4 感情
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オレはどうすればいいのだろう。
昨夜の出来事から頭が回復しきらないまま朝を迎え、オレはずっとそればかりを考えていた。なのはを取り戻すためならなんでもしようと誓った過去、どうしてか魔法使い達に感じてしまう利用することへの罪悪感、不吉に笑った真部の勧誘、あいつが告げた眼鏡への疑惑。何をどう片付ければ決断できるのかいまいち処理速度が追い付かない。有体に言えば、オレは困惑しきっていた。
なのはを助けたいのは本当だ。なのはに関する情報が喉から手が出るほど欲しいのは確かだ。利益だけを考えるなら少々リスクは高くても真部の勧誘を飲むのは決して悪くない――――あの眼鏡が全ての元凶だと言うのなら奴の意図も確かめる必要があろうが、もしあいつがなのはへの害意ゆえに彼女を攫ったというのであれば、多分オレは一切迷わずに真部の側へ就くのだろう。眼鏡の思惑を問い詰めようと昨日電話をかけたが出なかったので、あいつが何を考えているのかは分からないままだけれど。
だが。一度だけマトモに顔を合わせた、あの母親みたいな馬鹿な支部局長や、やたらと格好いい捨て台詞を残していった炎使いの少女、気弱な癖に狙撃を止めさせようとした小学生たちを思い出すとなぜか心が揺らぐ。彼らを裏切るのかと誰かが怒鳴る。いつもいつも道化のように笑顔を見せる後輩を裏切ってしまうのかと誰かが泣くのだ、うるさいほどに、耳を塞ぎたい程に。
理性はこんなに良い話は無いと言っていた。
何かは絶対に駄目だと引きとめていた。
揺らぎ、傾き、均衡して衝突し跳ね返って墜落していく気分。勉強している時よりよほど頭が痛くてかなわない。何がオレを踏み切らせまいと思い留まらせているのか、まるで、分からない。
「せーーーんぱいっ! ちょっとお時間よろしいですか? 暇ですよね? どーせ暇ですよね?」
にっこり。胡散臭いが有無を言わさぬ笑みが目の前で浮かべられて、オレは一瞬目を細めた。
本日のオレの機嫌、史上最悪級。昨日の一件のせいで朝っぱらから気が立ってしまいまるで勉強にも身が入らないし、細かい所作に元来の荒々しさが出てしまい、ついさっきもクラスメイトにあからさまにびくつかれたばかりの昼下がりのことだ。昼休みに入ったもののいつもの中庭に行けばあの後輩と顔を合わせてしまうだろうし、教室に残る気にもなれずにどうしたものかとぼんやり考えていればこの有様だ。突然このクラスにやってきたかと思えば、そいつはオレの腕をがっちり掴んでそんなことを言ってきたのである。
教室の中はしぃんとした重い静寂に満ちていた。クラスメイトから突き刺さる視線がぐさぐさと痛い。これまで放課後や朝、昼休みなどオレを見かけると絡んできた後輩だが、教室にまで乗り込んできたのは初めてのことだ。突然のことに少し困惑した頭を冷やすように、オレは冷たい言葉を投げた。
「何の用だよ。オレは暇じゃないんだけど」
だが後輩はムカつく程落ち着き払った態度でざっくり切り捨てる。
「嘘ですね。今目が泳ぎました」
「なんでそんな嘘をつく理由があるんだ。お前にそんな嘘ついたって見破られるだけだろ」
「見破られない一ミリくらいの可能性に賭けたくなるくらい、先輩が今私と会いたくなかったからだと思いますけど。違います? 違いませんね。じゃあ暇人な先輩を少々借りていきますよー」
好き勝手ほざいた後輩は教室内のクラスメイトにそう言って、更に笑みを深めた。胡散臭いを通り越して完璧に怪しいその笑みに、奴らは少し驚いたように硬直する。人生まっとうに生きていればあまり見ることはないであろう、怪しくて物騒な笑顔だった――――まぁこの後輩にとっては特技でしかないそれはクラスメイト達には甚大な効果があったようで、すぐに視線が逸れていくのを感じた。
ぐい、と不意に腕を引かれて、オレは気がつけば教室から連れ出されていた。
昼休みゆえ他のクラスへ移動しようとしていたらしい同級生から、一斉に好奇の目を向けられる。だがそれはほんの瞬く間のことで、すぐに奴らは何事もなかったかのように目を逸らし、誰かと顔を突き合わせておしゃべりに興じ始める。いつものことだ。それなのに、なぜか今日は無性に苛立った。自然に床を踏み飛ばす足音が乱暴さを増したのを咎めるように、前を行く後輩が振り返りもせずに言う。
「ほらほら先輩、みんな怯えちゃうからやめときましょーよ。ユウキじゃないんですから! あの人は生粋の元ヤンですけど先輩は違うでしょ。怖がられちゃいますよ?」
だから何だと言うのだろう。怖がられたってどうせ他人だ、別にそんなの、どうでもいい。
同級生に対してならオレは簡単にそう吐き捨てられただろう。だがなぜか言葉に詰まる。まるで今の後輩の言葉は、彼女自身を代弁するかのような物である気がしたのはなぜだろう。……まさか、この図太い後輩が今のオレに怯えていると? ひとつの可能性を見つけたがオレは軽く鼻で笑い飛ばした。そんな馬鹿な。勘違いの自意識過剰にも程がある。こいつが怖がるはずないじゃないか。
「……期橋。放せ」
廊下を過ぎ一階へ降りて、校舎からも出て、オレの大嫌いな体育館裏に通り掛かった直後に、オレはありったけの威圧を込めて、自分の出せる限り最も低い声音で端的に告げた。脅迫に近いその声音にも彼女は動じず、即答で返事。
「嫌です」
「なんで」
この問いに、後輩はそうとは知らずに地雷を踏んだ答えを口にする。
「放したら先輩は逃げるから嫌です。ついてきてください」
「……ッ、お前っ!!」
逃げる、だと?
即時反射的に後輩の腕を振り払い、泳いだその手を逆に引っ張って相手のバランスを崩し、無意識的に胸倉を掴み上げていた。ひ、小さくそんな声が聞こえたような気がしたがそれを気にも留めずオレは額に青筋を浮かべたまま後輩を睨みつける。掴み上げられている、急にオレが激昂している、という事態に動揺したのか、ふわと一瞬揺らいだ瞳。その目に刹那オレンジの二重円が走る。
「……何の真似ですか、せんぱい? 悪目立ちは避けたいんじゃ、なかったでしたっけ?」
何事もなかったかのように薄く笑う後輩は、まるでオレを心の底から馬鹿にしているようで。
「お前、さっきなんて言った」
「はい……?」
「オレは何をするから手を放すのが嫌だっつった!? 答えろッ!!」
こんな風に他人に怒鳴ったのはいつぶりだろうとぼんやり思いながら、オレは手に込めた力を強めた。痛い、痛い、痛い。彼女の制服を掴むこの腕も、爪が食い込んだ左の掌も、細めた眼も歪んだ表情筋も頭も全身も心も何もかもが痛い。ああ。思い出した。こんな風に怒鳴り散らしたのは、あいつと全ての縁を断ち切ったあの日以来、だ。
彼女は余裕ありげに目を細める。大きなその目からは何の感情も読み取れない。大方あの魔法で全部覆い隠してしまったんだろう――――ああ、ムカつく、頭にくる、苛々して苛々して全身が沸騰するように熱く背筋に雷光が走るのと並行して氷をぶちまけられたような意味のわからない感覚が巡る。ただひたすらに痛かった。あらゆる全てが、痛くて泣いてしまいそうだった。
「……先輩は、逃げるから。逃げるから手を放すのは嫌だと、そう、言いました」
後輩は数秒後、はっきりとそう告げた。
逃げる。逃げる。逃亡。エスケープ。逃れる。その言葉は、駄目だ。
出来ればこの後輩の口からは聞きたくなかった――――オレそのものを示すような、そんな言葉は。
まさしく血でも吐くかのように、オレはぐっと狭まった喉元を酷使し絶叫するように荒い言葉を口にした。もう頭の中はごっちゃごちゃで何をどうすればいいのかまるで分からない。心の奥底にこれまで閉じ込め続けていた暗くて汚らしい心を全て全て投擲するように、オレは目をカッと見開いて、叫ぶ。
「オレがこれまでどこで逃げたことがあるっていうんだ! オレが――――どうやって、逃げてきたって言うんだ! あれだけ大ッ嫌いだった勉強に向き合って友達なんつー馬鹿らしいもんを全部棄てて、誰かと仲良くなろうなんて変な気を起こさないように必死でッ、ただ、ただ、あいつに――――あいつに会うためだけに生きてきたオレが、一体何から逃げてるっていうんだ!! 馬鹿じゃないのか、お前は――――オレは何からも逃げてなんかッ」
逃げて、なんか。
言いかけて、オレはふと呼吸を止める。自分の叫んだ台詞を振り返った。あれ、どうして、だろう。
なんでオレ、こんな、言い訳じみたこと言ってんだ?
変な気を起こさないように必死だ、なんて。
「オレは決めたはずなんだ、決めてあった、はずなんだ――――あいつの為なら何だってするって、決めたはずなんだ! 友達なんかどうでもいいし誰が死のうが誰を裏切ろうが知ったことじゃねぇ、喩え周りに最低最悪の人種だと思われても、周りに誰もいなくなっても、あいつさえ取り戻せるなら、あいつさえ笑ってくれるならオレなんかどうでもいいって決めたはずなんだ、なのに、お前、お前はッ!!」
お前は? オレは――――期橋に、何を言おうとしてる?
「お前はどうしてそうなんだ、どうして、なんで、ずかずか人の心に土足で踏み込んできやがる! お前は自分のこと全部隠す癖に、オレには何も見せようとしないくせに、オレの誰にも触れてほしくないところに平気で上がり込んで晒して! ふざけんな――――ふざけんなよ! 逃げてなんかないんだ、考えてるだけだ、逃げてなんかいない! オレはあいつの為に全部捨てられるんだ、もう、放っておいてくれよ――――頼むからもう、決心を鈍らせないでくれよッ!!」
しばしの静寂がその場を満たした。
まるで子供が駄々をこねるように、醜く命乞いでもするかのように放たれたオレの怒声が終わると同時に手から力を抜き地面に下ろした期橋は、軽く数度むせた。それから、彼女は無言で俯く。オレも、俯く。
もう駄目だろうな、漠然とそんなことを思った自分に、少しばかり冷静さを取り戻した思考回路が吃驚した。
オレは、期橋にこんなにも支離滅裂で意味のわからない、責任転嫁と八つ当たりという言葉が最も相応しい台詞を投げ付けておいて、……激情のまま罵詈雑言を言って、まさか未だにこいつがこれまで通りでいてくれるなんて思っていたのか? 自分の能天気振りに吐き気がしそうだった。これじゃまるで同じだ。あいつと縁を切ったそのときから何も学ばずにまた繰り返した愚かな間違い。やっぱり、そうだ。オレはいつまで経っても、学年最下位のオレのまま。
いつまでも――――馬鹿なままだ。
どうしてオレがこうまで思い詰めて焦燥しているのか理由も知らないだろう彼女に、見苦しいほど攻撃的になれた自分の脆弱さには呆れ返って言葉も出ない。何が逃げてない、だ。オレはずっと前から気付いていたのに。勉強すれば彼女を取り戻せるなんて現実逃避にも、航と向き合うことから逃げていることにも、自分の為なのになのはを理由にして色んな事を無に帰してきたことも、全部全部気付いていたのに。
この後輩の、不器用な優しさから逃げていたことにも――――気付いていた癖に。
オレは何かを言おうと口を開いた。冬の冷え切った空気が肌を裂く。痛かった。痛烈で切ない痛みがオレの感覚に今更ながら訴えかけてくる。は。空気を吐き出して、オレは口を閉じた。何を言えばいいのか分からなかったし、何を言うことも出来ないんじゃないかと、そう思った。黙って立ち去るのが得策であるようにも思えたが、それはまた逃げてしまうようで、オレの足は動かない。散々これまで逃げてきた癖に今ばかりは逃げる気にも、なれない。
枯れ葉の擦れる音が耳に突き刺さった、直後に。
「……先輩は、本当、嘘をつくのが下手な人、ですねぇ」
呆れ返ったようなその声に顔を上げ、そしてオレはぎょっとして目を見開いた。そこで気付く。オレの頬に何かが伝っていることに――――それが、俗に言う涙であることに。
「そんなにぼろぼろ泣きながら、放っとけなんて言われても――――放っとけませんよ」
そして、そう言った後輩の顔も、涙で濡れていたことに。
「……おま、……え、」
「いやぁすみません、ちょっと感極まっちゃって、あはは。いやぁらしくもないところをお見せして申し訳ないんですけどね、隠すなって怒られちゃいましたし。てか先輩怖すぎです。最初とかマジどこのヤンキーかと思いました」
後輩はつらつらと文句を並べ立ててみせたがその声は湿って震えていたし、今にもへたりこんでしまいそうなほど勢いに欠けていた。あはは。苦く苦く、そして不器用に笑んだ後輩にオレはただ目を白黒させるばかりで口は金魚のように開閉を繰り返すだけ。あまりに想定外の事態に心臓が止まりそうになった。この、後輩が……泣いている? あの本音を隠して表情も隠してしまう、見栄っ張りで意地っ張りな、後輩が?
「ねぇ先輩、もしかして勘違いなさってるかもしれないですけど……私だって、一応まだ、子どもなんですよ。泣きもすれば怒りもします」
後輩はまるでオレの言いたいことを知っているかのように言う。
「それに、怖かったです。本当に。先輩がそんな風に怒るなんて思ってもみませんでしたし……それに不安でした。最近先輩の様子があんまりおかしかったから、昨日皆に相談したりもするくらい、不安だったんですよ? 先輩が何か取り返しのつかないことをしてしまいそうな気がして」
こうまで自らの感情を語る期橋を、オレはこれまで一度も見たことがなかった。自分の気持ちをひた隠しにはしてもひけらかさない秘密主義の後輩は、そうすることをひどく恐れていた筈だ。本物の自分を視られることを嫌ってずっと虚構を作り上げていた筈だ。それなのに今は二重円などさっぱり見えない、嘘偽りなんて欠片もない素直な姿を目の前に晒している。一体何の風の吹き回しだと訊くのはあまりに愚問であった。
こいつは、自分の本心を曝け出すことを恐れながら――――オレの絶叫した心に応えるように、本当を見せてくれているのだ。
オレと対等であろうとするために。
「ようやく分かりました、先輩が最近おかしかった理由。やっぱりそうだったんですね。先輩の事だから、なのはさんの為に何でも捨てる気なのは予想がついてたんです。先輩は、魔法使いの皆を利用することが嫌だったんですよね」
まるで普段、オレがこいつに事象の解説をするときのように、さながら名探偵のごとく彼女は人差し指を立てた。
「いつだか、先輩は『親友はいた』と言ってましたからね。過去形なのと現状の先輩とを考えると、きっと何かあったんだろうなって。加えて支部に全く来なくなったきっかけのユウキ救出大作戦、あ、これは仮の名称ですけど……のとき、先輩リンカさんに言ったんですってね? 『もしユウキがオレにとって必要な人材じゃなかったら助けなかった』とか、なんとか。でも妙ですよねー」
後輩は謎解きをしていく。
オレでもよく分からなかった心を溶かすように、解すように、謎解く。
「だって先輩の目標はなのはさんを見つけることでしょ? じゃあどうして、予知夢の魔法であるユウキを助けたんでしょう。差し当たってなのはさんを見つけることにはあまり関係ありませんよね? 先輩の方が不利な契約を結んで魔法同盟に協力してくれていることは知っているので、もしかして何かの保険かとも思いましたけど違うでしょう? 先輩、ただ単に、……放っておけなかっただけですよね」
誰かを置いて誰かがいなくなる。
置いて行かれた誰かの気持ちを、その身を以って誰よりも知っているから。
「だから――――助けた。理由は極めて単純明快、たったそれだけの簡単なロジカルですよ。いやロジカルとも言えないただの感情論です。じゃあいいじゃないですか。先輩は確かに人付き合いが苦手ですけど、少なくとも先輩は皆とギブアンドテイクでいたくないんですよ。友達になりたいんじゃないんですか? 先輩、いい加減気付きましょう? 先輩は色んな事に理由をつけてこられたようですけど、先輩は感情で動けるんです。損得勘定全部抜きで感情だけで動けるんです。打算も計算もない純粋愚直なまでの馬鹿っぷりで動けるんです。ただのギブアンドテイクな相手にそこまで出来ないでしょ? 先輩は、自分が気付いてないだけで、皆のこと大事にしようとしてるんです。ねぇ、それって、」
「すごく素晴らしくありません?」
「もっと自信を持ちましょう? 先輩はすごいんですよ。あんた自信過剰だとか思ってたけどもっと傲慢になってください。断じて違う、あくまでもギブアンドテイクだとか寝言ぬかさないでくださいよ? じゃなくちゃ私と仲良くしてる意味なんてないでしょう。もう先輩はより確実性のある情報を得られるコネクションを得ているわけですから。私の魔法同盟における立場はあくまでも端役であって主役じゃありませんからね、私なんかより、例えばリンカさんとかシュンくんとか、コハルさんとか、その辺と懇意にしておくべきなんです。利益としては。でも先輩はそうしない。……ねぇ先輩、ちょっとだけ、」
期橋紀沙は、見たこともないほど静かに、それでも穏やかに微笑んだ。
「ちょっとだけ――――私は先輩に信頼されていて、信用されているって、自惚れてもいいですか」
オレは少しの間息を止めて。
少しの間俯いて。
それから、笑った。
「馬鹿だなお前。……当たり前だろ」
そして、照れくささを押しやるように、早口に告げる。かつて親友に言えなかったこの言葉を、この後輩に贈ろう。道に迷いかけたオレを正すように騙してくれた、感情過多の詐欺師に。
「怒鳴って悪かった。それから、……ありがとう。お前がダチで良かった」
詐欺師は、にぃっと心の底から微笑んだ。
■ □ ■
「サトリさんの魔法、ですか?」
引き続き、体育館裏にて。
一度教室まで弁当を取りに帰ったオレたちは、それぞれ同級生たちから生温かいのかよくわからない奇妙な視線を受けつつまたこの場所に戻ってきた。二段弁当のうち下段の日の丸弁当をつついていた期橋が、オレの問いを聞き返したのである。
オレも手の中の焼きそばパンを齧って、おう、と頷いた。ここ数日気が張り詰めていたせいか、久し振りにちゃんと味がする食べ物を食べた気分だ。購買の焼きそばパンなんて大したことないと馬鹿にしていたのはどうやら間違いだったらしい。少ししなびた焼きそばとふわふわしたパンの組み合わせは、これ以上ないほどに最高だとすら思った。
「知ってるか。聞いたことないんだけど」
「そりゃまぁ知ってますよ? 最初の試験でやられましたし。でもいきなりどうしたんです」
「気になっただけだ。あのクソ生意気なガキはどんな大層な魔法を使うのかってな」
「んー。確かにすごい魔法ですけどね。でも一応機密らしくって喋っちゃいけないんですよ。コハルさんとカギナさんはフルオープンなんですけどねぇ」
「……そうなのか」
「ええ。機密中の機密、だそーですよ」
そのあたりの情報統制はどうやら完璧な模様だった。それもそうだ、あの男……真部の言う事がもし本当だとすれば、あの眼鏡の魔法は手品か夢のように人間一人をかどわかせることになる。どう考えても重要度の高い魔法だろうし、機密にするのも無理からぬ話だろう。一般人であるオレからすれば、どの連中の魔法も常識を大きく超えた技術なのでどれも一緒みたいなものだが。
と、なれば、オレが真実を知るにはあいつ本人を問い詰めるしかなさそうだが、オレはそれをすべき時期は今では無いと思っていた。今、オレが真部に裏切りを勧誘されていることがあいつにバレるのは芳しくない。もう心が決まった以上は、頭の中に組み立てた策を徹底的にやりつくす他にはないだろう。
きっと大丈夫だと、信じてみる事にした。
母親という言葉を出しただけで震え上がる十五歳の生意気なガキ。そのガキを「恩人」だと称した彼女の幻影が放った言葉を信じてみようと、柄にもなく思った。
……もしもなのはが、眼鏡の一方的な敵意や害意により魔法をかけられ失踪したのではなく、何らかの事情で彼女本人の意思を以って眼鏡へ『助力を仰ぎ』失踪したというのなら、オレが取るべき行動はまるで違ってくる。
真部の勧誘の意味は、百八十度その様相を変える。
「……じゃあ期橋、頼みがある」
「はい? なんですか? この私、コズミックワールド系ペテンハイスクールガール・大天使紀沙ちゃんにドンとお任せください!! どんな依頼も即時迷宮入り、迷探偵紀沙ちゃんがどんな難事件でも真相を闇に葬ってしまいますよ!?」
「その地味に警察組織が世話になってそうな迷探偵設定やめろ。犯罪の匂いしかしねぇ。まぁ、頼みっつーのはある奴を調べてほしいんだけど」
オレはそう言って、少しの躊躇いも無く彼女に伝える。
「真部景直。魔法同盟10号局所属の、癖っ毛の細い男。そいつの魔法と経歴について詳しく調べてくれ」
同刻、私立蕗石学園、屋上。
そこに二人の生徒が肩を並べて座り、昼食を摂っていた。両者とも濃紺のブレザー姿であるが、二人のうち片方は規則正しく制服を着こなしているのに対し、もう一人は少しばかり着崩している。他に人影の見られない屋上は本来生徒の出入りは禁止されているのだがお構いなしで侵入していた二人の間には、奇妙な空気が流れていた。
制服を着崩した、黒髪をスポーツ刈りにした方の少年はまるでやけ食いだとでも言うように、ひたすらおにぎりを掻きこんでいる。がつがつがつがつ、ペース配分をまるで考えず、既に半分を切ったスポーツドリンクでおにぎりを喉の奥に押し流す実に不健康な食事法を摂る少年を、もうひとりの髪を茶色く染めた優男風の少年は面白がるように眺めているのだ。ちなみにこちらは優雅にサンドイッチだった。ある意味対照的にすら映るその姿を見る者はほとんどいないが、もし校内の生徒の誰かがこんな光景を見たら多少の驚愕は禁じえないだろう。
なにせスポーツ刈りの少年が、この学園の誇る男子バスケ部主将を務める生徒間でも好評な生徒なのに対し、茶髪の少年はほとんど無名。実は美術部の幽霊部員であることもほぼ知られていない、まるで目立たない生徒なのだから。まさかこの二人のツーショットが見られるとは誰も思うまい。
既に昼食を食べ終えたらしい生徒がグラウンドでサッカーボールを蹴る音や歓声、或いは校舎のあちこちから聞こえてくる女子生徒の楽しげな喋り声とは隔絶されたこの空間において、静寂はあまり苦ではない。二人はもともとそれなりに喋る性格だったが、どちらか片方の機嫌が悪いとどちらともなく黙り込むのが暗黙の了解。本日不機嫌なのはスポーツ刈りの少年だった。
しばらくして、おにぎり一通り食し終えたスポーツ刈り少年はぽつねんと呟いた。
「……お前、使った?」
茶髪の少年は間髪入れず聞き返す。
「ん? 何を?」
「とぼけんなよ」
スポーツ刈り少年の鋭い目つきに茶髪の少年は大仰に肩をすくめる。「うわぁ、怖い怖い」などと言いながら欠片も怖がった気配のないおちょくるような言葉に、更に視線の威圧が強くなる。スポーツ刈りというヘアスタイルのせいで目立たないことが多いがそもそも気の弱そうな顔立ちの少年のその視線はそれなりの威圧感を伴ってこそいたものの、ちょっとアンバランスな雰囲気が漂っていてまるで似合っていない。どちらかというと、こいつは本来茶髪少年のように人をからかう立場に立つ方が似合う性分であった。今の彼のようにからかわれる役柄は、『あいつ』が引き受けるのが望ましいはず、である。
「……全然怖がってないじゃん、矢根瓦(やねがわら)」
「あら、そう見える? じゃあ迫真の演技でもしようか。うわぁぁああああああ助けて助けて、怖いよー、バスケ部主将こーわーいーっ!」
「全部棒読みっ!? しかも今『びっくりマーク』って言った! 効果音を自分で言った!」
「さすが、なんと的確なツッコミだろう。流石は主将だ」
「何の関係性もないよ!」
的確なツッコミだった。どうもこの少年、ツッコミに慣れつつあるらしい。
おどけたようにまた肩を竦めた茶髪少年……矢根瓦は、言われた時から理解していた問いの意味をちょっと吟味し直してから楽しそうに口を開く。
「どうして使ったかなぁって思うの?」
「……この前、『あいつ』に会ったんだ」
「へぇ! そりゃまたどこで」
友人からの意外な告白に軽いノリで聞き返した彼は、次の瞬間予想外すぎる解答に驚愕し手の中のサンドイッチを無駄にする羽目になった。
「飾石町のファミレス。部活最後の打ち上げに行っただろ、おれ。あそこで、“眼鏡と話してた”」
「っえぇ!?」
するん、と矢根瓦の持っていたサンドイッチが綺麗な放物線を描いてその手を離れ、次いで惨い音を立てて屋上の床に落下、挟まれていたレタスやハムが一瞬にしてただの残骸と化す。だがそれにも気を払えない程動転した矢根瓦は、まじまじと隣に座る友人を見つめて矢継ぎ早に問うた。
「なっ、なななんで……? 眼鏡ってあの眼鏡? 口が悪くて態度も悪い癖に頭は良い年下の彼? あの毒舌すぎて同輩二人にトラウマを植え付けてるって噂の? あの?」
「……ああ」
「ちょ、え? ……どういうこと?」
「いやさ、調べたんだけど、どうも『あいつ』……今ウチに加担してるみたいなんだ。一般人協力者として。64号局メインで」
解せぬ、と言いたげに眉間に皺を寄せて少年は答えた。昨晩夜中の二時まで起きて調べ上げた情報には確かに『彼』の名前があった。協力契約が結ばれたのはわずか一、二カ月前。問題児ばかりが集まって結成されたその局が、つい先日局員の一人が昔のいざこざを再発掘して27号局の人間に出動を要請する事態を引き起こしたのは記憶に新しい。それまで保守的で他局にあまり関わりを持ちたがらなかった64号局局長が自ら救援要請を出したというから、ちょっとばかり噂になっているのだ。そうでなくとも、ドール事件を解決した異例の新人ルーキーが在籍する局、本人たちの自覚があるかどうかは分からないが全国の支部からそれなりの注目がおかれる場所である。
だが、矢根瓦は少年の想定したどの「○○した支部局」でもない言葉でもって尋ねてきた。
「あっと……〈名前消し〉がいるって噂の? 〈三人衆〉と懇意にしている」
「……お前そんなのどこで聞いてきたんだ。おれは知っててもいいけど、矢根瓦が知ってちゃマズいんじゃね? オーケーなの?」
「いいんだよ。だって眼帯ちゃんから聞いたし」
「……おいおい」
それでいいのかあの上司、と少年は僅かに呆れたが、まぁ知っているなら話は早い。〈名前消し〉は都市伝説程度にしか語られない信憑性皆無と呼ばれる噂でしかないので、知らない人間に一から説明するのは骨が折れるのだ。
名前消し。
それは、過去に類を見ない特殊すぎる魔法を有した魔法使いの名前が在籍名簿から密かに消され、それぞれの支部局とは独立して活動できると言う、いわば特選のエリートであり影の立役者たちだとされる。個人個人が〈三人衆〉に匹敵する能力を持つとされるが、彼らは基本表舞台に立つことは無い。他のどの支部にも存在が秘匿され、表向きは存在しないと扱われるらしい。ただし実際にそんな魔法使いがいるのか果たして疑問であり、魔法使い達の間では噂程度にしかならない面白半分の都市伝説。
64号局には、その〈名前消し〉がいるという噂があった。
「うん、そう、その64号局だ。……でさ、『あいつ』。昨日会ったとき、おれの顔見て逃げやがった」
不満たらたら、不機嫌絶好調。そんな顔で拗ねたように文句を募れば、矢根瓦は数秒きょとんと眼を丸くした。いち、にぃ、さん。三つ数字を数えた瞬間、まるで発作か何かのように矢根瓦は勢いよく吹き出した。
「き、きみ、ちょ、なにそれ……っ! もしかして友達に無視されたのが悔しかったの!? お、お、落ち込んじゃってたりするわけ!? ぶっは、きみ案外コドモだねぇ!! うわははははははは、それはいいことを聞いた! よっし、皆に言い触らそうっと、そうしよう! やだなぁもう可愛いところあるじゃん!」
「……矢根瓦」
「ん? なに? あ、大丈夫だよ、僕は心配しなくても街中できみを見かけたら徹底的に無視してあげるからね――――うふふふふ、おかしいなぁ、友達に無視されて落ち込むなんて、きみが! あのきみが!!」
「……よし決めた今決めた、おれ、今からお前を全力で〈殲滅(ディストラクト)〉する」
殺意の籠もった少年の視線にも一切動じず、矢根瓦はチッチ、と指を振った。実に楽しそうなその態度はかつて少年が『彼』に取っていた態度とよく似ている。それもそうだ、矢根瓦は「意図的に似せている」のだから。少年はなぜ矢根瓦があの頃の自分を真似るのか理由が分からないが、恐らく性格が壊滅的に悪い根暗な矢根瓦のことだ、多分からかう為の道具に過ぎない。
「なぁに言ってんのさ、きみじゃ僕は潰せないでしょ。〈分力(ディバイド)〉しちゃえばいいんだから」
余裕綽々に矢根瓦は答えて、それに少年が何も言えずにいるのを見て取ると「じゃあ、」と話を本題に戻した。
「最初の質問に戻ろうか。なんで僕が使ったと思ったんだい?」
「……『あいつ』の成績が伸び過ぎてたから。おれとお前はもうあの頃から知り合いだったし、何度か『あいつ』を遠目に確認したこともあるだろ。お前の学力を〈分力〉したんだとすれば、あいつの学力にも頷けるんだけど」
「えー……あのねぇきみ、まずいくつか忘れてるようだから訂正するけれど」
矢根瓦は少年が真剣な面持ちで告げた推測を聞いて、聞かせるためのため息をついたかと思えばそんなことを言った。ペットボトルの紅茶飲料に口をつけて喉を潤してから、
「僕の〈分力〉は、僕の持つあらゆるステータスを他者に配分する力だ。頭の良さとか視力の良さとか、ね。でも基本面識のない人間には発動しないよ。僕は確かに遠目に『彼』を見たことがあるけど、それを面識に数えたら街中の人間が対象になってしまう。それから、これはついこないだ実験でわかったことだから仕方ないけど――――効果時間は三日ぽっちだよ。『彼』の成績が伸びたと言うなら、それは紛うことなく『彼』の実力だ」
「……うーん。そうだったっけか」
「そうだよ。僕は魔法なんてかけてないもん。そもそも何で顔もロクに知らないあの子に、僕が学力向上を願って自分の学力を〈分力〉しなくちゃならないのさ? しかも僕ここ三年間ずっと学年一位だし」
心外だとばかりに口を尖らせた矢根瓦を横目に、少年はぼうっと空を見上げた。本日の空は、そこそこの快晴にそこそこの雲。ぽこんぽこんと浮かんだ雲は平和で緩みきっている。少年はどうにも気持ちを燻らせたまま、ぼそりと呟いた。
「……じゃあ、あいつ頑張ったんだなぁ」
それは心からの感嘆の言葉だった。
勅使河原航(てしがわらこう)と、矢根瓦或(やねがわらある)。
この二人が、それぞれ〈殲滅(ディストラクト)〉、〈分力(ディバイド)〉と呼ばれる魔法を保有する、関東支部27号局の局員であることを64号局の面々が知るのは、もう少し先のお話。
そしてまた、真部景直が二人の存在を以前より知っていて――――矢根瓦或が諸星啓太に〈分力〉の魔法をかけたがゆえ、諸星啓太の成績は急上昇したのだとばかりに思い込んでいて。
その勘違いが、真部にとって致命的な物となるのは、その翌日の話である。




