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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
戦場フォーホーム
20/41

5 支部局長か、妹か、どっち?


 アクセス3400、ユニーク1000突破です!

 皆さんありがとうございます! 多分もっと続きますが良ければお付き合いください!!





「……馬鹿げた真似してくれんじゃねェか、手前」


 右腕に負った切り傷を気にかけながら、彼は皮肉そうに口元を吊り上げた。


 まだ敵は戦力のうち四分の三を温存しているというのに、彼の前で両手で刃物を構える男はただひとり。他の戦力はこの場に姿を見せていない。大方、目の前の男が人払いと間抜けなことを抜かして部下を近寄らせていないのだろう。まぁ、そのほうが彼としても邪魔されずに済むので楽だ。


「中ボスのお出ましにしちゃァ早すぎんじゃねェの? それとも《また》手前の早とちりか? わざわざ出てこられなくたって俺から行ってやったのに、相変わらず待てねェ野郎だ」


 はっ。彼の言葉を鼻で笑う男。


「はは、悪いなぁ小柳。高みの見物でテメェのしけたツラ眺めてて、そのうちどっかのアホにやられちまったら楽しくねぇじゃん? だから先に殺りにきちゃったよ」


「それがいらねェ心配だっつってんだよ、群司(ぐんじ)。あのくらいの相手に殺られるわけねェだろ。つぅか手前みたいなのが俺の名前を気安く呼ぶんじゃねェ、殴り飛ばされてェのか」


 威圧するようにトーンを下げたドスの利いた声にも、男、郡司はからからと景気よく喉で笑うだけだった。心底不愉快な気分になって、彼は眉をひそめる。


 彼と同じく派手でちゃらけた服装、明るい金髪に染めた髪。大きいが凶悪な光を宿す瞳、矮躯。どれも見覚えのあるスタイルであり、何より男の右耳に開けられた十字をかたどるシルバーピアスが、彼の記憶に残るある人物と同一人物であることを裏付ける確定的な証拠だった。


「……郡司。あのグループはどうしたんだよ。こんなところになんでいやがる」


「え? あー、あそこ? あそこならリーダーがサツに捕まってさぁ。あ、使えねーと判断したんでこっちまで逃げてきて、今やこの組織の幹部だぜオレ。いやぁ成り上がったもんだろ?」


「手前のあッたま悪ィ自慢話に興味はねェ。手前、そのスタンス変わんねェな。都合が悪くなったら鞍替えして保身を繰り返す根無し草」


「それはテメェには言われたくねー台詞だなぁ、小柳。勝手にグループ抜けといてよく言うぜ。孤高の一匹狼、だっけかぁ?」


 表情は変えない。態度も変えない。彼はただ静かに、睨み続けるだけである。


 郡司、それは九州で名を馳せた不良グループのひとりであった。数か月単位で居場所を転々とし、二カ月以上同じグループに加入していたことは一度もないという。実力は確かで性格もかなり苛烈なことから、厄介の種とも、抗争の種とも呼ばれてきた。


 そしてそいつは、決して彼に無関係の人間ではない。郡司はわざとらしく肩をすくめた。


「せぇっかくオレが、テメェをあの場所に誘ってやったのにさぁ。失礼しちまうぜ、マジぶち殺そうかと思っちゃったくらいだ」


「はっ、悪いなァ郡司。俺は手前に誘ってくれとか頼んだ覚えはねェし、そもそも手前に俺は殺せねェ。実力不足だ。百年山籠りして出直しやがれ」


「そりゃあどうだか? オレだって遊んでたわけじゃねーんだぜ? 事実ホラ、前はつけられもしなかった傷をテメェに負わせたじゃんか?」


「ああ、その点だけは褒めてやる。だが手前が屑っつーことは変わらねェ。屑なら、俺にとっては敵だ。俺が敵じゃねェと認識するのは、屑以外の人種なんだからな」


 ああ、そうだったっけな、と郡司は心底馬鹿にしたような表情で笑う。


「テメェの敵は自分の道も分からねー屑だけ――――意味わかんねーこと垂れて殴る相手を選んでたよなぁ。オレぁ今でもわかんねーよ」


「分かんなくて結構だ。分かられたらむしろ寒気がする」


 郡司は、彼がかつて所属し抗争を繰り返した不良組織のメンバーのひとり。


 つまり、嵐のように暴力の波にさらわれていた頃の彼を知る人間だった。自分の中だけの大義名分を振りかざし、それをあまつさえ他人に適用して自身の行いを正当化していた、自身の人生で一番劣悪で最低な時代を知っている男だ。それも昔から徹底的にそりが合わず、なにかあれば殴り合いをしていたような犬猿の仲だった。


 その男が、まさか依頼で潰しに来た組織の幹部に成り上がっていたとは。嫌な偶然もあったもんだぜ、と彼は内心で舌打ちした。薄く血が滲むだけで痛みもしない右腕を視界に入れて、郡司への嫌悪を更に強める。


 乱闘も一区切りついて、ほんの少しだけ息をついたその瞬間を狙われたのだ。奇襲を好む郡司はこういう手が好きだったなと思い出す。油断していた。その油断が、今妹の右腕に痛みとして現れているはずだ。そしていつもは有り得ないそんな事態に、あの妹が黙って何もしないわけはない。


「……あーあ、おかげで気分は最悪だ。郡司、今手前を一切の手加減無く叩き潰すことが決まったぜ。喜べよ」


「はぁ? それで喜べとか無理ありすぎじゃねーの? オレテメェと違ってMじゃねーからさ、無理だわそれ」


「俺も断じて違うがな。どちらかと言うなら、」


 手前みたいな屑をブッ潰すのが好きだから、Sじゃねェのか?


 そう言った直後、彼は地を蹴った。


 こちらは徒手空拳、対して向こうは以前から得意とする獲物であるダガーナイフを手にしている。一見リーチとしても殺傷力としても彼が不利に思えるものの、実際のところそれは大きな問題ではない。先ほど郡司が言ったように、郡司はかつて彼に傷をつけることさえできなかったのだ。その戦力差はなまじ努力で埋まるようなものでもない――――彼自身も不良組織は抜けたが、そのあとだって数多くの修羅場は潜りぬけてきている。少なくとも、あれだけ力に開きのあった、それも因縁の相手である郡司になど負けるつもりは欠片もない。


 さすがの反応というべきか、郡司も向かうようにアスファルトを蹴飛ばす。交錯しかけたそのときに一切のためらいなく向かってくる刃をかわしつつ、がら空きの胴体に膝蹴りを叩き込もうとして軽くいなされた。直後、一瞬不自由になった身体を狙うように彼の襟首をつかみ、ナイフを首にあてがおうとした郡司の手からナイフを叩き落とし腕を逆手にとった――――やべ、と緊張感に欠けた声が聞こえた直後、彼は宣言通り一切容赦せずに、彼をアスファルトに投げ飛ばす。


「おいコラ手前、あんな大口叩いてた割に気が緩んでんじゃねェの? 俺の特技も忘れるようなボンクラじゃァ、俺に勝つなんて一生不可能だぜ」


 がはっ。郡司が肺から絞り出すように空気を吐き出す音が路地裏に醜く響いた。


 これでも彼は刑事の息子。かつては、両親の跡を追うという周囲の期待を背負って勉学や柔術の稽古をしていたこともある身だ。妹は一番下の段しか取らなかったが、彼はそれなりの段位を取得していたと記憶している。正確に何段だったかは覚えていないけれど、一本背負いのひとつくらいはできるようにやり方は骨身に刻まれているのだ。


 事実、両親が死んでからはほとんど使うのをやめたものだったのに問題なく使えた。


 しかし郡司もさっきの挑発の台詞はブラフだったというわけではないようで、以前ならしばらく起き上がるのも拒否したはずのそいつはぴょんっと俊敏な動きで跳ね起きた。以前より丈夫さが増しているようだ。


「ひゅぅ~、相変わらず健在じゃん! 痛ってぇなぁ、ああ懐かしい! 昔もよくこーやって投げ飛ばされてさぁ!」


「やっぱ手前Mだろ。投げられた思い出を嬉々として語る奴なんて初めて見たんだが。気色悪ィな」


 挑発と侮蔑の入り混じった表情で返した悪言に、だが郡司は声のボルテージをぐぃっと引き上げた。高揚しているのが良く分かる聞くに耐えない高さだった。

「イヤイヤイヤイヤ、今のうちに思い出にしとかねーとさぁ、テメェを殺した男になんのに思い出話のひとつもできねーじゃん? ダイジョーブ、テメェのことは史上最悪の気弱なお坊ちゃんって語ってやっからよォ!!」


 郡司がゆるゆると口角を上げて微笑んだ。それは嗤うというほうが適切そうな、彼を嘲笑するような表情だった。彼も見覚えがある。あれは、確か郡司が用意した罠に、


 思い出すより早く、売り言葉に買い言葉で台詞を投げていた。


「はァ? なァに寝言垂れてやがる? 寝言なら寝て言え――――ッ!?」


 だが直後に思い出す――――郡司の表情は、


 獲物がかかったそのときの顔!


 気付いた刹那に彼は台詞を綺麗に言い切ることもせずに前方へ転がるように回避した。もちろんその先には厭な笑顔の郡司が待ち構えているわけだが、それとこれとでは優先事項が違いすぎると判断した。アスファルトに一瞬転がってすぐさま飛び起きた彼は頭上を見上げてから、さすがに顔色を変える。苛立ちのまま目を細めた。


「マジかよ、ざけんなッこのクソ野郎が!」


 怒声とほぼ同時に、曇ってきた鉛色の空を背景にアイスブルーの光が煌めいた。それは複雑に折り重なってこそいるものの《六角形の図形の群衆》たちであることに見間違いようなどない。もう、同じ仲間内である電撃使いや炎使いによって見慣れた光景。ただしそれに込められた敵意、いや殺意が自分に向いていて、輝いた魔法の色がいつもと違うこと以外は。


 そして。


 じゃりぃぃぃん! と途方もない音を立てて、北極から持って来たのかと言いたくなるほど太い氷柱が彼の周囲に降り注ぎ始めた。間違いなくあれに貫かれれば即死するだろうと他人事のように推測した瞬間、彼はさすがに危機感に煽られて駈け出す。


 どうやったんだか知らないがこれは郡司の罠だろう。敵前逃亡を嫌う彼を知るからこその罠。だが逃げなければ死ぬ。彼では無く、妹が。そう思えば自ら罠にはまるのは悪策だが逃げないのはもっと悪策だった。背後から郡司の哄笑が響く。


「はっはははははは! ざまぁねーな小柳! そいつで足でも刺してアスファルトに縫い付けてから、ゆっくぅぅぅりブチ殺してやるからなァ!! 心配には及ばねぇ、思い付く限り痛ってぇ方法であの世に逝かせてやるからよぉ!!」


 ちらと後ろを振り返れば氷柱はアスファルトに突き刺さるたび、その周囲を凍てつかせているようだ。十一月中旬にはあまりに早いぞっとするような冷気が身体を追いかけてくる。その氷柱の落下地点は、わざとなのか実力ゆえなのかアバウトで正確無比なわけではない。それに安堵とも緊張とも取れないため息を漏らしながら、彼はひたすらに逃げ回った。


 ……氷の魔法。それは魔法と言うとありがちな種類に思えるが、実はわりあい少ない種類の魔法である。


 なにせ魔法の習得条件が各々のトラウマによるのだ。精神的な死亡を経験したそのときに願った、ある一種の思いにのみ答える悪趣味な魔法は、ほとんどが《精神系》や《干渉系》となる。《攻撃系》はそんなに比率の多い類ではない――――それも、水や炎といった自然現象を操る魔法使いは全体の一パーセントいるかいないかと言うくらい。


 水ならば水害があるだろう。炎なら火事がある。


 では氷は――――そう言われると精々凍死しかけた、ぐらいしか思いつかない。だがそれならわざわざ氷柱を降らせるようなものではなく、ササのように自在に冷気を操ることができる魔法であってしかるべきだ。落雪のトラウマなら圧迫や重力に長けた魔法のはず。


 ならば氷柱は、と言われるとひどく惨い状況しか想定することができず、彼はまた舌打ちした。


 一般的に、精神的死亡の度合いによって魔法の威力は変わるという。このレベルの氷柱を平気で作り出せるような高度な魔法使いが、理由はどうあれ郡司の側についていて、魔法の威力からして自分ひとりで太刀打ちするのは難しいと、そう判断したからである。


 今日ばかりはひとり突っ走ったことを後悔した。トキヒロは魔法こそこの状況には向いていないが、自分よりは遥かに洞察力も観察力もある。郡司の不意打ちも、氷柱の魔法も、トキヒロがいれば回避できた事案かもしれないのだ。ああクソ俺の馬鹿野郎一旦死ね、と乱暴にひとりごちて、腕時計を見やる。時刻、午後六時三十一分。トキヒロがバイトを終えて、本来合流するはずだった地点に着いたあたりか。


 合流地点からここまでは入り組んだ路地裏が続くし、彼自身もうどこをどう曲がって逃げているのか分からなくなっていた。妹を捜し訪ね歩いた数年前の自分の方向感覚は今と同じく若干怪しくて、妹との再会を機に別れた旅の相棒に導かれっぱなしだったことを思い出す。そういえば、あのバイク事故に遭った日、あの道を行くように勧めたのはあいつだったろうか。おかげでこっちは怪我したうえに心臓がこれでもかというほど冷えたわけだけれど、意図の読めない怪しい笑顔で、


「ああ、うん、そうだね。悠樹は向こうに行きなよ。私はこっちに行くからさ……そう、神はそう仰せだよ。きっと悠樹はそこで、幸せを見つけるんじゃないかい?」


 そんなことをぬかしたあいつ。見舞いにも来ないでそのまま街から去っていった、意味不明な男だった。よくあいつと一年半も旅が出来たよなァと昔の自分を褒め称えたくなった。


 迷宮のような路地裏を駆け抜けながら、そんなどうでもいいはずのことが頭をよぎって彼は頭を振る。今はただ逃げる他ない。郡司から逃げるんじゃなく、あの氷柱から逃げるんだ。そう言い聞かせるようにして。


 だがその彼の思考を読んだように、人気のない路地裏で郡司の耳障りな声が耳朶を打った。


「逃げんのかよぉ小柳ぃ!? テメェ、どっかの呑気な羊の群れと関わってるうちに随分平和ボケしたみてぇだなぁ!? 売られた喧嘩は買う主義じゃぁなかったのかよド屑が!!」


「……、!」


「何するためにグループ抜けたのかと思ったら、テメェ散々目の上のたんこぶだっつって嫌ってた親が死んだってんのに《妹を捜しに行く》なんてなぁ!! とぉんだ茶番だぜ、オレは思わず吹き出しちまったよ!! しかもちゃっかり妹見つけて、いまやシアワセですってかぁ!? はっ、寝言を言ってんのはテメェだよ!!」


 雷光のように放たれた咆哮にも近い怒鳴り声に、思わず足が止まる。


 それに気付いたように増殖、加速して降り注ぐ氷柱をまるで惰性のまま避けながら、彼はぐ、と静かに拳を握る。あんな安い挑発に乗るな。あんなのただの戯言だ。理性は理解しているが、感情はそう簡単に言うことを聞いてくれない。


「テメェさぁ、勘違いしてねーか? いっくらテメェのクソ親が、刑事のくせに色々ヤバいことやってたからってよー……その汚ぇやり口に、正義を謳う刑事のくせに悪事に染まったクソ親に反発したからってよぉ!!」


 うるせェ、黙れ、手前には関係ねェだろ。かつて妹には簡単に吐けた台詞が、喉元まで出かかって静まり返る。聞きたくなかった。そんなことは自分が誰よりも理解している。だけど――――それを人に言われるのと、誰かに指摘されるのは天と地の差、どころか月とすっぽんの差がある。


 耳を塞ぎたくなる衝動を必死に抑え込む。駄目だ、と彼は思った。逃げたい、逃げたい、逃げたくて仕方がない、だけれどここで逃げたら彼はもう誰にも顔向けできない気がして。


「どんな理由があったところで、オレたちは社会の底辺だ! バイトしてようが定職ついてようがどんだけ善人ぶろうが、自分を正当化して暴力を振るうことをいとわねぇオレたちは何をどうしたって社会の屑なんだよ、気付いてんだろ!? テメェだって、自分の敵は屑だけだなんて言いながらッ、――――自分こそが屑だってことくらい、簡単に気付いてんだろぉ!?」


 抉るようで突き刺すようなその絶叫に、彼はああ、と頷いた。


 真っ直ぐ頭上へ降ってきた氷柱を見上げながら。





 





 電話が繋がらなかった。


 トキヒロくんに現場に急行してほしい、と告げた電話の直後、私はもちろん兄に電話を何度もかけた。でも何回やっても繋がらない。携帯の電源を切りっぱなしにしているようだった。


 右腕の痛みは随分引けたものの、この痛みからして少ないにせよ出血しているはずだ。怪我がなにかのミスならすぐ連絡が来るはずなのにそれもない。どころか電話を受ける気配すらない。


 このことが指し示す事実は、兄がなにか不測の事態に巻き込まれたというただひとつのことだった。


 それに気付いた瞬間に私はいても経ってもいられなくなって、私はだっと玄関先へ駈け出した。兄が怪我をした上に連絡が取れないなんて初めてのことだった。これまではどうあれ絶対に連絡してきたっていうのに。もう確証になりつつあった嫌な予感に突き動かされるがまま、私は玄関のドアノブに手をかけて、


「おい、待て」


 諸星くんに腕を掴まれた。


 思わぬことに驚きつつも私は感情のまま諸星くんを睨みつけて、


「嫌よ。このままここで待ってるなんて出来ないわ」


「じゃあお前が行ってなんかできんのかよ」


「そんなのわからないけどっ」


「なら冷静になれっ!!」


 初めて聞いた諸星くんの本気の怒声に、思わず私は身体をびくりと竦ませた。いつもキサちゃんとふざけあっているそのときとはまるで違う、低くて怖い声音のそれは、かつて兄を激昂のまま怒鳴りつけた父のそれとすら被る。


 諸星くんは更に私の腕を掴む力を強めた。


「いいか、話を聞けばお前が兄貴にできることはもうほとんど終わってる。お前の一番のアドバンテージ、お前にしかできないことは魔法だ。でもそいつはもう今朝かけてあるんだろ? ならお前が出来る事はもうほとんど無いに等しい」


 だけれど、そんなことを言われて黙っていられるわけもなかった。


「できることが無いからってお兄ちゃんを見捨てろって言うの!? トキヒロくんが行ってくれてるからってどうにかなるかも分かんないのに!」


「違う、そう言ってんじゃない! なんでそう取るんだよ、ああもうこいつは期橋並みの馬鹿なのか!? もっと簡単に言うぞ、お前みたいなのが行ったところできっと足手まといだっつってんだよっ!」


 苛立たしげに吐き捨てられた諸星くんの言葉に、はっと息が詰まった。


 私は基本的に非戦闘員。いつも書類に忙殺されてばかりで運動は得意じゃない。これまでだって実戦依頼は数をこなせているとは言いがたくて、体力もないし技術もない。魔法はあんなのだから使えない。


 ずっと気にしていたのに今忘れていた事実を、今日がまともな邂逅である諸星くんに言われたのが悔しくて、私は唇を噛み締めた。私は何もできないのだ、そう気付くと自分の無力を呪い始める自分がいることに気付く。


 私は兄に何をしてやることもできない。


 兄の感じる痛みを肩代わりしている? だから何だって言うんだ。そんなの兄に余計に無茶をさせる結果しか生まないじゃないか。家族の癖に、妹の癖に、私は兄の傍にいて兄になにかすることができない。


「……先輩、それは言いすぎなんじゃ」


「だってそうだろう? こいつのできることはほぼ終わってんだ。無策で突っ込んでいって巻き添え喰らってみろ、元も子もないし意味も無い、ただの馬鹿だ」


「でもだからって何もするなって言うんですか! 先輩、そんなのあんまりじゃ――――」


「だからっ! なんでそうお前らは頭が悪い!! 聞いてばっかりじゃなくて少しは考えろ馬鹿期橋!!」


 怒鳴り声を上げて諸星くんはキサちゃんを指差した。


 その横顔は厳しく真剣な表情だった。


「いいか、分かんないっつーなら教えてやる、黙って聞け! もしその依頼が不良の成敗ってんなら、そこに多かれ少なかれ人はいるわけだろ? なら期橋の幻の魔法でかく乱くらい出来るだろうが! それにそこのッ、弾焼いた奴!」


 次にササちゃんを指差す。ササちゃんは諸星くんの言葉に思うところがあったのか、少しだけ表情を変えた。


「お前はあの火力があって精密操作が出来るなら、その不良が持ってるだろう武器をどうにでもできる! それからそこのガキ、お前は物の言葉が分かるっつーなら現地の情報収集が出来るだろ? そんで新人、お前は魔法を使ってるかどうか確認できるんだから、そっちのほうで近くに魔法使いがいないか確認すりゃあいい。それで、最後に!」


 諸星くんは言葉を切った。


 ぴっ、と私を指差して、


「お前がこの支部局の局長っていうなら、他の野暮用に出てる奴でも他の支部の奴でもなんでもいい、使えそうなのに連絡して手伝わせりゃいいだろう! こういうときに権力使わないでどうすんだよ! 新人がもし現場の近くに魔法使いを見つけたらそいつに頼み込めばいい!」


 お前が現状で出来るのはたったそれだけだ、使える奴を呼んで兄貴に支援部隊を回すってことだけなんだよ! 諸星くんの言葉が私の耳を通して脳に入り込む。連絡係、それは過去に何度もやったことがあるはずの役回りだった。それなのにその状況がイメージできない。局長としてやるべきことは諸星くんの言うように連絡役に徹することだ、というのは思考がすぐに弾き出せた結果だ。でも妹としては? 家族としては、私は、そんな風に安全地帯で兄を待つだけしか、できないっていうのか――――。


 諸星くんがキサちゃんたちに告げた「各々にできること」が、普段の冷静な私なら簡単に出せた指示であることに気付いたのは随分後になってからのこと。私はただ、どう行動すべきか迷った。


 支部局長としての自分は私に連絡係に徹しろと告げた。妹としての自分は私に兄の元へ向かえと言った。


 ぐるぐるぐるぐる思考が空回り、ちっともクリアじゃない視界がぐにゃりと複雑に歪むような感覚に襲われる。あちこちが綻んだ頭の中に回る言葉は兄の笑う声で、まぶたを掠めるのは兄の笑顔で、耳鳴りのように兄の沈んだ声が聞こえて、


「……マイ、エンジェル! 僕はその魔法使いさん探しをやってみるです! 事情はよくわかりませんがマイエンジェルの兄上が危機となれば、染井美依、助太刀申し上げます!!」


 くすみきった思考回路をまるで断ち切るように割って入った声は、凛として決意に満ちた美依ちゃんのものだった。声につられるまま美依ちゃんを見る。彼女の瞳は既に、薄い紫色に輝いていた。


 その横でキサちゃんが、ソファに置きっぱなしだったマフラーを引っ掴んでこちらへとずんずか歩いてきた。一度諸星くんと目を合わせたかと思えば、すぐに私に視線を向けて、


「リンカさん。後は頼みますよ! このキサちゃん、さくっと馬鹿な不良さんたちに地獄絵図の幻でも見せに行って差し上げますので!!」


 にっこりいつものように微笑んで、玄関を出ていく。


 そしてそれに連続するような形で、いつの間にかコートを着込んだササちゃんが私の横を通り過ぎた。彼女は振り返りもせずにひらりと片手を上げて、


「……行ってくる。シュンに、早く来ないと手柄は全部あたしの、って伝えておいて」


 それだけ言って玄関ドアの向こうに姿を消してしまう。


 呆然と立ち尽くす私を労わるようにイオリくんがとてとて歩いてきたかと思うと、私の服の袖をきゅっと握ってこちらを見上げた。その瞳に、イオリくんが魔法を使っている証である流動する図形が浮かび上がっているのを見て私は目を見開く。


「大丈夫だから。僕、が、頑張るから! だからリンカもっ、頑張って!」


「……イオリくん」


「ユウキは強いから大丈夫! 僕知ってるから! リンカも知ってる。ユウキは強いから、絶対だいじょうぶ!」


 にかっ。無邪気にそう微笑んだイオリくんは、私が何か言うよりも早く自室へ駆け戻っていった。イオリくんの魔法はその特殊さから、特定の場所からの行使が一番落ち着くそうで、イオリくんの場合は自分の部屋というわけだ。気がつけば美依ちゃんも「じゃあ集中したいので二階の廊下お借りしますねッ」などと勝手に言って階段を駆け上がっていく。


 玄関口に取り残されて呆気に取られる私に、諸星くんは語気を弱めて言う。


「ほら、全員自分のできること、しに行ったぞ。お前はどうするんだ? 妹としてとか家族としてとか支部局長としてとか、もうこの際どうでもいいけどさ、――――お前はどうしたいわけ? 自分にできる事をして兄貴を助けたいのか、自分にできないことをして兄貴を助けられないのか、どっちなんだよ」


 私は。


 自分の魔法を思い出した――――その使えない魔法を前にして、私は何を思ったのだったか。シュンくんやイオリくんがいなくなったそのとき、私は自分をなんと言って叱咤したのだったか。バイク事故に遭ったあの日、私は雪の降り積もる公園で何でもできるようになりたいと思ったけれど、それが無理だと思ったそのときに何を思ったのだったか。そのすべてを、思い出した。


 ああ、そっか、と私は両目から一筋ずつ流れた涙を拭うことさえなく納得する。


 もう答えの出ている決まり切ったことを、混乱に任せてぐちゃぐちゃにしていた自分が情けなくてしょうがなかった。自分の出来る事の判別すらつかないほど冷静さを欠いた自分に苛立った。皆に先を越されてしまった自分の無力さが悲痛に思えた。


 でも――――支部局長である私だからこそ。


 兄の、唯一の肉親である妹の私だからこそできることがあるんだと、思い出すことができた。


 私は諸星くんを真っ直ぐに見上げた。諸星くんの瞳には静かな波だけがあって、静謐に満ちている。この子はきっと頭がいいんだろうな、そう思った。慣れてもいないはずのこういう場面で、私に代わって指示を出せるくらいに頭がいいんだろう。


「……諸星くん、私って頭が悪いんだ」


「そんなの見りゃ分かる。だからなんだよ」


「だからね、諸星くん。頭の悪い私じゃ何もできないかもしれないけど、頭のいい諸星くんに今だけで良い、私を手伝ってほしいの」


 私は頭が悪いんだから、余計なことを考えるのはやめにしよう。


 やりたいこととやるための方法を考えればいい。家族だとか仲間だとかそんなことなんて知ったことじゃない、セオリーなんか知らない。私はどんな立場だって兄を助けたいだけで、そう思うならそうすればいいだけの話なんだ。


 そう思うと心の中の霧が晴れたようなすっきりとした気持ちになって、私は朗らかに笑った。


「私、お兄ちゃんを助けるよ。だから手伝って!!」


 諸星くんは心底面倒くさそうな顔をしながら、それでも頷いてくれた。






「――――み、見つけたぁ!!」


 美依ちゃんの大きな声がシェアハウスに響き、私はあちこちに電話し続けていた携帯端末を思わず取り落としそうになった。ちなみに私の横で情報をまとめてくれている諸星くんは派手にボールペンを落とした。


「見つけたって、美依ちゃん、いたの!?」


「はいっ! 最初はぼんやりだったのでお兄さんの気配的なものかと思ったらそうじゃなかったみたいで、今すっごい勢いで使ってるっぽいです!! 頭がぐおおおおおおおおおってマキシマムに痛いですからこれヤバげなんじゃないですかっ!?」


 階段を三段飛ばしで飛び降りてきた美依ちゃんの言葉に私は時計を見た。六時十四分。魔法を使う、という表現だら考えるとまずそれが兄である可能性は限りなく低いから、別人。時間からして、ササちゃんたちはいくら飛ばしても最初の合流地点にも辿り着けていない。トキヒロくんはもう路地裏を捜しているみたいだけどそれらしい報告は入ってきていなかった。


 となれば、支部64号局の人間による魔法ではなく……どこか別の支部の魔法?


 そんな思考はあっさり組み立てただろう諸星くんが美依ちゃんに訊いた。


「その魔法の種類って分かったりしないのか?」


「お相手の目を見ればできるみたいなんですけど、そうじゃないと無理みたいですっ!」


「そうか……つーことはそいつに直接連絡もできないな。とりあえず、雷使いには連絡できた。色がどうの、の奴は戦力外だからノーコンタクト、後の面子はどうするか……なにせ状況がわかんねぇから対策の立てようがねーよ……」


 困ったように頭を抱える諸星くんを横目、私は次々に電話番号をプッシュしていった。この状況を打開しうるはずの知り合いに片っ端からかけていく。どれもこれも中々繋がらなかったが、かけ始めて七本目の相手でようやく返事があった。よし来た、思わずガッツポーズする。この魔法使いなら、まず間違いなく状況を好転させるはずだと確信していた。


 数回のコール音のあと、めんどくさそうで艶を帯びた女の声が耳に届いた。


『はいはい、どちら様ぁ~? こちら、〈転移(ワープ)〉ですけどぉん』


「わっ、ワープちゃん!! お願い助けてッ、緊急事態なの!!」


『ひょえぇ!? え、何どうしたの、その声ガーディアンちゃん!? いや助けてって言われても何が何だか全然わかんないんだけど、』


「うちの局員がピンチ! 今他のメンバーが向かってるんだけどとても間に合いそうにないの、だからワープちゃん、うちの〈蒼炎〉のところにワープしてメンバー拾って現場に向かってほしいの!」


 27号局工作班の彼女に勢いよくまくし立てると、相手は少し黙った後に呆れたようにため息をつく。


『そーいう依頼は上通してもらわないと困るなぁーん。ほら、うちって生活苦しいから余計なお仕事受けられなくてさぁ、』


「手伝ってくれたら報酬は弾むよ!?」


 ぴくり、とワープちゃんの頬が動いたような気配がした。私の言葉に隣の諸星くんが少々顔を引き攣らせたが、その様子を知るわけもないワープちゃんはころりと態度を改める。これまで何度となく使った手だがやはり効果てきめんのようだ。


 証拠に声のトーンが跳ね上がって小躍りしそうな空気をまとった。


『いいでしょう任せなさいん! このワープちゃんが全面解決してア・ゲ・ル!! その代わり報酬はちゃんと払ってよね、うち騙したら許さないからねっ!!』


「ありがとうワープちゃんそれじゃあよろしく!」


 早口に告げて通話を切ると、諸星くんから物言いたげな視線を受けた。お前こんなときに金の話かよ、と言うことか。それに胸を張って答える。


「ああでもしないとワープちゃん動いてくれないんだ、守銭奴だから」


「……ああ、そう」


「今は義理人情で動く子なんて少ないんだって。ちょっと寂しいけど」


 うわぁ魔法使いの世界って意外にすげぇ現実的だった、夢破壊された気分、とかぶつぶつ呟く諸星くんの横で、更なる手を打とうとボタンを押し始めたところで自室からイオリくんが出てきた。魔法を一気に使いすぎたのか少々ふらつく足のイオリくんに驚いて、私は彼を抱え上げる。


 こんなになるまで魔法を使ってくれたことに感謝した。同時に、お兄ちゃんって愛されてるなぁ、なんて馬鹿なことを思った。


「あ、あのね、路地さんが寒がってるの!」


 イオリくんは唐突にそう言った。寒い? 首を傾げる。もうこの時期だから路地裏が寒がるのは分からないでもないけれど。


「違うの、そうじゃないの! ぴきぴきぴき、って凍るんだって!! それでね、上から大きな柱みたいなのが落ちてきてね、それがユウキを狙ってるって! それから屋上さんが、いつまでも立ってんな、寒いって言ってる!!」


 寒い。ぴきぴき凍る。降ってくる氷柱。


 私は端末を放り出して自分の部屋に飛び込んだ。私の部屋には本部ほどの冊数ではないにせよ魔法の種類に関するファイルがあったはずだ、昔に読んだ記憶がある。確か、とお目当てのファイルを探り当てて私はそれを開いた。《攻撃系》自然操作魔法、氷属性。それは数えるほどしかない。そしてその中でイオリくんが集めた情報と合致するのは……、


「〈氷柱(アイシクル)〉……! あった!」


 だが私は奇妙な点に気がついた。〈氷柱〉は近畿地方の支部の所属だと記されていたのだ。他支部から魔法使いが派遣されてくる場合は事前連絡がなされるはずだが、私はそんな連絡は受けていない。


 ファイル片手に思考を回す。


『すっごい勢いで使ってるっぽいです!』


 美依ちゃんの台詞をなぞった瞬間、私は全て合点が行った。ひとつの仮説が形を持って脳の奥底に閃く。


 理由は分からないけれど、もし、〈氷柱〉によって兄がピンチとなっているのだとすれば……! 私はファイルを放り捨てて記憶を探る。〈蒼炎〉の最高温度は何度だったか。〈氷柱〉の最低温度はいくつか。二つが競り合ったらどっちが勝つか。揃えた情報が頭の悪い私にでも勝負の結果を知らせてくれた。


 私はさっきまでの混乱状態から一転、兄の無事を確信して笑顔を浮かべる。


 現在時刻、午後六時二十九分。


 






「……でもなァ」


 と、彼は呟いた。


 差し迫る氷柱をゆっくりと、だが確実に避ける。アスファルトに突き刺さった氷柱の周りが瞬時に凍結し始めるのを傍目、彼は真っ直ぐに郡司を見た。


 その目には、迷いもためらいもない。


「そりゃ俺ァ屑だぜ、そんなんわかっちゃァいるのさ。俺は屑だしガキだし大馬鹿者だよ。下手すりゃ郡司、手前と同レベルだ。……けどよォ」


 一歩踏み出した。アスファルトの上に這った薄氷を、ぱきりと踏み砕く。


「こんな俺を、馬鹿みたく世話焼いて馬鹿みたく心配してくれる、馬鹿な妹が俺にゃァいるんだ。そいつは断じて屑じゃない。俺の敵は屑のみ、つまり俺自身も敵みてェなもんだから痛めつけてやりたいところなんだけどよ、今ここで手前にやられるのだけは趣味に合わねェ。俺が傷つけば、屑じゃねェ妹が痛い目みんだよ」


「ほんっとっっにぬるくなりやがって小柳!! 反吐が出るぜカス! 家族愛にでも目覚めたのかぁ? ああクソやっぱ分かんねぇ、気味悪ぃんだよ!!」


「手前には一生分からねェよ。むしろ分かられたら寒気がするだろうぜ」


 本日二度目の彼の台詞に郡司が殺気立った。ナイフを構え直してこちらを睨み据え、激怒に身を任せたように軽薄な表情を崩す。


 その怒りがなにゆえのものなのかは分からないけれど。


 ただ、それは虚しいものに思えた。


「ッ、やっぱこうしときゃあ良かったぜ、テメェが

いなくなる直前にでも……ブチ殺しときゃ良かったぜ!! おい、本気で殺れ!!」


 吼えた郡司は言葉の勢いそのままといったようにアスファルトを蹴って真っ直ぐに突進してきた。刃物をいなし隙をついて蹴りを食らわせれば、代わりに薄く頬を裂かれて歯噛みする。また怪我をしてしまった、こいつどうしてくれるんだ。

 

 郡司と近距離戦にもつれ込んだからだろう、氷柱の槍は彼の後ろから水平に飛び交う方向にチェンジした。これは結構厳しい。前に郡司、後ろに氷柱、どちらも侮れば死にかけない状況である。


 無理のある状況だが、無理をしなければ助からない場面。切った張ったの殴り合いになりかけていたその現場を急変させたのは、彼の背中を狙うように飛来してきていたはずの氷が二秒ほど断絶したことだった。


 魔法の使いすぎによるキャパオーバーが生み出したロスタイムだと判断した彼は、これは好機と見てストレートパンチを郡司の顔に叩き込もうとして、次の瞬間途方もなく嫌な予感と同時に彼は頭上を振り仰いだ。


 細く長い、ただしこれまでで一番に鋭利な切っ先の氷柱がすぐそこに迫っていた。視界の片隅で郡司が下世話な笑みを浮かべる。


 攻撃パターンを元に戻したのだ。そしてあの最初の狙いの悪さはわざとで、実際は彼一人を狙っての攻撃も十全に可能だった。そのことに気づくまでの数秒の間に、既に回避は不可能な場所にまで氷柱は落下してきていて。


 動こうにもどう動けばいいのか脳が働かない。逃げても間に合わないし対処する手段もない、さぁどうしようかとやけに冷静な思考が回った時にはもう氷柱は目と鼻の先。絶大な痛みを妹に与えてしまう罪悪感に足がすくんだそのとき、


 ぼう、と赤が散った。


 それは強烈な赤というわけではない。明るく曇天に映え、舐めるように広がったそれは決して鮮烈な赤ではなかったが確実に炎の色合いをしていた。頭上に差し迫っていたはずの氷柱が、あっという間に巨大な炎に呑みこまれるように融解し、水滴は落ちることすらなく蒸発したのを見て、彼はあ、と間抜けな声を上げる。


「なっ、こ、氷が……!?」


 郡司も予想外の出来事だったのか、くあっと目を剥いて氷柱があった虚空を睨みつけた。そして次に、あの氷柱たちを操っていた術者がいるだろう右手のビルの屋上を見上げて、


 ――――郡司も、彼も絶句する。


 ビル屋上からふわりと軽々しく飛び降りた中学二年生程度の少女が、メタルジャケット姿の男を肩に抱えて、両者の間に着地すればそれは驚くと言うものだろう。


 しかもその少女が彼にとっては馴染んだ人物で、逆にメタルジャケット男の状態を見て郡司が戦慄いているというのだから。


 少女は緩く後ろでまとめていた髪をさらりと背中に流して、鬱陶しそうに肩の男をアスファルトへ落とした。どさ、力無い音は男に意識が無いことを指し示す。そこらじゅうにそいつが作った氷柱は設置されたままだったが、今意図的に魔法を使うことは不可能だろう。


 彼は思わず声を上げた。


「さ、ササ! 手前なんでこんなとこにいんだよ!」


「なんで、って。馬鹿なの、ユウキ」


 少女、ササは赤いネクタイを風になびかせながら、シンプルに答えた。


「リンカの頼みだから」


 その姿がやけに格好良く見えた。




 


 所変わって不良たちが根城とする路地裏の行きつく先、彼らのアジトである廃工場。


 郡司によって路地裏からこちらへと配置を戻されていた彼等は、目の前に突然現れた三人の少年少女に完全に怯えきっていた。


 ひとりは、にっこりと完璧な笑顔を浮かべつつも一分の隙さえ見せない少女。


 もうひとりは、ぶちギレているのがよく分かる不機嫌オーラ全開でこちらを睨むだぼだぼの服の少年。


 もうひとりは、これが一番異様なことに体中から青白い電気パルスを迸らせた、笑顔なのに目が笑っていない少年。


 既に三人の前には二十人ほどの男たちが倒れていた。それはすべて電気パルス少年の仕業で、残りの二人はまだ何もしていない。にも関わらず、烏合の衆と化した彼等は反抗する前に、あの二人もヤバいということを本能的に感じ取っていたのか逃げ腰である。


 しかし。


 それを見て、少女がにんまり意地が悪そうに笑った。


「それじゃあ、皆さん、よぉーーーーく見ておいてくださいねぇ……?」


 不良たちが少女に召喚された阿鼻叫喚の地獄絵図を見てのたうちまわり、だぼだぼの服の少年が集団に殴り込みをかけ、電気パルスの少年にトドメとばかりに廃工場全体に散らばる金属製の工具を媒介に電撃を浴びせられて床に転がるまで、ほぼ時間はかからなかった。





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