4-2
ようやくラストスパートです。とはいえ今回は語り回でして、この章ラスボス戦直前のメンバーたちを心境メインで書いていますのでつまり話は進みません。年内にはこの章終わらせますので、展開ぐだぐだじゃんか! とお怒りの方々落ち着いてください。頑張ります。
《漣の空》様、ご感想ありがとうございました!!
それでは楽しんでいただけると幸いです。
月曜日、朝六時。
いつもよりも早起きをして、弟と同居人の朝ごはんとお弁当を作って「今日は学校でちょっと集まりがあるから早く行くね 帰りはいつかわかんないやー」と書き置きを残した。一応制服に袖を通して、筆記用具しか入っていないいつもの鞄よりも少し重みのある鞄をひっつかんで玄関を飛び出す。
朝の空気は随分冷えていて、私は思わず身震いした。予想より寒い。もう日の出は終わっていたけれど、アスファルトの道路の地平線の向こう側から垣間見える太陽は朝もやのせいで白っぽくて、不明瞭な姿をしていた。ローファーのカカトを数度鳴らしてきちんと履き、それから念のため周囲を見渡してから、学校へ向かうのとは正反対の方向へ向かう。
朝の住宅街をいつもより早歩きに通り過ぎ、辿り着いた場所は、自宅からの最寄り駅。モノレール、平庄一駅である。
駅ともなれば人は増えてくる。ほぼ人影のなかった住宅街に対して、それなりの人数がちらほらと足早に道を急いでいた。さすがにこんな時間のせいだからか、学生服は私以外に見当たらなかったことに微かに安堵しつつ、サラリーマンやOLの合間を縫うようにして駅構内のトイレに駆け込む。
個室に入ってから通学鞄からぐいっと引っ張り出したのは、私服とフードのついたリュックサックだ。
少し早いかとも思ったけれど結局は有効そうな、薄いファーのついたジャケットと、橙色と黄色で彩られたインナーにショートパンツ、でニーハイソックスのセットだ。普段スカートスタイルの多い私にしては珍しいチョイスだけれど、今回はそれぐらいのほうがちょうどいい。制服から手早くそれらの服装に着替え、ローファーも脱ぐ。履いたのはチェック模様の入った少し派手目な色のブーツカットスニーカー。万が一あるかもしれない特別外出用に買っておけよ、なんて保護者のぐうたら医者に茶化されてそのまま買ってしまった品だ(もちろん自腹である)。多分、彼の言った特別、というのはつまり恋人でもできたときに、という意味だったのだろうが残念ながら初使用はもっときなくさいときになった。馬鹿なこと言うからだ、ざまぁみろ。
制服から私服へと着替え終えた私は、通学用の鞄から財布や必要品を取り出し、リュックサックに詰め替えた。それからその鞄をできる限り折りたたんでリュックサックに突っ込み、そのデザインとお揃いの赤と白の縞の入ったフードを深々と被る。
それから個室を出て、鏡を見て容姿をチェック。うん、ばっちりだ。私はパーカーは被れど本来フードは被りたくない派だから、もし私服を知られているような知り合いとすれ違ったりしてもバレやしないだろう。そもそも、現地の駅に到着したら、魔法を使ってまったくの別人になり済ますつもりなのだ。これからする大仕事を考えて目への負担を最大限避けるために、こんな変装もどきまでしなければならないのである。……やらなきゃ命がかかっているんだから、これくらいのこと、文句なんて言っちゃいけないのだろうけれど。
腕時計を確認すれば、もう六時半を回って七時近い時刻になっている。そろそろ行かなければ。すぅ、と深呼吸をしてから、私はトイレを出た。
「……、げ」
思わずうんざりした声が出た。
さすがに通勤ラッシュに巻き込まれないわけには行かなかったらしく、トイレのすぐ外はモノレールへ乗り込もうと改札に並ぶスーツや制服で溢れていた。イヤホンでも持ってくりゃ良かったなぁ、とそんな人々の雑踏を耳に入れながら思う。朝のモノレールは静かだ。だが、だからこそあまり好きではない。小さくてわずかな話し声が、とても目立つから。
それでも素知らぬ顔をしたまま改札に定期券を通した。目的地に行くためには途中までしか定期券を行使できないが、経費削減、節約節制は人類の基本。こんなときでもそんなことを考えてしまう自分はつくづく主婦気質で、すっかりオバサンなのかもしれない。
一番線のホームへの階段を上がり、壁に貼られた黄ばんだ時刻表を見ると、次の電車は十分後と表示されている。この平庄一駅はモノレールの始発でもあるので、いつも電車は発車時刻の五分ほど前に来るのが常。時間の計算とか何もしてこなかったが、運が良かったと思ってから、毎朝こんなものだったと思い出す。
ふるふると寒さに身震いした振りをして頭を振った。ダメだ、ぼーっとしている。この後自分が命懸けの仕事を完遂しなければならないというのに、こんなのじゃどんな凡ミスをするかわかったもんじゃあない。ずれたフードを目深に被り直す。
ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、ホームの床を見つめる。
(……上手くいく保証なんてどこにもない。そもそもこの作戦に穴がないとも限らないし、結構行き当たりばったりなんだ)
トキヒロに、かつて死にたくないと言ったとき、彼は嘘だと看破した。
カギナによるトラウマの再発掘の影響が無かったとは言い切れない、むしろ甚大に影響されていた状況下の言葉である。私はあのとき確かに、死にたいと思っていた。それを嘘で覆いかぶせて、自分をも騙そうとしていたんだろうと、今になれば思う。
今は……どうなのか。正直自分でも分からなかった。ただ現在、私の心の中はぐるぐるぐるぐるなにかが渦巻いているだけ。それが何なのか分からない。恐怖か。高揚か。不安か。期待か。それとも。
ああどうしよう、こんなごちゃごちゃした心境でコトに当たっても失敗する確率が上がるだけじゃんか。バカだ私、前向きなことを考えなくちゃ。
そう思おうとしてもどうにもうまくいかなくて、こういうときにこそ頑張れよ私の魔法、と悪態をついて盛大なため息をはいた。そもそも使っていないのは自分の意思なんだから、そこで文句を言うのは筋違いだって分かっちゃいるし、意味も無い悪態なんだけれど。
「……はぁーっ」
と、そこで。
まるで見計らったようなタイミングでポケットの中の携帯端末がバイブレーションで着信を告げ、私はおっかなびっくりに近い様子でそれを取り出した。着信者の名前を見て眉間にしわを寄せ、少しばかり緩んでいたらしい気持ちを入れ替えるように一呼吸。応答ボタンへとスライド。
「先生、早起きですね。おはようございます」
『ぁ? おお、紀沙か。はよぅ。お前、ずいぶん早く出たんだな』
「リビングに書き置きは残してあります。その様子じゃ寝起きですね。昨日何時に寝たんですか」
呆れた声でそう言えば、電話口の向こうで『三時』と返答があった。そりゃ眠くもなりますよ、と返せば己はまだ若いからとかなんとか。起き抜けのぼやぼやしたその声音では何を言っているのか判断がつかなかったが、問題はあるまいと思って苦笑いにとどめた。
電話の相手は素川暮秋(すがわくれあき)。私と弟・桐彦の養父であり、医者である。
最近は自分の開いている診療所に泊まりっぱなしだったのだが、つい昨日の夜にひょっこり帰ってきて夕飯を食べるなり、仕事と言って書斎にこもってしまったのだ。そんな時間まで何をしていたんだと聞いても、どうせ仕事としか返ってこないし、そもそも内容を説明することさえ彼は厭うだろうから聞かない。聞くだけ無駄である。
診療所の開院時間までまだ二時間近い余裕はあるものの、彼は放っておけばぎりぎりまで家でごろごろしたがる猫のようなぐうたら気の持ち主。いつも朝早く家を出てしまう私に代わり、桐彦が力づくで(文字通りの力づく、である)叩き起こしているのだけれど……腕時計で示された時間は六時五十三分。学校の必修クラブの練習のため、四十五分には家を出てしまう桐彦は、その前には彼を起こすはずなのだが、どう聞いたってこの声は起きて何秒のレベルである。
どうせまた、起こされて数分二度寝でもしたんだろう。それがスタンダードな彼の生活だ。
「で、どうしたんです。お弁当なら作っておきましたけど」
『ん……あぁ。おはようのキスもらってねぇじゃ』
「通報します」
『は!? なんで!? 父親が娘に要求してなんで通報!? 己(おれ)の愛情は全否定なのかよっ、我が娘ながらなんてえぐい! だがその容赦の無さにむしろ感激感動だぞ己は!』
「本気で今百十番しようか考えているところです。言い残すことは何か?」
『まぁ、許すがいい』
「上から目線なので却下。通話を切って二秒後に通報します」
『悪かったって紀沙!』
「……はぁ」
これセクハラで訴えられないだろうか。四十七歳(独身)が、過度なスキンシップを一応JKに試みるって十分犯罪的だと思う。それとも世の中の父親ってみんなこんな感じなんだろうか。今度誰かに訊いてみよう。
……私の、本当の父親もこうなっていたのかな。
なんて無駄極まりない思考を一瞬で切り捨てて、鳴り始めた電車到着予告のアナウンスに今更気付いたふりをして、
「あと三十秒で電車に乗るんですけど。用件あるなら手短に。ふざけたこと言ったら、今度からお弁当に洗剤を混入します」
――――多分、啓太先輩や魔法同盟の面々が聞いたらあんぐりと口を開けてしまうかもしれない。それくらい冷たい声が、私の喉からは押し出される。別に今の機嫌が下降気味とか、そういうんじゃなく。
いつでもそうだ。私はこの人と話すときだけ、幻を引っ被ることすら忘れて喋ってしまう。だから、養ってもらっておいて何なのだけれど彼と話すのは苦手だ。
私を守る嘘の城塞が、このときばかりは、なぜか門扉を開け放ってしまうから。
先生は良い人だと思う。こんなひねくれた天の邪鬼な娘と、そんな姉を持ったがゆえに歪み気味な弟を引き受けてくれた。幻を見せるなんて薄気味悪いと言われて仕方のない力を持つ私をまるで本物の娘のように可愛がってくれた。信頼してくれているし、任せてくれている。
それなのに、何も返せないことを実感させられるから、私では及ばないことを思い知らされるから、苦手だ。
ただでさえ後ろ向きだった気分が更に塞ぎ込んでいくのを感じながら言葉を待つこと三秒、先生はそうかと言うと、いつもと全く変わらない声音で、
『気をつけて行けよ。己は銃で撃たれた娘の手当てをするのなんざ御免だからな』
と、それだけ言って、こちらが何か言うより早く通話が切れた。
低いエンジン音と共にホームにモノレールの車両が進入してくるのをどこか他人事のように思いながら、夢心地な気分で端末を見詰める。
肌寒い朝の空気が、まるで私をからかうように頬を撫でて行く。何度か瞬きを繰り返して止まり掛けていた呼吸を取り戻すように息を吸い、軽快な音楽と共に開いたモノレールの乗車扉を上の空で視界の端に留めながら、並んでいる座席のいちばん端にぽすんと腰を下ろした。リュックサックを下ろして膝の上に置き、それからまた端末を見る。
なんで知ってるんだ。なんで知っていてそんなに普通な様子なんだ。あまりのことに感想が顔を出すことすら忘れている。今の私は、きっとすごい間抜け顔。
だけれど、数分間深呼吸を繰り返して、私の中にもたげてきた言葉はたったひとつ。
「……かなわない」
何でも見透かしてしまうあの人には、私はずっとかなわないや。
知っている理由も知った手段も、あの人が何者なのかも、どれもこれも意味を為さない。少なくとも私にとってはどうでもいいし、多分あの人は教えてくれないだろう。オープンに見えて誰よりも秘密主義なのがあの先生である。きっと、このできの悪い頭ではいくら考えたって意味無い。
だから今は、それよりも。
あの先生が、ちゃんと私を心配してくれたことを喜ぶべきなんだろう。
それだけで十分だ、と口の中だけで呟いて、私は少し熱くなったような錯覚に襲われた目元を誤魔化すように瞬きを数十回繰り返した。
ごぉ、と音を立てて発車したモノレールの振動がやけに心地よかったように思う。
すっかり、あの陰鬱で後ろ向きな感情はどこかへと追いやられていた。
電車の乗り継ぎを繰り返して、目的地に着いたのはおよそ午前十時過ぎのことだった。場違いに思えるほど突き抜けるような青空と一緒に、地上の人間を睥睨するかのごとくそびえる鉄塔、それこそが東興星観タワーと呼ばれる、この国の首都・東興のシンボルタワーである。
高さは確か773メートル、世界最高峰の高さを誇る。耐震性や安全性でもピカイチで、電波塔でもあるこいつによって、今や関東圏のテレビ放送は賄われているようなものらしい。いつだかふざけて先輩に聞いたらそんないらない雑学まで披露されて、自慢ですかと聞いたらここまで知って知識だと言い返された。そんな会話で仕入れた情報だった。
上を見上げたせいでずれたフードを直して、私は注意深く周囲を見渡した。もう、私は私の姿ではない。服装はそのままで、身長もそのまま(騙したくて仕方が無いのを我慢している。もし魔法行使中に誰かが私の頭上に腕を薙いだりすれば、外見的には「人の頭を腕が通過した」状況になってしまうからだ。そんなホラーが露見しては行動どころではない)だが、顔立ちや髪型は違う人間へと見せかけているところだ。どんな姿かって? ……身長的に中学生が妥当と判断して、ショートカットの目つきの悪い娘だ。そう、中学生だ。中学生である。
不満しかないもののこればかりは仕方が無いと割り切ったつもりでいる。別に制服を着ているわけではないので、気持ち高校生でもいいのだけれど、要は設定だ。
周囲は月曜日とはいえど人でごった返していた。学校を休んだのか休みなのか知らないが学生カップル、観光客らしい老夫婦、はしゃぐ子どもをなだめる光景が微笑ましい家族連れ。元気の良いことだ。このうちの何割かは、この後起きるであろう事件に巻き込まれてしまうのだろうが、それをどうこうしようと思うほど余裕はない。悪いけれど、自分でどうにかしていただきたい。
その人ごみの中に見知った顔がないことに安心してひとつ息を吐く。魔法を使っているとはいえ、何がきっかけでこれが解けるかわかったものではない。この魔法は随分と私の感情に左右されるようで、驚きすぎたり激情に流されたりすると勝手に外れてしまうのだ。もし事件の前に魔法が解けて、しかもあの魔法同盟組がいるときにそうなろうものなら、計画がぱぁになってしまう。
皮肉な話だ。魔法で感情を殺すのに、魔法のスイッチは感情だなんて。
私は人ごみに流されるようにして入場手続きを終え、タワーの中に入った。場内案内のプレートを見ると、展望台はエレベーターで直通で行けるらしい。重量制限に引っかからないよう係員が誘導しているそこへ、三回発進を見送った後に乗り込む。
ぐぅ、と浮遊感に襲われたと思えばめちゃくちゃなスピードで加速するエレベーター。早い。透明なガラス板の向こうに見える鉄骨は剥き出しな無骨さを主張していた。はたから見ればスマートな星観タワーも、中身はこんななのか、と少しだけ落胆。初めて来たのにこんな状況で、しかも思ったより綺麗じゃなくて。
エレベーターからもみくちゃにされるように降りると、そこにもまた人、人、人! 展望フロアは地上の入口よりもさらに人が多くて目が回りそうになった。これイオリくん大丈夫なのか。絶対悲鳴をあげているかユウキにひっつきっぱなしだろ。こちらを気遣う様子もなく突進してくるおじさんおばさん子ども大人をぎりぎりでかわしつつ、何とか見つけた人の少ないエリアへと退避した。
そこは円形のフロアのうち、この展望台でいちばん人気だろう、塔下を一望できるスポット……とは真逆。湾岸沿いの工業地帯と澱んだ海水のみが臨める、いわば不人気スポットだ。わらわらいる子どもの多くはここを忌避するかのように反対側に集中していて、ちょっと助かった。
「……さて」
ちなみにこの場所、フロア内にそれぞれひとつのエレベーターと階段の出入り口がよく見えるポイントだ。後は簡単。〈人形〉、もしくは魔法同盟組が来るまでここで待機するだけだ。
ユウキの夢では、例の事件がいつの時間帯に起きるのか分からなかったそうだ。だから早めにここに来たのである。
私が『確実に事件に巻き込まれて人質となる』ためには、この待ち伏せが一番だと判断した。もしかするともう〈人形〉はやって来ていて、下準備をあらかた済ませてしまったかもしれないが、それならそれで仕方が無いとする。ユウキの夢がバックノズルというなら、どうあれ撃たれることになるのだから。
……あれから、アキからの連絡は一切無かった。
電話口での様子からして、多分彼女はほかの仲間に私が撃たれることを告げていないだろう。ユウキもまたしかり。自分で電話せずにアキに死刑宣告を任せるくらいだ、もしかするとああ見えて、あまり人の生死に耐性がないのかもしれない。いや、どちらかといえば『身近な人間の生死』に耐性がない、というべきなのかもだけれど。
そんなメンタルの持ち主が、彼らに告げているとは思えないし……もし言っていたら、私が作戦を考えるために潰した土曜日や日曜日に押しかけてきて行かないように言葉諭されていたはずである。優しい人達……お節介な人格のやつばっかりだから。
事実、月曜日にあるというこたびの作戦について、リンカからやって見るつもりはあるかと問う電話があった。命に関わるかもしれない、ということを至極真剣な声音で伝えてくれた彼女に、このままじゃ命が終わるかもなんですけどね、なんて乾いたモノローグを心の中で呟きながら「すみません、足手まといになりたくないので」といつものようにちゃらけて言っておいた。だから、今日彼らの中で私が来るかもしれないという危惧を抱いているのはアキとユウキただ二人である。
二人以外、私が来る可能性を検討することもない。なら、もし全員がその可能性を知っていた場合に比べ、私の負担は格段に減ることになろう。私が全力をかけて騙すべくは全員だが、その場にいる誰もをだが、死力を尽くして騙さなければならないのはたった四人。アキ、ユウキ、〈人形〉、そして……私の魔法を見破ったことがあるトキヒロ。
イオリやシュン、ササが鋭くて厄介そうだと思っていたので大助かりだ。結局のところ、あの二人の仲間思いに救われる形となったわけで。
初めての会話の印象は最悪すぎるアキだが、本件については感謝しておこう。
なんて思いながら、手首の腕時計で時刻を確認。時刻は、十時二十八分。
「おい、ユウキお前大丈夫か」
あまりにも顔色の悪い同僚にそう問いかけると、彼は「おう」と上の空な返事を返してきた。全然大丈夫そうではないその声に、トキヒロは頬を指先でかきながら、
「寝不足なら今日の作戦やめたほうがいいんじゃないか……? ふらっと来て倒れられたら大変だし。今からでも遅くないから、帰ったほうがいいぞ」
「ん……いや、大丈夫だ。問題ねェ。ちっとばかし、頭が痛ェだけだ」
そうは言うものの、今日のユウキは一段と目の隈が濃く、疲労の色が浮き彫りになっていた。明らかに三日くらい徹夜している。見ていれば食欲もあまりないようだし、こころなし足もとも覚束ない気がする。けれどうるせェと言わんばかりにトキヒロを睨むその眼光にだけは異様な力がこもっていて、彼はその剣呑さにちょっと気圧されそうになった。
「……リンカさん、いいんですか? こんなふらふらの連れてきて」
このままでは埒が明かないと判断して、少し後ろを歩いていた支部局長の彼女に問うた。トキヒロのその険しい表情に同意するように、心配そうな面持ちで兄を見詰めつつも、リンカは困ったように小首を傾げる。
「何だかお兄ちゃんが、今回は絶対に参加するって言って聞かなくてさ……。まぁ、何カ月もウチを悩ませていた事案だし、お兄ちゃんにも何度か対応に出てもらったことあるから、気持ちはわからなくも無いんだけど……」
「それだけじゃないじゃん! ほら、ユウキってばシスコンだからさ、リンカをバットで殴らせようとした犯人に怒り心頭なんだよきっと。その前にも危ない目に何度も遭ってるし」
そう付け加えてにやりと緊張感なく笑ったのはシュンだ。いつも通りフードを被った彼は、こういった作戦時のみ腰に巻き付けるヒップバッグのファスナーをいじりながらすいすい人の波を避けていく。器用なことだ、とトキヒロは毎度感心するのだ。中学生の年齢なのに、シュンは基本的に何でもできるのである。さすがは我が支部局有数の古株。
――――現在地、東興星観タワー地上入口。時刻、午後一時二分。
呼び出しのあった時刻は午後三時なので割合早い時刻となるが、色々と下準備もあるのでこれくらいの時刻がジャストタイムと言えそうだった。シュンが犯行予告を見つけてからこっち、作戦を協議しては妥協案を出し、といった具合にそれなりの準備は済ませてきてある。それでも最善を尽くすためには最終打ち合わせや実際に現地へ行ってみての作戦変更なども必要な場合があるのだ。
シュンの言葉に、リンカにひっつくようにしてびくびく肩を震わせていたイオリが弱々しく言い返した。その瞳には、魔法行使中であることを、つまり情報収集中であることを示す不定形の図形が浮かんでいた。トキヒロと同じ、≪干渉系≫の魔法使いの証。
「で、でも……ユウキ、疲れてる、よ……?」
「……うん。無理は良くない。帰りなよ」
イオリの言葉を受けてざっくり言い放ったのは、ハーフフィンガーグローブを嵌めた手を準備運動のように振っていたササである。この後の作戦で、ともすれば一番出番が多くなるかもしれない彼女は、肩を回したり足を揉んだりと動きが一番せわしない。相変わらずパンクロックで目立つ服装ではあるが、本日はいつもは緩くひとつにまとめている髪を細く二つに結わえてあった。それは動きやすさ重視なのと、うっかり自らの魔法で髪を焼いてしまう可能性があるからである。
少し新鮮なその姿だが中身は辛辣なままで、ササは更に言葉を重ねる。
「倒れられたら大変、とか柔らかく言っても無駄。足手まといになりかねないから。何ならシュンとここで待機組になれば」
絶対零度クラスの冷たいその言葉に、鷹揚な仕草で手を口元にあてがい、嫣然と微笑んだのはアキだった。今日もいつもと変わらず着物姿の彼女は若干周囲から浮いて見えたものの、まるで気にした素振りもなく、
「まぁ、ササ、いいじゃありませんの。そう簡単に倒れるほどユウキはヤワではありませんわ。ねぇ、ユウキ、そうでしょう?」
「……うっせ、ったりめェだろ」
「本当ならわたくしも待機しておいてほしいくらいですけれど、本人の意思を尊重してさしあげるべきだと思いますわ。本人もこう言っていますし、良いのではなくて?」
「……何だかんだ言って、アキはユウキに甘い」
不満だ! と言いたいのを必死に堪えたような鋭い視線も、うふふと笑って受け流すアキである。楽しそうにふわりとした笑みを浮かべる彼女はつい一年前に入ってきたばかりの人物だが、その少々特殊な魔法にも関わらずすんなりとメンバーに馴染んだ人格の持ち主だった。一つ年上とは思えない程包容力のある彼女は、常に公正な視点から物申してくれるように見えて、ユウキのときだけは場合が違う。その理由はアキの『恩人』が彼だから、なのだけれども。
アキの視線を受けて肯定したユウキは、どこか居心地が悪いと言いたげに地面に視線を落とした。それを怪訝に思いつつも、トキヒロは特に尋ねはしなかった。無理に聞きだしているような暇が無くなったからだった――――視界の先に、こちらへ歩いてくる三人の人間の姿が見えた。
それにほぼ同時に気付いたらしいリンカが、丁寧に腰を折った。それに、歩いてきた人物のうちの先頭に立っていた痩身で針金細工のごとき男が眉根を下げて、
「ああ、やめてください、〈庇護(ガーディアン)〉。お役に立てるか分かりませんが、今日はよろしくお願いします」
支部19号局局長、桑尾肇(くわおハジメ)。
今回の作戦で、支部19号局から唯一の参加となった魔法名〈突風(ガスティ)〉だ。
相変わらず頬はこけていて、今にも風に吹かれて飛んで行ってしまいそうな風体ではあったが、以前聞き取り調査に出向いたときよりも地に足がついたような様子で内心安心した。いつも通り顔には出なかったが。
その後ろで、ひょこりと敬礼した人物は見覚えが無かった。多分トキヒロと同年代の少女である。缶バッジのついたキャスケット帽のつばの上にサングラスを引っかけ、毛糸で編まれただぼつくセーターを着た彼女は、寝惚けたような様子で名乗りを上げた。
「ちぃーっす。工作班27号局、〈暗視(ナイトヴィジョン)〉っす。今日は任務だって言うんで、シクヨロっすねーん」
背中に細長いケースを背負った彼女は緊張感など知らないらしい軽い声音で挨拶をして、ふにゃりと笑った。その横で、少女とは対照的に黒いスーツの生真面目そうな青年が彼女を一睨みしてから、
「……工作班27号局、〈伝令(データバンク)〉だ。宜しく頼む」
いかにも気が乗らないと言いたげな堅い声音をからかうように〈暗視〉が笑えば、〈伝令〉は更に不機嫌そうに眉間に皺を寄せて舌打ちを一つ漏らすなり、不愉快そうに表情を歪めた。あまり仲は良くないようだ。
今回の任務のメンバーは、紀沙を除いた支部64号局メンバー、19号局より≪突風≫、27号局の〈暗視〉と〈伝令〉。計十二人である。今の今まで入口でくすぶっていたのは、彼等三人の到着待ちだったのだ。
それぞれ魔法名のみの簡単な挨拶を済ませてから、最終打ち合わせに入る。事前に電話で計画は話してあったので確認のみの簡素な作業となったが、リンカがとある言葉を発したところで訂正が入った。
「――――えっと、まずうちの〈従雷(ライトニング)〉と、そちらの〈伝令〉さんがここに待機。〈伝令〉さんが魔法でこちらの合図を受け取ったら、〈従雷〉がセキュリティをシャットアウト、って形ですね。それはオーケイですか?」
「問題ない」
「で、その間に私……〈庇護〉と〈会話(トーク)〉、〈夢測(フォーサイト)〉の側と、〈遮断(シャットアウト)〉と〈色分(カラー)〉の二手に分かれて、今回の目標を捜索。発見次第、〈突風〉と〈暗視〉さん、それから護衛役っていうことで〈蒼炎(フレイム)〉の班を呼び出し、目標確保を狙う。できる限り一般人に負傷者は出さないようにすること、目標も無傷で魔法を封じるべし……という方向で良いですか」
「……いや」
思わぬところで否定の言葉が差しこまれ、しかもその言葉を発したのが〈突風〉であったことにトキヒロは少なからず驚いた。リンカも呆気にとられたように瞬きする。トキヒロの記憶が確かであれば、この計画の主計画は彼本人である。目標、〈人形〉は彼の支部局の人間。無傷での確保という方向性には、64号局も27号局も全面的に同意したことだ。それなのに何を言うのか。
全員の注目が集まったことに気付いているのかいないのか。彼は俯き、まるで独り言のように呟く。
「別に無傷でなくてもいい。要は『動き』を止められればいい……本来、射殺も≪いとうべきではなかろう≫」
「―――――、ひょ、え?」
呆けたように声を上げたのは〈暗視〉だった。だがそれはきっかけでしかない。ざわめいていたはずの星観タワー入口に束の間の静寂が満ちた。
射殺。しゃさつ。シャサツ。
射て殺す。
射て、ころす。
射て、―――――コロス?
「……〈突風〉、あんたどうしたんだ……?」
うすら寒い嫌な予感が背筋を這い回る感覚を気色悪く、また計り知れない恐怖を覚えながら、トキヒロは震える声でやっとそう言った。目の前にいる彼が、何度か会ったことのある彼ではない別人のような気すらして、むしろ別人であることを祈る気持ちでそう言った。
彼は反応しない。
「しゃ、射殺って……〈突風〉、あなた本気なの? そこまで危険な因子……? 〈人形〉を確保して、本部に引き渡して、それですむ話でしょう?」
彼は反応しない。
「……大丈夫、です、か……?」
消え入るようなその声に、彼はようやく反応した。
はっと我に返ったようにひとつ息を呑み、ゆっくりとこちらを見遣る。その顔からは一瞬表情が読みとれず、トキヒロは何故か戦慄した。肌が粟立った――――怖いと思った。
だが、彼は例のやるせない笑みを浮かべた。
「あ、いや、大丈夫です。……ちょっと、まだ気持ちの整理がついていないみたいで。混乱、していました。大丈夫ですから」
何度も何度も、大丈夫ですからと繰り返す彼に、最初こそ全員が全員訝しげな顔をして、イオリなんかは本格的に恐怖する顔色で彼を見つめていたものの、〈伝令〉が時間を告げたところで総員なすべきことを思い出した。まだ心の中に拭えないマイナスな気持ちこそあったが、些細なことだと、トキヒロは言い聞かせることにした。
……言い聞かせる事しかできなかった、とも、言える。
「……何が楽しくて、遠出先の、それも絶好のデートスポットたる東興星観タワーに来て、カワイイあの子と一緒じゃなくてスーツの年上のしかもヤロウと、それも入口で待機してなきゃなんないんだろ」
「何も楽しくないが、作戦だからに決まっている」
ため息交じりに吐き出した愚痴に、間髪いれず、壁にもたれて端末を眺めていたスーツ男こと〈伝令〉は返してきた。人生何も楽しくなさそうな真顔のそいつに、シュンはここぞとばかりにまくし立てる。
「今日は作戦だからって髪型もいつもと違くってめちゃくちゃ可愛いのに! もうあの子天使だよって言いたくなるくらいキュートなのに!? 来る途中で褒めようとしたら『機嫌取ってる暇があるなら作戦の準備すれば』って切り捨てられたけどそんなクールさすらもポイントプラスでクーデレスキルあるのにッ! な・の・に、作戦別行動ってどういうことなのぉぉぉぉぉっ!」
「……少し自身の言動を省みることを推奨する。恐らくはそのおぞましさに悶絶できると推定した」
「はぁっ!? あんたが分かってないんだって! あんた二十歳すぎだろうけど、そんな年から禿げる可能性があるオールバックにしてるような奴がよく言うね! あの子の可愛さは万国共通っ!」
「……即刻作戦終了することを希望する。自分の気力がもたない」
なんとひどい。むっとした表情になれば、そいつは面白がるように口角を上げて「……ふっ」などと鼻で笑う。こいつ電撃喰らわしてやろうかと一瞬物騒なことを考えたが、今いる場所柄を考えてやめておく。静電気くらいなら騒ぎになることなくそいつに流せるが、ここは電波塔。必要最低限、作戦以外の電波干渉を起こしては、この塔から発せられる電波にどんな影響を及ぼすか分からないから、うかつに使うわけにはいかないのだ。
なんで分かんないかなぁ、と不満に思いながら目を細めて頭上を見上げた。鉄塔、太陽降り注ぐ青い空。その空の色はまるで、かつて彼女と初めて出会ったあの夏のようで、シュンは刹那郷愁に見舞われた。だからこそ、今日の彼女がいかに愛らしく貴重で、自分の無念をしゃべる気になったのだ。けれど彼女の事に思いを馳せると、今この瞬間彼女のそばにいられないことがとてつもなく歯がゆく思えて、知らず彼は拳を握り締める。
明らかに罠と分かっているこの事案に飛び込む。それが決まったその時点で、本来彼女には関わって欲しくなかった。前線タイプの彼女はどう考えても危険な位置に立つことになるだろう。そんな彼女を、自分の魔法ゆえに傍で守ることが叶わないのだ。もちろん他の魔法同盟の仲間も大切だけれど、それでも、簡単なことで熱くなりがちな彼女が無茶をしないように願うことしかできないのは男としても仲間としても悔しくて。
加えて、シュンが気にかかっていたのは幼馴染たち、〈三人衆〉だった。
彼の知る幼馴染たちは自分たちとの面会を求めるこんなクーデターで、それも一般人の人質が取られるような事態で前に出てこない程、小心でも愚かでも保守的でも無い。むしろコハルなどは「はぁ? 何フザケてんの? いいじゃん、アタシが直々にぶっ飛ばしてやる」とか言って乗り込んでくるはずだ。
それなのに土曜日の夜、彼等からは非出動の連絡が来た。理由を聞けばはぐらかされた。
当然だが、シュンは彼等幼馴染のことを信頼していた。弟分、妹分であり、兄貴分で姉貴分だ。七年も八年も前からずっとずっと知っていて、途中で彼ら三人とシュンとの取るべき手段は変わってしまったけれど目標は同じで、場所は離れてしまったけれどずっと一緒に成長しているんだと思っていた。
でも――――彼等三人は、確実にシュンに何かを隠している。
きっと今回はぐらかされたのもそういう件が理由なんじゃないかとシュンは推測をつけていたし、多分それは彼等にとって仕方のない事案で、どうしようもないことなんだとは思う。でも、でもだ。
信頼してもらえていないんじゃないか、と、不安に駆られた。
信頼が足りていなくて、あいつらはあいつら三人だけの、シュンの介入する隙間すらない強い絆があって、だから何も話してもらえないんじゃないか。実はシュンだけが省かれていて、もうとっくに目標も離れて成長は別々になってるんじゃないかって。
そう思うと、隠し事をしていることに気付いても追及することができなくて。
情けなくて、泣きそうになる。そんな青空だった。
「……君の意見を求めたい」
と、そう突然〈伝令〉が言い出したことにシュンはしばらく気付かなかった。
え? と振り返ってみると、彼は相変わらずの真顔で端末から視線は逸らしていない。聞き間違えと判断してしまう直前に、もう一度そいつは「君の意見を求めたい」と呟く。
「先程の〈突風〉の様子について。妙だとは思わないか」
「……そりゃ、思うけど。正直、ただの違和感っていうにはあんまりにもおかしかったとは、思うけど」
あの温和な彼が、射殺と言う言葉をそうも簡単に、ああも簡単に言えるものだとは思えない。それに一瞬だが言葉づかいも崩れたのを聞き逃すシュンではない。
「あんな喋り方、あの人がするはずないと思うよ」
「……そうだな。ああ。やはり、妙だ。彼は自分の知る19号局の局長ではないとすら思った。彼は、かつてであれ現であれ、同士と認めた人間を射殺することを是とする人種ではない」
「だよねぇ。……なぁんか、嫌な予感がするんだよねぇ」
同意する。そう言ったそいつは、まだ視線を端末から上げなかった。
エレベーターで展望台に上がってから、三組に分かれた。
びくびくびくびくと背中を震わせているイオリは、今回は遠慮したのだろう、ユウキではなくその妹のリンカにひっついて、人ごみに怯えるようにして歩いている。リンカはそれに困ったように微笑みながらも、警戒を解いた様子はなく注意深く周囲を見渡しながら歩みを進めていた。その後ろを守るようなつもりで歩きながら、妹のそれより遥かに警戒心に満ちた視線であたりを睨み付ける。
一度瞬きをすれば、瞼の裏に鮮明な赤がこびりついて離れない。赤、赤、赤、赤。いつも彼から眠りを奪っていく色。最悪で、大嫌いで、そのくせ何より見慣れてしまったその色。耳の奥にはまだあのときの悲鳴が鳴っている。悲痛な顔のアルバイト後輩の表情がフラッシュバックして、気が狂いそうになって。
射殺、という言葉はユウキ個人、そしてリンカにも因縁のない言葉ではない。彼らの両親は犯罪者の凶弾に倒れた刑事である。あんな手のひらほどの大きさしかない現実味の薄いアイテムが、あっさり簡単に数秒間で人の命を奪えることを、彼と妹はよく知っていた。だからこそ、もう知り合いがそれによって倒れる場面を見たくなかったし、何より妹やこの幼い小学生、どいつもこいつも年下のガキどもに見せたくなかった。
〈突風〉の言葉を思い出した。様子がおかしいとかそういう事柄はすっぽり抜けてインプットされたその台詞に、ああやっぱりと落胆することしかできない自分を思い出す。
見てしまったからには。
起こってしまう、のだろうけれども。
「お兄ちゃん? 大丈夫、顔色悪いよ?」
「……問題ねェ」
短く返せば、そっか、と言って彼女は前を向いた。手を引いて歩くイオリに、「じゃあ作戦終わったらお夕飯は何か食べていこうね!」なんて明るくはにかんで、イオリはうん、と頷く。
様子がおかしい事にこの二人が気付かないはずもない。それなのにあえて聞かずにいてくれるその優しさが、身に沁みた。
だが、拭えない罪悪感が脳裏を掠める。
いっそのこと、あの日無理矢理にユウキから夢の内容を聞き出したアキのようにしてくれればいいのに。
優しいから、リンカたちはそうしてくれないんだろう。
「ほら、行くよーお兄ちゃん! 置いていっちゃうよー!?」
「ひっ、人多いからっ……はぐれ、たら、た、たたた大変……!!」
悪ィな、リンカ、イオリ。
オレは本当、最悪だよ。
視界にあの新人の姿がないことに安堵しつつ、人ごみを掻きわけて、随分先にいた妹たちを追う。
途中で白と赤の縞柄のパーカーを被った小娘の横を通り過ぎたとき、特に前触れも無くユウキは思った。
――――せめて気休めであろうとも、良かった。
新人、期橋紀沙が、今回の任務に参加するのを『自ら渋ってくれて』。
「……何なのでしょう」
「何が」
「先程の〈突風〉ですわ」
言うなり、アキは長い黒髪をさらりと払ってトキヒロの眼をしっかりと見据えた。色眼鏡に隠れてその双眸の色は伺い知ることが出来ないが、彼女の金色の瞳はどうにも苦手だ。色が苦手と言うより、瞳が宿す目力が。
リンカたちとは反対側の人気スポット側の探索に当てられたトキヒロは、辺りを観察する目を少し細めて、斜め前を歩いていた彼女を見返した。
「おかしい。妙。そうとしか言えませんけれど、絶対に彼、いつも通りではありませんわよ」
「そりゃ、昔の同僚をとっ捕まえる現場にいるんだから、普通じゃなくて当然だろ」
「違いますわ。まるで別人のようだったと、そう言っているのです」
無論分からないわけではない。だがトキヒロはあえて返事をしなかった。その言葉を肯定してはいけないような気がして、未だに粟立つ腕に喝を入れるがごとくチョップを一発落とす。
じんと痛みが広がるが、その痛みはかなり鈍い物で数秒もすれば消えてしまうようなもの。特に意味もない一発。
何も言わずに黙って目標を捜していれば、彼女は更に話を振ってきた。
「期橋さん、来なくて正解でしたわね。きなくさくなって参りましたもの」
「……そうだな。二回目の作戦がこれは、それなりに厳しいだろ」
正直、来なくてよかったとトキヒロは思っていた。
〈三人衆〉によるテストにたまたま出くわして、座り込む彼女を見つけて腕をとって。彼を見上げてきたその表情が忘れられない。壊れそうで脆い静かな泣き顔はまるでかつての自分のようで、亡くしてしまった相棒のようで、多分一生忘れられない。
あんな顔を、二度としてほしくないと思った。
理由なんて分からないし分かるつもりもないが、その気持ちだけで十分だとトキヒロは思う。また一つ守りたいものが増えてしまったけれど、今更一つも二つも変わらない。
「……これで、はずれてくれれば良いのですけれど」
「あ? 何か言ったか?」
「いえ、別に。それでは参りましょう」
大人びた微笑を浮かべたアキに疑問符を浮かべつつ、前を女性に任せるのはいかがなものかと思い至って歩みを進めようとしたところで、かなり勢い良く誰かの肩にぶつかった。途端人の波に流されてしまいそうになる身体をぐっと堪えて、「すみません」と謝罪の言葉を口にして相手をちらりと盗み見る。
数歳年上くらいの学ランスタイルの少年だった。ぼさぼさの黒髪に不機嫌そうで人を小馬鹿にしたような目の少年と一瞬目が合い、すぐに相手が逸らす。誰かを捜しているのかきょろきょろと落ち着かない仕草を繰り返す彼がやたらと印象に残ったが、今はそれどころではないと心を切り替えるようにして和服を追う。
……もちろん彼は知るはずもない。
紀沙がここに来なかったのはアキが彼女に死の預言を授けたからで、それは夢を見たユウキ本人すら預かり知らぬ、和服趣味の彼女の完全なる独断であることなど知らないのだ。
そして、学ラン少年の正体も。
「まぁさー、あたいは仕事だから、やれといわれたらやるんだけどさぁー」
間の抜けた声で突然そうのたまった〈暗視〉に、ササは何、と至極冷たい反応を返した。ぶつぶつ考え事を呟きながら隣を歩く〈突風〉はまるで話を聞いていないらしいし周囲も見ていないようで、話しかけてきた彼女も注意深いとは言い難い。代わりに目標を捜しているというのに何なの邪魔するな、という意味も込めて威圧の視線を送ると、ササより身長の低い彼女はオーバーに肩をすくめる。
「ん、多分ね、フレちゃんも一緒だと思うっすよん。仕事、仕事、お仕事」
「……回りくどい。何」
「だからねー。もしガスさーが、ドルドルを撃ち殺せって言うなら、あたいはこの相方を引っ張り出すだけだって言ったんっすなぁ。あたい、27号局の〈狙撃手〉でもあるから。仕事は何あれ、やるっすや」
ぽんぽん、と背中に背負った黒革のケースを叩いて、さらりと彼女は何でもないことのように言う。他のメンバーならいざ知らず、その言葉を言われたのはササだ。そう、と適当な相槌を打つ。だから何。どうでも良いことなんだけど。
だが彼女はこちらの都合など知ったことではないと言いたげに、一人で勝手に話し始めた。
「……あたいねー、ドルドルとはそれなりに仲の良いトモダチだったんだよっすね。だけどあたいはお仕事優先だから、今回の司令塔のガスさーがもし撃てと命令するなら撃つっすの」
「……」
「でもね、フレちゃん。フレちゃんは、〈道具〉に成り下がっちゃダメっすよん?」
人を殺すだけの存在に、殺人鬼に、殺人の道具に成り下がっちゃ、駄目。
念を押すように繰り返されたその言葉に少し驚いて、ササは隣の少女を見た。どこまでも軽薄なその言葉はそぐわないほど重い響きを持っていて、説得力があって。
確かこの人は、とササは頭の中で情報を捜す。ああ、そうだ、27号局の狙撃手といえば、『ササと似たような経歴』の――――。
「言いたかったのはそれだけっすやね。さ、お仕事に戻るお時間っすなり。はやーいとこ仕事を終わらせちゃいましょっすら」
ふんわり微笑んだ彼女の笑顔に、言い知れない迫力と圧力を感じて、ササはこくりと頷いた。
「……来た」
思わず小声で呟いてしまった。慌てて口を噤む。待機すること三時間、長かった。待ちくたびれてしまった。ようやく、来た。
今のところ誰も、彼女に気付いた様子は無い。一度ユウキが真横をすり抜けていったときは内心どきりとしたものだが気付かれなかった様子である。自分の魔法はきちんと効力を発揮できている、大丈夫、大丈夫。私は心の中でまるで念仏のようにそう唱え、フロアを見渡した。
――――さぁ、生き残るために、ふざけて馬鹿げた茶番を始めよう。
それぞれの思いを胸に、すべては始まろうとしていた。




