わらず、顔写真もプロフィールもなく、ただ列記されただけの文字列があった。あの七人よりもずっと前、五か月前から情報収集を始めているのに、これ以外のことは何も分からなかったのだ。どこまでも閉ざされた情報の海をそれでもと何度も潜ったが、全て無駄に終わっていた。
魔法同盟、三千人の魔法使いたち。全国に散らばるあらゆる支部を統括し、三千人の中からたった三人だけ選ばれる≪魔法使い≫の頂点。あらゆる魔法使いからの羨望の的であり、それになるためには血を吐いても足りないような努力と天から与えられた才能――――及び、強い魔法を得るために必要な≪最悪の経験≫を積んだ、最強の魔法使い。先代に直々に指名された彼等の情報は、指定されたそのときに名前と魔法名以外の全て……場合によっては魔法すらも隠蔽され、謎に満ちた人物となる。不思議なことに彼らが指名される前の姿を知る者はほとんどいない。
そして現在彼らの姿を確認するためには、新米魔法使いが現れたそのときにやってくる一人を見ることしか叶わない、そんな三人の人間。『彼女』自身も、現在の代の彼等を見たことはない。
名を、〈三人衆〉という。
あまりに捻りのないネーミングだが、シンプルなその名前は彼らを引き立てるようで上手いものだと、『彼女』は過去に思った。だが今はただの敵。しかもそれすら最終ステージでなく、『彼女』は現状彼等を嘲笑っていた。
何も知らない癖に、魔法使いの頂点、ですって。笑っちゃう。馬鹿みたい。
彼等は何も知らないのだ。突然世界から『あの子』を奪ったのは、彼ら〈三人衆〉の上に立つ全ての黒幕だということを。彼等はただ踊らされるだけの哀れな手駒に過ぎない事を、彼等は知らない。
くふ、と冷たい笑いが零れる。次第にその声は大きくなって、気がつけば壁に大きく残響しながら冷笑は嘲笑に変わっていた。その笑い声はとても愉快そうで、けれどどこか不愉快そうな、奇妙なものだった。
蝋燭が静かに揺れ、やがて消えた。携帯端末もスリープモードに入っていた。部屋から明かりが消え、どす黒い暗闇から響くのはただ彼女の嗤う声だけ。
「こっんにちは啓太先輩っ!! 本日非常にお日柄もよく、秋の紅葉観察には最適の季節かと思われますが先輩はひとり寂しくお外でお弁当ですか? 言っておきますがうちの高校に紅葉はありませんよ? ってああ、もういくつか枝が裸になってしまっているじゃないですか! なるほど、先輩の心は今あの木のようなんですね? 友もなく、愛しい人は行方も知れず。今日もまた彼女の姿を待ち望みながら、あいつの弁当美味かったなぁとか回想してらっしゃったんですよね? それはごめんなさい失礼しました、少しでもそのお方との時間を過ごしたかったでしょうに……ってそっか、ただの妄想でしたね、余計なお世話でした。では寂しい先輩のお友達として、お弁当をご一緒して差し上げましょう!」
「……お前マジで一回黙れ。それから向こうの池に顔突っ込んで死ね」
「あらやだ先輩っ、お昼時にそんな物騒なっ。平和なお昼休み、全ての学生の平穏の時間にそんなお言葉やめてくださいよー! 暴言は何も生みませんよー?」
「……少なくともオレの殺意は生まれたぞ」
はぁ、と先輩は齧っていた焼きそばパンを握り締めん勢いで手に力を込めながら溜息をついた。
本日は木曜日、≪魔法同盟≫との邂逅から三日が経過している。あれから特に連絡もなく、私はいつも通りの日常生活を送っている。
いつも通りの、退屈で、無意味そうで、何の価値も感じない授業を聞き流しての昼休み。たまたま廊下に出た私は、中庭のベンチで不機嫌そうにパンを食べる先輩を見かけ、ちょっと久し振りに声をかけたのであった。
相変わらずのぼさぼさ頭に鋭い目、黒い学ランの先輩に満面の笑顔を向けつつ、先輩の座るベンチに腰掛けた。距離は程良く、近すぎず遠すぎず。妙な勘違いをされるのは先輩が哀れだし、かといって赤の他人と見られるのは先輩が可哀そうだ。既に友達すらいないぼっち認定をされているっていうのに。
手にぶら下げていた弁当袋から二段弁当を取り出し、「いただきまーす」ときちんと合掌。まずはと日ノ丸ご飯をつつき始めた私に聞こえよがしに、先輩はまた溜息をついた。
「お前暇人なんだな」
「先輩には言われたくないですねー」
「定期考査近いぞ。お前、こんなとこで油売ってないで勉強すべきだろうが。お前の成績じゃどこの大学にも行けねぇぞ」
「将来のことなんて考えてませんよー。ま、ほら、やるときはやる女ですから、私? 問題ありませんね、ふっ」
「…………八教科中六教科赤点の癖に、よく言うよな。着実にお前の将来の道は閉ざされてるぞ。課題も出してないんだろ? そろそろ改めろって。これは人生の先輩からのアドバイスだ」
真面目腐った顔で言う先輩に苦笑して、私は返す。
「才能ある先輩からアドバイスされても、馬鹿な私には無駄だと思いますけどねっ! ていうかやる気が湧かないんだから仕方ないじゃないですかー。人間、やる気にならなきゃ何事も無駄なんですからぁ!」
「開き直るな。つーかお前勘違いしてね? オレは勉強の才能なんかないぞ。一日三時間勉強がデフォルトってぇだけだ。まるで何も努力しないで今の学力、みたいな言い方は気に入らねぇな」
すると本当に気分が悪いと言いたげに先輩が眉をひそめ、そう返した。そうですか、すみませんとだけ答え、またお弁当を食べ始める。
いや待て一日三時間とか何ですかアンタ、と言いたくなったが我慢。先輩はそんな風な嘘をつく人でもない。きっとそう言うからには、先輩は本当に努力をして今の学力を得たのだろう。悪い言い方をしてしまったなぁとは思ったが、私は誠心誠意謝罪しようとしても「軽い」と逆に激怒を買うことが多いので下手な謝り方はしなかった。
何だか意外な事実ではあった。才能があるからこそ、彼は普段から傲慢な立ち振る舞いなのだとばかり思っていた。では彼の人を見下したような姿勢は、一体何によって培われたものなのだろう。それを聞くような無遠慮な真似はしないが、いつか話してくれるのだろうか、とぼんやり思った。
沈黙したまま、お弁当を食べ進めた。唐揚げ、卵焼き、トマト……。自分で作ったものを激ウマとか過大評価するつもりもなく、今日はまぁちょっと塩っぽいかなぁくらいの気持ちで以って料理を胃に流し込むように食べていく。昼休みも中頃に差しかかり、グラウンドからは元気な声が響いてくる。校舎も賑やかな様相を呈し、またあちこちに明らかに恋仲だろう男女の姿や、楽しそうに笑い声を立てる少年少女たちの姿が見えた。
秋の微風が頬に心地よい。春のそれは生温かいが、秋のそれは肌寒くて好きだ。冬になると寒さが肌を突き刺すので嫌い。夏は暑いのが嫌い。こう考えると私って我儘だな、と心の中で笑みを零したところで、突然先輩がぽつんと呟いた。
「……今日、学校サボる気だったんだけどな」
「はぇ?」
学校を、サボる? この人が?
私は瞠目して先輩を見た。先輩は冗談とは言わず、手元にあった烏龍茶のペットボトルを一気に仰ぐ。いつもちみちみ飲んでいるこの人が、そんな風に豪快に飲むのは初めて見た。
驚いた私を視界の片隅に入れているのか、いないのか。先輩は徐に言う。
「ああ。東興(とうきょう)に行こうと思ってたんだけど、お袋と親父に今回はやめろって叱られてさ。無視して強行しようとしたら夜行バスに乗る直前で運悪く見つかっちまった」
「と、東興ですか……? どうしてそんなところに? 今更この国の首都なんか行ってどうするんです?」
あ、分かった観光ですね――――とは茶化せなかった。
そっと目を伏せて眉尻を下げた、今まで見たことの一度もない、ひどく悲しげで陰鬱な疲弊しきったそんな顔を見てしまったら、誰もそんなこと出来ないだろう。
絶句、というのが正しいだろう私に、更に先輩は言葉を重ねた。
「今日はあいつの……『なのは』の、いなくなった日なんだ。オレの目の前で、あいつが、消えた日」
「…………!」
「場所は東興都心、時間は夕暮れ時の四時半。時計を見たからよく覚えてる。その日はさ、あいつがオレに会わせたい奴がいるって言って、無理矢理にオレを東興に連れて来た三日目だった。学校なんか勝手に休みの連絡入れられて、皆勤賞逃したって文句を言って……、結局最初の二日は別に何でもない日だったんだ。けど、三日目に、先にその会わせたい奴に話をつけてくるって言って帰ってきた後、散歩に誘われて」
先輩の声は少しずつ力を失っていく。比例するように、その掌には爪が食い込むほどに込めた力が強くなっていく。私は何も言うことが出来ずに、ただ呆然とその光景を見ていた。
今はどんなざわめきも遠い。どんな雑音も聞こえない。
先輩が初めて私にした、大切な人を失った状況についての昔語り。
「散歩先の路地裏で、それは本当に急なことでさ……、前を歩いて与太話ばっかりしてたあいつが、急に振り返って、笑ったんだ。ご丁寧に手まで振って、にっこり笑って、」
啓太、ごめんねー。
わたし、ちょっと行ってくるのー。
帰ってこれないかもしれないけど、行かなきゃいけなくなったんだー。会わせたい子もいたんだけど、このままじゃ、啓太にメーワク掛かっちゃうからー。
だいじょぶ、すごく優しい人が、わたしにチャンスをくれるんだ。何もできないわたしに、何かが出来るチャンスをくれるのー。だから、心配しないで?
「……何にも出来なかった。ただ透明になってくあいつを見るしか出来なかった。手ぇ伸ばしたけどもう遅くて、叫んだけどあいつは笑うだけで、消えたらもう跡形もなかった……」
「……、先輩」
「あれから毎年、向こうに行ってたんだけど。……親父たちの言いたいことは分かってるよ、もういい加減忘れろって言うのはオレの為で、オレもそうすべきなんだって……いつまでも意味の分からない現象を追ったって意味なんかないんだって、わかっちゃあいるんだ」
でもよ、と先輩は続ける。
聞いていられないと思った。魔法を使うのも忘れていた。なんでそんなことを言い出すの、突然どうして話してくれたの。それじゃあ――――これまでの関係が、壊れるじゃないか。
そんな心の奥底の悲鳴は捻り潰した。
「≪答え≫が欲しかったんだ。あいつがいなくなった意味、あいつが言ってた言葉の意味、あいつがいなくならなきゃいけなかった理由。答えが分からないのは嫌だ。どんなに計算して、どんなにノートに纏めて、どんなに状況を復習しても分からない。そんなのは嫌なんだよ……これじゃ、これまでの三年間が全部無駄じゃねぇか。全部、全部、全部」
先輩はそう言って空を見た。まるで救いを求めるように、目を細めて。
その姿が、かつて見た誰かと被る。儚くて切なげな、朧で弱いそんな姿。あれは誰だったか、なんて思い出すまでもない。いつもは強くしっかりとして、地に足のついた人のこんな表情を見るのは人生に一度切りで良かったのにと歯噛みした。早く視線を外せ、外せと叫ぶ声がしたけれど、私はその顔から目が離せなくて、
「―――――せんぱ、」
「もう、あれかな、」
私の言葉は遮られた。
視線をふっと私に戻し、まるで彼らしくないお愛想の笑顔を浮かべた先輩の言葉に。
「諦めるべき、なのかと、思ってさ」
学校中に響いていた筈の喧騒が全て鳴り止んだような気がした。どくん、心臓が跳ねる。何それ、と思った。何だそれ、それは何だ。言いたいことは山程あるのに言葉にならなくて、私は喉を詰まらせた。どくんどくんどくん、続いて目まで痛くなってくる。どうしてこの場面で目が痛むのか、私には理解できなかった。もしかすると今、私は魔法を使っているのかもしれない。何を騙しているのか、それは分からなかったけれど、
「…………先輩って、頭悪いんですね」
私がやっとの思いで言えたのは、そんな素っ気なくて、励ましの言葉でも無くて、呆れた言葉だった。自分のボキャブラリの少なさに頭痛が起きそうだ。もう少し上手く言えただろう、と思う。
私のそんな言葉に、当然先輩は目を丸くした。私はそんな先輩から目をふいと逸らし、お弁当に視線を落とす。先輩と目を合わせるのは嫌だった。
「私より成績良い癖に大馬鹿者ですね。ていうかデリカシー無さ過ぎです。一回死んで来ればいいと思います」
「は、はぁ!? おまっ、人が真剣に……ッ」
「だってそうでしょう。全部無駄ってことは……、私と会ったことも、無駄だと。今先輩は言ったんですよ」
「…………、ぁ」
「いえ、いいですそれは、気にしてません。人間そんなものですし、先輩には誰より大事な人がいて、その人を取り戻そうと頑張っていたんですから、そんなことは些細なもんですけど……でもですね、貴方の三年間は無駄じゃあありませんでした。少なくとも私にとっては有益でしたし、巡り巡って先輩にも、もしかすると良い事があるかもしれないのに、そうですか、諦めるんですね。どうぞお好きに」
「ち、違っ、お前っ」
「何が違うって言うんですか」
私の口調はどこまでも冷たかった。それは私の弱い何かを隠すための、残酷な仮面。先輩をずたぼろに傷つける、最低最悪の仮面。そんなのは分かっていたのに、私の視線も声も、温もりが返らない。
「……何が、違うのか」
「ええ。諦めるんでしょう? 三年間は全て無駄だったから。捜している人は見つからない。きっと死んだものだと言い訳して、どうせ逢えないんだと壁を決めて、そうするつもりでしょう?」
「…………」
「別に私は言い訳も決めつけも必要なことだと思いますから、責めはしませんよ。事実私もそう。嘘とか、幻とか、仮面とか、そういうものを使ってようやく生きている詐欺師みたいなものですからね。でも先輩はそうじゃないって私は思っていました。どこまでも傲慢で偉そうで機嫌が悪く上から目線、小馬鹿にしたように人を嘲笑する、そんな人だと思っていました。あなたがどう変わろうと知ったことじゃないですけどね、」
正直者から嘘つきに堕ちるのは、辛いですよ?
死にたくなる程度には。
「まぁ、後どうするかはあなたが決めてください。もしあなたが諦めるって言うのなら、私は今後彼女に関するどんな情報を手に入れようとあなたに話しませんし、三年間を思い出してしまうでしょうからあなたとは関わりませんよ。そうじゃないなら協力関係は続行してもよいですけど、同じような弱音をまた吐いたら、協力者として使えないと判断して捨てます」
お弁当を食べ切る気にはなれなかった。
腕に巻いた時計を確認し、お弁当をそそくさと仕舞う。依然として視界に回る二重円が鬱陶しい。一体私は何を幻にしているというのだろう。私の言葉? それとも存在? あぁどっちでもいいや。もう何だか、暫くは、何でもいい。
久し振りな「どうでもいい」という感情を奇妙な感慨を以って発見しつつ、私はベンチを立った。そのまま先輩の前を通り過ぎて昇降口に向かおうとして、
「……待てよ」
先輩に腕を掴まれた。痛いくらいの力で。
「お前、オレが諦めるって言ったらどうするつもりだよ」
「今言いましたけど、聞いてませんでした? あなたには何も話さないと言いました。関わらないとも、言いました」
「嘘つきだな、お前は」
はぁ?
突然の言葉に思わず振り返れば、先輩は顔を俯けていた。表情を伺い知ることは出来ない。黒髪の頭頂部だけが見えていて、何だか新鮮なアングルだ、とぼうっと思った。
返す言葉を探している間に、先輩はまた、
「詐欺師、うん、あながち間違っちゃいねぇな。へぇ、なかなか的を射た言い方すんじゃん。お前は確かに詐欺師だよ」
「……あの、だから、何ですか」
「詐欺師にも人を応援することくらいは出来るんだな、と感心しただけだ。気にすんな」
私は首を傾げた。私は確かに詐欺師だが、私は誰かを応援したつもりはない。この流れでなぜそんな言葉が出てくる? さっきのは全部どう考えても突き放すような罵倒の山だろうに。
その様子を感じ取ったのだろう。先輩は、なぜかひどく楽しそうに口を開いた。
「いいよ、分かった。決めた。オレは諦めないことにするよ。結果が出ないのがちっとばかし長いだけだ――――努力が実を結ぶまでの時間の耐え方を、オレはよく知ってる。要領は勉強と一緒なんだよな」
「……なんでこの流れで諦めないになるんですか」
「後輩に遠回しな叱咤激励を受けたから、かな」
は? と今度は眉間に皺を刻んだ私を横目、先輩は立ち上がった。そして私の横に立つと、くしゃり、とまるで幼い子供にするように髪を掻き回す。ぎょっとした私が抵抗しようとしたところで、先輩は言った。
「悪ぃな、もう大丈夫だ。心配させた。あと、無駄とか言ったのは訂正。良い後輩を持ったよ。さんきゅな」
「い、いきなり何ですか!? キモいんですけど……っ!?」
しかし私の辛辣な言葉に、先輩はいつものにたぁっという、企むような笑顔を投げた。愛想笑いでも、泣きそうな顔でもない、いつもの啓太先輩の笑顔。
「うっせ。期橋はもーちょい性格直せよ。詐欺師を自称する女子高生とか中々キャラが濃いぜ? つぅかイタイな」
「……あんなセンチメンタルに語る男子高校生も、相当キモいと思いますけど。漫画とか小説じゃないんだから、あれ困りますよ対処に」
「ほう、その割には上手いことを言ったよな、お前。よし、お前死ねとキモいって何回も言ったから、後でメシ奢れ。そのうちオレも奢ってやる」
「はぁ!? 嫌ですよっ、なんで私が奢らなきゃならないんですか!? 後輩に奢らせるとか最低です! それだから友達も彼女もいないんだ、このぼっち!」
「昼休みにそのぼっちの相手をしに来るお前もぼっちだろーが!」
ああ言えばこう言う、そんな軽口の応酬。いつものその光景に、何故だか私はホッとしていた。
後になって考えた――――そして気付いた。私が先輩に全てが無駄だったと言われた時、最初に『私と会ったのも無駄だったんですね』と言ったのは何故か。どうして突き放したのか。どうして『協力者として使えない』と言ったのか。
そしてどうして、自分から、自分は嘘つきの詐欺師であると暴露したのか――――その理由は全部、ちゃんと私の中にあった。
けれどこのとき私はそんなことを理解していなかったし、思考すらしようとしなかった。ただそこにあった関係性を大切にしたいとだけ思ったような気がする。
何も変わらずに見えたこの関係は、しかし少しだけ変わっていた。
「ふん、いいですよっ、そのうち先輩が泣いて平伏すようなスーパーお役立ち情報を手に入れてやりますからぁっ! 幸いその筋の情報がこれから増える予定ですんでっ、覚悟しててくださいよ? そのときはケーキバイキングに付き合ってもらいますからっ!?」
「おういいぜ、受けて立ってやる。精々頑張れよチビが」
「チビ言うなボサボサ! むしろボサノバ!」
「あぁ!? んだと期橋ッ!?」
私はすぐには気付かなかったが。
二つの変化のうち一つは、先輩が私の苗字を呼ぶようになったことである。
「…………、仕事、っつったか? リンカ」
「うん、お仕事、お兄ちゃん。明日、新人さんとトキヒロくんとイオリくんとササちゃん連れて、お仕事。依頼。アンダースタンドした?」
「してねェ。……リンカ、今週の俺のシフト知ってるか」
「明日以外全部夜勤も昼も朝も入ってるんだよね。でも明日はお休みだよね」
「つまり俺の唯一の安息日だ」
「そうだね。だから気分転換がてら、19支部局に行ってきてよ。新人さんの初依頼っていうことで、相談を聞いて詳しい事を聞いて、解決方法を考えるだけの簡単なお仕事だよ」
「それにトキヒロもイオリもササも連れてって、俺も行けってことは、それなりに危ないんじゃないのか」
「大丈夫だよ多分。さ、お兄ちゃん! 可愛い妹からの頼みだよ? 引き受けられない? 嫌?」
「……う、ぐぅ」
怒濤の勢いでリンカがそう尋ねれば、男は言葉を詰まらせた。
支部局内のリビングで、明らかに怪しい話を持ちかけるリンカを、他のメンバーは苦笑いを浮かべて眺めていた。どう考えたってこれは支部局長の無茶ぶりで、本来バイト詰めの彼を仕事に駆り出すべきでないのは誰もが承知の上。それでも彼を連れていきたいのは、もしも何かの不意な攻撃で魔法で対抗できないような事態に陥ったとき、魔法なしでも相手を制圧できるだけの技量を持つ人間が必要だと判断した為である。今は襲撃者も多い。何かあっては、非常に困る。
だからこそ、リンカは誰よりも信頼を置いている実の兄に、それを任せようと懇願しているのだった。
数々のバイトで浅黒く焼けた肌、耳にはピアスが光り、おまけに大きく前を開いた派手なシャツ姿の彼でまず特筆すべきはそのずば抜けた背の高さ。大男、というくくりに間違いなく入る長身だ。この男を見ると誰もが、「ああ、リンカはこうならなくてよかったな」と安心する。
そして次に、濃い不健康な隈の浮かぶ、鋭すぎる目だった。刃物のように鋭利で荒んだ雰囲気を纏わせるそれは、小生意気な子どもを黙らせるのには睨まなくても十分なほどに獰悪(どうあく)。不良と言っても足りない、極道と言うにもまだ足りない、修羅のように険しい顔つきの男だった。
しかし小学生の少女にとって最大級の効果を込めた≪ゴクドーさん≫のあだ名を拝命した彼は、しばしの沈黙の後に、疲れたように了承した。
「わぁったよ、行きゃァ良いんだろ。行く、行くよ、行ってやらぁ」
「さっすがお兄ちゃん! ありがと、助かるッ!!」
「……どうせどう頼まれても引き受ける癖にねぇ」
喜ぶ妹をしり目、シュンはぼそりと呟いた。ササもトキヒロも頷き、イオリも「ね」と口を揃える。
彼の名は小柳悠樹(こやなぎユウキ)。
ゴクドーさんと小学生に呼ばれることとなった、極悪人顔の、但しやることは比較的善良な男であり、そして支部局長リンカの実兄である。
捕捉ですが、枕詞とは古典文法の一種です。歌などである言葉を導くために必要になる言葉のことで、一例ですが、日本百人一首の一首である、
「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
長々し夜を ひとりかも寝む」
という歌があります。この中の「あしびきの」は、「山鳥」を導くためのものとなります。
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