7 忠告
これにて第三章・可能性ビリーヴァー最終回です。
「……ひでぇ目に遭った」
ぽろり。思わず口をついて出た愚痴めいた呟きが夜の空気に溶ける。しん、と静まり返った支部64号局のリビングに落ちたその韻律を聞き取って、正面のソファに座り決まり悪そうにコーヒー(しかもブラック。砂糖もミルクも入れる素振りさえ見せなかった)をすすっていた男が微かに口端を歪めた。ほぼ同時、三人掛けのソファの一端に腰かけていたオレとは少し距離を取って反対側の端に座ってにこにことしていた少年が見かけの大人しそうな雰囲気を大きく裏切って小さな笑い声を上げる。
「あはははは、そうイヤそうな顔しないでよ、諸星くん。目の前に拳銃を突きつけられるなんて人生でそうある体験じゃないよ? 貴重な経験じゃん! ね? ここはポジティブシンキングでさぁ!」
「こんな体験したくなかったわ……さっきは無我夢中だったからもうどうでもいいけど、振り返ってみると自分が無謀過ぎて吐き気してくる……誰にも掘れないくらい深く穴を掘ってマントルに溶け消えてぇ……」
「その前にプレート破れないっしょ!」
「いや、ただの気分の問題なんだけど、……あぁもう解説するのもめんどい。お前何。テンション半端じゃなくうざいんだけど。航かよ」
全身を襲う疲労感と倦怠感にウンザリして、オレは凝り固まっていた肩を解すべく軽く腕を回した。今言ったように、ただの一般人でしかない男子高校生たるオレは『眉間に拳銃を突きつけられる』という尋常ならざる事態に極度の緊張状態を強いられていたらしい。あのときただただ叫び、遂には生意気に笑んで見せた自分は意識していなかったが、そのストレスは耐え難いものがあったのだ。真部が航と、駆け付けた数名の魔法使い(ちなみにその中には騒ぎに気がついたらしい64号局局長と、炎使いの少女の姿があった。他の連中もあらかたまだ起きていたらしいが、誰より早くこの二人が飛び出してきたということらしい)により連行されていくその後ろ姿を見て、オレは情けないことに緊張の糸が切れてその場に座り込んでしまったほどだ。
多分今の自分は相当やつれた顔をしているだろうな、と思いながら嘆息すると、また少年は明るい声を上げる。柔らかそうな茶髪を伸ばした、なよなよとした第一印象を与える外見の彼は、どうも見た目とは裏腹に中々イイ性格をしているようだ。……さっきから、見事に頭にくることしか言わない。
「何ってそりゃ魔法使いだけど。さっき名乗ったでしょ? 僕は矢根瓦或だよ。航の同級生で、クラスメイトで、そんでもって同僚で悪友。あれ? 聞いてなかった? それとも忘れちゃったかな。あ、ゴメンきみってあんまり頭が良くないんだっけ? あっははは、そりゃ悪かった、思慮が足りなかったよ!」
「……誰もそんなこと聞いてねぇ……」
覇気に欠けた声で返せば、相手は「ン? なんか違った?」などとわざとらしい作り笑いを浮かべて軽薄に目を細めた。矢根瓦或。食えない態度の少年である。どことなく航を彷彿とさせるが彼とは決定的に違う恣意的で大袈裟なリアクションは先ほどからオレの精神を摩耗させていくばかりでまったく建設的でない。だが苛立つほどの精神的余裕もなく、オレはただぐったりとソファの背もたれに全身を預けるばかりであった。
現在時刻は深夜十二時を回っていた。
つまりあの騒ぎから既に二時間近い時間が経過している。そろそろ支部局長たちが帰ってきてもいい頃合いなのに未だ帰還を果たしていないのは、突然連行した真部について本部で色々と聴取があるから、らしい。或曰くあと一時間もすれば戻ってくるらしいが、まだ中学生だろう炎使いの彼女は深夜帯でも大丈夫なのだろうか、などとあまり意味もなさそうな思考が首をもたげた。
ちなみにオレたちは二時間もの間何をしていたのかと言えば、これもまた、聴取だった。無論あの場の当事者であるオレに対する、だ。
「……オイ、矢根瓦。手前さっきからうるせェ。餓鬼が起きたらどうすんだ、あいつ面倒くせェぞ」
と口先では言いつつも、小学生の健全な睡眠に配慮しているのが丸分かりのお小言を告げた目の前の男――支部局長の実兄である小柳悠樹と、「はいはいごめんって」と笑って受け流した或との二人によって行われた聴取は混乱を極め、中々理解力が欠けていると見える小柳兄に何度も噛み砕いた説明をしたり、途中まで一緒に聞いていた小学生が寝落ちしてしまったり、と度重なった些細なアクシデントの結果、ようやくひと段落ついたらこの有様だったのだ。手際が悪いと思う連中もいるだろうが、この面子では言っちゃ悪いが当然の結果だと思う。恐怖や緊張から解き放たれた直後でまともに頭の働かなかったオレと、こちらはこちらでひどく慌てていて取り乱しまくっていた小柳兄と、そして茶々を入れてばかりの或という取り合わせは何かを整理するのには全く向いていない面子だった。オレと小柳兄は仕方ないにせよ或がロクでもないと勝手に思った。唯一まともな精神状況なんだから、もう少し真面目に事情と向き合ってほしいものである。へらへら笑いながら余計なことを言っては話を脱線させていく或に殺意を覚えたのは決して誤りではない。
そんな深夜にブラックコーヒーというカフェイン満点の飲料を摂取する小柳兄を、オレはまじまじと今更ながらに観察した。慢性的に寝不足なのか濃い隈に、ぎろりとして鋭く荒んだ目、派手な色の髪に高い身長。とてもあの危機感に欠けた緩い雰囲気のある局長の実兄とは思えなかったが、それを言うのは直感的に憚られてオレにしては珍しいことに口を噤んでいる。オレは後に知ったことだったが、その判断は「シスコン」ならぬ「ファミコン」の異名を戴くこの男への態度としてとても懸命だったようだ。うっかり口に出すとしばかれかねない。
しかし、なぁ。少々意外な感覚に捉われながらも、オレは口を開いた。
「お前が、あいつの顔見知りだったとはなぁ」
「……ンだよ。悪ィか。言っとくが俺だって知り合いたくて知り合ったンじゃねェぞ、無理矢理ついてきたンだからしゃァねェだろうが」
小柳兄はぼそぼそと不満そうに返して、乱暴にコーヒーを飲み干した。
そう。この一連の騒動の真相を巡り驚いたことは多々あるものの、その中のひとつは小柳兄と真部が顔見知り――それも一年半もの間一緒に旅をした、いわば「相棒」的関係だったことだ。
小柳兄の話では妹を捜し始めてしばらくしたある日に出会った真部は、意味深長なことを度々言いながらも未成年で全国を回ろうとしていた小柳兄を諫めつつそれなりにサポートしてくれたらしい。支部局長と再会を果たしたその日からめっきり連絡が取れなくなり消息不明状態で、また、真部が魔法使いだったことを小柳兄は知らなかった。旅路の最中、ときどき出来過ぎていると思うほど物事が好転したり都合のいいことが起こったりしたが、ただの偶然だろうと片付けていたらしい。まぁ普通に考えれば妥当な判断なので責められやしないが、つまりこいつは間接的に真部の魔法〈運勢〉の恩恵を受けていたわけである。それを知ると、小柳兄はちょっと気まずげにそっぽを向いていた。……気持ちは分からないでもない。
オレだってそうなるだろう。少なからず自分で努力したと思っていた事柄に、運勢そのものを左右できる奴の思惑が絡んでいて、それありきの解決だったと言われてしまえば。
オレのこれまで三年間の学業についての全てを否定されたその瞬間のように、嫌な気持ちになるだろう――だが伊達に俺より二年長く(こいつはまだ誕生日が来ていないらしく、来年一月で二十歳になる勘定だそうだ)生きているわけではないようで、あっさりと自分で踏ん切りをつけた模様だった。びっくりするくらいに淡々と事実を受け入れて、それ以上みっともなく喚いたりしなかった。
大人だな、とふと思った。ヤンキーなんて世の中に不満をぶちまける方法を暴力しか知らない阿呆な子どもの集団だと勝手に思っていたから、理知的と言っていい小柳兄の振る舞いは一種別格に見えたのだ。真部がオレに銃口を向けたことに動揺はしたが、あいつのしていた言わば「イカサマ」についてはほとんど困惑した様子を見せなかった。肝が据わっている。
だけど、本当はこいつは、どう思っているんだろうか。知った顔の男が子どもを銃殺しようとしたその瞬間を目撃したこいつの胸中を想像してみようとしたが、オレの貧困な想像力ではそんなこととても不可能だった。ただもやもやした、鬱屈した気持ちが残っただけ。すぐに止めた。やるだけ無駄で、やるだけ失礼だ。
「それより俺は手前がいることに驚いたぜ、〈分力〉。〈殲滅〉がこの坊主のダチだってェンならあいつがいた理由は分かるが、噂に聞いてた〈分力〉は事なかれ主義、つーか面倒事は避ける主義だったろう。こんな夜中に出張ってくるタイプにゃァ見えねェ」
不意に小柳兄はそう言って或に視線を投げた。にこにこと微笑みながら、手持無沙汰そうに指でリズムを取るようにソファの肘置きを叩いていた或の手が止まる。だが表情は一切変化しないまま、奴は肩をすくめて答えた。
「いやいや、噂を全部鵜呑みにしちゃダメっしょ。意外に俗物だねぇきみ。僕は確かに面倒事は嫌いだけど、避けてるわけじゃないんだよ? 避けてたら航と一緒になんていないさ。あいつの周りトラブルと面倒事の巣窟だからね。事なかれ主義殺しだよ、航は――まぁ今回に限って言わせてもらうと、航に引っ張られたっていうよりは上司に命令されたって言うべきなんだけど」
上司。その言葉は、魔法同盟支部27号局に所属する或にとっての直属の上司――つまりは27号局局長を指すのではない。それよりもさらに上に立つ、魔法同盟という組織のトップのことだ。若干十五歳にして全ての魔法使いの頂点に立った三人の子どものことである。
何でも、その三人のひとり、眼鏡ことサトリから指示を受けて、航と或はこの付近へとやってきていたそうだ。指令内容は『行方不明の組織所属者の捜索』。ファミレスでの会合であいつがオレに課そうとした指令まんまである。考えてみれば会合の途中で勘定だけ済ませて飛び出していき、話もロクに聞いて行かなかったオレは眼鏡にとって「仕事を受諾した」とは言い難いことになっていたんだろう。代わりの人材を立てて事に当たらせるのは当然と言えるかもしれない。
真部の目撃情報が相次いで上げられたのは支部64号局付近であったが、どうやら最近64号局は他の仕事でてんてこ舞いだそうで仕事を受けられそうもない。だから、27号局ではあるが暇していた二人にお鉢が回ってきた、そういうことだ。そしてあの現場近辺を巡回中に、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。深夜になんと傍迷惑なと顔をしかめていればその怒鳴り声になんだか聞き覚えがあると航が言い出し、或の制止も聞かずに飛び出して行った先には――銃口を眉間に照準されたオレがいた、というわけで。
つまるところ、航があの場に現れたのはまったくの偶然だった。
〈運勢〉の魔法使いと相対したせいかその偶然にすら作為的なものを感じて一瞬真部の仕業かとも思ったが、あいつはオレを殺そうとしていたのだ、わざわざ自分を不利に指し向けることもないだろう。もし航たちがこのあたりを巡回していたのが真部の仕業だったとするなら、真部は航か或に〈運勢〉の魔法を使用し〈幸運〉の方向に持っていこうとしていたことになるのだから。だが真部が今夜魔法を使ったのは、少なくともオレの前では一度だけ。拳銃の引鉄に指をかけたそのときだけだ――時間軸的にはその数分前に航は行動を起こしていることになるので、航が現れたことと真部の魔法とは関係ない。
なんだか、出来過ぎている気がするけれど――これが事の真相である。
真部により殺害されるのをオレが免れたのは、予想だにしない偶然が二つ重なりあったから。偶然にも小柳兄が怒声を聞き付け、偶然にも航が駈け出さなければ、オレは死んでいた。
だから。
言わば、こいつらは命の恩人、なのだけれども。
「……で、もっかい確認するけどさ、或。お前はオレに魔法を使ってないんだよな?」
「何回聞くんだよ、使ってないってば。誰が自分の成績落としてまで友達の友達の成績を上げてやろうとか思うの、どんなお人好し? いや、それはお人好しっていうかむしろ偽善的か。きみは今疑ってるみたいだけど、きみの成績は正真正銘きみの努力が根底にある結果だよ。そこに働いている意思はきみのものだけだ。僕の意思も航の意思も、当然ながら絡んじゃいない」
〈分力〉――使用者の持つあらゆるポテンシャルを他者へ「分割」し「投与」する魔法。その持ち主である或はオレの何度目かも分からない確認の問いにいい加減にしろと言わんばかりに呆れた様子で即答した。
そう。真部の告げた、オレに学力を分割したとされた『どこかの誰かさん』とは、誰であろうこの矢根瓦或だったのである。
実際には、或がオレに対して魔法を使用しているという事実は無かった。どうも真部はオレと航が友人であり、また――これはオレも知らなかったことだが――或はオレたちと同じ中学校の出身であるということから、『オレと或は顔見知りである』という推測を立てたらしい。当事者たるオレからしてみれば中学時代はおろか高校に入ってからも矢根瓦とは一切面識がなく、そもそもこんな奴が同級生だったということも知らなかった。或が言うには、中学時代は魔法同盟の任務に追われてロクに登校していなかったのだそうだし、クラスも違った。接点のない人間の名前を当時のオレが覚えているわけもない。
つまり、あいつが「異常」だと判じたオレの成績は、誰かからの借り物を使った結果でも何でもなく、オレの努力の結果であったと判明したのだ。
正直言ってそれが分かった後は、まるで自分の存在意義を取り戻したような気分になってかなり安心したが、同時にそれが示すもうひとつの事実にも当然ながら気がついた。
オレの成績は、どう見たって結局は異常なのである。
魔法の仕業だというのなら成績の急上昇はまだ理解できる。だが魔法の仕業でないとはっきり分かった今、オレの成績は或の言う通りオレ以外の誰の意思も絡んでいないわけだ。だから、成績が伸びたのはオレの努力によるものだけだと言う事になる。
真部が魔法を疑うのも無理はない。
個人単一の努力でこんなにも成績が上がるなんて、本来は有り得ないほどの「異常」なのだから。
つまりは、オレ自身が「異常」だとされても、何らおかしくないのだから。
「……」
オレは平凡な男子高校生に過ぎないとずっと思っていたが、少々認識を改めなければならないかもしれない。魔法使いという非日常的で非現実的な力を自在に操る奴らと関わってしまったその時点で、俗世間的な「平凡」とはきっとかけ離れてしまったんだろう。なんだかそれはひどく恐ろしいことのようにも思えたが、不思議なことにオレには後悔などなかった。
目の前を遮っていた暗雲が全て吹き散らされていくようだった。時間も周囲も羞恥心も無視して叫んだ言葉は、数時間が経とうと、いや何日経ってもオレに火を点けたままだ。断言できる。これまで言葉にすることを意図的に避けてきた、或いは言葉にできなかったもどかしさを全部吐き出したあの叫びを忘れることなど多分オレには無理だろう。ああやって叫ぶことで、ようやくオレはオレの気持ちを知った。それを忘れることは何かへの冒涜だと思った。何か、が何なのかは分からなかったが、それに対する冒涜は許されざることのように思えた。
「頑張ったんだなぁ、って言っていたよ」
急に或が言ったその言葉に、オレは戸惑いつつも顔を上げる。視線の先には、まるで見透かしたような気に食わない笑みを浮かべてオレをじっと見つめる或。先程までのにこにこしたものとは趣旨を変えたその笑みに困惑を深めるより早く、そいつは言った。
「航がさ。きみと同じことを聞いてきたんだよ、『あいつに魔法を使ったか』ってね。当然使ってないから否と答えたんだけど、そうしたら航はそう言ったよ。どうやら感心したみたいでね――あんなバスケ馬鹿でもやるときゃやるんだなぁって感慨深そうだった」
思わず目を見開いて或を凝視すれば、奴はくく、と喉を鳴らして小さく笑った。
「奴の言う通りだよ。きみは動機は何であれ頑張ったんだ。努力には相応の報いがあって然るべきなんだから、自分の叩き出した結果に今更疑念なんて持たない方がいい。それまで通りの自信家でいたほうがいいよ」
「……お前」
「ハイハイ、じゃあ湿っぽいお話は終わり! とりあえず話の整理も終わったことだし僕は帰ろうかなぁっと!!」
ぱんぱん、両手を打ち鳴らしてソファから勢いよく立ち上がり、或はまた元のにこにこ笑顔に表情を戻して悠然と微笑んだ。オレはそいつに何か言おうとして、だがどうしてか喉が詰まる感覚を覚えて、とりあえずソファから立つのがやっとだった。小柳兄は一瞬だけこちらに視線を寄越したが何を言うでもなく或に目を戻し、無表情に軽口を叩く。
「応、帰るのか。せいぜい補導されねェようにな」
「あはは、気をつけるよ、ご忠告どーも! んじゃねー、お邪魔しましたぁー」
にこり。最後にとびきりの笑顔を残してリビングを出ようとした或に、オレはようやく声をかけることができた。喉の奥に引っ掛かっていた言葉はたくさんあったが、絞り出せたのはたったの一言だけ。だがこの一言さえ言うことが出来れば、まぁまぁ上出来だろう。
「……、おい、或!」
「ん? なに?」
振り返って問うた奴は感情の読めない笑顔のまま。それが癪にさわって無性に腹が立ったのをどうにか抑え込み、少しだけの緊張を孕んだ硬い声を投げる。オレはこの言葉を言う義務があったし、言うべきだという責任感も僅かながらにあったけれど、義務だの責任感だのよりも大きかったのは単純で素直な感情だった。
「航のダチでいてくれて、……ありがとな。お前で良かったよ」
次の瞬間の或は見物だった。不意を突かれたように目を見開いて驚愕した表情になったかと思えば、あ、と丸く口を開いて何度か開閉させる。そして予想外のリアクションにこちらが瞠目するよりも早く、或はくるりと背を向けた。
「きみやっぱ天然なんだね……よくもまぁそんな恥ずかしい台詞を。別に、暇だから友達してあげてるだけだ。誤解しないでほしいんだけど」
言うだけ言って今度こそリビングを飛び出して行った或は、なぜだか随分と慌てているようだった。深夜だというのにどたどた足音を立てて乱暴に玄関のドアを開け放って出て行ったらしい。おいおい近所迷惑だろ、と目を細めてため息をつくと、今度は小柳兄に信じられないものを見る目をされた。
「……なんだよ」
「……手前、……いや何でもねェ。言っても無駄だ」
「はぁ? なんだそりゃ……」
「素直すぎるってンのも困り者だな……」
はぁ。小柳兄のため息が空気に霧散した。
何かしただろうか、と首をひねり目を瞬く少年と、疲れたようにコーヒーを飲み干した青年とを、深夜の月光が照らす。冬の空気は冷たくしんと静まり返っていたが、思わぬ騒動を目の当たりにした彼らの周囲は微かに温い。それは安心で構成された、弛緩した空気だった。
□ ■ □
同時刻、魔法同盟本部にある聴取室は戸惑いの空気で満たされていた。
相対した二人は対照的だった。ひとりは手を拘束され自由を奪われているにも関わらず、パイプ椅子に腰かける姿は悠然としていてまるで緊張した様子がない。顔には浮ついた警戒心を呼び起こすような笑顔を貼り付けていて、跳ねた癖のある黒髪がまた男のふざけた雰囲気を助長している。
もうひとりは険しい表情で男を睨み据える少年。格子のついた小窓から入り込む月光が眼鏡のレンズに反射して少年の目を隠していたが、その目に浮かべている感情が戸惑いであることは一目瞭然だった。表面上は平静を保っているが、目の奥は揺らいでいる。
男は少年の戸惑いを敏感に感じ取り、ふふ、と笑った。それは先ほど啓太の前で見せたようなうすら寒くなる微笑ではなく、本気で愉快そうに――むしろ嬉しそうに感じられる笑い方だ。それが神経に触ったのか更に眼光鋭くする少年に男はおどけた様子で話しかける。
「面白い具合に上手く行った! あははは、いやぁ、本当幸運だったよ、あそこで悠樹が止めに入ってくれて! あそこでうっかり引鉄でも引こうものなら私の計画は丸つぶれだったんだ。君が動いてくれることも計算に入れておいて大正解だった。本当、運任せだったからね――成功率は低かった。いや高かったかな」
男、真部は満足そうに笑みを深めた。反対に少年、サトリは不愉快そうに眉間に皺を寄せる。その表情に少年が納得していないことに気がついたのだろう、真部は笑いながら注釈を入れた。
「まさかとは思うけど君、私が本気で君たちへの復讐を目論んでいたとでも? 違うよ、全然違うね。私は『こんな展開を望んでいた』――魔法同盟に書類上『拘束』されることを望んでいたのさ。そのために回りくどい真似を散々してきたんだけど、四年がかりの大計画はついさっき実を結んだ。この本部に足を踏み入れる事が出来たその瞬間にね」
「……貴様は、何が目的だ」
「逃げる事だよ」
真部は低いサトリの問いに即答してみせた。サトリは眉ひとつ動かさなかったが、代わりに視線に込められた剣呑さが増して真部を刺し貫く。およそ見た目には不似合いなその視線にも一切動じた様子を見せずに、真部は言葉を続けた。
「私はちゃんと知っていたさ。『〈分力〉は諸星啓太に魔法を行使していない』ことくらい――そのあたりの事実確認をおろそかにするほど私は愚かじゃないんだ。だけれどそう誤解しているという形にしておいたほうが都合がいいからね、勘違いしたフリをさせてもらった。なかなかの名演だったと思うよ? 我ながらね。銃を抜く羽目になったのは多少計算外だが、こっちのほうがより確実な罪状に見えるからまぁ良しとしようじゃないか――魔法も上手いこと嵌ってくれたし。悠樹があそこで気付いてくれたのは、それこそ魔法のお陰なんだ。タイミングは最高だった。文句なしのパーフェクトさ」
真部が啓太に銃を向け、引き金を引こうとしたあのとき、彼の髪は銀色に染まっていた。彼は確かに〈運勢〉の魔法を行使していた――だがそれは啓太にではない。当然だ、啓太は魔法使いでも魔法にかけられていたわけでもないのだから。
では誰に使用していたか。
「悠樹がゲームを手放して窓の外を見て、たまたま騒ぎに気付く〈幸運〉。呼び寄せることに成功したのは本当に僥倖だった」
全ては出来レースだ。真部ひとりが真相を知っていた出来レースに、啓太も悠樹もサトリたちも乗せられただけに過ぎない――盤上の駒であったに過ぎない。全てはこの男の計画通りだった。四年前にある事実を知ってからというものずっと練り続けてきた策は、奇策は成功した。一か所の繕いも必要ない、完膚なきまでに完璧に成功していた。
真部は胡乱げな目で彼を睨むサトリを真っ直ぐに見つめて、告げた。
「サトリくん。私は忠告に来たのだよ――もうすぐ、『あの人』が動き出す。そうなれば10号局と1号局はもっと目立って致命的な行動に出るだろうね。夏也なんか目では無い、それこそ大災害クラスの猛者が、君たちの首を狩りに来るだろう――近々、恐らくは刺客がやってくる」
気をつけたまえよ。
真部は一寸の冗談の気配も感じさせない引き締めた表情で、終止符を打つ。
「それは全面戦争への宣戦布告だ。油断なんて馬鹿な真似はしないだろうが、くれぐれも引き際は見極めなさい。でないと身を滅ぼすのは君たちだ――ね? 《反逆者》くん」
サトリは肯定も否定もしなかった。




