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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
悪辣虚構テラー
3/41

1-2

 ちょっと間が空いてしまいました。長いかもしれないです。


 それから、前回ルビがきちんと表示されないとのご意見を頂きましたので、今回からルビを諦めました。お使いのPCや携帯・スマホの種類によっては、ルビが出る種類も出ない種類もあるようですが、読みやすさを大切にしたいなと思ったので、○○(××)というような表示になっています。ご了承ください。


 ≪戯言辞典≫様、≪漣の空≫様、ご感想ありがとうございました!


 出来る限り早く投稿出来るよう、最大限努力します。

 奇妙な≪魔法使い≫の噂を聞いて、数週間の時間が経過し。

 

 九月某日、悪夢の月曜日。


 土日という神が与えたもうた夢のような時間は無情にも過ぎ去り、やっていなかった課題の再提出に追われ、涙を飲んでの三時間に及ぶ居残りを終えてようやく帰宅した私は、玄関のドアを開けた瞬間に出迎えた家族の顔を見て、もっと居残ってくれば良かったと反射的に考えた。


 引き攣った笑みを浮かべつつ、私は帰宅の挨拶をする。


「えっと……ただいま、桐彦(きりひこ)」


「お帰り姉ちゃん。ところで頼みなんだけど」


 間髪入れずに言う残酷なる弟の言葉に、私はうんざりした。


「待って。待って待って待って待って。取り敢えず荷物片付けて着替えさせてもらえない? お姉ちゃん今日三時間居残ってきたんだよ? 疲労困憊なの。マジお疲れなの、だから待って」


「そんだけ喋れるなら大丈夫だよ。でね、頼みなんだけどさ」


「聞く気ないでしょあんた……?」


 うん、とあっけなく首肯したのは私の愚弟、期橋桐彦である。


 私によく似た顔立ちだが、私の表情代名詞が向日葵のような(またの名を胡散臭い)笑顔だとすれば、桐彦はふてぶてしい笑顔の似合う小学生だった。なんでこんなに生意気で偉そうで口達者なんだと姉である私が首を傾げるほどのそれである。どこでどう捻くれてしまったんだろう、と考えたのはこれが何度目か知れた話ではない。


 そんな弟は、ローファーを脱ぎ捨ててリビングに歩き出した私の後ろをちょいちょい歩きながら、手にしていた大きめの茶封筒から小さなメモを取り出すなり私に突き付けた。


「この住所が分かんなくて困ってんだけど。うちの近くじゃないみたいなんだよね。どこか分かる?」


「住所ぉ? なんでそんなもん。……あ、友達の家に行くつもり? 桐彦、今もう夜の八時だからね? 夕飯もあるんだけど?」


「遊びに行くんじゃないよ。不登校のクラスメイトにプリント届けに行くの」


「不登校の子?」


 聞き返しながらも足は止めずに2階の自室へ。桐彦を置き去りにドアをぱたんと閉めて鞄を放り出し、殺風景な室内で制服から着替える。九月の夜はまだ暑い。パーカーに控えめなデザインのスカート、レギンスという服装をチョイスした。寝間着になるには、まだ早い。


 ドアの向こうから、桐彦の「そう」という短い肯定の言葉が聞こえた。


「なんか、学校にほとんど来たことないんだってさ。ずっと違うクラスだったんだけど、今年から同じクラスになって……、前期までは学級委員の明莉(あかり)がプリントを届けてたのに、いきなり後期は学級委員やりたくないとか言い出してさ! 今までずっと委員長やってたくせにだよ!?」


 度々弟の口から聞いたことのある名前だ。明莉ちゃん。本名は久畑(くはた)明莉ちゃんだっただろうか。クラスに一人は大体いる、役員大好き系リーダーシップ女子である。 何度か見かけたが、結構可愛い子だった。


 緩ふわという形容詞の似合う、快活そうな彼女の顔を思い浮かべながら、私は言葉を返した。


「へー、あの子が? どうしていきなり辞めたいなんて……一年生からずっとやってるんじゃなかったっけ、学級委員長とか? 」


「そうなんだけど、なんかさー……夏休み前にプリント届けに行ったとき、怖かったんだってさ。だからもう二度と行きたくないって言って、そしたらクラスの奴等が!」


「……怖かったってなに?」


 ちょっと不穏な気配がして、私は問い返した。もしかしてあれなんだろうか、実はその子の家は「姐さん!」みたいな、「舎弟っス!!」みたいな、そういう……?


 どきまぎしている私に気付いた風もなく、桐彦はどこか興奮を隠しきれない、高揚した声音で続けた。


「いつもは綺麗なお姉ちゃんか、明るくて笑顔のステキなお兄ちゃんか、カッコイイお姉ちゃんが出てたんだって。だけど夏休み前に行ったときは、すっげえ目付きの悪い、不良みたいな男が出たんだってさ! 声なんかめっちゃ低くて背ェ高くて、喋り方がめちゃくちゃ怖くて……ドラマで見た、ゴクドーみたいな奴!」


「…………」


「それで明莉が大袈裟に泣くんだぜ? そしたらさ、副委員長だったんだからとか言われて委員長押し付けられた上にプリント届けろって!! つーか住所分かんねーよ! ってわけで、姉ちゃんに頼もうと思って」


 あ、やばい面倒くせぇぞそれ。


 本能が訴えた。

 この件には関わらない方がきっと平和だと、頭の片隅で誰かが叫んでいる。このままなら桐彦は、住所だけ聞いて一人で行くのだろう。うん、ならそれでよい。明莉ちゃんも無事に帰ってきたというなら、別に心配することなど何もない。厄介ごとには巻き込まれたくないし。


 だが、同時に他の声もした。もしも、万が一のことがあったら? 万が一そういう家庭で、万が一この生意気な弟が何か言ってしまったりしたら? 無いとは言えない確率だ。啓太先輩ほどでないにしろ、我が家の弟がきちんと礼儀を弁えられているかと言われると……答え難い。


 私は着替え終わった途端、ばんっとドアを開いて桐彦に宣言した。


「私も行くよ!!」


「……はぁ? なんで。場所だけ教えてくれれば後は勝手に探すんだけど……」


「だーめ、そんな楽しそうな人達会ってみたいじゃない! それにクラスメイトって言うなら、私は保護者だし? そちらの親御さんと話しとくのもアリじゃなーい?」


 にんまりと口角を上げれば、弟は諦めたように肩をすくめた。


「ゴクドーを楽しそうとか……さすが姉ちゃん、意味不明だよ。しかも僕その子と会ったことすら無いのに、なんで保護者同士が仲良くしようとしてんだよ……」


「いいのいいの!! さぁ、行こうか!!」


 一切有無を言わせぬ笑顔になっている私を見て、桐彦は盛大な溜め息をついた。その姿には「駄目だこの馬鹿、取り返しつかないや」というようなある種の諦観が漂っている。


 やっぱり失礼な奴である。




 洗い物など最低限の家事をてきぱきとこなしてから家を出てみると、たかだか数十分の間に空の色はより濃くなっていた。今日はよく晴れていて、高い秋空のあちこちに幽かな光が明滅している。電灯とそれとは随分ミスマッチな気がしたが、その噛み合わなさ、ちぐはぐさが何かに似ているとも思った。


 桐彦から預けられたメモを片手に、夜道を二人、並んで歩く。紙に書かれていた住所は、どうも小学校の学区ぎりぎりの場所にあるようだった。道路を二本挟んだ先に小学校があるうちとは、距離からして二倍くらいだろうか。大した距離でもないが、むしろ近隣にあるもうひとつの学校のほうが近いくらいだろう。


 久し振りの夜の散歩に少しテンションが上がるのを自覚した。帰宅部をセレクトした私は、居残りでもないとこんな時間に帰ってこない。家に帰れば弟ともう一人の人物に代わり家事をこなさなければならないから、夜出掛けることはあまり無かった。


 ちなみに今日、一緒に行くと言った後でもう一人の人物のことを思い出して桐彦に尋ねると、


「今日は向こうに泊まるって。帰るの面倒くさくなったってさ」


 と蔑むように即答されたので、一切心配はしないことにする。


 ―――――もう一人の人物。


 それは、素川暮秋(すがわくれあき)という名の私たちの育て親を指す。


 とある事情で養い手を失った私たち姉弟は、いろいろな経過を経て児童養護施設にいた。その〈いろいろ〉についてはあまり愉快なものではないので割愛するとして、行き着いた先の施設で私たちを引き取り、以後現在に渡って面倒を見てくれている人物である。


 四十七歳の独身男性で、数年間彼の下で暮らしての感想は〈適当な人〉だった。態度は良く言えばおおらかで悪く言えば大雑把、言葉遣いは正直雑。一目見ての感想は悪い意味での〈適当〉だが、細い目を更に細めて、豪快に笑い飛ばしながらも行う治療は良い意味での〈適当〉なのだ。少なくとも藪医者ではなかろう。親しみやすく、裏表のない人格で老若男女問わず人気を博す男だった。


 ただし。

 これも誰もが知るところであるが、彼は治療以外のことに対する気力というものが大幅に欠けていた。患者のためならどこへでも飛んでいく癖に、いざ帰宅すれば風呂に行くのも億劫だと年甲斐もなく喚くので、風呂場へ押し込んで説教した回数も一度や二度ではない。


 本日もどうやらそんなパターンらしい。今頃は電気も付けっぱなしで、待合室のソファあたりでぐーすか眠っていることだろう。


 夕飯はじゃあテキトーでいいか、と頭の中で整理をつけて、改めてメモに目を落とす。


「ねー桐彦、その不登校の子ってさ、どんな子なの? ていうかそもそも、君なの? ちゃんなの?」


「男だったと思う。あー、でも名前が女みたいだったな……なんだっけ。しおりだっけな」


「しおり君? 確かにあんまり見ない名前かもねー。男の子でってのは」


 私の相槌に桐彦は何か引っ掛ったようだったが、あまり深く考えない性分の弟はうん、と頷いただけだった。


「本人も見ないけどね。明莉も、そいつと会ったことないんだってさー。いっつもお兄さんかお姉さん出るだけで、本人は一回も顔出してないっつってた。お姉さん達が言うには、ヒトミシリなんだってさー」


「人見知りかぁー。ガッコに馴染めなかったのかな? 人見知りにはガッコって殺人的だし!!」


「ヒトミシリに一番遠そうな姉ちゃんが、よく言うよ……。詳しい話は知らない。それこそ入学式に顔出したのかなー、みたいな?」


「それ人見知りって言うよりは登校拒否だよね……ふぅん」


 私だって見たことがないわけじゃない。

 中学校なんかは正にその時期で、クラスに数名不登校の子はやっぱりいたものだった。来ない、来れない理由は様々であったけれど、そのどれも分かるような気もしたし分からない気もした。


 それは学校に行きたくない理由というものを、私自身がまた別に持っていたからなのかもしれない。結局皆勤賞を受賞したが、実を言えば割合多い頻度で、学校に行くのが憂鬱なことがあったのだ。


 自嘲めいたどうでも良いことをぐるぐると頭に巡らせつつも、夜道を歩くこと小一時間ーーーー思ったより時間が掛かったのは、ちょっと道に迷ったからだった。私の記憶ではシンプルなはずだったメモの住所への道は、知らない間に工事があったのか無くなってしまい、しかも入り組んだ道に変わっていたのである。


「あ、あれぇ……? あはは、ま、間違えたっ!」


「あー、姉ちゃん方向感覚無いからなぁ。ごめん姉ちゃん、姉ちゃんに頼んだ僕が馬鹿だったよ」


 全力の営業スマイルを侮蔑と諦念を持って捌いた弟の助力(これはむしろ、桐彦ひとりで来た方が無駄な時間を喰わずに済んだに違いない、と確信した瞬間だった)があって、午後九時過ぎ。


 私達は、メモの通りの場所に辿り着いたのだが。


 その住所に建っていた建物に、私と桐彦は少々面食らって言葉を失った。


 別に、極道まっしぐらな怪しげな屋敷が建っていたわけでも、闇金が拠点を構えていそうな廃れたビルがあったわけでも、怖いオニイサンが闊歩していたわけでもない。最近はよく見掛けるようになったし、今日尋ねる予定の男の子が小学生でなく大学生くらいだったのであれば、何も思うところなくインターホンに手を伸ばせたはずだ。


 ――――果たしてそこには何が建っていたのかと言えば、小学生の男の子の住所というには違和感のある、二階建てのシェアハウスだったのである。





「し、……シェアハウス?」


 とりあえず呆然と呟く。

 全くもって予想外だ。目を凝らして見直す。建物自体はよく見るアパートのような感じで、小綺麗なクリーム色の壁には、温かみのあるチョコレート色で〈柴間ハウス〉と刻まれている。


 これだけならただのアパートだが、問題は玄関が一つしかなく、そしてその玄関の横に総じて六枚もの表札が並んでいることが、ここがただのアパートではないことを主張していた。それなりに大きな建物なのに、建物の背後に広がる森林公園と比べても何ら違和感を放っておらず、景色と一体化しているように見えた。周囲に住宅はなく、夜中は静かで快適そうだ。


 メモと目の前の建造物とを繰り返し見比べて、間違いがないことを確認した。六枚の表札をまじまじと眺める。


 横に二つずつ張られたその文字は、全てバラバラの苗字だった。やっぱりシェアハウスのようだ。しかし小学生の男の子の住所が、このシェアハウスになっている。


 はて、と私は首を傾げた。ニュースなんて普段ほとんど見ないから知らないだけで、最近は家族ごと他の人間と暮らす文化でも育まれていたのだろうか。だが六世帯が入るには、大きさが大分足りないような気もする。どんなに複雑な家庭であるにせよ、同じシェアハウスにバラバラに入居するとも考え難いし。ならば少なくとも一世帯と残りは一人暮らし……いや、それこそ異様極まる状況ではあるまいか。


 あれでもないこれでもないと考えを切り詰めていた私を現実に引き戻したのは、桐彦の呆れたような声だった。


「ねぇ、何ぽかんとしてんの? 置いてくよ?」


「……え、あ、あぁ! ごめんごめん、ちょっとびっくりしただけ! 予想外でさ、うん!」


「…………? ただのアパートじゃん。なに、大袈裟な」


「ちっちっち、違うね。こういうのは、アパートじゃなくてシェアハウスというのだよ。覚えておきたまえ、桐彦クン!!」


「姉ちゃんうざい」


 せっかく常を装ってふざけてみせたが、弟はざっくりと切り捨ててシェアハウスへ向けて歩き始めた。「桐彦冷たいよぅ」とすすり泣いたフリをするが無視される。かつて、まだ何もわからずに泣いていた弟がこんなにも手馴れた人のあしらい方を覚えていることに複雑な心境にあった。それは、年中ふざけてばかりの姉を持ったが故の甲斐性で、つまり私の責任なのだが。


 しかし今ばかりはいつも通りのその対応に感謝した。


 桐彦の後をちょこちょことついて歩き、玄関の前に辿り着く。極道さんとは縁が無さそうな建物だが、一応の警戒くらいはしておこうと思ってそっと息を整えた。森林公園の程よく伐採された木々が、ざわざわと喧騒を生じ始める。風はそんなに強くないというのに、葉が擦れ合って夜闇に残響する音は思った以上に大きい。


 前に立つ桐彦がちらりと私を伺った。


 何だかんだ言って、ゴクドーさんが出てくるのが怖いんだろうと思う。


 平気そうな顔をしていても、その目に微かに浮かべた緊張を隠し切るには至っていない。カッコつけたいお年頃の弟は、近頃感情をストレートに表に出すのを嫌うようになっていた。ふてぶてしい態度の裏に隠した本音はまだ見抜きやすいけれど、あと数年もすれば分からなくなってしまうかもしれない。


 何せ隠すのは十八番の私の弟だ。


(……まぁ、そうなったら見抜くまで、だけどね)


 本音隠しの先輩である私が、この小生意気な弟の本音を見つけるなんて滑稽な話だろうけど。


 私は確かめるような桐彦の視線に答え、いつもより幾分柔らかい笑みを浮かべてこくりと頷いた。


 それに安堵したように肩の力を抜くと、桐彦は慎重に、少し背伸びして扉の横のインターホンに指を伸ばした。


 数瞬その指は黒いボタンの上を彷徨ったが、すぐに意を決したようにそれを押す。


 ピンポーン、という軽快な効果音と共に赤いランプが明滅。何秒かの間が空く。顔だけは飄々とした桐彦が指をぱっと離した直後、来客を告げる機械から声がした。


『はーい、どちら様ですかー?』


 僅かに私たちの緊張が緩んだ。それはゴクドーさんとは程遠い、年若い女性の声だったからだ。母親というには若い。同居人……なのだろう。


 桐彦がまたちょっと背伸びをして、インターホンに向けて話し掛けた。


「平庄一(ひらしょういち)東小学校、四年一組の者です。プリントを届けに来ましたぁ」


『はーい、ありがとう! すぐ出ますからちょっと待っててね』


 応答と同時、ドタドタと往復するような足音がしたあと、慌ただしく玄関の扉が開いた。


「ごめんなさいね、今ちょっと立て込んでて……! って、あら? 久畑さんって女の子だったわよね……?」


 ひょっこりと顔を出したのは、緩やかなウェーブヘアの二十歳前後の女性だった。


 桃色の薄手のジャケットとフレアスカート姿で、そんなに身長は高くないようだ。多分百五十センチ後半くらいだろう。愛嬌ある大きな瞳をぱちぱち瞬かせて、童顔の可愛らしい顔全体で驚いて、桐彦を眺めている。どうも後ろにいる私には気付いていない。


 桐彦は軽く一礼して、


「後期は僕が学級委員になったんです。期橋っていいます。これから半年くらいプリント持ってくるのは僕になりました。よろしくお願いします」


 思っていたより丁寧にそう述べた桐彦を見て、女性は笑みを深めた。目線を合わせるように膝に手をついて中腰になると、人を労わっているのだと聞いただけで分かる、優しい声で言う。


「あら、そうだったんだ。じゃあこれからよろしくね、期橋くん! こんな遅い時間にわざわざありがとう、ひとりで大丈夫だった?」


「え……あ、いや。今日は住所がよくわかんなかったんで、姉ちゃん、じゃなくて姉について来てもらったんです」


「へ?」


 頓狂な声を上げて、女性が目線を上げる。あれ、我が弟しっかりしてるじゃん、なんて無邪気に感心していたところだった私と、ばっちり目が合った。


 彼女の眉がぴくりと持ち上がった。


 訝しむような表情になって、何度か目を瞬く。そしてちょっと思い出すように顎を撫でる。


 数秒後、私は初対面のはずの彼女に勢い良く手を取られ、超至近距離でじっと見つめられていた。


(―――――……は?)


 突然の理解不能な行動に私は絶句した。なんだ、いきなり何で私は、弟のクラスメイトの保護者に手を取られているんだ?


 呆気にとられる胸中と裏腹に、私は曖昧な笑みで彼女に声をかける。


「ええっと……この子、桐彦の姉で、期橋紀沙と言います……よろしく、お願いいたします?」


「…………」


「あ。あの、どうしましたっ?」


 開きっぱなしの玄関からは、他の家族なのだろうか、幾人かの笑い声が弾けている。ちょっとだけそれに苦い思いを抱きながらも、屈託ないように見えるだろう笑顔を浮かべて尋ねた言葉への返事を待った。


「あ……あなた……!!」


 そして待った末の言葉はそれだった。目と鼻の先で信じられない、と言いたげに私を注視する女性に、「何ですか……?」とちょっと怯えたように尋ねる。勿論怯えてなんていない。どころか、「なんだこいつ」という胸中だがそれは仕舞い込んだ。


 だが、続く言葉は現時点で聞くことは叶わなかった。


 なぜなら私と同じく、突然の出来事に居た堪れない気持ちになったらしく、視線を適当に彷徨わせていた桐彦が、なんの前触れすらもなく突然警告の声を発したからである。


「姉ちゃん、後ろっ!!」


「へ……? って、え、ひょええええぇぇぇぇっ!?」


 やけに切羽詰まったように言うから何かと思って振り返った次の瞬間、私は混乱全開で悲鳴を上げながら、女性もろとも弾かれたようにその場から退いていた。


 そして直後、私と女性のいた赤茶色のタイルに重い何かがごすっと衝突。きゃん、という金属音とは裏腹に、タイルが一部抉られて、破片となったそれが足元を転がってゆく。


 夜の闇にあったその金属音の出処が、玄関横に設けられた電灯によって照らされる。


 細長い棒状のものだ。それは明かりで鈍く輝き、よほど力強く叩き付けたのかへこんでいる箇所が見受けられる。タイルに接する先端部が最も太く、そこから持ち手の方へ辿っていくとグリップが見えた。そして、それを握る無骨な手も。


 手から更に上へ視線を映し、その人物の顔を見たとき、私は反射的に背後の桐彦を庇うような位置に動いていた。唐突な、あまりにも唐突な登場に認識が追い付いていないのか、女性は悲鳴も上げずにただ、突然の闖入者を見上げるだけだ。


 その男は、ひどく虚ろな目をしていた。


 恐らく二十代後半のサラリーマンだろう。皺ひとつない几帳面さが滲む背広姿の男は、だが、異様そのもの。頬がこけ、眼窩は落ち窪んで光がない。ふらりふらりと足元はおぼつかず、今にも倒れそうな風体であるのに、彼は手の中の金属バットを握り直した。一秒もこちらから視線を逸らさない。


 その目は、死んだ魚というより、怪物の目というのが相応しいような気がした。


 そう、それはまるで八年前のあの日、今でも鮮明に思い出せるあの声のようで。


《嘘を妄信しなさい》


 はっと我に帰った。男は再びバットを振りかぶろうとしている。


 咄嗟だった。今は目の前の女性に目撃されないための対策を打つ余裕などない。


 脊髄反射に近いような感覚で即座にオレンジ色の二重円を展開。真っ暗な夜のこと、その色は如何せん目立ったことだろう。何せこれからすることは、魔法使いの話を聞いた時、啓太先輩に私の笑顔の幻を見せたのとは訳が違う。


 私のこの力は、≪私の外見以外のもの≫も騙せるのだ。ただし、私ひとりでないぶん、それに要する集中力と疲労は倍増する。


 二重円が大きくなって、更にその上に敷かれたレールの上を意味のわからない文字の羅列が高速回転していくのはもはや他人事のようだった。頭の中で浮かんだイメージを、整理もせずに二重円にぶち込む。今は即席の荒削りで大いに結構、迫り来る脅威を撃退するのが最優先だと自分に言い聞かせた。


 イメージを円に取り込ませ、発動。きゅぃぃん、と金属の盆を引っ掻いたような耳障りな音が鳴る。


 右手を横に薙ぎ、生み出した幻は、堅牢な鉄の壁だった。


 使用者の私にも、桐彦にも、女性にも、そして対象である男にもその壁は見える。きっと突然迫り出してきたように見えたはずのそれに阻まれたように、男はバットを振りかぶったまま静止した。憎らしげに形相を歪めて、声にすらなっていない唸り声を上げる。


 実際その壁は幻に過ぎないから、バットを振り下ろされればそれはこちらに直撃するわけだ。私は過熱しそうになる頭を必死に冷まそうと試みながら、


「とっ、ととととりあえず逃げましょうっ!! それでそれでけけけ警察にっ!」


 全然落ち着けていなかった。


「え、に、逃げるってどこに逃げんの姉ちゃん!?」


 弟桐彦も、全然落ち着けていなかった。


 だが、この場においてただ一人冷静だったのは、意外なことに二人に挟まれた女性だった。こんなイレギュラー事態だというのにほとんど慌てた素振りもなく、「はい、落ち着いてね二人とも」とあっさり言い放つ。


 その声音がやけに場慣れしている気がした。そして、どこか不思議な、人を安心させるような口調、雰囲気、物腰。さっきまでのおしとやかなものではなく、冷静で客観的な声。それに嫌でも頭がクールダウンしていくのを感じる。


 どうしてこの状況で、落ち着き払っていられるのか。思わず彼女を振り返った。


 そして、私はしばし絶句する――――この状況にはあまりに似つかわしくない、呆れたようなその表情に。


「うぅーん、この手で来たかぁ。確かにこれだと、佐々(ササ)ちゃんの出番は無いし……考えたみたいだけど、でも、まぁ」


 まだ甘い、かな?


 その言葉と、ほぼ同時だった。

 どさっという何かが倒れる音、からんと落ちる音がして、振り返る。するといつの間にか男は膝から崩れて倒れ、バットは玄関口であるここから転がってアスファルトへと落ちている。その倒れた男の横に、先程までこの場にいなかった人物が立っていた。


 私の作った壁に阻まれて見えなかったのか、それともその前からいたのに気付かなかったのかはわからないが、それはいた。


 少し大きなサイズなのか、ぶかっとしたトレーナーにジーンズ、スニーカーと、ラフな格好。右腕の人差し指を空中へ置いたような妙な姿勢のまま、倒れた男を眺めていた彼――――少年は顔を上げた。


 そして見えた、少年にしては鋭さに欠ける覇気のない瞳を見て、私は目を丸くした。


 夜闇に解けるような髪色と同じく真っ黒な目なのに、そこから飛び出したように見えるのは白銀で象られた紋様。丸とも四角とも言いがたく、さながら水が踊っているような不定形の図形を黒瞳に貼り付けている。その形は留まる事を知らず、同じ形を一秒と保たない。その瞳からは、淡い白の燐光が漏れているように見えた。


 そして、かざした指の先端にも。


 少年は困ったように眉を八の字にして、問うた。


「オレ、今バイトから帰ってきたんだけど……何の騒ぎ、これ? 燐花(リンカ)さん」


「あら、おかえりー時尋(トキヒロ)君! バイトお疲れ様!! ちょっといろいろあったのよーん」


 ごくごく普通に応じる女性――――リンカ。


 突然の展開と登場に理解が及ばず、混乱しきった私はとりあえず桐彦と顔を見合わせた。


 私によく似たその戸惑い顔を見ているうちに、冷静になってくる思考。現状と起こった出来事を組み合わせ、そしてもう一度少年の瞳をじっと見つめる。そこではまた、図形が形を変えていた。先ほどは三角形だったものが、今は螺旋状に。


 この瞳が意味する物は、とそこまで考えて、私はハッと自分の眼窩をなぞった。


(私、さっきこのリンカさんの前で……!?)


 もしかしてもしかしてもしかして、あれ、これは、ヤバ、い?


 数週間前の先輩を思い出した。正確には、先輩の持ってきた妙な噂を思い出した。文房具事件(仮)。消えた犯人の記憶、停止された監視カメラ。そして、青い六角形の図形。それと同一ではない。勿論私のものとも同一ではない。同一ではないが、限りなく酷似しているのではないか。


 そこに思い至り、私はまるでロボットのようにぎこちない動きで、二人の奇妙な人物を振り返った。ぱっと見清楚な大学生風の、桐彦のクラスメイトの同居人……であるはずの女性、リンカ。バイト帰りだという、黒髪をあちこち跳ねさせた、やる気のなさそうな同い年くらいの少年、トキヒロ。


 彼らは私と、そして追随するように視線を向けた桐彦の心持を知ったように、穏やかに微笑んだ。


「どうもこんにちは、初めまして。私たちは≪魔法使い≫だよっ!!」


 軽く告げられたその真実に、私はぽかんと口を開いて間抜け顔をさらすことしか出来なかったのである。



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