2 甘言
「啓太ー、お腹すいたぁー」
そう言って通りのコンビニを指差すあいつに、オレは止めておけばいいのに素っ気なく、
「はぁ? 自分で買えばいいだろ。なんでオレに言うんだ」
なんて言う。
「えー! いいじゃん別に! ここはほら、奢ってよ!」
「絶対嫌」
「可愛くないなぁ啓太ってば、昔はわたしのことを『なのは姉ちゃん』って呼んでちょこちょこ後ろをついてきてくれてたのに……あの頃の可愛い啓太はどこに行っちゃったのかなぁー……」
「ちょっ、お前余計なこと言うな! 何年前の話だよ!」
大慌てで抗議の声を上げてあいつの顔を睨めば、「ふへへー、ちゃんと覚えてるよー?」と悪戯っぽく笑う。その表情に心臓が高鳴ったのに気付かない振りをして、オレは悪態をつくのだ。
「いちいち昔のこと掘り返しやがって……オレだって覚えてるんだぜ、お前の黒歴史! 小学校で休み時間になるたびにこっちの教室に顔出して『暇~』って……友達少ねぇぼっちが! 高校でもどうせぼっちしてるんだろ! オレは絶対そうならねぇからな!」
「やだなぁ失礼な! わたしにだって友達いるよ? それも大親友なんだからー! うんとね、すっごくポンチョの似合う子でねー、テンション高くて力持ちでねぇー!」
「なんで高校でポンチョが出てくるんだよ……。制服着てねぇの? 校則は?」
「校則は守ってるよー? 私服が全部ポンチョなの!」
「どんだけポンチョ好きなんだよ、そこまで行くとマニアだろ」
他愛ない会話。それがどんな宝物になるのかも知らないで、オレは今日も本音を隠すように口先を尖らせる。こんなの全部照れ隠しだ。本当は、お前に友達が出来たって聞いてすごく嬉しいんだ。小学生のころ、お前が人見知りの気があったオレのこと気にして友達も作らずに遊びに来てくれてたことくらい知ってるんだよ。だから、その友達のこと大事にしてやれよ、なんて。
言えるはずもない言葉はまるで砂時計のように堆積し、オレの奥底に積み上げられる。その高さはもう何メートルか分からないし、いつ崩れてこの口から迸るかも分からない。それでもその言葉たちが織り成す気持ちはどこか温かくて、心地が良くて、幸せなようでいて苦しくて。
「あ、じゃあ啓太! わたしの友達できた記念ってことでー、ほら、剥がせるチーズ! 欲しいなー。欲しいなー。欲ーしーいーなーぁ」
「……はいはい。いいよじゃあ買ってやるよ。プレーンでいいんだろ」
「さっすが啓太ぁ分かってるぅ! うんうん、よろしくねー!」
にっこりと本当に嬉しそうに笑うその顔が見たくて、オレは結局コンビニに入ってしまうんだ。目を細めてポニーテールを揺らすその姿に顔が熱くなるのを隠すように足早に商品棚の間を歩いて目当ての品を見つけ、財布の中身を見てため息。馬鹿だなぁオレ。剥がせるチーズ一本分の代金を、いつでも買えるように小銭で分けてあるなんて。あいつにバレたら恥ずかしすぎて死ねる。
コンビニを出てすぐのところで待っていたあいつに、「ほらよ」とぶっきらぼうにビニール袋を突き出せば、そいつはまた嬉しそうに笑った。「ありがとー!」とはにかむその笑顔にまた顔が赤くなったような気がして他所を向き、オレは自分の醜態を隠すように肩に下げたスポーツバッグに手を突っ込んだ。掴み取ったスポーツドリンクの蓋を乱暴に開けて中身を喉に押し流す。「おぉー、いい飲みっぷりー」なんて茶化すように笑うそいつにまた体温が上がった。誰のせいだと思ってやがる、馬鹿。そう言えたら良いのに、言うことなんてできるわけもなく。
オレの態度に少し不満そうな顔をしたあいつだが、すぐに気を取り直したのかごそごそとビニール袋から剥がせるチーズを取り出して食べ始めた。はぐ。もぐ。あんなチーズのどこがいいのかオレにはよく分からないが、まぁ、こいつが幸せそうに食べるから良いんじゃないか、とか思ってしまってまた体温上昇。ちょっと自分の思考回路に引く。どこまで従姉妹厨なんだ、オレは。
ふるふると数回頭を振って思考のベクトルを通常に戻そうと躍起になっていると、不意にポン、と肩を叩かれた。振り返ればそこには、にやにやと笑う友人の顔。
「……航」
「なぁんだよ啓太、そんな『邪魔すんな今オレは彼女との時間を楽しんでいたのに』というデートを邪魔された彼氏みたいな顔しやがってー!」
「してねぇ断じてしてねぇお前一発死ね!」
「あっははははははははは、あ、どもです末路先輩!」
にかっと爽やかに笑うそいつも、オレと同じくジャージにスポーツバッグ姿だった。オレは部活の午後練に向かう途中で従姉妹に遭遇し、そしてこいつはオレと同じ部活なのだから当たり前だが登校途中らしい。オレより少し背の高いそいつの挨拶に、従姉妹はおぉ、と片手を上げた。
小学五年生の頃からの腐れ縁である親友は、いつの間にやらオレが従姉妹に向ける感情にも気付いていたようで度々茶々を入れてくる、ある意味厄介な奴だった。オレのことを応援してくれているのは知っているのだが、頼むから余計な発言だけは止めていただきたい。言われたこっちの心臓が持たないのだ。
「末路先輩どうしたんですか? こんな八月の炎天下に。おれと啓太は部活ですけど」
「あー、うん、えっとねー。友達に勉強教えてもらいに行くんだー」
「え? 末路先輩成績良くなかったですか? ……啓太とは違って」
「余計なこと言うなクソ野郎」
「うんー、わたし啓太とは違ってそれなりに良い成績だよー? でもねー、高校の古典がダメでねー。友達が文系だから聞きに行こうと思ってー!」
「あー、なるほど。大変ですねぇ」
「なのは一言余計なんだけど。一言いらねぇんだけど」
オレの几帳面な訂正も一切気にした様子なく、にやにや笑顔を向けてくる二人。なんだお前らドヤ顔すんな。ちょっと勉強が得意なくらいで偉そうな顔すんなよ。どうせ、学校の勉強なんて将来何の役にも立たねぇんだから。いやまぁ従姉妹のドヤ顔は可愛……いやいやいやいや!!
自分の気色の悪い思考回路が表に出ていないことを祈りつつ、オレは仏頂面で馬鹿にしたように笑った。
「なんだよなのは、お前古典苦手なのか? あんなの『たり』と『けり』を付けときゃどうにかなるじゃん。あとなんだっけ……いろはにほへと?」
「……啓太、言えば言うほど墓穴掘ってるからやめとけよ……。この前の国語のテスト、三十二点だろ? 見栄張るなって……」
「ってだから航! いらねぇこと言うなっつっただろ!!」
ぶっはと勢い良く吹き出して腹を抱えて笑い始める親友の背中をバシバシひっぱたくが、もとより頑丈なこいつにそんなものが通じるはずもない。ちらりと彼女を見やれば必死に笑いをこらえようとしているのが丸分かりの変な顔になっていた。ああもう、笑うならいっそ清々しく笑い飛ばしてくれ。込み上げた羞恥心にオレの表情が殺された。
勉強なんて何の意味もないのに、なんでこいつらは九十点とか平均点とかを取れるだけの努力をすることができるのだろう。まったくもって分からない。古典も歴史も代入法も海陸風も英文法もどうだっていいじゃないか。そんなことよりきっともっと、やるべきことがあるはずなのに。
それに中学なんて義務教育だし、とりあえず登校しておけば卒業はできる。部活だけは頑張って、男子バスケ部キャプテンの座も手にしているから部活動推薦は取れるという話だし、高校はそれで行けるところでも、他の所でも、別にどこでもいい。将来なってみたい職業はあるけど、必死になって叶えたいほど重要な夢でもない――――今という楽しい時間を手放そうと思えるような、心の底からの夢ではない。将来の夢はなんですかと聞かれたから思い付いたのを適当に答えた、そんな程度の軽い夢だ。夢というのもおこがましいかもしれない――――ただの、出任せ。
だから勉強の時間は嫌いだった。学校の授業なんて欠片も楽しくない。バスケをしたり、こうして喋っているほうがよほど有意義。なんで学生なんかでいなくてはならないんだろう。早く自由な大人になりたい。
航はオレのそんな考えを知りもせず、呆れたような表情で口を開いた。
「そうだ末路先輩、どーせこいつ報告してないでしょうからお伝えしておきます! えー七月の定期考査ですが、諸星啓太、三年四組三十一番、成績!」
「はぁ!? ちょ、お前なに言おうとしてんだ死ね! マジざけんな、黙ッ」
「国語! 三十二点! 数学! 三十五点! 社会! 十一点! 理科! 二十三点! そして英語! 二十点! 総合、百二十一点!」
「うぉああああああああぁぁ止めろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
というオレの絶叫が惨憺たる数字を掻き消せるはずもない。従姉妹は並べられた数字の羅列に目をぱちくりさせて、しばらく信じられないと言うような顔をしたかと思えば、苦く笑った。
「啓太……それはさすがにヤバい、かなー……」
「決して市内で高レベルの中学じゃないですからねー、うち。それでこれって……なんだっけ、クラス最下位だっけ? 順位」
「マジ殺す……航、お前後で体育館裏な……? マジぶっ殺す……!」
「ひぇぇ、怖い怖い。ま、おバカ啓太には運動以外の取り得ないもんなー? しゃーねーよなー?」
「ってめぇ! 馬鹿にしやがって、この前の試合でトラベリングしたの誰だよ、あんな初歩ミスしやがって! 新入生に示しがつかねぇだろうが!」
「おいおいここでその話を持ってくるのはセコくねー? おれは勉強の話してたんだぜ? 返す言葉もございませんって?」
からかうように笑うそいつに激怒と羞恥心と殺意が湧きあがった。絶対に従姉妹には知られたくなかった数字を、こいつは何をあっけらかんと! 肩が震えているのを見てとったらしいそいつが小さく「あ、やべ」と声を漏らしたのを聞き逃すオレではない。ゆっくり顔を上げて全力を込めて睨みつけ、オレは怒声を上げていた。
「……こんの、クソ野郎がぁぁぁぁ!」
「ってうわ怖ッ!? 怖! お前それ怖いって、ってうぉ殴るな殴るな怖いから! 怪我するから! あっすんません末路先輩、ちょっと命を守るためにお先に失礼するっす!」
「……うん、行ってらっしゃーい」
苦笑いと共に手を振った従姉妹を確認するや否や、全速力で駈け出すそいつを追いかけて、オレもアスファルトの駐車場を蹴って走り出した。夏の太陽がジャージの上からでも皮膚を焼く。夏の酷暑の中、部活前にこんな風に体力を使うのは本来褒められたことではないのだが、今ばかりは仕方ない。逃げながらげらげら笑うそいつに、近所の迷惑も考えず手を伸ばして疾走する。
「……啓太、お前、おかしいよ」
うるせぇ。
「急に勉強始めて、ああ受験前だしスイッチ入ったのかって思ったけど……違うよな。お前、なんか、怖い。痩せてってる気がするし、態度もどんどん怖くなってるぞ」
うるせぇなぁ。
「……末路先輩が、どうかしたのか?」
――――うるせぇって言ってんだろッ!! お前を見てると苛々するんだ、ムカつくんだよ、さっさと消えてくれ! お前なんか、友達でも親友でも何でもねぇんだ、うぜぇんだよ! もう二度と口も利きたくない!
オレは嘘や誤魔化すことが苦手だ。
でも、一番見抜いてほしかったその言葉が嘘だと見抜いてくれた奴は、誰もいなかった。
■ □ ■
「クソッ、ああ最悪だ! 何してんだオレは!」
苛立ちのままにアスファルトの路面に落ちていた小石を蹴飛ばすと、それは近くにあった電柱に激突してわずかに跳ね返り、また路傍の石と同化する。暗い夜道に瞬いた電灯は途切れ途切れにオレを照らすが、心はまるで晴れやしないのだ。真っ暗で混沌としたこの気持ちはどうやってもとっぱらえないような気がして、余計に頭に血が上る。感情が沸騰したようですらあった。こんなに激情したのは一体いつぶりか、見当もつかなかった。
早まる脈拍は収まる気配をまるで見せず、オレをじくりじくりと侵食するように突き刺しながら夜闇に溶ける。真っ黒い学ランはオレと夜との境目を曖昧にして、嘲笑うようだった。薄気味悪く気色の悪い夜。茜色の空の次に大嫌いな景色。
渦巻いた気分の悪さをかき消すように地面を何度も蹴る。まるで子供じみた馬鹿馬鹿しく無意味な行動だが次第に心は落ち着き始め、オレはしばらくしてから深く深く息を吐いた。本当にオレは何をしているんだろう。
三年ぶりの邂逅が思った以上に動揺を誘う事態であったのを遅まきながら理解してしまい、オレは頭を抱えて転げ回りたくなった。最悪だ。タイミングが悪すぎる上に無様にも程がある。ていうか今日絶対厄日だ。今日に限って妙な考えばかりを巡らせて、眼鏡のいる前で意味不明な行動をして、……まるでこれじゃあ三年前までの自分である。あの頃と今とは別人だと思っていたけれど、人間そう簡単に変われないようだ。
……羨ましいと、思った。
あんなことさえなければきっと、オレも普通の高校三年生としてそれなりの日々を送っていたのだろう。本来人付き合いは得意なほうだ、友人もきっといた。バスケだってあのまま続けていれば、高校でもキャプテンになれたかもしれない。理解者を二人もいっぺんに失わずに済んだかもしれない。
まぁ――――全部、詮無い話なのだけれども。
意味のない、仮定の話――――なのだけれども。
何だか虚しくなってきてまたため息をつき、オレはその虚しさを振り切るように緩く頭を振った。とても勉強する気にはなれないが、今となってはこの気持ち悪さを拭ってくれるのはその手段だけであるような気がしていた。机に向かえばきっと、いつも通りのオレに戻れるはずだ。淡すぎると分かっている期待を胸にくるりと踵を返して夜道に踏み出しかけたそのとき、
「あ、ねぇちょっと、そこの君!」
と、そんな風に声をかけられた。
反射的に振り返って目を細めたオレの視界に、闇を振り払うようにして電灯の下に現れた一人の男が目に入った。
華奢な体つきの二十歳すぎの男である。くるんと所々跳ねた黒髪を冬の風に踊らせるそいつは、愛嬌のある細い目を更に細めてふわりと微笑んだ。前を広げた深緑のコートはくたびれた様子で、第一印象は「冴えない貧乏学生」、そんな感じだ。よく見ればその両手はバイクのハンドルを握っていて、ヘルメットは無造作に吊り下がっていた。
「君、地元の子? 良ければ是非駐輪場の場所を教えてくれないかな。今私は困ってるんだ。いや困ってないけれど」
意味のわからん戯言をほざいて笑みを深めた男に、条件反射的に警戒心が喚起された。なぜだろう、人懐こい笑みであるはずなのにどこか底知れず冷たい雰囲気がするのは。とりあえず威嚇的な態度を全力で振り撒きながら、オレは簡潔に答える。
「駅にありますけど。この道まっすぐ行った先の」
「へぇ、あれ、そうなの? いやぁそうかい、そりゃ助かった。路上駐車をするといつ違反切符を切られるか分からないから止めろと、昔相棒に注意されたことがあってね。私としてもお金を取られるのは困るから、いつもちゃんと駐輪場を探すようにしているんだ。まぁ困らないんだけど」
どっちだよ。
と見知らぬ人間にツッコミを入れるほど、オレはツッコミにプライドをかけた人間ではない。とりあえずは逃亡するが吉だろうと思い、オレは不審なバイク男に背を向けようとした。
だが、直後男が発した言葉に動きを止めた。
「末路なのは」
「……ッ!?」
気がつけば、無意識に息を呑んで男を睨みつけていた。平静を装おうとしたが今更無駄で、オレの動揺は全て手に取るように男に伝わったらしい。半月を背景に薄く笑った男は、オレに一歩歩み寄った。
「君が三年間かけて捜索し続けている、行方不明の少女。当時十八歳、今なら二十一歳。常に蛍光色のジャージを身につけていて、好きな食べ物は剥がせるチーズ。交友関係は浅くほどほど広く、ひとりポンチョの好きな大親友がいた。家族構成、父、継母、血の繋がった妹がひとり。ただし妹はほとんど面識なし。運動が得意な理数系で成績優秀。……なにか間違いはあるかな? ないと思うけど」
つらつらと並べられた言葉のほとんどは、オレの知る「なのは」を指すものだった。ひとつ知らなかったのは、彼女に血の繋がった妹がいるということだが……多分、こいつの言う事は嘘ではない。なのはの両親は一度離婚していて、なのはは父親に引き取られたのである。母方のほうに妹がいたとしても不思議な話ではない……と言っても、そんな話は聞いたことがないのだが。
まぁ情報の真偽はこの際どうでもいい。問題は、なぜ目の前の男がいきなり彼女を引き合いに出してきたのか、なぜ彼女を知っているのか、その二点だ。
「……なんでなのはを知ってる」
「なんで、と言われてもね。色々理由はあるけど、まぁひとつは彼女がとっても大事な存在だからだね。彼女がどう動くかで、私の立ち位置も変わってくるのさ。まったく、とんだ異分子が現れてしまったものだよ……本当、今回は侮れないなぁ」
「……お前、その言い方はまるであいつの居場所を知ってるみたいだな。居場所どころか、現状も」
「あれ、言っていなかったかな? 私は彼女のことを『知っている』。勿論、居場所も現状も彼女がどうしていなくなってしまったのかも、全部知っているよ?」
「は、」
「まぁ嘘かもしれないけど?」
のらりくらり、掴み所のない調子でのたまい、へにゃりとまた薄く笑う。その笑顔は不気味という言葉とイメージをすべて集めたように薄暗く、オレは不快感に目を細めた。なんだこいつ――――気味が悪い。関わるなとオレの本能が叫ぶのを聞いた。だが、彼女の名前を出されて引き下がれる程、オレは落ちぶれたつもりはない。
「それで? オレになのはの名前を出してどうしたいんだ、お前は? そもそもお前は何者で、何が目的だ。なのはを知ってるってことは当然オレのことも知ってんだろう? なのにオレがお前を知らないってんのはフェアじゃねぇ。名乗れよ」
「うん、まぁ、私は君のことを知っているよ? 諸星啓太くん。百茎西高等学校第三学年、三年E組出席番号三十七番。学年主席の秀才だが交友関係はほとんど無く、ひとり騒がしい後輩とだけ仲良し。学内でも浮いた存在で座右の銘は有言実行――――中学三年の夏まで、勉学においては学内きっての『劣等生』と呼ばれた君のことを、私は知っている。とても同一人物とは思えない経歴だよねぇ。学年最底辺から学年主席だなんて。まるでお伽噺じみた現実味のない話だ」
「……悪いが現実だぜ。オレはちゃんと勉強をして、自分の努力で今の場所まで来た。それを現実味がないなんて言葉でまとめられんのは不愉快極まりねぇな」
「そうかい。代わりにあらゆる人間関係と普遍的な生活を棄ててきたわけだけど、それでも不愉快かい」
おかしいねぇ。
せせら笑って、男は言葉を続ける。
「君、さっき羨ましがってたのに?」
「……!」
「ああ、安心してくれていいよ? 別に私は心が読めるわけじゃない。ちょっとばかし運が良くてね、前に心理学教授と話す機会があったんだ。そのときに少し習っただけだよ? 気にしないで気にしないで。ま、気にするだろうけど」
「……趣味悪いなお前」
「よく言われるねぇ」
また男はからりと笑う。対してオレは笑わなかった。
初見の警戒心は正解だったのだと今更ながらに思い知り、オレは頭が痛くなっていくのを自覚した。最悪だ。何だか知らないが面倒なことに巻き込まれたのはまず間違いない。なのはに関連することだというのなら基本的になんにでも食いつく自信があるが(決して従姉妹厨ではないと信じたい)、こんな薄気味悪い男にはできれば関わりたくなかった。関わりたくない順位で言うと、あのイカレ眼帯の次くらいだ。
「いやぁ、でも成功だったね。あの子に『魔法』を掛けておいて正解だった。どうやら気付かれなかったようだし。いつも聡くて鋭いあの子が気付かないってことは、彼も色々疲れているのかな。それとも気付けない程何かに集中していたか……、まぁ、いいや。よくないけど。効果ギリギリまで待った甲斐があった」
にっこりと微笑んだ男の台詞から、こいつが〈魔法使い〉であることを推察するのは容易だった。あの子、とは恐らく眼鏡。どうもこの状況は間接的に眼鏡のせいらしい。次に会ったら今日は言わなかった文句のひとつやふたつでも投げ付けてやると心に決め拳を固めたところで、男はああそうだったとわざとらしく呟いた。
「すっかり名乗り遅れたね。私の名は真部景直(まなべかげなお)。魔法同盟関東支部10号局に在籍している〈魔法使い〉――――まぁもっとも、まだ私の籍があるかは分からんがね。なにせ四年も空けていたんだ、そろそろ局長様もお怒りかな。彼なら怒るどころか褒めてくれそうだけども」
「……四年も空けて……? ……お前か。眼鏡の捜していた行方不明の所属者っていうのは。話を聞いてから一時間もしないで発見とは、オレもツイてるな」
ツイてるなんて欠片も思っていない、今のはブラフだ。今日はとことん運が悪い。余計なことは考えるし呼び出されるしあいつには会っちまうし、挙句の果てには〈魔法使い〉の不審者と来た。なんだ、今日がオレの命日か。そうなのか。冗談めかした言葉も今言うと現実になってしまう気がしてオレは口を噤んだ。
男、……真部は少し驚いたように目を開いたが、すぐに糸目に戻り読めない笑顔を浮かべる。
「あらやだ、捜されてたの? それヤバいなぁ。処刑ルートじゃん、私。彼強いからなぁ――――捕まったら一たまりもないかも。いくら私の運がいいと言っても、あくまで悪運が強いだけだ。実力差には勝てっこないや」
「じゃあ今すぐあいつに電話してやろうか? お前みたいなのと話してるほど、オレは暇じゃないんだ。警察呼んでやってもいいけどお前なら笑顔でバイクで撥ね飛ばしそうだし、眼鏡のほうが良いだろ」
「おいおい失礼だね君。私はそんな無粋な真似はしないし、彼はまだ十五歳の少年だよ? いくら強いと言ったってバイクに轢かれちゃ死んじゃうって。……あ、でも彼ならその前にバイクを〈潰し〉ちゃうかもなぁ。そんなことさせないけど」
これは私の愛車なんだよ、なぁペルセポネ。
つるりとバイクの表面を撫でながら言ったそいつに少し背筋が凍った。ペルセポネと言えばギリシャ神話に出てくる人物で、冥界の神ハデスに魅入られ冥界に連れ去られる物語でよく知られている。世界に四季が出来た理由にもなったその神話を、そんな名前を付けておいて知らないはずはないだろう。その名前はまるで真部がハデスである、というようにも取れるのだが、それはわざとか否か。わざとだとすると本気で趣味が悪い。
「あ、でも、彼には電話しないほうがいいと思うよ」
真部はやけに自信たっぷりな様子で言う。
「君にとってはとっても良い話を持ってきてあげたんだ。現在魔法同盟と結んでいる契約なんかより全然良い、美味しい話だからさ、聞くだけ聞いてみないかい?」
「……はぁ?」
「うん、そうだね、」
と男はそこで言葉を切り、それから微笑む。その笑顔はさっきの連想のせいか分からないが、まるで死神のように不吉なものだった。
「末路なのはに関する情報を全て君に渡そう。だから代わりに、寝返る気はないかな?」
「………………………は?」
ぽかんとして思わずそんな声が出た。こいつ今なんて言った? 言葉を認識できないまま二秒ほどフリーズ。意味を理解した瞬間のオレの顔は、多分かなり微妙なものだっただろう。唖然としたまま、真部を見上げる。
「そりゃ、どういう、」
「言葉通りの意味だよ? 君は今、ある意味で〈三人衆〉に最も近い立ち位置にいる。そんな君が協力してくれれば、こちらもスムーズに仕事が進むんだよねぇ。悪い話じゃないだろう? 私は末路なのはの居場所も現状も、そして彼女がいなくなった理由も、全て知っている。その洗いざらいを話してあげるからこっちに協力してくれと、そう言っているんだよ。分かるよね? 分からないはずはない」
にこりと更に読めない表情で笑う。細められた目は既に糸のようで感情を読み取ることはできない。大袈裟な演技がかった仕草はどこか、あの後輩をも連想させた。
「君は彼女の為なら誰でも犠牲にする心算なんじゃないのかい? なら別に断る理由もないはずだ」
「……話が上手すぎる。出来過ぎてる。裏がないはずねぇだろ」
「うん、頭がいいねぇ。頭が良い子は好きだ。元がバカだろうと今が聡ければね」
肩をすくめて笑う真部。その言葉は表情とは裏腹にどこか嘲笑するような含みがあり、余計に不信感と不愉快さを煽った。だが取引においては効果的な顔だとも言える……自分が優位にあるということを、相手に知らしめる。絶対的な立ち位置を思い知らせることができる表情。
「簡単だよ。君にやってもらいたいことはただ一つ、情報の横流しだ。主に〈三人衆〉の彼らに類するものだけどね……、あと、支部64号局の面々かな?」
「……眼鏡どもの情報を流せっていうのは理解できる。なぜ64号局まで」
「あそこは問題児と異端児を寄せ集めた場所だ。特殊とはいえ予知能力者もサイコメトラーも、トップクラスの火力を保有する子もいれば防御において自分を省みない者も、相手の心理を見透かす者も……最近では、誰かの魔法を感じ取れる者と、それに『あの方』の仇も現れたって言うじゃないか。ただでさえ〈名前消し〉がいるっていうのにね、どれだけ厄介になれば気が済むんだか。あそこは『あの方』の最大対抗勢力に成り得るのさ――――だから、まぁ、早めに潰しておきたいんだね。別に遅くたって構わないのだけど、いや、構うけど」
「……」
潰す、というその言葉に微かにオレの肩が跳ねた。潰す。その言葉が何を示すかなんて考えなくたって理解できる。眼鏡が危惧していた通り、どうもこの男はあの組織に対抗しようとしているらしい――――あのタワーでのテロ事件の首謀者のように。あんな魑魅魍魎どもの集まる組織を潰そうだなんて随分大それたことを考えるが、この男の台詞となればなぜか笑い飛ばすこともできなかった。こいつなら笑顔でやってのけてしまう気がする。有り得ない話ではない。
オレは考える。リスクとリターンを天秤にかけて考える。
「……うーん、答えは出ない?」
真部は考え込んだオレにしびれを切らしたのか、困ったように声を上げた。
「君は彼らを利用相手としか見做していないんだろう? なら快諾して然るべき条件だ。それとも何、情でも移っちゃったかな? 元がバカな君には感情移入って大切でしょう?」
「……」
「後輩のことが煙たい。彼らと居ると心苦しい。かつての誓いをまるで忘れてしまいそうになる。だから彼らといるのを極力避けている。違わないね? ならいいじゃないか。面倒くさいことも何もない、こっちは情なんかありもしないギブアンドテイクの世界だ。誰も君に不要な干渉をしない。君も誰にも干渉しないで済む。その上で末路なのはの情報を得られるんだ、いいことづくしじゃない? 裏切ってから良心の呵責に耐えかねてしまうほど、君はヤワな人間じゃないだろう? 彼女のためなら――――何でもできるんでしょ?」
「……っ」
バカにしたように、されど憐れむように紡がれる言葉にまたオレの肩が跳ねた。
そうだ、オレはあいつの為なら何でもすると誓った。あいつの為に航との友情を絶ち切り、大好きだったバスケには触れもせず、友人も作らずにただひたすらに勉強してきて、その果てに出会った絶好の機会。でもオレは、そこでの人間関係に苦い気持ちを抱いている。
なぜか、あいつらを利用することに――――罪悪感を抱いている。
その気持ちはどこまでも泥のように纏わりついてきてオレの呼吸を阻害するのだ。魔法使いと関わろうとする度、それでいいのかと悪魔が囁く。こんな真っ黒な気持ちであいつらと関わっていていいのかと悪魔は囁く。それにオレはいつも、いいんだ、これで正しいんだと叫ぶように答える。
でも、もしそんな押し問答から逃れる事が出来るなら。胸焼けするような苦しさと並行した激情から逃れることができるのなら――――
「……ふぅむ、仕方ないね。じゃあ君に特別に、ひとつだけ情報をあげる。それを聞いた上でどうするか、明後日聞きに来るよ。その時までに答えを出しておいてくれるかな?」
真部はどこか楽しそうな口調で、爆弾を落とした。
「末路なのはが路上で姿を消したのは、『鳩木早鳥が彼女に魔法を行使した』からだ。彼女が君の目の前で消えたのは――――他ならぬ、鳩木早鳥のせいだよ」
闇の中に月が煌めく。
まるで心の中すべてに降り積もっていたあらゆる負の感情を内包したような澱が溶け出すように、オレは呼吸を止める。首元に黒い霧が寄り集まり、オレの首を締め上げている気がした。急激に心拍数を上げたオレの心臓は、その激しい動きとは対照的に全身に流れる血をせき止めているかのごとし。血の気が引いていくのを自覚する。頭の中は、ごちゃごちゃとして気持ちが悪かった。
キーを回す音がする。真部がバイクに跨った。エンジン音に交じって排出される排気ガスは不吉なほどの灰色で、嫌な匂いが鼻の奥を突いた。
「それじゃあ。良いお返事、楽しみにしてるよ。私の勘が外れなければ、君はイエスと返すだろうね――――まぁ、私の勘が外れたことなどないのだけど。君に神の加護があらんことを」
オレはそっと目を瞑る。




