電撃使いの失態
今回はあまり見ない組み合わせの二人組のお話です。
登場人物:滝仲瞬、富原京九郎
「何かの間違いだ!」
怒髪天を衝く。そんな言葉が彼の今の表情を形容するには相応しいだろう。
普段は柔和に垂れた瞳をまるで別人のように吊り上げ、激情のままに顔を歪ませた彼の黒髪短髪は心なしか逆立ってさえ見える。ボクをまるで親の敵でも見るように睨み付け、ふるふると身体を震わせて発せられた喉が張り裂けそうな怒声に、ボクはびくりと飛び上がった。
「い、いやあのちょっと、京九郎くん、落ち着いてよ! そんな大声出さないでビックリするから!!」
「これが落ち着いていられますかね瞬さん!! あんたの情報はいつも正確だけど、それだけは嘘に決まってる! あの人がそんなことするはずないじゃないか!!」
バンッ。彼はまた苛立ちのままに廃ビルの剥き出された鉄筋コンクリートを殴りつける。ボクより二つ年上の若い青年の拳は当然ビルを揺らしたりはしなかったけれど、ボクら以外に誰もいない空間に響いたその音はボクの身を竦ませるには十分だった。鬼気迫って今にでもボクの胸倉を掴み上げそうな雰囲気を察し、ボクは更なる弁解を試みる。
「うっうん、ボクもそう思うよ、だから調査してるんじゃないか! あの子はそんなこと考えるような子じゃないと思う!! ……けど万が一ってこともあるだろ。ボクは組織の一員として、調査もしないで間違いだと決め付けるのは拙いと思うんだよ。分かる?」
ぶんぶんと両腕を振って、顔が引き攣りそうになるのを堪えながらそう口にすれば、目の前の彼は悔しそうに口端を歪めた。
「言っていることは分かりますけど、でも……!」
「こういう情報が出ちゃったんだ、これがデマかそうでないかを確認する義務がボクにはある。調査放棄だけはできないよ――もしこれが本当だったりしたら、それこそ大問題なんだから。君は彼女を殺人犯にするつもりかい?」
「……ぅぅ」
青年はむっつりと黙り込んだ。自分でも少しキツイ言い方だったのは自覚しているが、今回は事が事なので無駄な時間を食われるわけにはいかない。力なく項垂れて肩を落とした彼にそれとない罪悪感と申し訳なさを覚えたものの、ボクは表面上毅然とした態度を崩さずに釘を刺した。
「これは組織全体にかかわる問題だよ、〈増強(アディット)〉。君やボクの個人的主観で断定していいことじゃないの。分かるね? ボクだって信じたくないよ」
まさか見知った仲間に殺し屋がいるかもしれないなんて。
静かにそう付け足したボクの言葉が、月光に照らされて影を落とした廃ビルに落ちる。冷え切ったコンクリートは朝霧にぼやける墓標と似たような温度だった。ぐ、と彼が歯を噛み締めて拳を握り締める。えもいえぬ焦燥と困惑、動揺に心揺さぶられているらしい彼の姿に、心臓がちくりと痛んだ。
年が変わって一月四日。
三日後には同僚である小柳悠樹の誕生日を迎えようという、夜十一時のことだった。
■ □ ■
事の発端は二日前に遡る。
一月二日、元旦翌日。まだまだ世間は三が日でも、魔法使いに三が日なんて呑気なものは存在しない。いくら公然には存在しない魔法使いとされているボクであっても、当然それは変わらなかった。
その日はキサちゃんとトキヒロの両者がリンカに伴われて調査任務へ出かけ、ミイちゃんとササが武力任務へと出かけてしまっていた。ユウキは緊急のバイトが入ってしまったと朝早くから家を飛び出し、イオリはキサちゃんの弟である桐彦の元へ遊びに出かけ、アキは珍しいことに魔法同盟本部へと赴いていた日だ。
ちなみに普段から部屋にこもってイラストの仕事ばかりしているイメージのあるアキだが、多少特殊とはいえ「心のうちを見破れる」読心の魔法を持つ彼女は案外に仕事が多い。例えばなかなか口を割らない捕縛者の尋問だとか、聞き取り調査への同行とか言ったようにだ。……そんな仕事が回ってくるのは、彼女がキサに見せる底意地の悪さからも伺えるように性悪な一面があるからだと密かに思っているけど、口に出せば自分の寿命が縮むのは明白だったので言っていない。
目に見えて忙しそうな彼らに比して、ボクはシェアハウスの留守番を任されることになったけれど、家にいるから暇かと思われちゃ堪ったものじゃない。ボクは在宅中でも立派に任務を果たしているのだ。
それというのは、全国に三千人いる魔法使いの中でも本当に数少ない人材しか可能ではない任務――すなわち、インターネット巡回である。
現代犯罪の中には、インターネット上の掲示板や動画投稿サイトで犯行予告が行われる場合もそこそこ多い。分かりやすく例を挙げるならば、つい九月にあったドール事件である。あれは魔法使いであるこちら側を標的とし、また主犯・神木深丘が電気に精通したボクがいることを把握していたから(かつて同僚として仕事をしたことがあった)こその、ボクが見つけることを見越した犯行予告だったわけだけれど――あのように犯行予告が行われることはままにしてある。
魔法同盟は基本的に何でも屋としての性質を持つ。ゆえに、当然こちらの魔法については秘匿するにせよ、暴力組織の制圧だとか刑事事件の裏取り、あるいは空き巣や泥棒の確保なんてことも、依頼さえ入れば行うことになるのだ。それと同様にインターネット犯罪予告を見つけた場合も、事態収拾が可能であると判断すれば仕事に向かうこともあるのだった。
魔法同盟はその大規模さに比して年齢層が二十代前半までとかなり限定的で、収入は限られている。つまるところ経済事情あれこれが結構厳しい。だからこそ多くの依頼を獲得し、それを遂行しての報酬金が収入源のひとつとして大事になってくるのだけど、クライアントにはクライアントの事情というものが当然あるわけで。
仕事の遂行率が低かったり功績がなかったりする支部に仕事を任せたがる者などそういない。かといって回ってくる仕事だけをしていては、周囲に比べて功績不足と看做され仕事は回ってこない。ゆえに、魔法同盟の各支部は「依頼外の仕事」をいかにこなすかが生活に直結してくるのだった。「依頼ではないけどこんな事件も解決しましたー」「これも手伝ったんですよー」と言う、いわば宣伝できる功績を自分たちで獲得しなければならないのだ。でないとメンバーの半数以上が未成年のここで生きていけるわけがない。
魔法同盟支部の収入源は、その支部の特性によって大きく異なる。例えば我らが魔法同盟関東支部64号局の収入源は、正規依頼の報酬が四割、非公式の事態収拾報酬が三割、情報提供料が一割、アルバイトなどの定期収入が二割といった具合だ。うちの支部は荒事にも対応できる人材と、情報系に強い人材がいるためにこういうバランスになる。そしてそんなうちの売りはそんなバランスの良さと、何より他の支部では対応しづらい厄介事に対応できるだけの能力を持つ人材がいるという二点だ。
問題児の宝庫として設立されただけあって、魔法のアクは強いが上手くやれば誰にも出来ない仕事ができる。記憶工作を請け負うトキヒロや無機物との会話で情報収集に適したイオリなどがその代表格。荒事解決能力では〈攻撃型〉の魔法使いがボクとササの二人しかいないので他所には劣るものの、先にあげた二人の魔法はそう見られるものではないため重宝されている。アキやユウキの魔法は外部向けというよりは本部勅令の特殊任務向けなのでそう広く知られては居ないが、二つの魔法の性質の凶悪さは魔法使いなら誰もが知るところだ。
最近はこのリストに大ベテランの新人、という矛盾溢れた人材である幻使い・キサと、魔法看破という地味ながら対魔法使いの依頼において優秀さを発揮する魔法使い・ミイが追加されたことで、更に受けられる仕事の枠が増えた。必然的に必要経費も増えて、それを稼ぐために仕事をまた請けてとてんてこ舞いだ。書類処理に追われるリンカは「嬉しいけど嬉しくない」と頭を悩ませているし、半ば無理矢理それを手伝わされることもある外部協力者・諸星啓太においても「こっちは受験生なんだけど」と愚痴をこぼすことも増えていた。
まぁつまりはそれぞれの魔法の特性を活かして仕事をしているわけだけど、ボクはちょっとばかり事情が違う。〈名前消し〉として公然に名を知られてはならない身分にいるボクに回ってくるのは、全て本部勅令の任務だ。それも「電気を操る」魔法を所持するボクにしかできないような依頼。そういう仕事のひとつが、インターネット巡回だ。
インターネット上で魔法が絡んでいそうな犯罪がらみの話、あるいは魔法の潜在的所持者と思しき情報を見つけ次第裏を取り、本部に報告する地味な役回りである。普段から回ってくる本部の仕事は大概がデータベースへのハッキングだったりセキュリティシステムの強化だとか防犯カメラ映像の消去や回線切断なのだけど、このインターネット巡回はただパソコンの前に座ってればいいというわけじゃない。情報を掴み、その正確性を確認するところまでが責務なのだ。ボクの仕事の割合としてはむしろ本部勅令命令よりもこのインターネット巡回の比率のほうが高いくらいで、よってボクは外出することも多いのだった。
その日、ボクこと滝仲シュンはいつものように、インターネット巡回に勤しんでいた。
「……はー」
およそ四畳程度の個室が、このシェアハウスでのボクの部屋だ。幼少期に本部にある居住区で暮らしていた頃の名残か、ベッドがどうにも落ち着かなくて布団派のボクの部屋には物が多い。部屋の隅にたたまれた布団と、大きめのスチールテーブルの上には三つのパソコンモニターとキーボード。種類ごとにまとめたファイルの束と漫画が乱雑に突っ込まれた青のカラーボックス、壁につるされたコルクボードとそこに貼られた思い出の写真あれこれ。それから、ほとんど学校に登校もできてないお陰でハンガーに掛けっぱなしの学ランと通学鞄がフローリングに転がっている。本来ならきちんと通っていたかもしれない中学校での学生生活に思いを馳せるのは、とうの昔にやめた。小学校だってロクに行っていないのに、中学だなんて夢のまた夢である。ボクは今の生活が十分に楽しかったし、充実していた。これ以上望むことなんて何もない。
キーボードを打ち付ける指の先には、ボクが魔法行使中であることを指し示す青い六角形。液晶画面に映るデータの波を掻っ攫う、まさしく魔法の不思議な力は、その図形を媒介して機械仕掛けの箱の中へと侵入するのだ。目ではモニターを埋め尽くすウインドウに表示された零と一の文字列を追い、頭の中では情報の波を整理するこの作業は単調に思えて複雑極まりない。なにせ思考の全てを占領してしまいそうな、埋もれるような情報量を片っ端から検分して切り捨てたり拾ったりしなければならないのだ。ピックアップ作業には尋常でない集中力を使う。
脳裏を駆け抜ける数列とデータに平行して、閃光の閃くようなちかちかした感覚が目を苛む。のだけれどこれもボクの仕事、サボるわけにはいかない。子どもの頃からこうなることは分かっていた道だし、何より自分が好きでやっていることだ。リンカたちは随分心配してくれるけど、彼らのためにボクはやるだけやろうと心に決めている。
こんなボクを心配してくれる人がいる。それだけでも、ボクの行動理由としては十分なのだ。
「――!」
と、刹那そこでボクは魔法行使を中断した。脳裏を掠めたある情報をたぐり寄せるほうに魔法の使用ベクトルを変更、情報浚いに割いていたリソースを情報特定へと転換する。ほんの一瞬、瀑布のようなデータの裏に巧妙に隠すがごとく見え隠れした、薄水色と暗黒色の電気信号とはちょっと違う情報。それをもぎ取るようなイメージで、青の六角形が高速で飛ぶ。
目の前の三つのモニターに並んだウインドウのうち、その情報とは関係ないサイトや数列が提示されたウインドウをまとめて消去。間髪入れずに探り当てた情報の記されたサイトを開く。中央に据え付けたモニターにぽんっと表示されたのは、よくあるタイプの掲示板サイトだった。
……のだけど、問題は。
「……おいおいおい、まぁたこの手のかよ」
よくある掲示板に見せかけて、それが殺人依頼を請け負う闇サイトであったことだ。
黒塗りの背景に映える白文字が並んでいて、しかもそれはどれもこれも殺人依頼。誰々を殺して欲しい、日時はここで、報酬は云々。他の誰が見てもドラマの中の話かと思うような話が平然と展開されている。どうもメインとしては復讐代行業のようだけれど、文字だけであるにせよ到底非現実的なレスポンスの応酬が為されていた。命の値段はおよそ五十万。オプション追加料金で二百万。人の命が薄っぺらい紙幣の束でやり取りされる、非道徳的にして倫理など微塵もない取引の世界。打ち込まれた文字はどこまでも軽くて重みなんてどこにもありはしない。
が、正直ボクは大して驚きもしなかった。
実際こうしてインターネット巡回を行っている身としては、あまり信じたくない話ではあるけれどこの手のサイトは非常に多い。というかザラだ。ユウキ辺りが聞いてしまったら顔を真っ青にして激怒するやもしれないが、ボクはこの手のサイトを任務上見慣れているし耐性もあった。
言わせて貰えばインターネット上の復讐代行だの殺人依頼請負だののサイトのほとんどは、復讐代行詐欺やアドレス集めのポータルサイトに過ぎない。つまり殺人復讐を依頼したところで、実際にそれを行うような連中が集まるような場所ではないのだ。言われたとおりに金を支払っても相手はのうのうと生きていて、金を返せと言ったところで取り合ってもらえず、かといって警察に詐欺被害を訴えれば自分も殺人教唆の罪で即逮捕。将来は泣き寝入りすることしかできなくなる場合が大抵。
それなのにこの手のサイトは撲滅されることを知らない。いつまでも被害者は増え続ける一方。さしづめ情報に溢れた現代社会の闇。深刻でやり場のない思いを抱えた人が、荒稼ぎの手段として利用されては打ち捨てられる、まさにその現場。
「……、」
可哀想になぁ、なんて誰も聞いていなくても言える訳がなかった。
ボクはこの手のサイトにこそ頼ろうとはしないものの、それよりもよりタチの悪い方法で己が悲願を達成しようとしている少女を一人知っている。その彼女を知ってしまっているボクに、確実性が低いと目に見えている電子世界で復讐代行を懇願する人々の気持ちを憐れむことなどできやしないのだ。
たったひとり、彼女の生きる目的を知っているのに――どうすることも出来ないボクには。
「……さぁて、さっさと書き込みの主でも特定して報告するかぁ……」
沈みかけた気持ちを切り替えるように息を吸い込んで、ボクはぱんぱんと両頬を叩いた。それからささっとサイトを検分し、依頼者と請負者の使用しているパソコンを特定する作業に入ろうとして――、
思わず息を止めた。
サイトの下方部、ごくごく最近に書き込まれた復讐代行依頼へのレスポンス。請負承諾の意を伝えるその文面。その書き方に、そのハンドルネームに、途方もない既視感。おそるおそるカーソルを移動してウインドウをスクロールし、問題の文面が画面中央へ来るように位置調整をして、そして再び、呆然と依頼承諾文を見つめる。
ぞわりと、肌が粟立った。
背筋に薄ら寒いものが駆け抜けて脈拍が異様に速まる。嘘、まさか、そんな馬鹿な。知らぬ間に呼吸が止まって、まるで幽鬼でも見たかのように目を見開いた。マウスを持った手が微かに震えているのを自覚して、ボクは無理矢理に笑みを浮かべる。
口の端を何とか吊り上げて皮肉に笑おうとしたのに、その笑みは全然形のなっていない無様なものになった。
『承りましたっすねん。それでは指定の日時に、××で』
簡潔な文面の特徴的な語尾。
ハンドルネームは、〈暗視〉。
■ □ ■
〈暗視〉。それはボクは当然のこと、64号局支部のメンバーではミイちゃん以外の全員が面識を持っている魔法使いだ。
ボクらと同じ百茎内に拠点を構える、工作任務が主となる関東支部27号局所属。年齢はボクのひとつ上で十六歳。元から非常に良いという視力に加えて、夜であっても視力を格段に上昇させる――というか夜のほうがより精度を増すという魔法を持つ、狙撃手の異名を持つ少女である。
会話相手が魔法使いであるならば魔法名をもじったあだ名をつけてそれで呼び、またひどくマイペースで読めない振る舞いをする。頭の緩そうな常々に反して、仕事となればその眼光は鷹もかくやの鋭さを発揮する、必殺の狙撃手だ。魔法に目覚めたのがおよそ五年前という話であったが、その狙撃の腕はわずか五年で培ったとは到底思えないほどで、無論そんなことは有り得ないが敵には回したくない人物である。
ボクらにとって記憶に新しいのは、九月に起きたドール事件だろう。一般人を人質に取ったクーデター事件の最中、主犯・神木深丘の狙撃を試みた彼女である。結果として乱入してきたキサの幻を撃ち抜くこととなり、その場での殺生は回避されたものの「仕事だから撃つ」ことを遂行しようとした、ある意味覚悟の据わった少女。
復讐代行サイトに書き込まれた承諾文の文面には、その彼女の奇妙な口癖といえよう不思議な語尾がついていた。
まさか、そんなはずはない――すぐにそう思い至ってボクは我に返った。そうだ、きっとただの偶然に決まっている。これの書き込みをしたのが、あの緩い少女であるはずがない。ボクはぶんと首を振ってもう一度作業へ戻り、書き込みの主の特定を急いだ。
海外サーバーをいくつか経由していて追うのは骨が折れたが、昨晩ついに特定した。
そして結果。
「……間違いなく、闇サイトでの殺人依頼承知の書き込みは彼女のパソコンからだったんだ。彼女が実際に書いたのかどうかはともかく、書き込まれたのは、彼女のノートパソコンだった。これは間違いないことなんだよ」
未だに自分でも信じられない心境だったけれど、何度やっても結果は同じ。復讐代行サイトで殺人依頼を承諾した文面が送られたのは、〈暗視〉のノートパソコンからであったのだ。
ボクの言葉により一層青年は俯く。名は富原京九郎(とみはらきょうくろう)、魔法名〈増強〉――そう、彼もまた記憶に新しい。つい先日ユウキが大ピンチに陥ったとき、運よく支部にいて協力要請することができ、ササの身体能力やボクら依頼完遂班(ボクとトキヒロとキサちゃんのことだ)の身体能力を引き上げてくれた魔法の所持者である。
京九郎くんは悲痛に顔を歪ませて、また絞り出すように、
「そんなはずないんです……〈暗視〉が、……あるかさんが、任務でもないのに人殺しだなんて、そんなこと……! そもそも彼女は電子機器に疎いんです、パソコンは俺と一緒で全然使えなくて――」
「でも証拠は証拠だ。何度やっても同じ結果になった。……念のためやり方を変えたりもしてみたけどね、結果は変わらなかったんだよ」
「でも――だけどっ、あるかさんはッ」
ぐあっと顔を上げて京九郎くんはボクを睨む。びくりと反射的に身体が震えた。ボクは子どもの頃から敵意の視線と言うものがひどく苦手だった――むしろ恐怖症と言ってもいい。誰かに敵意を向けられることに極端な恐怖を覚える。有体に言えばビビリなのだけど、自分としてはそれよりもっと深刻だ。そういう視線を感じただけで、顔には出なくとも足が竦んでしまうから。
だけど当然ボクの事情など知るはずもない京九郎くんは、今にでも殴りかかってきそうな気迫を滲ませてボクに詰め寄った。
「あるかさんは優しい人です!! 口では殺人鬼だの人を殺す道具だの自嘲的なことばっかり言ってるけど、それだって本当は殺した件数なんて一、二件なんですよ!? 気まぐれ、とか言って抹殺対象を殺さなかったことだってあるんです、だのに復讐代行だなんて、そんな馬鹿なッ」
「……あのねぇ京九郎くん。きみは分かってないかもしれないけど、一件だろうと二件だろうと三十件だろうと、人殺しは人殺しだよ。そして、人を殺せる奴に優しい人なんていない」
やんわりと身をかわして京九郎くんと距離を取ると、彼は更に敵愾心を込めた激情の瞳でボクを突き刺した。ふぅ怖かった、なんて言葉は心の中に仕舞い込んで、ボクは平常を装って語る。京九郎くんはこの組織にやってきてから日が浅い。まだ何にも、わかっちゃいない。
「そういう意味で、〈暗視〉ちゃん……瀬香川あるかちゃんは、優しくない子だよ。だけど、任務以外での殺生を禁じる規定を違反するような子でもない。それに京九郎くん、君はひとつ勘違いしてるんだ」
「勘違い? 何のことですか!」
「あるかちゃんが殺人犯だ、とはまだボクは断定してない。あくまで可能性の話さ」
ボクはそう言ってから、まぁ座ろうよ、と足元のコンクリートを指差した。立ち話もなんだしさ、と付け足すと京九郎くんは不本意そうに腰を下ろす。子どもが拗ねたような分かりやすい表情に思わず苦笑しそうになった。十七歳でもそんな表情が出来るなんて、羨ましいことこの上ない。
……そもそも、ボクはこの案件を一人で調査するつもりだった。
パソコンの持ち主が〈暗視〉、本名瀬香川あるかであると判明したときは目を疑ったものだけど、もしもこれが真実であるならば大事件だとボクは慌てて調査を開始した。言うまでもなく裏を取るためにだ。数日程度シェアハウスを空けて張り込みながら、彼女の動向をチェックする予定だった。もしもそれらしい、……つまりは復讐代行を実行する素振りを見せれば即捕縛。そうではなく、例えば依頼金を受け取るだけ受け取って復讐代行の期日になっても動かなければ詐欺の可能性で彼女を捕縛する必要がある。或いは本当に何も知らなければ、事情は聞かねばなるまい。
事が事だけに、あるかちゃんとある程度親しい交友関係を持つ支部64号局の面子や他支部の人間はおろか、本部にさえ連絡していない秘密の懸案事項である。行動は慎重に行うべしと言い聞かせての張り込み二日目の本日、しかしボク以外にもう一人、この案件を知ることとなった者がいる。
言うまでもなく、それが富原京九郎くん。〈増強〉の彼である。
張り込みに必要だろう食料をコンビニで買ってきて、27号局支部のすぐ近くにあるこの廃ビルへ入ろうとしたところに、運悪くバイト帰りの京九郎くんが通りがかってバッタリ出くわしてしまった。当初は何とか誤魔化せるかとも思ったのだけど、ボクはキサちゃんほど嘘をつくのは得意じゃない。「何をしてるんですか」と問われて咄嗟に出た言い訳が「張り込み捜査の真似事」では、疑われるのも仕方がないというものだろう。あっさりボクの嘘を看破した彼に追い詰められる形で、ボクは彼女へ自分が向けている疑いの目を洗いざらい話す羽目になってしまったのだった。
まったく、不確定因子というのはとんでもない事態を引き起こすものである。いや、今回ばかりは自分も少し迂闊だったとは思うけれど。
「……それで。可能性の話って言うのは」
京九郎くんのテンションは今最底辺に近い模様だった。いつもの好青年めいた朗らかな声音はどこへやら、地を這う蛇のごとく威圧的な声が彼の喉からは押し出される。作業着めいたポケットの多い服に闇夜に溶ける黒のキャップを被った彼の眼光は、暗くなお鋭い。
相対して、濃い藍色のダウンジャケットを着込んで、念のため野球帽を被ったボクの喉から滑り出る声はさほどの深刻さを持たない。これは事の重大さが分かっていないとか、この詰問的な状況を何とも思っていないとか、そういう殊勝な理由からではない。ただ単純に、ボクが「仕事」の話をしているからだ。
「基本的にインターネットの闇サイトなんてのは、詐欺かアドレス集めの嘘っぱちのサイトなんだよ。実際に人殺しを請け負うサイトなんてほとんどない……リスクが高すぎるからね。一応そのサイトも調べてみたけど、過去に依頼された復讐代行が実行されたらしい記録はない。多分ただの詐欺サイトだ」
「……」
「つまり少なくとも、あるかちゃんは今のところ、あのサイトで依頼された殺人をこなしては居ないはずだ。もっと前から他のサイトでやってたとかだったら分からないけどね。……ただ、あるかちゃんが一般人を殺していなかったところで、問題になるのはあのサイトが『詐欺サイト』という点だよ。〈暗視〉を名乗る書き込みがあるかちゃんから行われた以上、彼女が詐欺に加担している可能性がないとは言い切れない。最近それらしい様子は?」
「……ありません。支部の経済事情は変わってませんよ。そもそもあるかさんは物欲もない人ですから、あまりお金を使わないんです。収入は全部局長に預けているはずですし」
「んー……でもそれは否定材料にはならないんだよなぁ。貯めてるとか気付かれないようにどこかへ流してる可能性だってないわけじゃない」
京九郎くんは顔を曇らせた。同僚であろう彼女を犯罪者扱いしようとするボクの言動に言いたいことはあるのだろうが、こちらとしたって知らない仲ではないのだ。こんなことは言いたくないに決まっている。だけれどこうして事情がバレてしまった以上、酷なことを言っているのは分かっていても言わないわけにはいかなかった。
もっと上手くやれればいいのに、と自分の不器用さを呪ったって仕方がない。今はただの組織の一員として接するほか、ボクに残された手段はないのだ。
「……そんなはず、ないんですよ……あるかさんがそんなことするはず……」
尚も打ちひしがれた様にぼそぼそと呟く彼に、ボクは敢えてきつい言葉を投げかけようとした。それが十五年しか生きていない子どもの言うことで、京九郎くんにとっては受け入れたくない可能性であることを承知の上で。酷い奴だと自分でも思う。だけれどボクにはこれ以外に言うべき言葉が思いつかなかった。生半可な慰めの言葉は、彼にとっての処刑に相違ないと、これまでの経験上知っていたから。
だけれど、京九郎くんの微かに震えた声が、ボクの口を噤ませた。
「ずっと、ずっと俺はあるかさんを見てきたんです……っ! あるかさんに何もできなかったけど、何にも伝えられてないけど、だけど俺はあるかさんが……!!」
「――、京九郎くん、もしかして、」
だけど俺は、あるかさんが。その言葉の後に続くであろう言葉を、京九郎くんはすんでのところで飲み下してみせた。ぐっと堪える様に、言葉にすることを禁じるように、自分を抑え付けるように。
ひどく辛そうに歪んだ、その表情。たったそれだけだったけれど、ボクは全てを察した。彼がこうまで頑なに彼女の潔白を信じようとしているのは、彼女を優しい人だと言ったのは、彼女のために必死になれるのは。
ボクと同じく、魔法使いとしての禁忌を犯しているから。
「――、……京九郎くん、」
気がつくとボクは。
するりと、口にしていた。
「分かった。ボクだってあるかちゃんがそんなことしてるなんて思いたくないし」
京九郎くんが顔を上げる。呆然としたその表情がほんの少しおかしくて、だけど笑う気にはなれない。きっとボクだって、同じような立場になったら突然の申し出に戸惑うはずだから。
けれど彼を、同じ禁忌を犯す仲間同士としての尊敬を込めて。
「あるかちゃんの無罪を、一緒に証明しよう」
■ □ ■
可能性は三つ。
ひとつ、瀬香川あるかが復讐代行のビジネスに加担している可能性。
ふたつ、瀬香川あるかが復讐代行ビジネスの詐欺サイトで代行者になりすまし、金を巻き上げる詐欺行為を行っている可能性。
そしてみっつ、瀬香川あるかは本当に何も知らない可能性。
当然ながらボクらとしては真実であってほしいのはみっつめの可能性、あるかちゃんが正真正銘無罪潔白であること。一般人相手に詐欺も殺人も犯していないことだ。だけれど現状、あの書き込みをしたパソコンがあるかちゃんのノートパソコンであることは判明してしまっている。残念ながらそれが間違いということは、多分ない。
状況としてはひとつめとふたつめの可能性を疑う以外にないのだけど、いざ向かい合ってみれば京九郎くんは強固にみっつめの可能性が真実に違いないと主張した。
「きっとあれですよ、今多いらしいじゃないですか! なんだっけ、パソコン乗っ取るアレです!」
「……なぁに、その不明瞭すぎる情報。もしかしてとは思うけど乗っ取り被害のことを言ってるのかな」
「あっ、もしかしなくてもそれですよ! さすがですねシュンさん!!」
いや君が世俗に疎すぎるんだろ。
と呆れ顔で指摘しても仕方がない。ボクが日夜インターネットに向かって色んな情報を掬い上げているのに対し、京九郎くんの得る情報といえば雑誌や新聞くらいで、しかもそれもあまり読まないタチだった記憶がある。今時携帯すら持っていないというんだから、よく生きていけるよなぁなんて電子機器にどっぷり漬かって生きてきたボクなんかは思ってしまうのだけど。
京九郎くんは、現代社会に生きるには随分と不便なトラウマを持っている。
聞いたところによれば、子どもの頃にうっかり感電死しかけたことがあるそうだ。それ以降、ありとあらゆる電子機器を毛嫌いするようになってしまった――というか、手にすると極端なまでに恐怖を覚えてしまってとても使えないのだそうだ。パソコンは当然、携帯端末もタブレットも、テレビでさえも。仕事先では仕方がないからと我慢しているそうだが、電気が関連する日用品を自ら手にすることができないのだという。それでいて世間事情にはあまり興味がないから、仕入れられる知識はかなり限定的なはずだ。それでも上手いこと仕事先でもやっているようだし、恐らくコミュニケーション能力があるんだろう。
そんなわけで知識不足な点のある京九郎くんにも分かるように、ボクはひとつひとつ知識を確認しながら話すことにした。
「乗っ取り、ねぇ。まぁその線も考えたんだけどさぁ、普通乗っ取りってどこの誰とも知らない人のパソコンを乗っ取って、犯行予告だのなんだのするもんなんだよ。それは知ってる?」
「……えー、まぁ、なんとなくは」
「もし今回の一件が乗っ取りなのだとしたら、犯人はあるかちゃんのことを『知っている』人物ってことになっちゃうんだよ。ハンドルネームにしている魔法名も、彼女の口調も……それにサイトには狙撃が得意だとも書いてあった。つまり、『表沙汰にしていないはずのあるかちゃん』を知ってる奴だ」
さっ、と京九郎くんの顔色が変わる。『表沙汰にしていないあるかちゃん』、それはつまるところ魔法使いとしてのあるかちゃん、〈暗視〉を指すことは言わなくたって分かるだろう。そして魔法使いとしてのあるかちゃんを知っている人物が犯人だとするならば、その彼女の一面を知っているのは――、
「魔法使い……誰か他の魔法使いが、あるかさんを貶める為にこんな真似をした、ってことですか……!?」
「可能性の話だけどね。でも乗っ取るんだとしたら、同じ魔法使い以外に有り得ないだろうな……ただそうだとすると、また妙なことになる」
ボクが眉間に皺を寄せて考え込むようにそう告げると、京九郎くんはすっかり混乱してしまったのか目をぱちぱちと瞬いた。聡明な青年ではあるが、頭の回転自体はさほど速くないと見える。ボクは少し考えてから、より伝わりやすいことを願って身振り手振りで説明した。
「乗っ取りの形跡がないか徹底的にサーチしてみたけど、それらしき痕跡は見当たらなかったんだ。少なくとも、ちょっと人のパソコンが乗っ取れるくらいの技量のある奴の痕跡は。もしこれが乗っ取りだったとするなら、その犯人は魔法使いであり、かつボクと同等、あるいはそれ以上の技術を持っていることになるけど……この可能性は難しいと思うなぁ」
「と、いうと?」
「ボクの魔法は異端の魔法だ。少なくとも今のところ、ボクと類似した『電気を操る』魔法使いなんてどこにもいない。落雷を落とすことは出来ても電子機器に侵入することはできないはずなんだ……無論魔法でチートしてるボクに対して、自分の本当の技量だけで勝るって奴がいるのなら話は別だけど。でもそんなのいたら、それこそイカレてるだろ」
肩を竦めて言い放てば、京九郎くんは「なるほど、言われてみれば」とあっさり肯定した。ボクの電気使いとしての技量を知るが故の肯定だけど、傍から見ればボクはただの自信過剰な奴かもしれない。だが、京九郎くんに言ったことは決して嘘ではない。ボクよりも上位で電子機器に関わる操作を行える魔法使いは知っている限りいないし、魔法同盟でもトップの電子回線への強さこそがボクの売りなのだから。
というかそもそも。
電気全般を操れる――なんて魔法、チートも甚だしい裏技めいたものなのだけど。
同類がこれまでいなかったからこそ、〈名前消し〉なのだ、けれど。
「……って、なると……」
「一番現実的なのが、ひとつめかふたつめの可能性のどっちか。……そういうことになっちゃうね。だけどそれも信じがたい話だしなぁ……んー、何か見落としてたりしないかなぁ……」
あぐらをかいた膝に右肘を立てて頬杖を突く。可能性三つのうち二つのきなくさいそれを提示しておきながら、ボク自身それはないと思いたがっているのだ。そう自分で気がついて、一瞬だけ自嘲的な笑みが口元に浮かぶ。とっくの昔に覚悟を決めた幼馴染たちと違って、ボクはまだどこか子どもなままで、甘ちゃんなのだと思い知らされた気分だった。
京九郎くんも眉間に皺を寄せてなにやら考え込み始めた。廃ビルに静寂が満ちる。ボクが適当に床に置いた寝袋と、夜風にがさりとそよいで音を立てたコンビニのビニール袋は、この廃れて誰も住まなくなった朽ち果てた空間にはひどく不似合いに見えた。一月の夜の空気は冷え切っていて、長時間いると身体に悪そうだなぁ、なんてとりとめもないことを思う。
見逃していること。取りこぼしたヒント。事態の打開に繋がりそうな何かはないか。ボクはおよそ二分程度考え込んだ後に、はーっと息を吐いた。
突然吐き出されたため息にぎょっとしたらしい京九郎くんがボクを見る。そして、ボクが真横に置いてあったノートパソコンを手にとって膝に置いた途端、更にぎょっとした顔でボクとパソコンとを見比べた。
「なっ、なななななななな、何するつもりなんですか!?」
「何って、見れば分かるでしょ。情報の洗い直しだよ。もういっかいちゃんと調べてみる」
「えっ!? えっ、え!?」
ずざざざざざざっ。物凄い勢いでボクから距離を取って顔を引き攣らせた京九郎くんを尻目、ボクはいたって動じることなくパソコンを開いて電源を入れた。次いで、極力時間を浪費しないために先に魔法を発動しておくことにする。少し目を閉じて指先に意識を集中させれば、身体の中にみなぎる力が指先に全て集中したような感覚と共に、凍るような冷気が五指を覆う。目を開いて視界に入れた両手指の先には、青く輝く六角形の図形。
そしてそれを見た瞬間、京九郎くんの顔が分かりやすくはっきりと青褪めた。
「ひぃぃぃぃ、おっお願いしますシュンさんこっちには!! こっちには寄らないでくださいね!? おっ、おお、俺電気とかそのっだだだだダメなんでッ」
「言われなくても行かないよ……放電してるだけなのにそんなに怯えられると、ちょっと複雑な気分なんだけど」
「放電してるのが怖いんだからしゃーねぇじゃないですか!! でっ電気ぃぃぃぃぃぃ、ひぃぃぃぃぃッ」
先ほどまでの一種頼もしさの漂う態度はどこへやら。廃墟の限界まで身を寄せて、ばちばちと空間にスパークを散らす青と白のコントラストが多彩な電流を見上げる瞳には、畏怖にも似た恐怖が浮かんでいる。まったく大袈裟だなぁと言いたいのは山々なのだけど、普通人間は放電できないということを鑑みて黙っておいてあげることにした。
コミュ力が高く人当たりもいい京九郎くんに、たったひとつある弱点。それは、「電気使いに弱い」ことだ。
つまりボクを筆頭として、電気や雷撃を専門として扱う魔法使いにはまず近付くことすら嫌がる。いつでも電流を放てる魔法使いは全員天敵だ。ボクが多少の距離はあれど向き合って話せるのはそこそこ長い付き合いだからで、話しかけようとしても「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ近付かないでくれぇぇぇぇぇぇぇ」と涙目プラスの悲鳴を上げて逃げられてしまうため、最初は会話自体が成立しない。今の京九郎くんには年上としての威厳などミリパーセントでさえ存在し得なかった。
こっちが攻撃する気など毛頭ないことを伝えても、まず電流自体を怖がるので意味なし。そんなわけで、ボクは彼の前で魔法を使うのは極力控えていたのだけど、今回はそうも言っていられない。
びくびくと震えて恐る恐るこちらを伺う京九郎くんに曖昧に笑いかけてから、ボクはパソコンに向かい更に情報精査を始めようとして――次の瞬間。
パソコンのモニター画面を「ERROR」の文字が埋め尽くした。
「――!!」
ぶるりと指先が震えて青い六角形が頼りなげに点滅を始めた。脳裏に大量に入り込んでくるはずだった見慣れた数列があっという間に深紅に染まり、警鐘をかき鳴らす。ただのエラーなんかでは有り得ない異常な現象に息を詰める。頭の中に雪崩れ込んだ情報の奔流は刹那の間に頭が割れそうなほどの頭痛を引き起こして、ボクの視界がぐらりと酩酊した。
ボクの魔法のベクトルが、強制的に変化させられている――否、逆流させられようとしている!? 指を通して伝わるほかの誰にも分からない電気の流れが、それまでボクに従順であったそれらが一斉に反撃を始めた気がした。向かいたい情報に向かわない情報の閃光は、何の意味もなさない電子広告やリンク先に飛び込んで拡散していく。そのたびにいらない情報を拾っては蓄積しようとする魔法。それを無理矢理跳ね除けるように、ボクは必死でキーボードに指を叩き付けた。
「言うこと……聞け……ッ!」
ボクの魔法の制御は完璧だったはずだ。物心ついたときには操作にも手馴れていた、もはや半身とでも言うべき力。記憶がある限り人生ではじめての魔法の反逆に、ボクは思いっきり狼狽した。
様子がおかしいことに気がついたのだろう、京九郎くんが心配そうな表情を浮かべて近付いてこようとする。だがしかしその瞬間、それまでノートパソコン内の情報を無作為に拾い上げることに集中していたはずの電流の一本が不意に路線を外れた。よぎった嫌な予感に反射的に叫ぶ。
「来ちゃダメだ京九郎くんッ、感電するよ……ッ!!」
「っひ!? いや、でもシュンさん、」
「大丈夫、どうにかすっから……!」
そう何とか応答したのを聞き届けた京九郎くんが三歩後ろへ下がったところで、予感は的中した。数万ボルトの電圧を孕んだ電流が悪意を持った大蛇のごとく空間に踊り出た直後、バチッと派手な音を立ててスパーク、あたりをまるで昼日中のように照らし出す。京九郎くんの短い悲鳴と散る火花の音が重なりあって耳朶を揺さぶった。
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ。何がヤバイってこの操作不能の状況が、
「っち、誰だよボクの邪魔すんのは……ッ!!」
誰かの妨害の仕業であるということで。
この際割れそうな頭も制御の利かない魔法も関係ない、そんなことは些細なことだと片付けたっていい。問題は、何よりの問題は、〈名前消し〉であり電気のスペシャリストであるこのボクを妨害できる奴が存在しているということ――つまりこれは、恐らく、
錯綜する情報の刃を潜り抜けるようにして、ボクは何とかキーボードを打ちまくって『追跡』を開始した。現状で魔法に頼ることは出来ないから、自分の腕だけが頼りだ。ボクは確かに仕事の大半を魔法に頼ってこなしているけれど、……これぐらいのこともできないわけじゃあ、ない。
バグを起こして止まろうとするプログラムを強制終了させ、無駄に開かれたウインドウを連続消去してウイルスの波を掻い潜り、ボクはシステムプログラムを開く。そこにはぞろぞろと並んだ零と一の世界。いつもは理路整然と存在するだけの文字列は、現在侵入している何者かの影響だろうか、ぐにぐにと歪んだり不確かに明滅を繰り返したりしている。明らかに通常のウイルスなどの侵入や単純なバグでは起こり得ない現象。自分の一瞬の閃きが正解であることを確信して、ボクの意識はそこに飛び込んだ。
それとほぼ同時のタイミングで、散々暴れ回っていた自分の魔法を統括するように意識を差し向ける。暴れ狂う電流の魔法を操れるのは自分だけであるべきだ。他の誰かに操られるだなんてそんなのは真っ平ご免だし、何より気持ち悪くて適わない。
意識の半分を侵入者の追跡に、もう半分を魔法の統括に割いての電子戦は正直かなり厳しい。だが救援を見込めるような知り合いは当然居ないし、そんな誰かに頼っている暇もない。ボクは知らぬ間に荒くなっていた呼吸を整えるように深く息をして、それから目を閉じた。
行き場を失った濁流のように無秩序に暴れ回っていた、ボクの魔法の矛先が少しずつ収まっていく感覚が脳裏を掠める。頭の中の赤い警戒通知が少しずつ消えていく。無意味な情報列が削除されては有益な情報に書き換えられていく感覚。――ほら見ろ、とボクは余裕なんてないくせに余裕ぶって笑った。こいつは、ボクにしか扱えない。
『魔法の中でも科学に最も近い魔法』。
魔法で科学を操ろうだなんて、まだまだ早い――!
「うっしゃ、順調っ!」
僅かずつでも自分の力が自分に返還されていく感覚に歓喜を覚えながら、ボクは更に強く精神を律して集中力を底上げしにかかった。もうこの分なら自分の魔法は勝手に返ってくる。問題はもうひとつ、謎の侵入者。
さながらそれはカーチェイスの如くだった。ボクが高速で追いかけて、相手もほぼ同等の速度で電子世界を飛翔する。追っても追っても追いつけない無限の追いかけっこ。痺れを切らしたボクは目を眇めて更に加速しようとしたが、そこでくるりと相手の侵入電流が反転した。
何事かと急停止した途端、脳裏に溢れかえっていた情報たちを全て跳ね除けるように、ポンッとひとつのウインドウが表示された。
『It's a warning』
これは、警告。
「――!!」
それに気を取られた刹那、ボクはがくりと力を抜いた。
頭を埋め尽くしていたエラー通知は全て跡形もなく消え去り、未だに制御が利かなかった魔法がそれまでの狂いようがまるで嘘のように沈黙。空間をのたうっていた電流も、指先に浮かんでいた六角形も、全てがリセットされたように消える。
侵入者はたった一瞬で跡形もなく消え去ってしまっていた。
「……っ、は、ぁ」
いつの間にか息が上がっていたらしい。ボクは両手を後ろに突いて、廃ビルの薄汚れた天井を見上げた。まだ心臓はばくばく鳴っていて喧しい。額に浮かんでいた冷や汗と脂汗を一緒くたに拭って、それから加熱しきった身体を冷やすように両手を宙へ踊らせ、コンクリートの床に倒れ込んだ。
「しゅ、シュンさん!? 大丈夫ですか!? っていうかあの、一体何が……!」
ボクが倒れたのを見て取って目を丸くした京九郎くんが、慌てて駆け寄ってきた。まだ余波が残っているのか耳がじんじんするし、魔法の過剰使用を示すように指先がずきりと痛む。けれどそれを知らん振りして、ボクはノートパソコンを指差した。
「侵入者……撃退しただけだよ。それも、乗っ取り犯と同一人物を」
「あ、そうだったんですか――ってぇぇぇぇぇ!? の、ののの乗っ取り犯!?」
京九郎くんが素っ頓狂な声を上げて飛び上がる。耳に痛いんだけど、と小声で言った文句はまるで聞こえなかったらしく、京九郎くんは今の今まで(不本意にせよ)放電していたのがボクであるということも忘れたように矢継ぎ早に質問してくる。
「どっどどどどういう意味ですか!? あるかさんは無罪だってことで? え、でもなんでそれでシュンさんのパソコンに相手が侵入してくるんです? っていうか相手は一体どうやって!?」
「あーちょっと待って待って、落ち着いてってば京九郎くん! 今から整理して話すから!!」
ね、と両手を挙げて制すと、ようやく京九郎くんは動きを止めた。近くでいつまでも叫ばれては正直たまったものじゃないし、一応今は深夜である、悪目立ちはしたくない。
ボクはまだくらくらする頭を何とか叱咤して、京九郎くんに説明してあげることにした。一刻も早く彼女に降り掛かった疑惑を払拭したいであろう彼にこうまで義理立てしようとするのは、同じような苦境に立っているからだろうか。
「いいかい、京九郎くん。まず結論から言うと、闇サイトの書き込みはあるかちゃんの物じゃない」
そう断定した途端、彼はホッとあからさまに安心した素振りを見せた。それまでどこか力み気味だったらしく、へたり、とボクの隣に座り込む。ひんやりしたコンクリートの無機質さはボクの頭を冴えさせてくれる気がした。
「あれは乗っ取り犯の仕業だった……それも、推測通り魔法使いのね。魔法の種類までは特定できなかったから、正確に誰であるのかは分からない。けど、魔法じゃないと有り得ない現象が起きた。間違いない――あるかちゃんを詐欺犯、あるいは殺し屋に見立てようとしたのは、ボクらと同じ魔法使いだ」
京九郎くんは黙って聞いていた。ボクも別に彼の返事を求めていたわけではないから、少しの間を置いて話を続ける。
「それで、あるかちゃんが標的にされた理由だけど――これは、本当にごめん。ボクのせいだ」
「……へ?」
「敵方の目的は最初っから、ボクを引きずり出すことだったんだ。あるかちゃんを囮に使って……どうして彼女が選ばれたのかまでは分からないけど」
『It's a warning』――『これは警告』。
相手とボク以外に介在のしようのない電子空間において表示されたあのメッセージ・ウインドウは、つまりボクへの警告に他ならない。敵は頭っから、あるかちゃんなんてただの囮以外のなんでもない扱いだったのだ。本命は間違いなくこのボク。
ボクがインターネット巡回で、あるかちゃんを装った書き込みを発見して、それの裏を取ろうと行動すること自体を狙っていた。ボクを敵の視界内に入れることが目的だった。
〈名前消し〉のボクを、表舞台に引きずり出すことが。
「……完ッ全にしてやられた」
申し開きのしようもないくらいに見事に、ボクは罠に嵌ってしまったというわけだ。何と不甲斐ない。一般の魔法使いにも存在を知られない魔法使い、それが〈名前消し〉であるにも関わらず、僕は迂闊にも相手の術中に飛び込んで自分の姿を――やり口を晒してしまったのだ。これを失態と言わずして何と言う?
うわー。思わず口から漏れたため息の意味は、さすがの京九郎くんでも察したらしい。気の毒そうに両眉を下げてボクを見つめていた。その視線すらもなんだか居た堪れなくて、ボクは目を伏せる。
サトリたち三人衆を初めとして、リンカたちも、魔法同盟の知己は皆ボクの存在を隠し通してくれていた。危ない場面も何度もあったろうけど、それでもずっとボクの存在を秘匿してくれていたのだ。それなのに、まさかその張本人のボクが大ポカをやらかすなんて。
ボクがあの侵入者から掠め取ることができた情報はごくわずか。相手は未知の魔法使いにして情報戦においてボクを上回る人物、ということ……そしてどうやらボクらは、そいつの標的になっているらしいこと。こちらのパソコンへの侵入経路やなりすましまでした理由は何一つわからないままだ。ボクが相手取っていたにも、関わらず。
ずぅん、と自分の馬鹿さ加減に気分が沈んで、薄ら寒い海水に溺れるような自己嫌悪の波に浚われかけたそのとき。
京九郎くんは、はっきりと言った。
「ありがとうございました、シュンさん」
「――へ」
「これであるかさんが無実だって証明できましたから。もしこの後他の人にあのことが知れて、あるかさんが疑われでもしたら大変ですからね。……シュンさんのお陰です。ありがとうございます」
深々と、嘘偽りなんて微塵もない風にお辞儀をされてしまって。
ボクは大きく目を見開いて間抜け面を晒した。ありがとう。その言葉は案外に言われ慣れていて、日常でもなんてことなく取り交わされるもののはずなのに、どうしてか今はやたらと胸に染み入った。
「ちょ、やめてよ、ボクは仕事しただけだよ……照れるじゃん」
「照れてください照れてください。俺は誉めてるんですから」
「なにそれ、嫌だよ、だったら絶対照れないから」
ふいっとそっぽを向くと、京九郎くんは苦笑いを零して、それからぽつりと言った。
「……お互い、頑張りましょうね」
意味はすぐに理解した。脳裏に涼しげな顔をしているくせに、内心誰より燃え滾るような激情を秘めた彼女の横顔が過ぎる。
「うん。頑張ろう――」
魔法使いは二十五歳までしか存在しない。
ゆえに、魔法使い同士の恋愛沙汰がご法度なのは暗黙の了解。
それでもきっとボクらは、彼女たちのことを。
若者二人は廃墟を染め上げる黄金色の月に、苦く苦く笑ったのだった。




