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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
悪辣虚構テラー
12/41

4-3

 さて決戦のお話です。

 そろそろ本気で終わり。この章はあと残すところ一回の更新で終わります。次回は、いわばエピローグとなります。


 合計1874アクセスありがとうございました! また、お気に入り登録してくれた方、感想をいつも書いてくださる《漣の空》様、本当にありがとうございます。前回更新の際、一日で334アクセスとか書いてあって腰が抜けるような小心者の作者ではございますが、今後もよろしくお願いします!


 ……漢字が多いかもしれません。ご容赦願います。

 


 特に驚きもしなかった。


 そもそも掲示板に犯行予告を上げたときから、こういうことになるだろうと予測している。むしろ、そうなるように仕向けている。だからさほど驚かなかった。


 東興星観タワー展望台、一番人の集まる大人気スポットの中央にひっそりと佇み、ただただ透明な壁の向こう側に広がる気色悪いほど綺麗な青空を眺めていた彼女を取り囲むように、ざっと足音が立ち止まった。その音にうっすらと口端を吊り上げる。


 明らかに他の目的ではない様子で止まった彼等の気配に気付かないわけもない。これでも彼女はかつて県内でもっとも危険な仕事を請け負う支部局の人間であったのだ、そういった感覚は一通り心得ている。


 だから、声をかけた。


「お久しぶり、ね。肇さん」


 相手も少し息を呑んだかと思えば、まるでかつてのあの頃のように優しい声で応じる。


「久しぶり、ですね。深丘」


 五か月の間呼ばれた記憶が一度もないその音に、ああ、それが私の名前だったと思い出す。もう忘れてしまいそうになっていた。この名前を覚えていてくれる人がいるということに現実味が持てなかった。


「来るだろうと思っていたわ。他の皆は絶対に来させないけれど、自分は絶対に来たがるのが貴方ですもの。どんなに嫌なことがあると分かっていても」


 言いながら、彼女はゆっくりと振り返った。額にぱさりと掛かった黒髪を払えば、視界の先に見えた面子は事前に調べた彼ら……支部64号局の面々と、それなりの付き合いのあったとぼけたような少女、そして彼女も良く知る針金細工のような19号局支部局長。対抗策を四苦八苦させられた新入りの少女の姿は見えないし、≪名前消し≫の憂き目にあったという雷撃使いもいないようで。


 久方ぶりに見た針金細工の彼は、疲れたようなその表情も、困ったように揺らぐ瞳もなにひとつ変わっていないように見えた。けれど、糸目糸目としょっちゅう茶化されていたその瞳の色を見て、彼女はぴくりと肩を震わせる。


 何か違和感が首をもたげたせいだった。いつもの眼のはずなのに、どこか今日の彼は遠くて。


「……〈人形〉ちゃん。あなたがしたことはもう分かってるの。一般人への力の行使、所属者への暴力教唆、他にもいくつか」


 そうおもむろに言ったのは、支部64号局の局長を若干十八歳で務める、清楚な女子大生じみた容姿の〈庇護〉だった。何度か依頼で協力したこともあったろうか。不遇というか残酷というか、『使い捨ての駒に成り下がらなければ使えない防御系魔法』の使い手の彼女。最後に会ったのは二年前だったが、あの頃のまだ幼い印象は現在すっかり影をひそめ、決意と覚悟に満ちた良い顔をしていた。知らない間に人は成長するものなんだと、そう思わせる変化をしている。


「今ならまだ間に合うよ。〈人形〉ちゃん、投降して」


「私は投降するためにここに来たのではないわ。私は、〈三人衆〉への面会を求めたはずよ。あなたたちでは話にならない」


 あくまでも冷ややかに、彼女は目の前の魔法使い達を睨み付ける。


「掲示板にもそう書きこんだはずだわ。それも解読できない〈従雷〉ではないと思っていたのだけれど、もしかして予想以上に能がないのかしら、彼? 《名前消し》までされるくらいには危険人物なはずだけれど、ああそう、もしかしてどこぞの〈蒼炎〉みたく前線でしか何もできないっていうことかしら」


「――――っ、あんた、」


「あら、何か言い訳でもあるの? 一般人を洗脳さえしてしまえばまともに攻撃もできない子どもなのには間違いないでしょう?」


「それはっ」


 〈従雷〉を侮辱したからなのか、それとも自分をけなされたからなのか、食ってかかろうと言わんばかりに一歩踏み出しかけた〈蒼炎〉を制したのは意外なことに針金細工の彼だった。静かに〈蒼炎〉の前に出て彼女を止めると、俯いた顔の角度のまま、彼の肩が急に震えた。


 小刻みに、ひくひくと震える肩。彼のいちばん近くでそれを見たのであろう〈蒼炎〉が、じり、と後じさった。その顔に浮かんだ感情は、恐らく恐怖と違和感。


 周囲にいた魔法使いのほとんどが訝しむような表情なのに対し、数名は態度が違っていた。〈色分〉は顔が引き攣り、〈会話〉は顔を蒼褪めさせる。〈夢測〉は何かを言いたげに浅い呼吸を繰り返しているが、肝心の言葉は出てこない。


 くくくくくく、徐々にそのうすら寒くなるような笑い声は大きくなっていった。聞いた人間すべてを不愉快な気分にさせるような、暗くて気持ちの悪いその声が耳障りに鼓膜を通り過ぎていく。魔法使いたちだけではなく、次第に周囲にいた観光客たちも次第にこの異様さに気付き、彼に視線を寄越してはふいと逸らしてそそくさと場を去っていく。違う、と彼女は唐突に思った。彼がここに来たときの眼も、この笑い方も、――――深丘の知る彼のものではない。


 もっと、おぞましくて醜い他のナニカが、まるで彼を模しているかのよう。そう、そのナニカは例えば悪魔のようで。


「《そうか、そうだったな【小娘】。お前はあの三人に会おうとしていたのだったなぁ》」


 発せられた声そのものは、彼のもので間違いはない。ずっと一緒に仕事をしてきた彼の声を今更聞き違えるはずもない。それなのに何かが決定的に、あるいは致命的に足りないその声音に、背筋を寒気がぞくぞくと這い回る。まさか。いや、だって、彼はこんな人ではないはず。疑問符と戸惑いが脳内を巡って一瞬意識が混濁しかけた。


 だがそのまさかを肯定するかのように、彼は――――いや、ナニカはくつくつと喉を鳴らした。


「《あの三人はここには来ぬ。いや、もうお前があやつらと相まみえることは叶わぬ。あやつらに任せるわけには行かぬからな――――危険因子は、この我が、直々に排除するべきだと判断した》」


「……あなた、は」


「《光栄に思うが良いぞ、【小娘】。我を間接的にせよ相手にできると言うのは希少な例だ。最近では今のところは――――【三人の駒】と、それからあのいけ好かない【二代目】か? 四人目がお前だというのは少しと言わずかなり残念ではあるが、それも慎重と万全を期すためだ。未だ生温いあやつらでは、お前の息の根を確実に止められるとも限らぬ》」


 くつくつ、と、また不愉快に顔を歪めるナニカ。やめて、そう叫びそうになった。あの優しい局長の顔で、誰よりもメンバー思いの局長の顔で、あらゆる存在を卑下して罵倒しているような下劣な表情をしないで。そんなのは、私一人で間に合っているんだから。


 そう文字列が脳裏を派手に一回転したかと思えば、頭をもたげる微かな期待と歓喜に気がついた。違和感が明確な形を以って組み立てられた末、導き出された一つの可能性。彼女にとってあまりにも都合のよいその展開がもしも真実だとするなら、世の中は全て仕組まれているかすべて運命だと言いきれそうだと柄にもなく思う。頭がぼうっと焼かれたように熱くなる。すっと静かに右足を引いて、いつでも目にありったけの力をこめられるように右拳を握り締める。落ち着くように全神経に叱責を飛ばして、彼女はじっと、ナニカを見詰めた。


 黙ったままの彼女と、何も言うことのできないまま硬直する魔法使い達を前に、ナニカはついに口を滑らせた。


「《まぁそれでも、お前は【先代】よりはまともな使い方を心得ているようだ、【小娘】。お前の前の代に当たる【九代目】は、宝の持ち腐れとしか言いようのない使い方しかできずにいたのだから――――そう考えればお前は優秀と言えようぞ。〈人形〉は昔から使い勝手が悪くて、そう、【初代】も困りきっていたのだったか――――》」


「――――ッ、あんたが!」


 言葉を皆まで聞く気など毛頭持ち合わせずに、彼女は感情のまま怒声を張り上げた。


 先程ちらりと顔を覗かせた期待と歓喜は跡形も無く弾け飛び、心中に毒薬のように回ったのは殺されそうなほどの激情。途端視界がペールパープルに染め上げられて、一部の欠けた二重の円が、きりきり、と音を立てて回転を始める。あの金属バットの男のときとは程遠い、本気の魔法行使を意味する号令の図形、それが彼女の右下が欠けた二重円の意味するもの。


 うなじがぞわりと粟立ち流した髪が逆立っているような気すらして、それでもなお収まることを知らない激怒に何も考えず身を委ねた。普段から意識していた静かな口調は、『あの子』に好きだと言われた抑揚に欠けた喋り方はもう今は意味が無い。生来の荒々しい言葉遣いで、彼女はあらゆる膿を吐き出すように叫ぶ。


「私はあんたに会いたかったんだ、それなら別に何も知らない〈三人衆〉なんて興味も無い! 全部、ぜんぶあんたのせいじゃない――――『あの子』を、〈跳躍〉を、……組木(くみき)あさがおを殺したのはあんたでしょう! もう、全部、全部分かっている!」


 すぅ、相手の眼が面白がるように細まる。いつもは愛嬌溢れるそれは、今ばかりは獲物をつけ狙う獰猛な猛禽類のように見えた。鷲、鷹、食物連鎖の上位に立つ強者の余裕が宿る瞳。


「今日の目的は最初からあんただった。他の魔法使いや一般人がどうなろうと知ったことではないけれど、あんただけはこの私が絶対に殺すと決めていた! あんたを殺さないと、今まで死んでいった先輩やあの子に申し訳が立たない――――知っていながら同じ轍を踏むようなこと、私は出来ないッ!」


「《……》」


「あなたを殺すためだけに五か月を生きてきた! あんたをもしここで殺せなくても、私は命ある限りあんたを殺すためだけに生きるっ! あんたを殺すためだけに生きてあんたを殺すためだけに死んでやるの! これまで何百人も、何千人も、魔法使いを殺してきたあんたを――――魔法使いの、この私が殺すっ!」


「《……ほう。で?》」


 血反吐を吐きそうな、フロア中の観光客に響き渡る様な大音声を張り上げた彼女に、しかし表情を変えることなく、ナニカは淡々と吐き捨てた。


「《それで、わざわざ寿命の延びた命を捨てに来たというわけか【小娘】。――――愚かな。我を殺そうとは、それこそ――――一万年早い》」


 瞬間、彼女はありったけの力で目を見開いた。刃物で目を刺し貫かれたような激痛が両目を襲い、神経が限界を訴えて思わず呻く。それでもその痛みをすべて無視して、彼女は素早くかがみこむと履いていた両足のロングブーツの中から冷えたバレルをニ丁握り込んで流れるように引き金に指を掛け、


「《――――銃声は殺戮劇の合図! ねじり殺せ、人形たち》ッ!!」


 呪いの言葉の絶叫と共に、銃口を天井へと向けた。









 ぱんぱんぱんっ!


 立て続きに三発響いた、乾いたその音に少年は足を止めた。


 何だかさっきから、フロアが妙に騒がしいとは思っていたが、今の音は勘違いでなければ……銃声?


 刹那の思考停止に陥った後、耳朶を打ったのは幾通りの裏返ったような悲鳴たちだった。すべて一様に、ふざけているようなものではなく恐怖一色に塗り込められたものたち。鼓膜を突き破る勢いで響いてきたそれに、反射的に耳を塞ぐ。


 それでも到底防ぎ切れるようなものではなく、少年は「んだよ!?」と呻くように呟いた。それから周囲に視線を移そうとして、突然思い切り身体を突き飛ばされる。


「んっな、痛っ……!」


「邪魔だよどけアンタ! 死ぬぞ!!」


「は、はぁ!?」


 死ぬ? つい数日前に感じたあのぞわりとするような感覚を思い出して身震いしかけた彼だが、現状があまりにも理解不能すぎてそれどころではなかった。最初の一人だけではなく、全員が全員焦燥と恐怖を浮かべて、誰彼構わず押しのけ踏みつけ突き飛ばす。子どもの泣き声がぐらぐらと頭を揺らした。なんだ、何なんだ、なんだっていうんだ。呆然として追い付かない思考回路のまま、群衆の向かう方向を見遣る。あらゆる彼等は一斉に、このフロアから地上へ向かうためのエレベーターか緊急用の階段に向かっていて、エレベーター側はもう少しで第一隊が到着するところ――――だと思えば。


 次の瞬間見えた光景に、少年は思わず目を疑わずにはいられなかった。


「っ、い、きゃあああああああ!?」


 悲鳴、引き続き銃声。


 視線の先で、数名の人間がうずくまるのが見えた。そして床には赤い液体が飛び散り、彼らの前には恐ろしいほどの無表情で立ち尽くす五名。


 驚愕すべきは、否恐怖すべきは、彼らが全員警察官を示す青色の制服を着用して、そして拳銃を彼らの目の前の群衆たちに突きつけているというその点だった。日本で数少ない、合法的に銃撃を許された職業の彼らが持つ市民を守るための武器が、その市民に向けられていたのだ。


 更には悪い夢のように飛び散った赤いそれ。それが何であるかなど考えるまでも無い。事態の深刻さを理解した瞬間、少年の背筋を深い戦慄が駆け巡る。


「……嘘だろ、おい、マジかよ」


 声が震えたのが武者震いのせいではないのは確かだった。そうしている間にも、銃を手にした彼等はじりじりと、群衆をフロア中央に押し込めるように近付いてきて、少年を含めた観光客たちはどうすることもできずに後ろへ後退していく。


 階段へ向かっていたグループも同じ憂き目に遭っているようだった。中央部に背中を向けたまま歩かされ、無言で警察隊にフロア中央を向いて座るよう促される。空調の利いた展望台だからこそ、その床はひんやりと温もりが無く、それが余計に不安を煽り立てていく。


 どうしてそんなに準備がいいのかと言いたくなるほど良い手際で、警察隊が座らされた群衆の腕を拘束していく。百均で売っているような結束バンドなのに、いくら引っ張ってもそれが切れる事は望めそうも無く、少年はそっとうなだれた。


 ああ、なんだよ、こういうことか。突然呼び出されたかと思えば、なぜか苦しげに息をついてこちらを見やり、一枚の紙切れを手渡した眼鏡の男を思い出す。そいつは、途切れがちではあったが少年に向かって、確かにこう言ったのだ。


『絶対にロクなことにならない。貴様には、命を懸けてもらう』


 馬鹿げたことを、と鼻であしらって、何か言いかけたそいつを無視するようにここへ向かったというのに――――本当にロクでもないことが起きた。これに対応しろと、そういうことだったのか。四つ折りに畳んで胸ポケットに仕舞われた紙切れを確かめるように、拘束された両手をそっと持ち上げる。この紙切れの使い方は説明を受けたので分かっているが、使おうにも、もうまんまと拘束されてしまった。うかつだったな、と唇を噛む。


 ――――そのとき、おもむろに上げた視線の先にひとりの女を見つけた。


 長い、長い黒髪の女だった。円形に集められた群衆の中央に立ち、片手を少年のいる方向に、もう片手を反対側へまっすぐに伸ばしている。長めの前髪によってその目を見ることは叶わないが、少年は彼女を見た途端嫌な予感に襲われて、暴れ出した心臓を上げたままの両手で押さえつけるように学生服を掴んだ。彼女は明らかに雰囲気が違った。周囲を取り囲む青色の警官隊たちの空気が虚無とするなら、彼女の持つ雰囲気は修羅、鬼、そんな形容詞の当てはまる尋常ではない気配。二十歳すぎであろう若い女が持つにはあまりにも物々しいそれに呑まれたように誰かが喉を鳴らした。


 伸ばした両手の先に握られていた、鈍く鉛色に光る銃身に、群衆が一気に緊張したのが分かった。自分もその緊張した中に入っているという勘定も忘れて、少年はそれを息を詰めて見詰める。拳銃には決して詳しくないが、安全装置の場所くらいはわかる。安全装置は、既に外されていた。


 それだけで推測はつく。あの最初の三発は、彼女の威嚇射撃だったのだ。


 と、そこで。突然、とっ、という軽い足音がしたかと思えば、警官隊に囲まれた円形の中で、こちら側の最後方に誰かが立った。この状況で人質に取られた誰かが立つとは思えない。もしかして共犯者? そんな思考に気付くよりも先に、少年は身構えた。


 直後、まだ幼さの残るものの、苛立ちと威圧感をないまぜにしたような少女の声が背後から聞こえたからだ。


「……なに、それ。脅しになっているとでも? そんな玩具」


 拳銃相手に一切物怖じしないその台詞の内容に、近くにいた客が小さく悲鳴を上げた。警官隊でも共犯者でもないだろうそれは、未知の不安を生み出すに事欠かない。だが少年は心に重く重く圧し掛かる様々なプレッシャーを跳ね除けろと言い聞かせながら思考を開始する。彼が眼鏡の男に渡された紙切れ、その使い方、彼の言葉、この状況、その少女の声……テロリストの女に対処しようとしている、挑発している? ということは、つまり、――――もしかすると。


 少年の頭に一つの可能性が浮かんだ。

 

 そしてそれを裏付けるように、背後でまた、呆れたような声。


「あんたとあたしは、会ったのは初めて……なんだっけ。だからなの? あたしの火力を、あんたは馬鹿にしている。……過小評価、しているよ」


 火力。


 その言葉にピンと来た。そうだ、やっぱり、と少年は思考が正解だったことを知って心の中で呟く。


 周囲にきょろきょろ落ち着かない挙動を繰り返す者が大勢いることを確認してから、少年はそっと背後を振り返る。幾多の群衆の先には、声の通り一人の少女が立っていた。年齢の図りづらい、色素薄めの髪を二つに結わえた、赤いネクタイの目立つ少女だ。ハーフフィンガーグローブを嵌めた両手を緩く振りながら、無表情に群衆の中央の女を睨む。


 それに応えるように、女は口の端をにやり、と吊り上げた。


「そう、でしょうね」


 直後、ぱんっ! とまた銃声が響き渡り、先ほどとは比べ物にならない音の暴力が脳髄を揺らした。悲鳴。しかし、少年の視力は生きている。視線の先の少女から一瞬たりとも目を離すまい、そんな気慨でいたのが幸いして、少年は見る事ができた。


 銃声の直前。


 少女の右腕を囲むように『真紅の六角形』が無数に現れ、そして瞬間まるで奇術のごとく――――少女の手のひらから、紅蓮に燃え上がる炎が噴出したのを。


 ぼうっ! と音を立てて一瞬生まれた炎は人の顔ほどの大きさがあったが、少女が三秒も経たない内にぎゅっと手を握り直せばたちどころにそれは消えてしまう。少女は、どこにも被弾しなかった。放たれた弾丸がどうなったのかは、彼女の足もとにぼたりと落ちたのが微かに見えた鉄の塊を見れば分かることだった。


 少女が口の端を微かに上げた。


「鉄の鉛玉くらい……あたしに焼けない、わけがない」


 少年はそこで思い出した。少女の顔を見たことがあると思った。彼女は、あの後輩に見せた《魔法使い》の噂の始まりである、青い六角形の魔法陣が映り込んだ文房具屋の監視カメラ映像で見た少女だったのだ。であれば――――少年の考えは間違っていなかったということになろう。


 やっぱり、この場には魔法使いがいる。


 彼は後輩と、眼鏡、リボン、眼帯の四名としか認識を持っていないので残りの魔法使いの顔はほとんど知らない。この少女と同じくカメラに映った中学生男子以外は誰も判別がつかないのだ。そもそも元来人の顔を覚えるのが苦手な少年は、この人込みの中でその中学生男子を見つけられるとは思えなかったので捜そうともしなかったが、その可能性が真実となったところでもうひとつの可能性に気がつく。


 彼の、後輩がこの場にいる可能性だ。


 テロもどきのこの事態が『よくあること』で片付けられそうもないのは確かで、となれば、あの眼鏡に解説された『支部局』とやらの人間が全員集っている可能性がある。誰なのかぱっと判断はできないが、この流れなら必ず、この赤い魔法使いの少女の他にも誰かがいるはず。そこにもしも後輩がいたら、それはそれで少年としては『指令』がこなしやすいのだが、その分彼女の背負うリスクが増す。


 とらぬ狸のなんとやら。いるかも分からないのに勝手に可能性を検討して組み立てていく頭が、前回死に瀕したときよりやけに冷静でむかついた。この事態を現実だと呑みこんでいないのか、それともたかが一度の経験が彼をこうさせるのか。緊急事態に慣れるだなんてそれ以上に不幸なことはそうあるまいと思うので慣れる事を嫌ったが、こればかりはどうしようもないらしい。周りが突然の炎に驚いている間に、改めて周囲を伺った。


「……!」


 いた、そう呟きそうになったところで慌てて自制した。場所は、こちらと正反対の方向。少女とまるで対になるように、こちらは大人数。群衆が座り込んでいるこの状況下、私服姿ではあってもその足で立っている彼等で、恐らく間違いはあるまい。こちらの人数は多く、中には小学生程度の子どもの姿も見えて少年は顎を落としそうになった。こんな危ない場所に子どもを連れてくるなんて、どういう神経をしているんだ。馬鹿か。と思ってから、先ほど銃弾を焼き払ってしまった少女が自分より年下らしいことを思い出し、どうやら魔法使いには年齢は関係ないらしいとあたりをつけた。あの眼鏡たちも、リボンと眼帯は少なくとも年下だろうし。


 その中に後輩の姿がないことを確認し、密かに安心した直後、張りつめた空気を破るように彼らの内のひとりが発言した。


「……その拳銃の装弾数は全部で六発。あたいたちに向けている側は残り四発、フレちゃんに向けているほうも残り四発、計、八発っすねい。弾を新しく装填する時間は無いものと見るべきだと思うっすなり、よ」


 気の抜けたように聞こえて警戒心に満ちた、少しの悲しさが混じったような声だった。キャスケット帽を被った彼女もまた少女であり、背中には大きな黒いケースを担いでいる。


 それに引き続くようにして声を発したのは、こんな場だと言うのに和服を着た女だった。険しく引き攣った表情で女をただ真っ直ぐに見据えるその目は、色眼鏡に隠されて見る事は叶わない。


「余裕、の朱色。……随分安く見られたものですわね。言っておきますけれど、八発くらいなら、わたくしたちの敵ではありませんことよ。銃弾を焼ける〈蒼炎〉でなくとも、こちらにはそれを回避する手段はありますわ」


「あら、そんな大口を叩いていいのかしら、〈色分〉」


 和服のそんな挑発的な台詞に、女は冷え切った声で応じた。その声に温もりは一切なく、ただただ激怒と狂おしいほどの他の感情が籠もるばかり。頭のネジが数本抜けているのではないか、どうでもよいことを心配したくなるようなその声音で、彼女は何でもないことのようにさらりと、


「馬鹿な真似に出ればここにいる人質全員を撃ち殺す。そこの警備員を……私の〈人形〉を使えば、それくらいわけもない」


 ひっ。


 押し殺したような悲鳴がフロアにいくつもこだました。


 さすがに予想外だったのか、和服の女たちは理解できないと言ったように表情を崩した。次いで台詞の内容を吟味するような沈黙、次に驚愕に目を見張る。その場にいた誰もが、放たれた言葉に込められた凶悪さと鋭さに凍りつく。


「私の要求を変更するわ」


 女は周囲の空気を欠片も顧みる様子は無く、ただ淡々と言って顔を上げた。瞬間、彼女の双眸に紫色の光が禍々しく宿ったのを見て取り、心臓が嫌な音を立てた。


 展開される図形は、二つの円。


 彼の後輩の操る不思議な力と良く似たその図形は、ただし劇薬のようにおぞましく見えた。


 赤い唇が、言葉を形作る。


「あの子を返して」


 たったそれだけの言葉には、なぜか事情も何も知らないはずの少年の心を抉る切実さがあった。今にも崩れてしまいそうな儚いその音の並びは、少年の脳裏にかつての自分を想起させる。


 当時の少年にとって何よりも大切だった、そして今だって会いたくて仕方のない蛍光色のジャージの従姉妹が消えて数カ月の間の自分。何もできず、何もやろうとせず、ただ従姉妹を返してくれとだけ望んだ無気力なその日々。理由を考えることもできないまま流されるように過ごした自分と、目の前で二丁の拳銃を構えて、不気味な紫の光を両の眼に宿しながら呪うように言葉を吐き出した女とが、だぶる。


「あの子を……、あさがおを返して。私の、たった一人の親友を、……私の命を数え切れないほど救ってくれたあの子を、返して」


 あいつを返してくれ。俺の、これまででたった一人の理解者を。生きもせず死んでもいなかった俺の命を、奈落の底から企むような笑顔で救い出してくれたあいつを、返してくれ。


 そう願うばかりで何もできなかった自分と。


 そう願ってこんな手段に出たのだろう彼女とが。


 どうしようもなく――――だぶった。


「あなたは、あさがおを、『どうした』の……?」


 異色の両目が睨みつけた先にいたのは、針金細工のような男だった。痩せぎすで背が高いその人物は、こちらと反対側の和服の女たちと同じ場所の先頭にじっと直立していた。叫んだ女の悲痛な響きを伴う言葉にもまるで動じた様子なく、彼はしばし顎に指を添えた。


 ――――そこで少年は奇妙なことに気がついた。この状況で考え事を始めた男の周りにいた、他の魔法使いと思しき面々の様子がおかしいことに。


 全員が全員、恐る恐る、と言った様子で事の行く末を見守っているようだった。眉が不自然に上がっている者、身体を震わせる者、怯えたように近くの仲間にすり寄る者。すべての視線は彼らの前に立つ男に向けられ、その視線に含まれた感情は……疑問、不信、……恐怖?


 なぜ、仲間であるはずのあの男に恐怖するというのか。首を傾げたそのとき、男が突然アクションを起こした。


 一切前兆も無く右手を空に掲げ、ぼそり、何かを呟いた、


「……ッ!?」


 瞬間翡翠の光が少年を含めたあらゆる人々の視界を覆い尽くし、そのあまりの眩さに少年は声にならない悲鳴を上げて勢いよく伏せる。周囲ではもっと明確な恐慌の叫び声が上がり鼓膜を破らんと言う勢いでくすぶって頭痛を引き起こすようだった。だがここでその痛みに負ければ、少年は一生後悔するような気がして、音の洪水に飲まれそうになる神経に叱責を飛ばして無理矢理に上半身を上げ、光の発生源である男の方角を見ようとした矢先、信じられない光景を目にする。


 群衆の中央にいた女が握っていたはずの銀色の拳銃が、展望フロアの高い天井にぶつかるすれすれのところまで巻き上げられ、がしゃん! と音を立てて包囲網の外に落ちたのだ。


 次いで、女が首筋に手をそっと添えたかと思ったら膝から崩れ落ちた。リノリウムの床にぽつん、赤い跡が生まれる。彼女の後ろにいるせいでよく見る事はできないし、どうやったのかも分からないが、彼女の首が薄く切り裂かれて出血場所から見ると脇腹も切られたらしい。いよいよ誰かの嗚咽が響き始めた。


「《さすが、19号局で最も銃器の扱いに長けるお前だけはある。この男の魔法、〈突風〉に反射的に反応し、引き金を引こうとしたところまでは合格だ。――――ただし、》」


 まだ身内の感覚でも残っているのか? この男は敵だというのに、引き金を引く指を一瞬ためらわせたのはどうしようもない不合格であるぞ。


 そんなことを言って、男はくつくつと喉を鳴らした。


「《そして、我にとってはその不合格だけで十分だ。良かろう、冥土の土産に教えてやる――――ああ、余計な真似はするでないぞ。真実を聞いて死ぬか、聞かずに死ぬか選ぶが良い、【小娘】》」


 その言葉に男の横にいたキャスケットの少女が俊敏に反応した。背負っていたケースを勢いよく床に落として足先で器用に蹴り開け、油断なく、拳銃という獲物を失くした女を見詰めながらケースの中身に手を伸ばす。そこから徐に掴み取ったのは、拳銃よりも遥かに長い銃身を持つ――――狙撃用ライフル。


 かちゃ、そんな音を立ててそのライフルを構えた少女に、彼らのうちの一人が声を荒げた。


「――――っ、〈暗視〉! 駄目だ、撃つンじゃねェ!!」


 目の下に濃い隈を携え、既に土気色の顔になっている柄の悪い男である。これまで少年が見ていた中では一度も口を開かなかった彼の怒声は、焦燥に満ち溢れた絶叫に近いものだった。だがそれを意に介した様子もなさげに、キャスケットの少女は冷酷に返す。


「あたいの仕事は狙撃手っすや。どんなに仲の良かった子でも、相手がたとえ同僚でも恋人でも、そもそもいないけど家族だとしても、あたいは号令ひとつで目標を撃ち殺すのが仕事っすなり。夢を見るだけで何もできないあんたに、あたいの仕事を止められる筋合いはない!」


「違ェ、駄目だ撃つな! このままじゃ手前はッ」


「《組木あさがおは》」


 男の言葉を遮るように、針金細工は言葉を紡ぐ。


 歌うように、跳ねるように、実に愉快そうに、その糸目を悪魔のように細めて。


「《もう》」


「――――〈突風〉、駄目です今すぐやめなさい! それは明らかな挑発行動よ、恣意的な目標の射殺は認められていない! それ以上、何も喋るべきではないわっ!」


 針金細工のすぐ後ろにいた、二十歳前後のウェーブヘアの女性は彼を遮るように厳しく険しい声を上げ、彼の腕を両手で思い切り引こうとした。だがそれをいとも簡単に男は振り払い、また、言葉を続ける。


「《この》」


「っや、や、やめてよっ!! お願いおねえさん撃たないで……! ユウキのヘッドフォンが叫んでるの、泣いてるの、ねぇおねがいだよやめて……っ! おねえさんは、このままじゃ間違えちゃうの!」


 小学生くらいの子どもがキャスケットの少女にしがみつくようにして、嗚咽交じりに悲鳴を絞り出した。だが、彼女は動じない。静かにただ彼を引き剥がし、彼の眼から零れる涙をちらりと視界に入れた後に、また同じように照準を合わせる。


 針金細工はまだ続けようと口を開いた。少年は思考する。間違いないだろう、彼に紙切れを手渡した眼鏡の言っていた『ロクでもないこと』はテロが起きることではなくて、こういう状況になることだったのだ。ならばこの紙切れには、この場をどうにかできる力がある。聞いた使い方と効能が本当なら、どうにかなる。あの針金細工の男が、何の意図があるのか分からないが未だ群衆の中央で座り込んで表情の伺えない女にとっての起爆スイッチを押そうとしていることは察しがついた。そうなる前に、なんとかしなければならない。もしどうにもならなければ、下手をすれば数十秒後に少年たち人質は全員蜂の巣だ。


 どうする? どうすればいい? どうなれば最悪の可能性を回避できる? ――――自分の胸ポケットに眠る紙切れを使えばいい。いわば秘密兵器のそれを使えれば、現状打破の可能性はある。じゃあ、どうやって使う? 少年の両手は拘束されている。紙切れを使うには両手が自由であることが必須条件だ。今のままでは行動に移せない。ならばどうやってこの両手の拘束を解く? どうやって、どうやってどうやってどうやって!?


「《世に》」


「〈突風〉ッ、あんた本当にどうしちまったんだよっ!! あんた、なんでそんなこと知っているんだ!? 自分が何言おうとしてるのかわかってんのか!! いや、そもそも、あんたは――――本当にあんたは、〈突風〉なのかよッ!?」


 黒髪の青年の絶叫に、針金細工の唇がにたりと弧を描く。


 ああ、解決策が何も思い浮かばない! 手の拘束を解く手だてが何も見つからない。時間さえあればどうにかなったはずなのに、その時間さえも既にほとんど残っていない! 諦めかけた思考を蹴飛ばすように少年は無理矢理に思考を続ける。頭を過ぎった後輩と、従姉妹の姿。そのために、そのために! 少年はただひたすらに考える。考えて考えろ、タイムリミットまではもういくばくもないができることをやれ! 自分の頭脳は何のためにある? 何のためにこれまで学んできた! 全部従姉妹を助けるためだ。諦めそうになった自分を不器用に励ましてくれたのは誰だ? あそこで必死に針金細工の言葉を止めようとしている奴らと関わっているはずの後輩だ。ならここで死ぬことは自分にとって計算すべき事柄じゃない、諦めるな、考えろっ!!


「《――――いない》」


「やめろって言ってるんだっ!!」


 黒髪の青年が再び発した怒鳴り声も、既に引かれた引き金となる言葉をかき消すことは叶わなかった。しぃ、ん。場に、奇妙な沈黙が堕ちる。


 組木あさがおはもうこの世にいない。


 いちいち強調するかのように言われた言葉をつなげてできた文面は、シンプルで、そしてこの場において何よりも冷たい事実だった。痛いほど残酷で残虐な言葉だった。そのあさがおという人物を、無論少年は知らない。だからその少女の生死を聞かされたところでどうとも思うことは出来ない。だが――――


 残されたことのある少年には。


 目の前で大切な人がいなくなった経験を、確かにした少年は――――彼女の生死が分からなかったがゆえの希望にすがりつくように生きていた少年にとって、同じように残されたのだと容易に察せられた、女の心中が見えるような気すらして。


 その心をただその文字列だけでぐしゃぐしゃにかき乱され、深い深い黒色に染められただろうその心にとって、その言葉がどれだけの致命傷か、想像するまでも無いことで。


 女は、ゆらり、と立ち上がった。ガラスの壁から射し込む太陽光を反射して、彼女の髪は夜空のように見えた。一瞬前髪の間から見えた瞳は虚ろで焦点が合わず、ともすればその奥に微かに燃える紫の光に気付かず黒瞳に見間違えてしまいそうになる。そして、すっぽりと感情の抜け落ちた無表情が、冴え冴えとした彼女のその顔を異端に際立たせる。


 ぽたり。彼女の脇腹から、たった一滴の血の滴が落ちる。


 それをまるで合図にしたように、彼女は――――にやり、と。


 真っ赤な唇を裂けさせて、三日月のように吊り上げて、不意に片手を上げた。既に安全装置の外れていたライフルを、キャスケットの少女がぎゅっと力を込めて構え直したのが見えた。他の魔法使いたちが、彼女を止めようと動きを起こすのも見えた。


 そして、同時。


 片手を上げた女が、向こうには聞こえないだろう本当に微かな声量で呟いた言葉が、少年の耳には届いた。


「――――ごめんね、あさがお。今、逝くから」


 直後。


「《射撃を許可する――――撃て》」


 ぱぁん。


 軽々しい射撃音と共に、見覚えのある閃光の色がどこかで煌めいたのを、少年は確かに意識に捉えた。


 不意に、両手が自由になった気がした。













 銃声と共に、トキヒロは目を見開いた。


 確かに放たれた弾丸は、片手を上げたままこちらを睨み据えていた、今にも警備隊を魔法によって殺戮兵器に変えようとばかりに目を紫色に染めた中央の女からわずかに逸れて、


 彼女の斜め前に立ちふさがった誰かの、心臓を貫いた。


 その姿に見覚えがあった。いつもよりも若干派手な服装ではあって一瞬認識が遅れたけれど確かに見覚えのある顔だった。それを認識した途端、喉から情けない、か細い声が押し出される。


「っ、そ、だろっ!? おい、なんでそこに……っ、馬鹿か!」


 ぐらり。彼女の身体が揺らぎ、倒れた。


 人質の上げたはずの甲高く耳障りな悲鳴は不思議なことにまったく耳に入らなかった。すぐ後ろでリンカの悲鳴が聞こえた気がしたが確かではない。イオリが息を呑んだような気配がしたけれどどうだろう。アキの身体が硬直するのが分かったかもしれない。ユウキがぐっと拳を握り締めたようだけれど本当なのか。最初、〈人形〉が発砲した瞬間に打ちかかって群衆の反対側へ分かれてしまっていたササが「どうしてここに!!」なんて叫んでいるように聞こえたけれど嘘か。弾を撃った本人の〈暗視〉は呆然とライフルを下ろしたみたいだが呆然としていたというのが真実か見当がつかない。針金細工、〈突風〉の身体を《使っている》誰かは、動かない。


 どくどくどくどくどくどくどくどく。


 赤い。


 それは途方も無く赤かった。トキヒロの脳裏を過去が掠める。いなくなった相棒も、そう、こんな風に真っ赤に染まって、どこまでも赤い真紅になって、


 気がつけばトキヒロは、前に立つ〈暗視〉と〈突風〉を殴るように押し退けて、倒れた彼女に駆け寄った。もう、とっくに無駄だと言うことは、手遅れだということは理解していた。身体はそこで脳の命令を聞かなくなって石のように沈黙し、彼女を揺さぶることもできず、触れる事もできないまま、トキヒロはただ言葉を並べることしかできない。


「なに、し、てんだよっ!!」


 感情のままに叫ぶ。


 目が痛い。痛い。痛い。視界に流動する図形が浮かび上がる。ばつ印。罰の、しるし。


 お前なにしてんだよ。死ぬの怖いんじゃなかったのかよ、なに格好つけてんだよ、ふざけんなぁ!! 魔法つくった奴の頭覗いて、ぶん殴るって威勢のいいこと言ってただろ、あれはどうしたんだ、なぁ!! なんでこんなとこでまで、見栄張ってんじゃねぇよ、馬鹿、ほんとなにしてんだ、なんで、なんでここにいるんだよ、なんで撃たれてんだよ、おい、返事しろよ、返事、なんで返事しないんだよっ!!


 疑問符に埋め尽くされて生まれた言葉が発せられることは無かった。はくはく、口が無意味に動作する。喉が焼けたように熱い。全身が縮こまったように締め付けられて苦しい。ばつ印から、螺旋へ。堂々巡りの螺旋の図形が視界を浸食する。ああ、そうだ、そうだ、呆然と思いついた。そうだ、自分の魔法を使えばいい。そうしたら、こんなことを全部、《忘れることができる》――――。


「……な、なんで」


 ほろり、言葉が頭上から降ってきた。ゆるゆると見上げれば、そこには、ただ戸惑ったようにこちらを見詰める女。純粋な驚愕と理解できないという感情に支配された表情。


「なんで、私なんかを、か、庇って――――」


 そのときだった。


 目の前で繰り広げられたあまりに衝撃的な光景に、あらゆる人々が思考を放棄したその瞬間に、それは唐突に訪れた。


 ちかっと橙色の光が閃き、〈人形〉の向こう側、つまるところはササの側にいた人質のうちの誰かがすっくと立ち上がった途端、その人物は動揺を露わにしている彼女に向かって一切の迷いなく突撃してきたのである。目の前で未だ流れ続ける血に視線を注ぎ、まるで周囲への警戒心を取り戻すことも叶わずわずかに警備隊を操作するだけの集中力しか残っていない彼女はそれに気付けなかった。気がつけばそこにいた人物が、〈人形〉の腕を取って引き寄せるのをトキヒロは見、まさか相手の共犯者かとこんなときにまで余計な気を回す。


 だがだからと言ってすぐに対応できるほど、トキヒロの精神状態はバランスを保ってはいなかった。呆然と、目の前で起きた光景を目に映す。彼女の腕を取った人物は――――そう、一度彼もすれ違った学ランにぼさぼさの髪、人を小馬鹿にしたような瞳の少年は、手に短冊くらいの大きさの古びた紙を握り締め、


「悪ぃが、ちょっとばかし黙っててもらうぜ、《魔法使い》さんよ!!」


 そんな言葉と同時、その紙をたたき付けるように、〈人形〉の両目を覆った。


「っ!? いっ、う……っ」


 紫色の光が完全に紙の向こうに隠れたときに、彼女は呻き声を上げてぐたりと座り込んだ。そのままふっと糸が切れたように床へ倒れ伏す。それと同時に魔法が切れたのだろう、人質を取り囲んでいた警官隊も次々に銃を取り落としていく。


 何が起きているのかまるで理解が追い付かないまま、トキヒロは戸惑いに任せて〈人形〉に何かを仕掛けた学ランの少年に何かを言おうとして、そこで声に遮られた。


 その――――声に。


 トキヒロは、震えた。


 ササの側でも、こちらの側でもない、中立の場所。ちょうど中央にいた〈人形〉の横顔がよく見えたであろう、向かって左手の群衆から聞こえてきた声に。


「……なにしてるの、とっきー。とっきーのお仕事でしょ、この後は! ぼーっとしてる、場合じゃないでしょ!」


「……、は」


 全身を震わせて、トキヒロは、すぐ近くにあったはずの、自分が駆け寄ったはずの場所を、見る。


 心臓を撃ち抜かれ、真っ赤にその身を濡らして倒れ伏していたはずの彼女は――――彼女の遺体は、跡形も無く消え去っていた。え? 心臓が一際大きく脈を打つ。どくん。呼吸がひゅっと詰まった。がんっ、頭が痛む。


 それでも、トキヒロは聞こえた声が嘘ではないことを願って、声のした方向を振り返る。そこでは、群衆の波からひとりの少女がしっかりと立ち、尋常でない疲労の滲む表情で左手をまぶたに押し当てながらも、右手の親指を立てて、いつものように微笑む少女の姿があった。


「さぁ、とっきー。この茶番を見てくれた皆さんと、茶番をしかけたいつもと様子の違うお兄さんに、……この秘密の茶番の秘密が漏れないように、魔法をかけなくちゃ」


 期橋紀沙。


 この場にいるはずが無かったのに突如現れ、ライフルの凶弾に倒れたとばかり思った、嘘つきで見栄っ張りの詐欺師の少女が、微笑んでいた。

 

 意味なんて、分からなかったけれど。


 トキヒロはそれでも十分だと思った。そう、彼には仕事が残っている。


 目に浮かんだ不定形の図形を意識してその図形を自分の指先に分裂させるイメージで、そっと力を込めた。動作は俊敏に、スピードと正確さが命。指先に、螺旋から水泡のように丸く折り重なった図形が現れたのを確認してから、彼は全方位へと魔法を《ばらまく》。


 頭の中に図形がぶつかった対象の情報が少しだけ流れてきたのを、消すべき人物と消さなくてよい人物に無意識的にリスト分け。人に当たっては分裂しバウンドするその図形の不思議さに、これまでの血なまぐさい展開を忘れたように魅入る人々。同じ支部局の仲間は除外。狙撃手の彼女も除外、だが――――19号局局長だけは、魔法行使の範囲内に指定した。


 その作業を終えたのは始めてから十五秒と経たないごくわずかな時間だったが、彼は一刻一秒の時間を無駄にすべきではないと判断して掲げた右手をぐっと握った。空間を漂っていた図形の形が、すべて、丸とばつが立体的に繋がる奇妙なものへと変形。リストに入れた人間に、ひとつ残らず張り付いて輝きを増した。


「《……ふっ、そうか……また、我は騙されたか》」


 最後に図形が張り付いたのは、針金細工の痩身の男にだった。右腕に張り付いたそれを気にも留めず、彼は……いや、『誰か』はそんなことをのたまう。


「また、ですか? 私はあなたみたいなの、八年前にしか、覚えがありませんけど。あのときは、私はなにも騙していないです。むしろ、騙された気分」


 それで、あなたは誰なんですか?


 そう彼女が尋ねた直後、トキヒロは答えが返ってくるのも待たずに、握り締めていた右拳を開いた。


 〈遮断〉。そう呼ばれた、記憶を遮る魔法を発動させたのだった。

 

 





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