0 炎の記憶
今回の章から本編へと移行します。
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視界が、赤い。
周囲に集った野次馬の声は遠く、ざわめきはただの雑音でしかない。気にも留めない背景音は炎の向こうから聞こえていた。ただただ自分の視界は、赤い。その赤はまるで生き物のように蠢いては火花を散らして、見慣れた場所を呑み込んでいく。
ごう、と夏風が唸るたびに勢いを増して広がる業火は、どこかの漫画で読んだモノクロのそれよりも遥かに悪夢めいていた。映画やドラマの爆発なんて、所詮は液晶画面越しの世界。目の前で全てを灰燼に帰さんと荒れ狂うそれに比べてしまえば、あんなもの、子どもの火遊びと変わらないと思った。圧倒的な猛威、脅威、熱量の暴力。自分の小ささを嘲笑うように、炎は黒煙を噴き上げてうねった。
「……、ぁ」
小さな小さな掠れ声が自分の喉を震わせた。けれどそれに気がついたのは数秒後。力の抜けた肩が下がって、どさりと重い音を立てて、ランドセルがアスファルトの道路に落下する。下方を開けっ放しだったせいで荷物がぶちまけられたのを、どこか他人事のように捉えた。
木材の焼ける匂いが、布の焼け焦げる匂いが鼻の奥をつんと突く。突き刺さるような匂いは黒煙の煙たさと混ざり合って、気持ち悪いぐらいに青い空を汚染して散っていくのだ。灰色にくすんだ煙の合間に見える、まだ辛うじて元の色を保っている建物の崩落が近いのは、誰が見ても明白なことだった。
自分が十年間生まれ育った家が。
昨晩も家族と他愛ない話をした家が。
今日は両親とも休みで、家でのんびりするからな、なんて笑っていたリビングが。
跡形もなく――二人分の、命ごと。
燃え尽きて崩れて面影もなくなってしまって、ただの残骸になるのは。
小学生の自分でも、十二分に理解できることだった。
「とうさん、……かあさん、」
まだ庭先の駐車場に停められたままの軽自動車。父お気に入りの鮮やかな赤い車体。そのボンネットに真っ黒に炭化した壁の一部が剥がれ落ちる。無残な音を夕暮れの炎天に響かせて、軽自動車は潰れた。
少し間を空けて並んだ二つの窓のうち、片方、自分の部屋の窓は既に砕け散っている。もうひとつの窓はちょうど黒煙が覆っていて見ることが出来なかった。仕事のない暇な日に、両親はあの部屋で――夫婦の寝室で寝転がりながら、ドラマや映画の鑑賞会を行うのが恒例行事だった。
あの部屋に、もしかしたら――
そう思った瞬間に、勝手に足が動いていた。
人込みの山を突貫するように掻き分けて飛び出し、燃え盛る猛火に飲み込まれた思い出の家を至近距離から見上げた。舞い散る火の粉がぱちぱち爆ぜて熱い。少し距離を詰めただけで全身を煽る熱気に圧倒されかける自分を叱咤して、一心不乱に家を目指す。野次馬から上がった悲鳴と制止の声を全て無視。焼け焦げるように熱い外気をまともに吸い込みながら、炎の中に飛び込もうとして、
「何してるんだ君っ!!」
あと一歩のところで抱え上げられた。
自分の意思に反して、身体が家から離れていく。たった数メートルの距離を詰めることさえ許されない。自分を抱えたのは恐らく力のある大人の男性だったんだろう、力の限り暴れ回ってもう一度飛び出そうとしても力でかなうはずもなく、元いた位置に逆戻りする羽目になった。
野次馬の安心したような吐息に、心臓を掴まれたような気分になった。なんで安心できるのだ。こいつらは、一体何に安心しているんだ。瞬時に湧き上がった疑問符と平行して生まれた敵意が、自分の喉から悲痛な絶叫を絞り出して紅蓮の炎天に放たれる。
「やめて、なんでとめるの、父さんと母さんがまだ、まだいるのに!!」
「もうすぐ救急車が来るから落ち着きなさい! 大丈夫だ、お母さんもお父さんもきっと、きっと助かるから」
目の前の大人はそういって自分の両肩に手を置く。だがそれを即座に振り払って、彼女は一切ぶれることのない瞳で大切な住まいをただの跡地に変えようとしている炎を睨み付けた。
あの火の中に大切な人がいるかもしれない。今も熱いと叫んでいるかもしれない。想像を絶するような地獄絵図が広がっているのかもしれない。そうだとしたら、すぐにでも自分が助けに行かなくては――両親を、たった一人の娘である自分が助けなくては。
「いい、だったらあたしが助けに行く!! 救急車なんて待ってられないよ、父さんと母さんはあ、あたしが助けるのッ!!」
「君が行ってどうなるっていうんだ、諦めて大人に任せなさい、大丈夫だから」
「何が大丈夫なのッ!!」
敵愾心を一切隠し立てすることなく瞳に浮かべて、目の前の大人を睨み付ける。子どもながらに必死の光りが篭ったその威圧的眼光に大人が怯んだほんの僅かな一瞬を、彼女は決して見逃さなかった。するりと大人の腕を掻い潜るように飛び出して、大人の慌てる声を尻目に猛然と彼女は駆ける。
駆けっこは得意なのだ。
同級生の男子にも負けないくらい早い。
暑さにだって弱くない。
きっと今なら、今ならまたもう一度、
淡すぎる希望を胸に手を伸ばして――、
――そしてその希望は、呆気なく消えた。
手は誰に届くこともなく、熱された空気を搔いて、力なく下ろされた。
耳をつんざくような爆音と同時に巨大な火花が爆ぜ、爆炎が上がる。それまでの延焼とは比べ物にならないほどの熱気と暴虐を内包した爆風に、少女の長い髪がぶわりと後ろへ靡いた。続けざまの野次馬の悲鳴は、果たして彼女の耳に入っていただろうか。
もう誰が見ても希望なんて持てやしないほど、跡形もなく、爆発と黒煙に巻かれて崩落した建物。
外壁も内壁も装飾も家具も、ありとあらゆる全てが真っ黒に焼け焦げているか灰になっていた。
彼女の両親がいたはずの二階の寝室は、
深紅と有酸素の橙色の業炎によって、焼き尽くされていた。
身体から自然に力が抜けて、がくりと膝を着く。激しい音と一酸化炭素と二酸化炭素の混ざった苦い空気が喉をじわじわと侵食していく気がした。かたかたと口が震えてまともに空気を取り込めやしないのに、彼女の絶望が言葉にならない悲鳴を発した。
「ぁ……、ぁ、ぁぁぁ、ぁ、かあさ、……と、さん、ぁ、あああぁぁぁぁあぁぁッ!!」
見開いた瞳はただただ燃え朽ちる彼女の居場所を虚ろに映し、その端からはぼろぼろと際限なく大粒の涙が零れていく。アスファルトに落ちて染みたそれは、たった刹那の間に、存在しなかったがごとく消え失せてしまった。
落ちて。
消える。
人の命も、簡単に。
少女の視界は依然として、赤く、紅く、朱い。
■ □ ■
テレビを見ていた。
平日午後のドラマロードショー。それはもう長いこと続いているシリーズの刑事物のドラマだった。来客用の部屋だと通された、賓客室に当たるであろうこの部屋に置かれた家具は少ない。ぼうっと自分が座っている二人がけのソファと、向き合うように置かれたもう一つのソファ。その二つに挟まれた透明なローテーブル。壁には『MA』の簡素なロゴがあしらわれた布が張られていて、それだけでもここは重要な部屋なのだと一目で分かる。
だが、自分にとってはここがどこであろうと、あまり関係のない話だった。というよりも、興味がない。例えここが剥き出しでぼろぼろの、打ちっ放しのコンクリートの部屋であったとしても、特に何を思うこともなかっただろう。自分の座るソファからちょうど左斜め前に位置する場所に、申し訳程度の暇つぶしだと言わんばかりに置かれたテレビは、少し古い型の液晶テレビだった。
場面は佳境を迎えている。まるで何かのお決まりのように、どことも知らない崖の上に関係者が集まっていた。ナイフ片手に主人公の相棒である女性記者を脅して、「近付くな!」と喚き立てる犯人。拳銃を向けようとする若手刑事を片手で制し、渋く精悍な顔をしたベテラン刑事が、一歩ずつ犯人へ近付いていく。
ざざぁっ、と、画面の中の白波の音がうるさい。不恰好にナイフを振り回して、女性記者の喉笛に鈍い光をあてがう犯人の怒声がうるさい。内容はほとんど頭に入ってこなかった。ドラマが始まった一時間前から、ずっとこの部屋で一人待たされているというのに、もはや冒頭も被害者も謎解きの過程も思い出せない。
目は焦点を結んでいるようで、実は結んでいなかったのかもしれない。自分の目にはたったひとつ、冷めることのない激情が宿るのみで、他の何も映してなどいなかった。
周囲に物がある。
ソファがあるので座った。
テレビがついていたから見ている。
そして、それらに何の興味も抱いていない。
在るというだけの認識。自分に何の影響ももたらさない、意味など不要なただの認識。
見ているようで見ていない機械仕掛けの箱の中で、犯人を追い詰めたベテラン刑事が決め台詞を吐く。それまでは白波に混ざったただの雑音でしかなかったそれが、突然、意識に滑り込んで鮮明に弾けた。
『復讐は復讐しか生まない! 君は、新たな君のような犠牲者を増やしてしまっただけだ!!』
復讐は復讐しか生まない。
数週間前までなら、ありがちな三文芝居のこんな台詞にいちいち心を動かされることもなかった。そんなこと、言われなくたって、誰もが当たり前に理解していることだと思っていた――いや、正確に言えば、まず復讐だなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。
悪いことをした犯人は、必ず法で裁かれる。
優秀な刑事が犯人を必ず捕まえてくれる。
そしてそんな風な心配をする必要はない。だって、自分の周りの誰かが欠けるなんて有り得ないから。
そう思っていた。
何の根拠もなく。
「……ッ、」
涙なんてものはとっくに枯れ果ててしまったが、それでもぐっと唇を噛み締めることだけは避けられなかった。こうでもしないと、手に入れたばかりのあの忌々しい力を、無意識的に行使してしまいそうだったのだ。家具が燃えるとか火事になるとか、そんなことは【些細なこと】だが、あの力を制御もできないまま使うのは嫌だった。
火は嫌いだ。
見るのも嫌になるくらい。
窓もない小さな賓客室に、重く息苦しい沈黙が落ちる。その沈黙は、暗くて人気のない地下施設の、霊安室と呼ばれるあの部屋で黒焦げの物体と相対したときの感覚と似ていた。
「ご両親で間違いありませんか」なんて言われたって、もう元の姿も分からないほど焼け焦げて爛れてぼろぼろになってしまったただの肉の塊を、どうして両親だと認められよう?
復讐は復讐しか生まないなんて言ったって。
この激怒は、苦しみは、悲しさは、恨みは、飲み込んだ悲鳴は、吐き出した絶叫は、枯らした感情は、溢れた涙は、誰に対してぶつけるべきものなのか?
幸いにして、あたしにはそれが分かっていた。
あの地獄絵図が不幸な事故によって作り上げられた最悪ではなく、誰かの意図によって生み出された劣悪であることを、既に刑事から聞いていた。
だったらあたしは、その犯人を見つけ出して――、
がちゃり、とこれまでうんとも寸とも言わずに静寂を保守し続けていた扉が開き、そこから足音が二つ響いた。振り返ることはしなかった。する意味を感じなかった。
かつかつ、と一つ高めの音が鳴る。子ども用だろう、少しだけ踵のあるサマーサンダルのヒールが、毛の少なめな絨毯を踏む音。やがてそれはあたしの前のローテーブルの横で止まり、そして、こちらを向いた。
顔を上げれば、目が合った。
恐らくは中学三年生か、高校生か。自分より五つか四つは離れていそうな彼女の年齢を、的確に測ることはできなかった。穏やかな光を浮かべてこちらを見つめる、ぱっちりした瞳。緩くウェーブのかかった色素の薄い髪。ぱっと見気の優しそうな少女だったが、見た目で人を図ることは油断に繋がる。あたしはただ彼女を睨み付けただけだった。
彼女はあたしの視線を受けても、驚いたことにたじろぎもしなかった。同じように睨みつけた刑事達は皆、一瞬であれ数秒であれ動揺した様子を見せたのに、彼女はまるで動じない。見た目からは伺えなかったその胆力に心の中で瞠目すると同時、彼女はにこりと微笑んで言う。
「はじめまして、舞菜ちゃん。私は小柳燐花と言います」
この女の人らしい名前だなぁ、と漠然と思う。可憐なひと、という形容詞が不意に頭に浮かんだ。名前の通り花のような印象を持ったけれど、決して華々しくはない、大人しい花のようなひと。
あたしは彼女の名乗りにも微笑にも、返事らしい返事は返さなかった。もう一度だけ目を合わせて、それから視線を外す。このひとが誰で、どんな人柄であろうと、今のあたしには興味のないことだったからだ。
あたしの行動に、リンカはほんの少しだけ悲しそうな顔こそしたが、すぐに気を取り直したようだった。少し身体をずらして、彼女の横に立っていた人物を前に押し出すようにして、再び笑う。
「それで、こっちが滝仲瞬くん。舞菜ちゃんのひとつ年上だね」
言われたように、あまり年の変わらない頃合の少年だった。茶髪っぽい髪に人懐っこそうな柔和な顔立ち。身長は自分より少し高いくらい。緊張しているのか、少し鈍い動作で片手を上げて、それから彼は片手を差し出した。
青いパーカーの袖が余っている。その先からちょこん、と出た指先が少し曲がっているのを見て、握手を求められているのだとようやく気がついた。
「ボクの名前はシュンだよ。よろしくね!」
にかっ、と笑った彼の顔は、今のあたしには眩しすぎるほどに曇りがなかった。ついこの間まで自分も浮かべていたはずの笑顔。だけれどこの数週間でなくしてしまって、もうやり方も忘れてしまった、無邪気な笑顔。それを見た瞬間、あたしは考えるより早く、少年の手をパシッと払っていた。
え。まさかそんなことをされるとは思っていなかったのか、シュンから呆気にとられたような声が発せられる。その間抜けで平和ボケした反応に、余計に苛立った。もとより気の長いタイプではない。ありったけの敵意を以って、青い少年を睨み付ける。
「……あんた達と仲良くする気なんて、ないから」
シュンと、目が合った。
驚愕に見開かれた相手の瞳に、自分の顔が映り込む。ここ数週間寝不足が続いているせいで、お世辞にもいいとは言えない顔色と、適当にシュシュで結わえただけのばっさばさの髪。それなのに彼を睨む瞳だけは、底なし沼の如く暗い癖をして、負の感情に爛々と輝いている。不健康で、子どもにはそぐわしくない印象しか与えない出で立ちの自分。
ぎん、と眼力を込めて彼を睨めば、シュンは一瞬だけ後退りしかけて、そして踏み止まった。笑顔を浮かべることは出来ていなかったけれど、呆然と、魂でも抜かれたように、あたしを見ている。その表情が何だか居心地が悪くて、あたしはすぐに視線を外した。
「えぇっと、確認だけど……あなたが、佐々舞菜ちゃんで合ってるのね? 〈蒼炎〉の魔法を使う、」
空気を読んだのか、ただの天然か。ある意味ジャストのタイミングで、リンカはそんな風に質問した。無論この場でその質問をされたのは、自分に他ならない。あたしは手短に答えた。
「……そう。ササ、でいい。名前で呼ばないで。名前嫌い」
「……え、あ、そうなの?」
一度だけ無愛想に頷いて、あたしはまたテレビ画面に目を移した。
もうドラマは犯人の自供シーンも終わって、事件を解決したベテラン刑事とその妻とが、並んで桜並木の下を歩いている。画面下部に流れるエンドロールの文字を、興味もないのに目で追った。
幸せそうに笑い合う役者二人を、焼き殺してしまいたい衝動に駆られたのを隠す為に。




