3 独白
オレは勉強の嫌いな子どもだった。
小学校六年間と中学校三年生の夏までにおいて、まずまともに授業を受けた覚えがない。授業中に立ち歩いたり授業妨害をするわけではなかったがノートは大体白紙であったし、授業中は大抵好きな漫画や遊びのことばかりを考えていた記憶がある。教師には、よく「子どもの仕事は勉強なのよ」と叱られた。でもそんなの知ったことではない、とばかりにオレは遊びに遊んだものである――幼いながらに小学校で退学になることなど有り得ないことも、惰性で時間が過ぎていくことも理解していたのかもしれない。
勉強なんか大っ嫌いだった。使うかも分からない公式と小難しい漢字。植物を育てるつもりもないのに発芽の過程について勉強しても意味など見出せなかったし、社会に至っては完全放棄だ。絶対あんなの意味がないと思っていた。大昔の土器なんて別に興味は無い。強いて言うなら戦国時代は楽しかった気がするがそれもほんの一瞬で、すぐにやたらと白黒写真ばかりの近代に映ってしまってすぐに面倒くさくなった。血が騒ぐような騒乱に満ちた戦国では無く、無機物的な重火器で人が死ぬ歴史も殺す歴史も、さしたる興味を惹かなかったのである。
そんな感じで、とても学生の本分とは言えない勉強放棄の生活を送っていたオレだが、物心ついたときから恋慕する人物がいた。最初は従姉妹という区分もよく分かっていなくて、姉のようなつもりで接していた記憶がある。いつも派手な色合いの服を好んだ彼女――末路なのはを、オレはいつの間にか好きになっていた。
理由は……なんだろう。特にない。と言っては失礼かもしれないが、気がついたらこうだったので文句は言わないでいただきたい。それでもこの気持ちに気付いたのは小学五年生の頃であり、それまではただ「仲の良い姉兼従姉妹」みたいな感覚だった、はずだ。あいつの良いところなんて挙げればキリがないというか、もっと簡潔に言うと「全部」になってしまうほどの、自分でも馬鹿げていると思うレベルの重症だ。三年間会っていない今でもその気持ちが変わらないと言うのだから、オレはよほど一途であるらしい。
さてそれでは、なぜオレが彼女への気持ちに気付いたのかというと、それはある友人ができたことに由来する。それまで運動神経の良さとそれなりの人付き合いの上手さで友人は多かったのだが、小学五年生のクラス替えで同じクラスになったあいつは中でも格別だと今でも思う。そんなことを思う資格はとっくのとうに失くしてしまったと知っているが、それでもあいつは親友だった。
勅使河原航という変わった苗字のそいつは、最初こそ少し気の弱い男だった。後に本人が語るにはただの人見知りだったらしいのだが、とにかく喋るのが苦手。クラスの隅でおどおどしながら、グラウンドを羨ましそうに見つめるそいつにオレが声をかけたのが事の始まりである。いかにも運動の苦手そうな風貌の航だったので、まずは運動音痴でも敷居が低いと知っていたドッジボールに誘った。
が、これがとんでもない勘違いだったとすぐに判明した。
航はひょろりとしていた癖に運動神経はオレ並みで、ドッジボールで一騎当千の実力を発揮したのである。オレと敵対チームにいた航は、言葉にはしなかったがその運動神経を自慢としていたようで、オレの要らぬ気遣いにもバッチリ気がついていたらしい。ボールを受け取るなりオレへの集中砲火を浴びせ、数十回の攻防戦の後にオレが敗北を喫したときのあいつの顔は忘れられない。
「おれをバカにするからそうなるんだ、バーカ!」
そう言って滅茶苦茶むかつく勝ち誇った笑みを浮かべたそいつに、短気なオレはすぐに青筋を立てて大喧嘩に発展して。
犬猿の仲のような第一印象を抱いたお互いが、いつの間にか親友になっていたのはいつからだろう。なのはにこの出会いを知られたときは腹を抱えて爆笑された後、なんで今そんなに仲良くなれてんのと不思議がられたが、オレにも実はよく分からない。航との共通点は同じクラスで、運動が得意で、両者負けず嫌いであったこと。親友でありライバルであった航との共通項はたったそれだけ。音楽の趣味も好きな漫画も好きな女の子のタイプも勉強に対するモチベーションも、何もかもが異なっていたのに、いつの間にか仲良くなっていた。
あの頃は楽しかった、と思う。
レールの上を走る電車のように当たり前に中学校に進学して、なのはがいて、航がいる毎日。バスケという打ちこめるものを見つけてからは勉強を完全に丸投げしていつもバスケのことばかりを考えている、バスケ馬鹿みたいな日々を送った。毎日無邪気にバスケをして、遊んで、笑い合う、たったそれだけでも充実して幸せな時間。
――そんな時間を断ち切ったのは、他ならぬオレだった。
なのはがいなくなって塞ぎ込んで、オレはひとつの案を思い付いた。オレは馬鹿だったから、もしかして勉強すればあいつの居場所はわかるんじゃないかって、そんな馬鹿なことを思い付いた。当時のオレには頭の良い人間の考えていることが分からなかったし、彼らをまるで神様でも見るように遠い人だと思っていた記憶がある。だから思ってしまった。教科書に載る偉人たちのように頭が良くなれば、もしかしたら彼女の居場所を見つけられるんじゃないかと、思ってしまったのだ。
……いくら馬鹿でもそんな風に考えるかって思うだろう? でもオレは思ってしまったんだ。思考力が低くて子どもじみた幼稚な人間だったというのは大きな要因だが、もうひとつ、そんなバカみたいな思考に捉われた理由はあると今にして思う。オレは多分、かなり追い詰められていたのだ。大きな心のよりどころであったあいつが目の前でいなくなって動揺して混乱して、不安に苛まれ、精神はぎりぎりの場所にいた。藁にもすがる思いでどうにかなるはずだと思い込もうとした。その結果が、オレ以外の誰もやろうだなんて思わない、やっぱり子どもみたいな結論から導き出した『頭を良くする』というものだったのだ。
あいつのいなくなった理由をどうしても知りたくて、どうしてもまた彼女に会いたくて、オレはそれまでの自分を何度も惨殺するように勉学に打ち込み始めた。悪魔に取り憑かれた狂人さながら、休み時間も授業中も寝ても覚めても勉強のことばかり。思えばオレだからあんなことが出来たんだろう。普通そんな無意味なことに時間を費やしたりはできまい――いくら表面上の知識と思考力がついてきても、根っこは馬鹿で愚かなままだったオレは、そうすることだけが彼女を助ける道だと信じていた――盲信していた。そんな馬鹿なことがあるはずないのに。彼女が帰ってこないかもしれないという可能性を信じたくなかったから弾き出した、最後の希望に見せかけた、ただの悪あがきだったのに、それをさも最善であるかのように信じた。
オレは勉強嫌いであったことを後悔した。ああ、勉強しておけば良かったんだと心の底から思った。そんな簡単なことで彼女が見つかるはずもないと言うのに、そんな淡い希望に縋るように、オレはなりふり構わず信じ続けた。
恋は盲目というが、まさにその通りである。
結果、オレはあらゆるものを失くしてしまったわけだが、それでも悔いはないと思っていたのだ。友人関係も明るい日々も必要ないと思っていた。彼女が戻ってくるならなんでも捧げる所存だった。
なのに。オレは自嘲した。
オレは自分が思っていた以上に、強欲な人間のようだ。
■ □ ■
――諸星啓太と真部景直が邂逅した、その日の夜。
嘘をつくというのはある意味才能だ。
そういう意味で、私の知る諸星啓太という人間はその才能に著しく欠けた人間で、才能を持たない稀有な人物だ。ああまで誤魔化しや嘘が苦手な人間が他にこの世にいるのだろうかと本気で思う。単純で真っ直ぐで素直で、その上無垢なあの人の言動に、私は常々憧れてきたものだ。本人も自分がその手の分野が不得手なことは理解していようが、まさか私でなくたって誰にでも筒抜けなほど分かりやすいなんて知らないだろう。良くも悪くも嘘のつけない男なのだ。
で、その嘘のつけない男が最近隠しているらしい何かに、私は頭を悩ませていた。
「……むぅ」
膨れっ面で漏らしたうめき声にぴくりと反応したのは、向かいのソファに座ってノートパソコンを開き、一心不乱にキーボードを叩いていたミイちゃんだった。ぴたりと手を止めて顔を上げ、不思議そうに瞬きする。二十一歳にはとても見えない童顔の横で、二つに結わえた髪がぴょこんと揺れた。さながら女子児童である。
「どうかしたですか、キサちゃん。小難しい顔してるですよ?」
「……うーん、まぁ、考え事?」
肩をすくめて返答すれば、ふむ、と彼女は一瞬訝しげな顔をする。私が考え事をするなんてみたいな顔をされて非常に心外だったが、それを言える空気では無かったのでこほんと代わりに咳払い。誤魔化すように時計を見る。私の命綱に等しき〈虚構〉の魔法を見抜ける彼女の前では、魔法を使うだけ無駄だとつい数日前に諦めたばかりだ。ある程度は魔法の使用を控えるようにしていた。
現在時刻、午後七時過ぎ。既に夕食を済ませていた魔法同盟関東支部64号局たるこのシェアハウスに突撃してきて約四十五分の時間が経過している。ちくたくと静かに刻まれていく洒落たデザインの秒針を眺めながら、愚痴っぽく言い募った。
「最近先輩の様子がおかしいんだよね~。いやまぁ随分前から頭のイカれた勉強中毒者(スタディホリック)ではあったけどさぁ、なんていうか、別物っていうか?」
「いやその言いよう失礼じゃないですか!? スタディホリックって、真面目なだけなんじゃないです?」
「真面目なだけで学年主席を三年も維持できるとは思えないんだけどなぁ……」
私の言葉にもミイちゃんは、「そういう人もいるですよ」とだけ答えてモニターに目を戻した。なんでも提出期限間近のレポートを書き上げるべく、数日前からこんな調子でずっとパソコンに向かい切りなのだという。疲れないのか、と聞いたら「何を言うですか、元ヒキコモリを舐めないでほしいですね! 僕は時間と空腹が許すなら一日中パソコンの前にいられる自信があるです!」とドヤ顔で言われたので、とっくの昔に心配するのは止めている。実際全然疲れた様子を見せないのもあるが、加えて私はちょっと彼女が苦手だった。私にとって、魔法の通じない人間ほどやりにくい相手はいない。
かたかたかたかたかた、キーボードを軽快に連打する音が一定のリズムを以って耳を刺激する。かなり早いタイピング速度であるとすぐに知れた。シュンには及ばないにせよ相当な練度で最初は感心したが、これはヒキコモリ生活からの派生スキルだと思うと途端に残念に見えるから不思議だ。
この子、黙ってれば可愛いのになぁ。話すとすごく疲れる。テンションの高さと擬音を交えすぎた言葉選びが、彼女に対して感じる疲労感の一因になっていることは間違いあるまい。どうしてこんな明るい子がヒキコモリになったりしたんだろうと不思議に思ったところで、不意に口を挟んできた人物がいた。
「先輩――と申しますと、あの見せ場をかっさらった殿方ですの?」
「……そーですけど」
「ちょっと、そんなあからさまに嫌な顔をしないでくださいます? わたくし傷つきますわぁ」
嘘つけ、あんたの精神は鉄筋コンクリート製だろうが。
という台詞が喉から飛び出す代わり、私は声の主をじとっとした目で睨みつける。視線の先にいた人物はその視線を意に介した様子もなく、ふっと余裕綽々に口角を吊り上げて微笑んだ。
「あら、そんなに敵意の籠もった目で睨みつけられても困りますのよ? キサさん。わたくし感謝されることはあれど、恨まれるようなことをした記憶はございませんわ」
「よく言いますねぇアキさん、初見の人間に平気で死刑宣告できる神経の持ち主の癖に。私にはとてもじゃないけど理解できない悪趣味ですね。ホント、大人しい顔して中身は夜叉ですか」
「キサさん夜叉なんて言葉をご存じでしたの? 驚きましたわ! ほら、キサさんって頭の方は弱いと存じていましたので。あ、精神面も弱いのでしたっけ?」
「ホンットにムカつくことしか言いませんねぇあんた。人格破綻者は話に加わって来ないで貰えます? できる話もできなくなりますから」
思い切り不敵に微笑んでやれば、彼女は受けて立つと言わんばかりに笑みを深めた。色眼鏡の奥に隠れたライトイエローの双眸が鋭く輝き、その目に敵意と警戒心と侮蔑の光が乱舞する。見るだけで見下されていると分かる嫌な眼をした彼女が、私以外の人間の前では猫を被って淑女気取りというのだから馬鹿げた話だ。人を嫌う、ということが少ない私でもすっぱり断言できるが、私はこの人物が心の底から嫌いだった。
秋羽根葉月。魔法同盟支部64号局所属、〈色分〉と呼ばれる人の心理を色で見通す魔法を手にした、年中和服の女である。
東興星観タワーのドール事件の際、電話で初めて会話したにも関わらず「明日貴方は死にますから来ないでくれます?」という趣旨の台詞を平坦な声で発言した、著しく常識に欠けた人格の持ち主の彼女とは、こうして顔を突き合わせては皮肉を通り越して悪言の応酬を繰り返している。いくら寛大な私といえどあの初見のイメージは簡単に払拭できるものではないし、向こうも向こうで私と馴れ合うつもりなどないのか一切歩み寄りの姿勢を見せない。あの一件において、少なくとも彼女に対する非は自分にはないと思っているので私も歩み寄らない。よって、私と彼女とが揃うと必ず険悪で殺伐としたムードが漂うようになってしまっていた。
本日も例に漏れず飛び出した罵詈雑言に、私と彼女の中間地点にいたミイちゃんが顔を青くしてあわあわと慌てた。思い返すと、ミイちゃんがこの現場に遭遇するのは恐らく初めてだ。この前同じ状況に陥ったシュンくんもてんやわんやと大慌てし、リンカさんは苦笑いをしてイオリくんは怯え、ササちゃんですら引き攣った表情になったこの空気にはきっと耐え兼ねるものがあるのだろう、額にじっとり冷や汗をかきながらこちらの様子を伺っている。
まぁこの現場に出くわした人物でまともな対応ができたのはそれこそユウキくらいのもので、彼はこの言い合いを見つけるなり呆れた顔でアキに拳骨(!)を喰らわせ、ついでに私もパーで一発頭に貰った。アキに対して「だから散々言っただろうが手前、新人に喧嘩売り飛ばしてンじゃねェよ!」と怒鳴るユウキはリンカさんを前にした時よりも兄らしかった。というかむしろ保護者である。それを「はいはい分かりましたわ」とむちゃくちゃ適当に受け流してしまうのが、この和服女なのだけれども。
「あ、えっと、ふ、ふふふふ二人とも落ち着くです!? 喧嘩はダメですよ喧嘩は! 喧嘩なんかしてると天罰下るですよ? 喧嘩は迅速に、かつ速やかに、すっぱあああああああああああああんと解決してしまうべきなのです! よってけけけ喧嘩両成敗ということで如何でしょう!?」
やっとの様子でミイちゃんが提案するも、アキはにこりと笑って即答した。
「申し訳ありませんわねぇミイ、これは喧嘩ではありませんわ。わたくし全然、まったく、欠片も、あの方を相手にしているつもりなどありませんもの。キサさんって思い込みが激しいんですのねぇ。わたくし普通に喋っているだけなんですけれど」
「よくそんな減らず口が叩けますねアキさん。あんたの言動全部真っ黒の癖に。ここまで腹黒いとむしろ感心しますよ、スカッとしますね。気持ちの悪い爽快感をどうもありがとうございます」
「お礼を言うならもう少し丁寧に述べたらどうですの? 貴女のその礼儀のなっていない様子、とても参考になりますわね。今ちょうどお仕事で、頭が悪くて悪知恵しか能がない上やることなすこと迷惑ばかりのお荷物クズ少女の挿絵を描くよう依頼が来ているのですけど……あぁちょうど良いですわ! わたくし貴女をモデルにして差し上げます。すごいですわね、貴女が元のキャラクターが一人生まれますわよ?」
「あーすっみませんねぇアキさん、それで喜ぶほど私は馬鹿じゃないので? それを言うなら貴女なんてどうですか? プライドばかり高くてデリカシーに欠けた、高飛車な癖に役立たず……なかなか良さそうな噛ませ犬ができますね。貴女のその素晴らしい画力でぜひ描いてみてくださいよ、きっと貴女そっくりのキャラクターが生み出されるでしょうねぇ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「こちらこそどうもありがとうございます」
「……はわわわわわわわわ」
にこり。にこり。がくがくがくがく。
目が全く笑っていない二つの笑顔と、戦々恐々とした恐怖に慄く顔とが同時に現れた。私と彼女との間に色とりどりの閃光と共に火花が散ったように見えたのは多分妄想ではないだろう。こちらの無言の威圧にも全く屈した様子なく、仕事のイラストの下書きの為かペンを手に構えたまま、依然艶やかに微笑む彼女。そのムカつく澄まし顔をどうやって崩してやろうかと表情を歪めて口を開こうとした私は、次の瞬間ぽすっと頭頂部に与えられた軽い衝撃に思わず頭を庇うように両手を上げた。
「ちょ、いきなりなにすっ」
「……バイトから帰ってきたら殺伐とした戦争してたから、止めてやったつもりだったんだけど……」
見上げた先にいたのは、メロンパン片手に呆れ顔でこちらを見下ろすトキヒロだった。
私の頭に当たってソファにバウンドした物の正体はビニール袋。パッと見十個は軽く超える菓子パンが詰め込まれたそのビニール袋はそれなりの攻撃力を誇ったようであり、ちょっとばかし頭に響いたが痛いと言うほどでもない。どうも手加減してくれたようだ。いや、そもそも菓子パン入りビニール袋が意図的に頭に直撃するという経験はそうない気がするし手加減しなかったらパンが跡形もなくぺしゃんこだろうから、食べ物を愛する彼のことだ、多分食物を案じてのことなのだろうが。
タートルネックにトレーナーと依然緩いが冬仕様の出で立ちのトキヒロは、「あー寒かった」と呟いてまたメロンパンを齧りながら、私から視線を移しアキを見た。私の醜態を目撃したからかご機嫌そうな彼女を一目見るなり事態を把握したのか、一瞬だけ目を細めて、ため息。
「あのさぁアキさん、あんたも子どもじゃないんだから、いちいち突っかかるなって。キサの言う事全部真に受けてたら疲れるだけだぜ。こいつの言う事大半は冗談なんだから」
「そうでもないかもしれませんわよ、トキヒロ? いくら彼女が嘘つきでも本当のことを言わないはずがないじゃありませんの。ほら例えば、わたくしがプライドの高いデリカシーに欠けた高飛車な役立たず、だとか?」
「キサお前そんなこと言ったのか……。命知らずかよ」
「なにか仰いまして?」
「いえ別に何も」
情けないほど真顔で即答した。
なんだこいつ、せっかく庇ってくれた! と思ってあんたの株が上がりそうだったのに。こんな和服女に何尻ごみしてるんだと文句を言ってやりたくなったが、思えばあの和服女は人の心理を色で見通せるのである。今私がアキに対して抱える嫌悪的な感情も勿論のこと、トキヒロの心理状況も見えているのだろう。そんな中わざわざ事態収拾に動くのは地雷原を無警戒に駆け回るのと同義だ。誰だって、自分の心を覗かれて良い気分はしないだろうから。
「ふむ。まぁいいですわ。で、話を戻しますけれど」
勝手に戻された。おいこら勝ち逃げかあんたと目を眇めれば、アキはふふんと鼻で笑う。びきと堪忍袋の緒が音を立てた気がするが必死にそれを無視し、私は不機嫌さはそのままだったが軌道修正に乗ることにしてあげた。あくまでも、あくまでも乗ってあげたのだ。その程度には、先輩のおかしな様子は気にかかるものだったのである。
「あの殿方の様子がおかしいと申しますと、どういうことですの?」
「あの殿方? ……って?」
「あーそっか、とっきー今帰ってきたんだよね。先輩だよ先輩。ほら、あのタワーのときの」
「……ああ。あの学ラン?」
そういやそんなの居たな、とぼそぼそ言いながら台所に向かい、ラップしてあった夕飯を目聡く見つけるやちょっと目を輝かせるトキヒロ。随分手慣れた様子で準備を進め、五分とせずに食事を揃えて「いただきます」と唱えた。ちなみに白米大盛り。電子レンジで温め直した唐揚げも、他の皆よりちょっと多めのようだ。こいつが成長期という言葉を体現するようによく食べるのはもはやここでは常識であるので、リンカさんも多めに作っているらしい。
トキヒロは両手を合わせて白米を一口食べた途端、緩みに緩み切った表情で一言。
「あー。生きてて良かった」
「そこまで!? どんだけ食に感謝して生きてるのとっきー!?」
「んだよ、食い物は大事だぞ。食べ物を粗末にすると人間は簡単に死ぬんだ。精いっぱい美味しく食べるのが食材への礼儀ってもんだろ」
幸せそうに恍惚とした表情で咀嚼しながら、トキヒロは真面目な調子でそう言って食材を嚥下する。なんというか、見ていて思わず頬が緩みそうになるくらい幸せそうに食事をしているそのさまを見て、流石の私も毒気を抜かれた。アキに噛み付く気力も失せてしまう。まるで聖職者か何かのようなその言葉が、もしトキヒロ以外から放たれたのなら特段印象に残りもせず聞き流していただろうけれど、食事を神聖な儀式であるかのごとく大切にしているらしい彼の言とあっては妙な説得力があった。
一足遅い夕飯に夢中なトキヒロを一瞥し、少し考えた。案外勘の鋭い彼に話を聞いてもらうのも悪くないと思ったのだが、夕食の邪魔をするのも無粋だ。とはいっても彼が食べ終わるまで待つのも億劫。十秒とせず出た結論はまぁ無理に聞いてもらうこともないか、というもので、私は口を開いた。
「うん、まぁ、先輩の様子がおかしいっていうか……先輩が何か悩んでるっぽいというか」
「悩み……? 悩みなんて誰にでもあるですよ。そんなに深刻そうなんです? 心配になるくらい」
「いやまぁ深刻そうと言えばそうなんだけどね、なんか……なんていうか? 辛そう、っていうか、迷ってる? っていうか」
「随分抽象的ですのねぇ」
「あんたみたいな便利な魔法じゃないんですよ、こっちは。相手の考えてることを簡単に言葉にできるスキルは持ってないんです」
「まぁ失礼な。これはかなり不便ですわよ」
不満そうな声音でアキは言うが、その声と裏腹に顔には「ざまぁ」とでかでか書いてあった。こいつこっちの心を見て楽しんでやがるな、悪趣味め。心の言葉が伝わるわけではないので心中で愚痴めいた悪口を投げつつ、私はそっと回想する。
ここ数日――正確に言えば、ユウキが〈氷柱〉の魔法使いに襲撃された日からずっと、先輩の様子が妙だと感じる事が多くなった。ふとしたときにぼーっと地面を眺めていたり、お昼の焼きそばパンを買い忘れたり、放課後珍しく帰りが遅かったと思えば課題を提出し忘れていたり。先輩と一年の付き合いになる私からすればどれも信じ難い種類のミスが目立っているのだ。本人はそれで自分の不調を隠しているつもりだと言うから笑っちゃいそうになるけれど、なんだか只事ではないような気がして胸騒ぎが収まらない。いつもなら「まぁよくある話だよねぇ」と捨て置く話題だが、なぜか今回はそんな気になれないのだ。
今朝電話したときもなんだか妙な受け答えだった。焦点の合わない、ちょっと疲れたような、先輩にはひどく似合わないしおらしい声音。憔悴していると言ってもいいほど疲労感滲むその声音に、私の不安は一気に煽られた。何かをしないと取り返しのつかないことになるような、そんな気分。でもだからといって何をすればいいのかも分からなくて、自分には不向きだと知っている考え事なんかしていたわけなのだが。
まくし立てるようにその旨を告げて、私はむぅ、とまた眉根を寄せた。話せば考えが整理されるかと思ったが案外上手くいかない。余計に思考の糸が絡まってしまったような気がして、頭を抱えたくなった。
「んー……そうですねぇ」
黙って話を聞いていたミイちゃんがぽつりと呟く。
「人の悩みっていうのはデリケートですからねぇ。人が何を考えてるか、なんて基本的には言葉にしなきゃ分からないもんです。アキちゃんみたいな魔法でもない限りは。で、その先輩くん? がキサちゃんに何も話してないんだったら、大丈夫じゃないですかねー」
「……そうかなぁ」
「キサちゃんは先輩くんが自分を信頼してくれてると思ってるです?」
「……よく分かんない」
率直に答えた。先輩は嘘をつけない人間だ。普段の態度や接し方を見れば、とりあえず私が嫌われていないことくらいは分かる――でも好き嫌いと信頼関係は全くの別物であるということも私は知っている。あの先輩は、果たして私のことを信頼してくれているのだろうか。悩みの一つも話してくれないと言う事は信頼されていないのか。それとも、信頼はされているけれど信用はされていないのか。
信頼も信用もされていない、と言われれば納得できないわけじゃない。私は大嘘つきで見栄っ張りの詐欺師で、これまで先輩に散々醜態をさらしてきた。信頼にも信用にも値しないと言われれば、私は大人しく頷くことしかできないだろう。寂寥感は禁じえないだろうし精神的にはかなりショックだけれど、全部自分の行動のツケだ。
……寂しくなんてないし。
言い訳じみた気持ちになったところで、ミイちゃんはにぱっと微笑んで私の顔を覗き込んだ。無邪気で天真爛漫なのに、どこかしっかりとした芯を感じる、ここ数日で初めて見る顔だった。私の不安を水に溶かすような包容力溢れる笑顔で、彼女は励ましの言葉を口にする。
「大丈夫ですよ、きっと先輩くんはキサちゃんの心配、分かってくれてるはずですから! あの子キサちゃんには優しいみたいですし! この前のでちょっと見ただけですけどっ」
「……よく見てたんだねミイちゃん」
「まぁ、僕、趣味が人間観察みたいなところがあるので! 楽しくないですか!? こう、高台とかから街を行きかう人々を観察してですね、そして『ふははははははははは! 見ろ、人がゴ』」
「はい黙ろうねー。ミイちゃんその映画好きなのは分かったから黙ろうねー」
話があらぬ方向に脱線しそうだったのできっぱり台詞を遮ると少し残念そうな顔をするミイちゃん。そのしょぼくれた顔はどう見ても二十一歳には見えなかったが、さっきのハイテンションな言葉たちは私を励まそうとしてくれたのだというのは火を見るより明らかなこと。そんな気遣いがちょっと嬉しくて、私は自然に口角を上げた。
少しこちらの気が楽になったのを見計らったように、トキヒロものんびりとした調子で告げる。
「つーかそんなに気になるなら、本人の前言って正面堂々聞けばいいじゃん。そのほうがすっきりするよ。キサなら無理矢理聞き出すくらいワケないだろ」
「なんかその発言に悪意を感じるのは私だけかな!? 私そんなに平気で人の心に土足で踏み込めないよ!? 私は何だと思われてるのかなかな!?」
「え? 馬鹿でしょう?」
「当然のように答えんなあんた!」
からからとアキは笑い、いつの間にか夕飯を片付けていたトキヒロも愉快そうに笑った。なんだ、こっちは真面目に考えてるのに、みんなして笑いやがって。憮然として口を尖らせてみると、トキヒロがそれに気付いたようで表情を和らげる。まるで、安心しろと言わんばかりの表情だった。
「お前はだって、詐欺師なんだろ? さくっと騙して本音聞き出してこいよ。それも出来ない奴が詐欺師なんて名乗るんじゃないぜ」
さらりと告げられた言葉。それに、私は一瞬、心臓が大きく高鳴ったのを感じた。
ぎぎ、と油を差していないロボットのような様子で目を見開くと、トキヒロの優しげな視線と絡み合った。眠そうで気の抜ける両目なのに、そこには私を応援するような輝きが見えた、気がした。どくん。あ、そうか、そうだった。意味のわからない焦燥感と不安に掻き消されていた自分が見えてくる。不思議な気分だった。トキヒロのたった一言で、どうして自分はこうも――奮い立っているのだろう。
「……そう、だね」
気がつけば。
キサはにこりと微笑んで、自信ありげに告げていた。
「先輩が何に迷ってるのか知らないけど、可愛い後輩が後押ししてあげなきゃやっぱりダメだよね! うん、明日ちょっと話を聞いてみるよ。ていうか無理矢理にでも聞き出すよ!」
「おーー! その調子ですよキサちゃん! 僕もじゃっじゃかじゃっじゃかっと応援するです!」
「ありがとミイちゃん! もしこれでなのはさん絡みの話で、またウジウジしてたら今度こそ殴り飛ばさなきゃ……ありがとねとっきー、ミイちゃん!」
「わたくしにはありませんの?」
「あんたに礼を言うような借りは作ってない!」
そうだ、私はあの人の後輩なのだ。頼るべきものがあまりに少な過ぎて、人に頼ることをすっかり忘れてしまった大人ぶったあの人はまだ高校三年生。大人な振りをしてどこまでも愚直な先輩に、たまには後輩風でも吹かせてやろうじゃないか。それで言ってやるのだ。「後輩に慰められるなんて情けないですね」と、そう笑ってやろう。
そうすればきっと先輩は笑うだろう。
「うるせぇ、オレはまだやるべきことがある」、そう言って笑うだろう。少しだけそれが楽しみに思えて私は微笑む。
「……、なの、ちゃん?」
アキに私が噛み付き、トキヒロが呆れてそれを眺める支部局のリビングで、赤いポンチョの裾を握り締め呆然と呟いたミイちゃんの言葉は、誰にも届くことは無かった。
■ □ ■
「――はて、さて」
と、男は呟いた。
夜の風に男の纏うコートが激しくはためいた。ばさ、と乾いた音を立てて翻るコートをさほど気にした様子もなさげに、男は頭に被っていたヘルメットを外し、虚空を見上げる。
「眼鏡の彼に掛けた術式は発動したようだけど……ふぅむ。しまったな。〈二代目〉に掛けるチャンスを完全に失ってしまった。本当にあの子はイレギュラーだねぇ――さすがは、あの方が警戒するだけある」
愛嬌のある細い目を更に細めて、男は面白そうに笑った。
「〈一代目〉が反逆者かと思えば、〈二代目〉は異端分子。本当、〈虚構〉の魔法使いは予測がつかなくて愉快だね――私の魔法に掛かるのを全て『運だけで回避する』なんて、大した幸運の持ち主だ。この私の魔法はこれまで、あらゆる魔法使いの運勢を操ってきたというのにね――あの学ラン君の運命でさえも」
男の癖っ毛が風に踊った。
漆黒ではなく――銀色の髪が。
「彼は気付いているのかな。いくらなんだっておかしいと思わないのかな。学年で最下層の学力にいた彼が、どれだけ努力したにせよ学年トップになれるだなんて『異常』だと思わないのかな。思わないとしたらとんだ馬鹿だし、思っていたにせよ現状を甘んじて受け入れていると言うならやはり馬鹿だ。彼のあの学力は、」
一種の魔法であり。
「君が魔法に『かけられている』と言うのなら、」
私は魔法使いも、魔法をかけられた人間も、誰であれ、『運勢』を操れると言うのに。
男はただ、妖しく、嗤う。




