4 乾いた冬の夜
おおよそ二年ぶりの、更新再開となりました。
不定期にはなりますが、今後も更新を続けていくことになるかと思います。
お待ちいただきました方々、申し訳ありません。
でも見てやるよ、という方々に、最大の感謝を。
「…………そこに、誰か……いる、の?」
冗談でしょう。
と、反射的に思ったのは当然のことだった。
なにせここ数年、彼女は他人に声をかけられるという体験がほとんど途絶えている。彼女側から、彼女を認識できる唯一に声をかけることはあれど、あっちから声をかけてくるのはまばらだ。それ以外の人間に至っては、まず彼女の存在を認識することが出来ないのだから、声をかけるも何もない。
だが、末路なのはは。
バタバタと慌ただしく執務室を出ていった、彼女を認識する唯一の少年を見送って、ぺたりと床に座り込み執務机に背中を預けて、暇つぶし同然に書類の紙束をめくっていた彼女は――確かに、何者かに、声をかけられたのだ。
聞き慣れた彼の声ではない。
冷たい鉄のようでいて、その実、よく聞くと柔らかな響きも拾える、サトリの声ではない。
明らかな不信感と、疑いと、警戒心。それから目に見えぬ何者かへの少しの怯えが聞いて取れる、まだ若い少年の声だった。
(――――、)
咄嗟に口を塞ぐ。
魔法で〈塗り潰されて〉いる以上、彼女の息遣いすらも他者には認識できぬはずだったが、それならば「この部屋に誰かいる」なんてかの少年に分かるはずもない。脊髄反射の要領で、背中を丸め、足を抱え込み、体育座りみたいな姿勢で気配を押し殺す。
「…………誰か、隠れてる……? そういう魔法の使い手なのか?」
違うですよ、一般人ですよ――と名乗りを上げてやりたかったが、さすがのなのはもこの事態を能天気には捉えられなかった。きし、と、床が小さく音を立てる。部屋の入口で立ち止まっていた少年が、影もなき誰かを探して、執務室の探索を始めたのだ。
(……おかしいなぁ)
どうして少年は、なのはの存在に気がついたのだろう。そんな疑問が頭をもたげる。
サトリの魔法が、よもや、途切れたのか。
一瞬そんな仮説が浮かんだが、彼女はすぐにその可能性を打ち消した。なにせ、なのはがいるのは、部屋の入口であるドアから真正面の位置なのだ。彼女が背を預けるのはドア側に向いた執務机であり、しかも少年がドアを開いたとき、彼女は無作法にも足を投げ出して床に座っていた。……もし魔法が途切れてしまったなら、その姿を真っ先に見られて、誰何の声を上げられたに違いない。
けれど彼は、なのはの姿は見えていないらしい。彼は訝しそうに慎重な足取りで部屋の隅を歩き、どこかにいる誰かを、探している。
太陽は沈みきって窓の外は暗く、月明かりが差し込むにはまだ早い暗がりの時間帯。しかも相手は深く帽子をかぶっているようで、少年の顔立ちを見ることは、なのはの側も叶わなかった。
(見えてない、でも、私がいることが、分かってる? ……どうやって?)
真っ先に思い浮かんだ候補は、五感のどこかが過剰に発達した魔法使いである可能性。だが、透明人間になってすぐ行ったテストで、該当する魔法たちは誰も彼女に気づけなかったことを思い出す。
では空間認識系の魔法使いか。存在を塗り潰されるといえど、そこに物体が存在するのは確かなのだから、もしかして空間の歪み的な何かが――いや、それは違う。途中で思考回路を打ち切った。
なのはの認識では、サトリの〈重塗〉とは、文字通りの塗り絵だ。
そこに在ったものを上から潰して、ほかの何かを重ねて、見えなくしてしまうもの。
見えなくなったものは、ある意味通常の人々が見る世界より一層下の「塗られた場所」にぽんと落ちて、表面層の人々の目には触れなくなる。だから、サトリにとってなのはというのは「存在する」けれど、表の人間にとっては彼女は「存在しない」ことになる。
だから、なのはは紙ゴミの山を見ることが出来るが、執務室を訪れる他人――たとえば、サトリの幼馴染である可愛らしい少女ふたりとか――は、紙ゴミの山に気づけないのだ。
まぁ普段のサトリも、あまり「こちら側」を意図して見ようとしないので、紙ゴミの山なんて無いも同然という認識らしいけれど。
つまりはそんな感じの理由で、空間認識系の魔法使いだとしても、なのはに気づく理由にはならないはずだ。
ではなぜ、彼はなのはに、気づいたのか。
この二年間絶対に有り得なかった事態に、心臓が早鐘を打つ。彼女の存在がもしも露見すれば、危ないのはなのはじゃなくて、彼女の恩人だ。まだ中学三年生なのに本来必要のない心労を背負って、気張りながら立ち続ける、あの子だ。
あの子は自分の魔法が機密ものだからとか、一般人を巻き込んだと知られれば面倒だとかなんとか言っていたけど、それ以上に。
それ以上に、なのははきっと、彼の前から居なくなってはいけないのだ。
密かな確信が胸にある。もし彼女が居なくなったら、彼が何をしてしまうか、なのはは本能に近しい部分で感じ取っていたから。
だから、絶対にこの場を凌がなければ。
「…………、どこだ」
大人しく出てこい、なんて言葉を落とす少年。出ていけないよ、出ていけない。むしろ君にお早く退場願いたい。心から願いながら、暴れそうな心音を何とか抑え込む。
そもそも、この少年は誰なのだ。
なのはの中に新たな疑問が満ちる。
サトリは今日、客人がある、ということは言っていなかったはずだ。だが少年は現れた。しかも、サトリが締めていったはずの鍵を平然と開けて、だ。
この部屋の合鍵を持っているのは、記憶通りなら彼の幼馴染たちだけのはず。だが、ここにいるのは少女でなくて少年なのは、体格からして間違いない。顔は見えず、緊張しているからか声は掠れているけれど、少なくともなのはが目の前に立ったことのある人物ではないはずだ。
(……なんか、どっかで聞いた声のような、気もするんですけどー)
明確に、思い出すことが出来ない。
そもそもなのはの記憶能力は割と底辺である。特に人の顔と名前、声を覚えるのは苦手だ。面識のある相手に「初めまして」をやらかしたのも一度や二度ではないため、記憶力にはめっきり自信がなかった。
サトリの顔見知りではあるかもしれない。
けれど、今日の約束はない以上、もしかしたら彼はいわゆる「不法侵入者」なのではなかろうか。
二つの葛藤がバチりとなのはの中でせめぎあうが、呼吸を殺すことは忘れない。彼が仮に不法侵入者だとして、相手方にこちらの存在を確信させないまま、なのはに出来ることはとても限りがある。というか、至難の技に等しい以上、軽率な行動に出るのは早計過ぎるのだ。
(……どうしよう)
選択肢はみっつ。
ひとつ。このままやり過ごす。
ふたつ。隙を見て部屋を抜け出し、サトリを探しに行く。
みっつ。こちらから、少年に対して何らかのアクションに出る。
選べるとしたらこれくらいだが、
(どれも、私のことに気づけないって前提条件になるよね)
やり過ごそうとして見つかっては本末転倒だし、サトリを探すために動いた段階で気づかれれば上記同様。みっつめに関しては、魔法使いだろう相手に素人であるなのはが対処するには無理がありすぎる。そしてやはり、気付かれれば拙いのは変わらない。
どうやって相手がこちらに気づいたのか、さえわかればもしかしたら対処の仕様はあるかもしれないが、それも博打すぎる賭けではなかろうか。なのはが秤にかけるのは、この場を切り抜けるための対処法と、恩人への配慮。どちらが重いかなぞ言うまでもないが、だからといってもう片方を疎かにしていいわけはない。
生憎とこの執務室に逃げ場などと上等なものはなかった。壁を書類ファイルが詰め込まれた本棚に囲まれ、執務机があって、椅子があって。ただそれだけの簡素な部屋なのだ。隠し扉とか秘密の抜け道とか、そういうワクワクする遊び心のある仕掛けは何にもないらしい。
なのはが対処を決めあぐねる間に、少年は部屋をぐるりと一周し終えていたが、依然不審感は拭えていないと見える。警戒を緩めない様子であちこちに視線を投げるが、やはり、その目はなのはを見つけてはいなかった。
「……?」
落ち着かない様子の少年をじっと見つめていたなのはは、彼の緩く開いた手のひらの先で――正確に言えば開かれた指先に、薄青く発光する六角形の図形を見てとった。恐らくあれは魔法行使中であることを示す、魔法陣とか、そんなふうに呼ぶものだ。かつての旧友から仕入れた知識だと、実在したとされている魔術の方式に置いて、魔法陣は床に書くものだったらしい。だが彼らの使う「魔法」では、書くまでもなく現れる現象のひとつとサトリに説明されたことがあった。
あ、と思う暇もない。
なのはがその図形を認識し、少年が何かの魔法を使おうとしていると思い立ったその瞬間、狭い執務室内に刹那の雷光が満ちた。
「う、わっ」
バチっと弾けるような音。眼を灼くような青いひかり。それを例えるならば、電気パルスというイメージが正しかろう。弾け飛んだ電流のきらめきに思わず片腕をあげて目を庇うが、視界はチカチカと明滅して止まない。
(でんきの、魔法)
反射的に息を飲み、なのははようやく、目の前の少年がどんな素性の人物かを理解した。
電気にまつわる魔法を使うひと。それは、魔法同盟の現在にあってただ一人。シンプルな落雷とも、ただの電撃使いとも違う、表向きの存在を抹消された〈名前消し〉。
その名を、彼女は聞いている。
他ならぬ鳩木サトリから。
(うわ――やっちゃった、かな)
最も秘密のバレてはいけない最重要警戒対象の少年。
滝仲、シュンだ。
口元が引き攣るのを自覚したなのはに追い打ちをかけるがごとく、少年は茫洋として定まらなかった目線をぐるりとこちらに向ける。
彼の瞳孔に、なのはは映らない。
けれど彼は、揺るぎなき確信と、同じくらいの動揺を混ぜ込んだ声音で、再び糾弾するような問いを放った。
「――やっぱり。そこに、誰かいるでしょ」
「……あう。雷落ちるの、確定、ですねぇ」
ぼやいた声は、一層の壁を隔てて世界を見ている少年には届かない。
どうしたものかと決めあぐねるなのはの口から、拾う者などいない嘆息の言葉が漏れた。
□ ■ □
静けさというのは、時に痛いものだ。
その場に自分以外の人間がいて、何かしら言葉を交わさねば気まずい空気になるが、会話が続かないとか話題を捻出できないとかの理由で沈黙が下りることはままにしてある。
ごく普通の人々にとってもそうなのだ。
普段からお喋りを装い、必要以上に言葉数を多くするよう心掛けている自称詐欺師のキサにとっては、なおのこと痛いものである。
「…………」
「…………」
魔法同盟本部の一室。
一般の魔法使いたちにも解放されている東棟五階、廊下の突き当たりにある、休憩室代わりの空き部屋だ。置かれた家具は中古のボロいソファが数脚とローテーブル。県営住宅時代の名残で、水回りの設備や台所は残っていたが、あまり積極的に自炊を行う利用者は少ないようで使われた痕跡はほとんどない。
そんな空き部屋の、かつてはリビングルームだったろうフローリング敷きの空間に、微かな息遣いが響いた。
すなわち一人は、キサ本人のもの。居心地の悪い空間に無意識で呼吸を詰めていたらしく、ふっと息を吐き出す。次いで吸い込んだ空気は冷たくて、思わず身震いしそうになったのを慌てて幻で覆い隠した。自分が少しでも身じろぎして、他の二人の視界に留められるのは、彼女のいつも通りなさがだが好ましくない。
もう一人は、壁際に鎮座する一人用のソファに身を沈める少年――トキヒロのものだ。
彼はじっと、何かを考え込んでいるように見えた。暖房といえば一世代前のヒーターだけであるこの部屋の空気は寒々しく、寒がりらしいトキヒロはマフラーも上着も脱がない。目を細めて、背中を丸めて、なにがしかの思考の海に沈んでいるらしい。
普段は、トキヒロと二人でいるぶんには、沈黙はさして苦にならないことが多い。
大概くだらない発言で日々の九割を暮らすキサだが、どうもトキヒロは、キサが魔法を常用することにあまり良い心持ちではないらしいのだ。
この場合の「よくない心持ち」とは、イオリの解説に曰く、魔法によって自身の顔色や反応を偽るという行為そのものに掛かるのではない。「魔法を普段から使いまくることで目を痛めてはいないか」という杞憂に由来するもの、らしい。
「……それ言ったら、みんな、キサのこと……心配だ、けど」
なかでもトキヒロは口うるさいよ、と、イオリにしては珍しく眉間に立て皺で物申されたのは記憶に新しい。
思えば、星観タワーでの事件の後も、彼はしょっちゅうキサの眼について問い質してきたし、そもそも事件直後の再会ではちょっと大仰なほどのリアクションを取られたし(あのときは本当に驚いた。後から振り返ってみると、思っていた以上に羞恥を煽る出来事だった)。もしかしなくとも、トキヒロは心配性であるらしい。
加えて、キサの魔法の仮面は、会って幾ばくもしない頃に看破されてしまっている。
自ら魔法を語り、自身を詐欺師であると解き明かしたあの夜。それのせいか、キサはほんのちょっとだけ、トキヒロの前で魔法を使う頻度が減っていた。
自分の素顔を図らずも知った相手だから、なのか。
魔法を使うとヤケに心配されてしまうのが億劫だから、なのか。
あるいは、なんとなく、気負いしなくていいような気持ちになっているから――、なのかは、まだキサにとっても判断をつけかねるところではあるが。
とにかくそんな感じの理由で、魔法を使うことを控え気味にしているキサは、トキヒロと同じ空間にいるときは口数少なくなることも多々あるのだ。
何せ、相手が喋らない。
気がつけば菓子パンを貪るか昼寝しているかのどちらかで、彼側から話題を振られることもほとんどないから、キサも話題はあまり振らない。口を高速回転させずに済むのは、ちょっと気楽で、かなり不安なのだけども……、それでもキサは彼に合わせて、口数を減らすことを選んだのだった。
とはいえ、だ。
今日は状況が状況である。
あまり落ち着いているとは言い難い精神状態のキサは、考え事の海に揺蕩うトキヒロに声をかけることもできず、さりとて淡々と黙していることもできず、ありていに言えばそわそわしていた。
窓に引いた古ぼけたカーテンを透かして、室内にはわずかな月光が落ちる。
そっと開いた携帯電話が示す現在時刻は、夜の八時過ぎ。
日の沈む頃合にコハルから緊急任務の内容を告げられたキサたちは、そこから三時間ほどを任務に当たる上での作戦会議に当てていた。残ったのは作戦指南担当でコハルと、キサ・トキヒロの二名だ。そのときの、端的に指示を飛ばすコハルの硬い表情、トキヒロの珍しく緊張した面持ちが何を示すかは、キサにとっては自明である。
――ササが、二週間の拘留処分を喰らったからだ。
コハルが曰く。「大事な戦力である彼女を、失うわけにはいかない」と。
「…………、」
キサはにわかに回想する。
魔法使いたちが持つ魔法とは、すなわち、過去に各々の負った「精神の傷」の具現だ。トラウマがカタチになったもの、と言い換えてもいい。彼女自身の〈虚構〉がそうであるように、魔法の多くは使用者の精神的傷口を抉る。誰が考えたのか知らないけれど、悪趣味極まりない奇蹟の行いだ。
ササは蒼い炎を手繰る、苛烈な魔法使い。
そして今回の任務の捜索対象は、ランク5の連続放火犯、〈全焼〉。
トキヒロの表情の変化、ササの反応を見れば、いちいち言われなくたってわかってしまった。
〈全焼〉は――ササの憎むべき仇なのだろうと。
そういう相手を前にしたとき、一見大人しそうに見えても短気で熾烈な彼女がどんな手に出るかは安易に予想がつく。いくら普段が落ち着いているといったって、彼女はまだ中学二年生の少女に過ぎない。ササのことを知る人物なら、きっと誰もが最悪の事態を想定するに違いなかった。
だから、彼女が暴走するのを防ぐために、魔法使用を妨げる仕組みが為された部屋にわざわざ留め置いて、特製アイテムで腕まで拘束して、二週間の長期にわたって本部拘留とする――多少やりすぎな気もするが、ササは魔法使いでも相当な火力の持ち主だと聞くし、それぐらいしても警戒が必要なぐらいなのかもしれない。
そして、今こうして空き部屋にキサたちが詰めているのは、ササの荷物を取りがてらリンカたちに事情を説明しに帰ったミイの帰りを待っているからだった。
別れ際、盗み見たササの表情を思い出す。
今日は朝から不機嫌の極みみたいな様子の彼女だったが、あのときの顔は違った。そう、なんだか、何も見えていないみたいに視線が茫洋としていて――、
「…………腹減った」
「ふぁいっ⁉」
背筋に氷を入れたような感覚に震えた直後、ぽつりと落とされたトキヒロの独白があまりに唐突だったので、キサはぎょっとしてソファから飛び上がりかけた。
「……なんだよ」
先ほどまでの真剣な表情はどこへやら。胡乱な顔でキサに視線を投げた彼は、もぞもぞとローテーブルの上に手を伸ばす。無造作に投げ出されていたコンビニのビニール袋を取り上げたかと思えば、中に入っていた菓子パン数種類を一気に出して、びりりっと封を破り始めた。
ちなみに現在ローテーブルの上にあるパンやらおにぎりやらカップ麺やらは、この空き部屋に最初から備え付けられているものだ。何かと慌ただしい本部では、魔法使いたちの急な泊まり込みや滞在延長などが多いらしいのだが、あいにくと本部周辺に食材を調達できるような場所はない(コンビニやスーパーの類も電車で一駅行った先だが、この場所の『一駅』が百茎の一駅と同列でないことは確かである)。そういうわけで、事務方担当のメンバーが、定期的に食材を補充しているそうだ。
「……ごはん?」
「ん。腹減った。あれこれ考えてたせいで、糖分が足りてねぇ、っていうか」
「なるほど。それで……」
おう、と短く返事をして、トキヒロはコンビニコッペパンにかぶりつく。がぶっというイイ音がしそうな大きな一口だった。思わずジト目で眺めていると、あれよあれよという間に凄まじい速度で一つ目を完食。次にメロンパンの袋を開けて、もぐもぐもぐもぐ。
食材を頬袋に溜め込むリスかよ。
思わず「ふはっ」と気の抜けた笑い声をあげてしまった。
乙女が夜八時に食べるのはちょっと躊躇うラインナップの菓子パンを、黙々とかっ食らうトキヒロの図は、なかなかに壮観だ。「うわめっちゃお腹空いたんだけど」と思わずぼやけば、彼はひょいとテーブルの上を指さして「食えばいいじゃん」という。
だが、コンビニ袋の中にあるのは、エネルギーの塊ですと主張せんばかりのどっしりしたパン類とか味の濃そうなカップ麺の類ばかりだ。キサはむぅ、と眉をひそめる。
「えぇー、ヤだよ、キサちゃん太りたくないですー」
「んぐ……だってお前、まだメシ食ってなくない? 腹減らないの」
「だからお腹は空いてるんだよ! でもそれすごく重そうじゃんカロリー凄そうじゃん! ちょ~っとね、こうね、花の女子高生がこの時間に食べるのはね⁉」
「食わないよりマシだろ……そこのサンドイッチは?」
「カツサンドとかへヴィ級のデブ活では」
「それじゃおにぎり」
「よりによって牛カルビじゃん……!」
どういう選び方をしてきたんだこれは。うう、と下唇を噛んでコンビニ袋を転がる食品たちを睨みつけると、トキヒロが呆れたようなため息をつく。訳が分からん、と言いたげな表情だ。
だが、こちらにも譲り難いものはあるのである。腕を組んでむーむー唸っていると、不意にため息をついた彼がずい、と何かを差し出してきた。
「んじゃこれ。惣菜パンだから少しはマシなんじゃねぇの」
どうやら取り出したパン類の中に混じっていたらしい。差し出されたのは、『ツナマヨとチーズのコラボレーション!』とプリントされた、手のひら大に丸っこい商品だった。
「おお!」と歓声を上げてキサは飛びついた。ちょっと重たいような気はするが、他の甘ったるそうな菓子パンを食べるよりは幾分気持ちが楽だ。
「うわーい、ありがとうとっきー! これでとりあえず餓死は免れるね!」
「一食抜いたくらいじゃ誰も死なねぇって」
「えー、とっきーはなんかご飯抜いたら大変なことになりそうだけどなぁ」
細身だけど大柄な体格と見合う食事量ではあるのだろう。が、彼女の中でトキヒロは、暇さえあれば日がな一日なにかを食べているようなイメージが大きい。その八割を菓子パンが占めるというから彼の偏食たるやであるが、本人曰く、菓子パンが一番エネルギー摂取に手軽で好きな食べ物というだけで、出されれば大抵なんでも食べるらしい。
そんなこともあって、支部一番の大食漢な印象の彼から食事を取り上げたら……と想像したキサは、大袈裟に身震いしてみせた。
「まず絶対機嫌が悪くなるでしょ。ただでさえ怒ると怖いとっきーがご飯を抜くんだよ? それってもうホラーじゃないですカ」
「……俺って怒ると怖いのか」
「えっ何自覚無かったの⁉ フツーに怖いんですけど! 身体おっきいし声低くなるし怖いに決まってるじゃない⁉」
「…………初めて言われた……」
トキヒロはなぜか驚いたような顔をしてキサを見つめた。キサとしては自覚がなかったことに驚きだ。支部の皆に指摘されたこともなかったのだろうか。半年前に知り合ってから、割と彼の怒り顔を見かける頻度は高かった(とてもキレやすいケイタほどではないにせよ)はずなのだけれども。
と、ここでキサはふと思い至る。
もしかして、自分がいると彼は怒るんだろうか。
思えば支部メンバー全員と良好な関係を築いているらしいトキヒロが、そう怒り散らす理由もないわけだし、局員たちはやもするとトキヒロの怒り顔は「レア」だと思っているのかもしれない。かえって自分はといえば、日常からおどけた言動ばかり繰り返しているし嘘を常用しているし根暗めだし卑屈めだし……あれ、割と彼の怒りを買いそうな事項ばかりのような。
とすると、そろそろ振る舞いを再考する必要があるのでは。キサは青褪めそうになった顔を隠すため、咄嗟に目に力を込めて魔法を発動させた。かぶせる表情は何も気にしていなさそうな呑気な顔。トキヒロに魔法の使用がバレないよう、カムフラージュも兼ねてツナマヨチーズパンを開けてかぶりつく。
もし自分がトキヒロを怒らせているなら、治さないと。焦燥めいた気持ちが心中を過ぎる。波風を立てたくないから他人を怒らせぬように立ち回るのは慣れっこだったが、此度は少し方向性が違う焦りの気持ちだった。理由は……ぼやけて判然としないけれど、彼を怒らせるのは、なんだか嫌だ。
とりあえず家に帰ったら何が問題だったのかよく考えよう。自己嫌悪に近い、不快に泡立つ泥のような気分に陥りかけて、キサはきゅっと拳に力を込める。噛み締めたツナマヨチーズパンの味もよくわからないまま嚥下し、とりあえずさっさと食べて胃袋に
――が。
「なるほど。分かった。そういうことか」
トキヒロが不意に吹き出すように笑って、彼女は反射的に顔を上げて、そしてそれを後悔した。
なぜならその拍子、彼とがっつり視線が合ってしまったからである。
口角を少し上げ、どうしてか、ほんのちょっと嬉しそうな笑みを刻んでいる彼は、どうもずっとこちらを見ていたらしい。ということは、多分魔法の発動も見抜かれているわけで。
「……っ!」
視線に気づけないとは、流石にぼんやりしすぎじゃないのか、私。無意識下で身体を引いて顔を引きつらせたキサに、トキヒロはあっけらかんと笑って言う。
「別にキサが怒らせてるってわけじゃない。ちょっと気が抜けてただけ。多分だけど、無意識に気を抜いてただけだから、余計なこと考えなくていーんだぜ」
「えと……それは、その?」
どうにも要領を得ない発言で、キサは思わず問い返した。
すると彼はぐっと眉根を寄せて困ったような顔になる。珍しく、言葉選びに迷っているような様子だった。片腕を上げて髪をぐしゃぐしゃと掻き交ぜる動作は照れくさそうな様子だったが、キサにはその意図がまだ汲み取れない。
口を噤んで言葉を待つキサから視線を逸らしつつ、トキヒロは、「あー」と意味のない声を漏らす。
「だから、こう、……俺、普段はあんまり、気持ちが顔に出るってないんだけど。怖がられるくらいには怒ったときが怖いんなら、ちゃんと顔に出てるってことなんだろうし……、ってことは、お前の前で、意識してなかったけど気が抜けてたってことで……、つまりだな。お前が思ってるより、俺はキサに気を許してるって、言うかだな」
「…………ちょっと待とうかとっきー」
「いやー気づかなかった。そうか。俺、怒りっぽくなくなったと思ってたけど、そういうわけじゃなかったんだな……顔に出なくなっただけなのか。キサ、人のことよく見てるんだな」
「うわーとっきー何急に、褒めても何も出ないからね! どうしちゃったのかなトキヒロくん⁉」
何を言い出してるんだこいつは。
軽い気持ちで触れたらダメなタイプの爆弾だった。
頭の中が一瞬で混濁したのがわかる。うわぁキサちゃん大ピンチ。久方ぶりに全力で魔法を発動し、とても人に見せられたものではない混乱した表情を覆い隠す。からりとした笑顔を浮かべて見せたが、それは虚構の表情に過ぎない。キサ本人はそれどころではなかった。
気を許しているから、怒った顔を見せられる、とでも言いたいのだろうか。トキヒロは。
まるでそれは信頼の証だ。まるでそれは親しみの証左ではないか。
こんな、詐欺師を自称するような自分を前に、彼はよくも。困惑と動揺とあれこれの感情がぐちゃぐちゃのない交ぜになり、キサは視界がグルグル回るような心地を覚えた。
よく人のことを見ている、とか言うけれど、それだって人の顔色を窺ってしまう自分の気質から生じるもののはずだ。しかし彼の言い方だと、まるで自分がトキヒロをよく見ているみたいではないか。でも断じてそうではない。自身の認識とトキヒロの認識が食い違っていることを認識し、彼女の素顔はハトが豆鉄砲を喰らったような有様である。
対するトキヒロの表情はといえば、こちらの混乱具合になどまるで気付かぬ様子で、「うわマジか……」と自分に関する新発見に驚いているようだった。マジかじゃねぇよ、それはこっちのセリフですよ。と叫びそうになるのを押し殺し、キサは必死に頭を回す。
とりあえず、この状況は、よろしくない。
なんとなく、心臓的に。
「――ていうかね。ホラ、そろそろミイちゃんも戻ってくるかもしれないし、その前にある程度情報をまとめておかないと。説明するのはこっちなんだし!」
焦りを隠しきれているか怪しいものの、キサはそう言葉を繕って話題を切り替えた。スリープ状態だった携帯画面を起動して、時計まで確認したのは少しやりすぎだっただろうか。トキヒロは訝し気に首を傾げたものの、幸いにして何も言及せずに話題転換に乗ってくれた。
「ああ、そうだな。10号局の魔法使い……〈全焼〉の氷室純成。ランク5の捜索対象、か」
コハルから言い渡された危険任務の対象にして、ササと大きな因縁を持つのであろう魔法使い。その名を口に出したトキヒロの表情が僅かに曇ったのは、任務への不安ゆえだろうか。コハルの勅命を受けたとき、彼が自分を棚上げにキサやミイの身を案じて声を荒げたのは、ついさっきの話だ。
そのリアクションはきっと、「自分は荒事に慣れているから」なんて思いから来るものなのだろう。だが彼女に言わせればそれはお門違いである。今回の作戦で、直接的に危険な目に遭う可能性が高いのは、仕上げ担当のトキヒロ張本人なのだ。
キサは彼の危機管理意識の薄さに不満を抱きながらも、コハルから指導を受けた三時間を脳裏で反芻する。〈全焼〉の魔法の性質、捜索対象の外見や特徴、目撃情報の上がっている地域のリスト――加えて、ここ最近で四十件近くにわたって起きている、連続放火事件の概要など。魔法同盟側はどうやってか警察内部の捜査資料も把握していると見えて、綿密すぎるほど綿密に、捜索対象の情報を確認することができた。
氷室純成。魔法同盟10号局に所属歴のある魔法使い。
使用する魔法は〈全焼〉。名前からして分かりやすいが、彼は〈攻撃系〉の魔法使いであり、系統そのものはササと同じくする。だが彼の魔法は単純な熱量による炎上を指すのではなく、文字通り「全焼させること」に特化しているそうだ。
すべてを燃やす。
燃え尽きるまで燃やし、灰になるまで燃やし、灰燼に帰するまで炎が消えることはない。
きわめて消火困難な「着火対象が残骸になるまで消えない炎」こそが、彼の扱う奇蹟の業火。
「水をぶちまけても意味はないし、酸素をどうこうしても意味がない、っていうのが厄介だよね。火が水に弱いのは当たり前だし、火は酸素がなきゃ燃えないはずなのに……」
「おう。だから水使いでも酸素使いでもない、俺たちが充てられることになったんだろ。……魔法にいちいち物理的な法則を当てはめても、あんまり意味はないさ。んなこと言ったら、俺なんか人間の脳回路をいちいちいじってることになるだろ」
まぁイメージとして、あながち、間違っちゃいないけど。
嘆息したトキヒロの言う通りだった。
魔法は常識と法則を超えたものであり、科学や超能力、あるいは魔術と呼ばれるものは、常識はずれであっても法則は遵守する。法則を無視するからこその魔法であり、小難しい過程をすっ飛ばすからこその魔法、ということだろう。
そんな魔法の類に入る〈全焼〉を捕らえるには、まず魔法を使わせないこと。
コハルから授けられた作戦は、先手必勝というべきものだった。
「……言うだけなら簡単なんだよね。次に〈全焼〉が現れそうな現場に張り込んで、ミイちゃんに魔法の予兆を索敵してもらって、捕捉したら私が魔法を使って隙を作る。で、その間にとっきーが近づいて、〈遮断〉の魔法で記憶をシャット……、からの、捕獲でしょ?」
「うん。シンプルで分かりやすい」
「確かにめっちゃ分かりやすいよ? 分かりやすいけども――やっぱりなぁ」
〈全焼〉の次の犯行地点を絞り込む方法については、魔法同盟側の情報提供と、イオリの情報収集に特化した魔法を借りれば可能ではないかという結論に落ち着いた。今回の任務はあくまで64号局を指定したものであり、他局への他言や協力要請は固く禁ずる、と先に断言されてしまっているためである。
トキヒロの見立てによれば、19号局の〈情報〉氏(星観タワーの際に居合わせていたらしい、黒スーツの似合うお兄さんらしい)に助力願えればコトは早かったようだが、そう上手くはいかないものだ。
地点の絞り込みにどれくらいの日数がかかるかは分からないが、いつ死人が出るとも分からぬ以上、次なる被害は避けたい。そう言ったコハルがササを拘留処置としたのは二週間が期限なので、彼女が二週間以内の決着を望んでいるのは明らかだが、成功するかの見込みはイオリにも聞いてみないと分かるまい。
しかしキサが文句をつけたいのは、二週間という時間制限ではなく、立案された作戦そのものに対してだった。
「ミイちゃんと私の役割は分かる。私たちの魔法を使うんなら、こうするのが一番だし理にかなってるし。――でもだよ、とっきーはどうなのさ。キミの本業は、あくまで記憶工作でしょ。いくら任務で殴り慣れてるからって、〈全焼〉相手にキミは分が悪すぎるんじゃないの?」
純粋な疑問を装った明るい声音ではあったが、キサの内心は魔法同盟上層部の決定に引っ掛かりを感じていた。
〈全焼〉の魔法詳細を照会したところによれば、〈全焼〉は展開した魔法陣を媒介に、燃え尽きるまで消えない炎を生み出す。指先にあっさり炎を灯すササの〈蒼炎〉との差異は、炎の規模が大きいことと、魔法陣の展開範囲が自身の半径三メートルに及ぶこと――つまり、ササは自分の身体近くでなければ発火させられないが、〈全焼〉は間合いに入ったものなら燃やせるということだ。
対して、トキヒロの〈遮断〉の魔法は効果範囲こそ広いものの、対魔法使いに向けて行使する場合は出来る限り彼我の距離が近い状況が望ましい。彼曰く、魔法使いはそれぞれの忘れがたい原点が――要は「魔法の核」となる強烈な記憶があるので、それが影響して、魔法の効き目が浸透するのに時間がかかる場合があるらしいのだ。
加えて〈遮断〉は発動までに数秒のタイムロスがある。一瞬すれ違った間に魔法を行使するのは、効果の安定性が期待できないためおススメできないとなれば、彼は〈全焼〉にある程度接近して魔法行使する必要があるわけで。
トキヒロが魔法を発動するまでの時間を稼ぐのが、キサの〈虚構〉魔法の役どころ。
だがもし何かのアクシデントで、妨害が上手く行かなかったら。
〈遮断〉魔法の発動までの時間を稼げず、〈全焼〉に行動を許してしまえば、どうなるか。
火をつけられたら一巻の終わり。
トキヒロは――灰になるまで燃えて、焼死するかもしれない。
「そこはまぁ、何とかする。相手の有効範囲が三メートルなら、多めに見積もって七メートルは距離を取るようにするし……、気を付けるよ」
「……随分また、能天気だねぇ。命がかかってるかもしれないのに」
トキヒロは多分、キサの言わんとしていることに気づいているはずだ。
それでも普段通りのぼんやりした答えを返す彼に呆れて、腹立ちまぎれな言葉だけを言う。これだから、この男は危機感がないというのに。
あれこれ要らぬ言葉を連ねそうになる口を黙らせるため、キサは食べ途中で放棄していたと思い出したツナマヨチーズパンの残りに口をつけた。ちらりと視線を投げれば、トキヒロの膝の上にあったはずのパンたちも、既に姿を消している。いつの間に食べ切ったのか。頭をかすめていく疑問を解決する暇は、トキヒロは「大丈夫だろ」という呟きに続いた言葉のせいで忘れてしまった。
「キサが仕事するなら、万が一にも俺が危なくなるなんてこと、ないよ」
――そういうセリフを、堂々と吐かないでほしい。
キサは反射的に噎せたのをまた魔法で誤魔化しながら、心の底から毒づいた。
「それじゃ、頑張ってね、とっきー。ほどほどに、死なない程度にさ」
□ ■ □
あらゆる魔法の発動をキャンセルする魔法。
カテゴライズは〈干渉系〉。対魔法使い戦において、唯一無二のアドバンテージを持つ特殊な魔法。
その名は単純至極、〈無効〉と称された魔法の使い手は、もう何年も前に失踪したと聞いていたけれど。
あたしは「休息室」とは名ばかりの、自身が割り当てられた部屋を見渡す。
必要最低限の家具と水回りの設備、手洗いと風呂場がある、県民住宅時代の一室をそのまま利用したここは、しかし普通の部屋とはいいがたい。施錠された窓のカギには、外に出られないよう幾重にも鎖が巻かれていたし、室内に武器になりそうなモノは一切存在しないのだ。
しかも、この部屋には〈無効〉の魔法が未だに効き続けているらしい。腕を戒めるわざとらしい縄と、結界のような〈無効〉魔法のせいで、二重に自由を拘束されているような気分だ。
魔法は使用者がいなくなれば効果を継続させられないもの、のはずだが、果て〈無効〉の魔法使いは例外だったのか。それとも、知らない間に他の〈無効〉魔法使いが現れたのか。もしくは何か裏技があるのか――探っても詮ないことを考えるのは、きっと、他にすることが何もないからだ。
『〈蒼炎〉、佐々舞菜。アンタを二週間、拘留処分とするわ』
自分をこの部屋に閉じ込めた少女の姿が脳裏に浮かぶ。
確か、ひとつ上。いや、確か彼女は早生まれで二月が誕生日だというから、この時期だけは同い年か。幼いながらにあらゆる魔法使いの頂点、〈三人衆〉の一人となっただけはある、物騒極まりない魔法を使うリボンの少女。
彼女の眼をなんとなく思い出す。どこか緊張したような、張りつめた様子の眼が、じっとあたしを見つめていた。試しているのでも値踏みしているのでもない、警戒心に溢れた瞳。
あれの言いたいことは分かっている。
そして、その警戒心は、まことに正しい。
「…………、」
もし今この手足が自由であるならば、きっと自分は本部を飛び出し、すぐにでも街へ飛び込むだろう。
嫌というほど刻み付けた炎の匂いと気配を追って、どこまででも行く自信がある。そして相手を見つけたならばどうするかなんて、わざわざ言葉にする必要もない。
しばらく、忘れていた気持ちだった。
沸騰した汚泥を飲み下すように不愉快で、けれど全身が焼け爛れそうな感情に、悪くない、とも思う。
これでこそお前だ、と。
身体を循環する血液が灼炎に成り代わっていくのが自分で分かるのは、
ちょっと、愉快だ。
「――……」
息を吸って、吐いて、あたしは静かに考える。
二週間も黙っているつもりはない。
何か、手を考えよう。この部屋から出る為の手段を。魔法が使えないから力業には出られないが、ここが欠落のない完全要塞というわけじゃない。必ずどこかに抜け道はある。その抜け道を突いて部屋を出て、本部を抜け出し、そして、
殺す。
あたしの、最大火力を以て、塵芥の灰に還す。
その為に――佐々舞菜は生存してきたのだから。
窓の向こうに昇った月が高い。
部屋の片隅に置かれた、古びた型のテレビの真っ黒い画面を眺めながら、あたしはいつかのように目を閉じる。けれどその直後、部屋の扉に控えめなノックがあった。
「――ササ。いるよね」
扉越しで、くぐもってはいるけれど、その声には聞き覚えがあった。
「…………」
言葉を返すことはない。けれどあたしは両手を使わず器用に立ち上がって、扉のある玄関口のほうへ歩いて行った。どうせ細工がされていて、中からも外からも特定の鍵を持つ者でなければ開けられない。この部屋は狭苦しい構造ではあったが、月明かりがよく差し込むリビングと扉との間で声を聞くのは難しいだろう。
扉の前まで辿り着いて、あたしはそこに背中を預けた。金属製のドアだから、音は響くはずだ。「ここに来た」という意思表示にはなる。
案の定、声の主はこちらの意図を汲み取って、話し始めた。
「ボクは、キサちゃんたちの手伝いに行くつもりだ。コハルたちのことだ、ボクが話を小耳に挟めばそうすることくらい予想されてるはずだね。うん、助けに行くに、決まってる。〈全焼〉の相手は、トキヒロだけじゃ荷が重いから」
「…………」
どこで聞いたのか、などとはいちいち問わない。
青い雷撃の少年。彼の耳が早いのなんて、今に始まったことではないのだ。事件のこともササの処分についても、恐らく彼は全部把握していることだろう。本気で情報収集をさせれば、彼の前に出る者がいるのかどうか。
少年の声が強張る。
引きつった喉を無理矢理使っているみたいな、ひどい声だった。
「〈全焼〉は――君の敵は、ボクが討つ。また君の眼を、赤くしたくない」
思わず失笑しそうになった。
笑うような心持ちではなかったけれど、あたしの口角が皮肉に吊り上がったのは、自分でもよくわかる。
「君がずっとそのために生きてきたことは知ってるんだ。でもボクはそれの、邪魔をする。キミに復讐はさせない。キミに復讐者にはなってもらいたく、ない」
「馬鹿なの」
言葉が突いて出る。
茨というにも物足りず、棘というには痛々しすぎる、敵意の言葉だった。
随分長く一緒にいたけれど、どうもこの少年は、あたしのことをちっともわかっていない。
この魔法同盟に初めて足を踏み入れたその日、待合室で流れていたつまらない刑事ドラマを思い返す。ああ、そう、白波打ち寄せる岸壁で、しなびたコートの男は何を叫んでいたのだったか。
『復讐は復讐しか生まない! 君は、新たな君のような犠牲者を増やしてしまっただけだ!!』
馬鹿馬鹿しい。
復讐は、そんな他人のために行うものじゃないのに。
「あたしは父さんや母さんの為に殺すんじゃない。あたしは――」
「――自分の為に、アイツを殺す。そう言うって、思ってたよ」
言葉を言い終えるより早く、扉の向こうから解答が寄越された。
黙り込んだあたしと裏腹に、彼は言う。
「ササは両親の敵討ちで〈全焼〉を殺すんじゃない。これは君自身の復讐なんだ。もうどうやったっていないご両親の為なんかじゃない。こんなことして誰が喜ぶのか――そんなこと、もう君は、考えてない。ササは、自分が殺したいから殺すんでしょ?」
「……分かってるんだ」
「うん。自慢じゃないけど、ボクはずっと、君ばっかり見てたからね」
「じゃあ」
邪魔する理由はないはずだ。
これは自分で決めた、自分の為の復讐。他人の為だなんて言い訳を持つつもりはない。四年前、自分から全てを焼き払って奪い取った相手に、何もない空っぽの自分が挑む自分だけの怒りだ。
なら、邪魔をされる筋合いは、ない。
ましてや、正真正銘赤の他人である、オマエなんかに。
「でもボクは邪魔をするよ。徹底的に妨害する。君がもしこの部屋から抜け出してアイツを殺しに行くのなら、ボクが君を力づくでも止めてやる」
――どうして。
静かに身体中に回り始めていた熱を帯びた血液が、一瞬で加速度を増した。もしここが魔法を縛る空間でなければ、きっと両腕は炎を纏い、金属製のドアをどろどろに溶かして部屋の外へ飛び出していたはずだ。そうして意味不明なことを言う少年の喉元に炎を宿した指先をかざし、もう一度、殺意を込めて問うただろう。
なぜ邪魔をするの、と。
オマエにあたしの復讐を邪魔する理由はないでしょう、と。
はたして、少年は応えた。
先ほどまでの掠れた響きの失態を取り戻すように、わざわざ声を込めて。
「ボクはボクの為に君の邪魔をする。君が勝手をするんなら、ボクだってそうしてやる。気に食わないならいいよ。好きなだけボクのことを憎んで、君自身の為にボクを殺せばいい。――全部が、終わった後にね」
「――そう」
あたしは、冷淡な解答を以て応じた。
誰であろうと変わらない。あたしの邪魔をするならば、最終的な結末は同じだ。
喩え相手が滝仲瞬でも、佐々舞菜の解答は変わらない。
「なら、そうする」
□ ■ □
訣別は既に済んだ。
少年の足音は遠ざかる。恐らくこれから二週間の間、彼がここに来ることはないだろう。
視界はまるで血の海だ。
紅い鮮血を塗りたくったように景色がぼやける。その色にまだ視界が染まらないのは、魔法が使えぬこの部屋だからなのだろうか。
あたしの耳は、もうそれ以上の音を拾わなかった。
拾う価値すら、ないと思った。
□ ■ □
一部始終を、透明少女は見ている。
ひとりの少年と少女の訣別を、彼女はその目でしっかりと見届けた。
執務室での邂逅の後、見えない少女に雷撃使いが頼んだのは、たった一言。
「もし誰かいるのなら――ササを、よろしくお願いいします」
代わりに、見つけたことは黙っておきますから、と言われては頷くほかにない。
少年はこちらがどう返したかも伺いしれないまま、無条件の信頼を提示して、透明少女に後を任せたのである。その信頼が、透明少女本人ではなく、彼女を是として部屋に置いていた執務室の主に向けられていることは言うまでもない。
「……どうしましょう」
少女はぽつりとつぶやく。
だが、やることだけは決まっていた。




