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ある師弟のオンライン

作者: 猫凹

「師匠、見損ないました」


 若く美しい女剣士コウの決定的な一言が、眼帯に白鬚の老剣士オッサムに向かって放たれる。


 その言葉は、乙美の胸にぐさりと突き刺さった。何かを言い返さねばと、キーボードの上をさまよう指。しかし、返すべき言葉は無かった。なぜなら。

 私らしくない。そう。そんなことは、言われなくても分かっている。分かっていたのだから。


 睨み合いの数瞬。コウの真っ直ぐな視線に耐えられなくなり、乙美はオッサムをギルドホールのカウンターから立ち上がらせると、無言のまま、ギルドホールを後にした。


   *


 甲山甲一が、ネットゲーム『モンスターパンツァー』通称『モンパン』で師匠と出会ったのは、数週間前のことである。


 成績は優秀だが、おとなしい性格で、親しい友人のいない中学二年生。クラスで流行っているモンパンをプレイすれば、友人ができるかもしれない、そんな安直な考えだった。

 凶暴な竜を討伐する部隊「パンツァー」の一員となり、数人で協力してドラゴンを狩るアクションゲーム。月額課金無料のゲーム本体をダウンロードして、自分のパソコンでプレイを始めるた。友人に少しでも受けようと、名前は「コウ」という中性的なものにして、キャラクター自体はお姫様のような可愛い女の子にする。女性キャラクター専用の装備が多いモンパンでは、男のプレイヤーが女キャラクターを使うことは別に珍しくもない。そうして軽い気持ちで始めたゲームは、思った以上に操作性が複雑で、甲一はおおいに苦戦することになった。


 それを、モンパンをプレイしている級友に相談すると


「チート使えよ」


 こともなげに、そう言われた。

 アクションゲームでありながら、中高生たちの間ではもっぱらコミュニケーションの場として利用されているモンパンでは、アクション部分は可能な限り楽にプレイして、華やかな装備を着せ替えゲームのように身につけるというプレイスタイルが主流になっていた。そこで横行しているのが、「チート」と呼ばれる行為である。

 市販の改造ツールやバグを利用して、本来のキャラクター性能以上の攻撃力や防御力を身につけ、強大なドラゴンをも数度の攻撃であっさり倒してしまえる、裏技。正式には規約違反であり、不正行為であるが、ゲーム中にあまりに広まってしまっているため、運営による取締りは有名無実と化している。むしろ、プレイ人数さえ増えればアイテム課金などの収入が増えるという判断もあり、運営が黙認しているフシもあった。結果、ほとんどのプレイヤーが、チートを使ってゲームをプレイしていた。


 たとえゲームでも、できれば正々堂々とプレイしたい。そのように考え、甲一は友人のアドバイスを断った。しかしそう考えていられたのも、最初の数日。

 あまりに強力なボスモンスターに連戦連敗を繰り返し、素材も報酬も得られないままに、時間ばかり過ぎていく。当然、装備を強化することも出来ず、級友たちと同レベルのクエストに参加することもできない。友人を増やしたいという当初の目的が叶えるには、自分も周りと同じようにチートを使うべきなのか、そう思い始めていた。


 甲一がオッサムと出会ったのは、そんな時だった。


 万が一にも誘ってくれる者がいるかもしれない、そんな淡い期待を抱きながら「某県南部のプレイヤー集合!」と表示されたタウンを選び、ギルドホールのバーに自分のキャラクター「コウ」を座らせ、やけ酒を飲むアクションをさせていた時のこと。カウンターの隣の席に、その初老の男が座った。右目に眼帯をした、白い口鬚の男。頭上には「オッサム」とキャラクターが表示されている。装備は地味目で、店売りの装備に毛が生えた程度のものだ。てっきり、初心者仲間かと思い込み、甲一はその男に気軽に声を掛けた。


「こんにちは。狩りの首尾はどうですか?」

「……ぼちぼちだ、な」

「そうですか。私は全然ダメで。もう、チートに手を出しちゃおうか、なんて思ってたり。あはは」


 甲一がコウに喋らせたその言葉に、老剣士がぴくりと反応する。そして、吐き捨てるように言った。


「チートなんぞは、クズのすることだ……」


 オッサムに連れられ、二人揃って初期装備のまま挑んだ竜討伐クエスト。ほぼ見学状態のコウを尻目に、オッサムは、一人でドラゴンを倒してみせた。防ぐ、避ける、斬りかかる。その流れるような動きには一切の隙がなく、体力ゲージもほとんど満タンのままだ。かっこいい、素直にそう思った。


「師匠と呼ばせてください!」


 気がつけば、そう打ち込んでいた。


「弟子はとらないことにしているのだが……」


 言い渋るオッサムを相手に、土下座する、にじり寄る、縋りつく、等の感情表現アクションを女剣士コウに駆使させ、拝み倒す。


「……勝手にしろ」


 苦々しげな言葉とともに差し出されるフレンド登録のメッセージ。それが消えてしまわないうちにと、甲一は慌てて「OK」ボタンをクリックした。


   *


 乙川乙美がモンパンを始めたのは、昨年、小学校五年生の時である。


 大学に進学した兄が置いていったパソコンに入っていたネットゲーム。自分の名前と「おっさん」をもじって「オッサム」というむさいオヤジキャラクターを造った。女キャラクターにしなかったのは、あまりにスタイルのいい女キャラクターの体型に、なんとなく引け目を感じてしまったためである。


 両親は共働きで、家では勉強しろと口うるさく言う者もいない。四年生まで一緒に遊んでいた友人たちは皆塾に通うようになり、放課後に遊ぶ相手もいない。その一人持て余していた時間を、モンパンに費やした。

 乙美は、モンパンではもっぱら一人でプレイをしていた。他のプレイヤーに声を掛けるのは怖かったし、それ以上に、皆がやっている「チート」を使ったプレイに疑問を感じていたからである。子供心に、みんながやっているから自分もというのはおかしい、という漠然とした思いがあった。


 複数のプレイヤーによるプレイを基準にバランス調整されたゲーム。それを一年も通して一人でプレイしていれば、自然に腕も上達する。六年生になった頃には、乙美は一流のパンツァーとなっていた。

 しかし、そういう真面目なプレイスタイルで得られる装備は、チートプレイにより得られる装備には遠く及ばないものであった。自然と周りのプレイヤーとの間に装備上の格差ができる。上位のレベルのクエストは、それ以上のチート装備で臨むのが常識とされている現状のモンパンでは、標準以下の装備で頑張る乙美にパーティーへの誘いなどがかかるはずもない。

 腕では負けていない、と思ってはいても、そこを無理にパーティーに入れてもらうことはできないし、乙美としても、チート装備で固めたような連中と一緒にプレイしたいなどとは思わなかった。結局、リアルでひとりぼっちの乙美は、モンパンの中でもひとりぼっちのオッサムだった。


 乙美がコウと出会ったのは、そんな時だった。


 ギルドホールの酒場で声を掛けてきた、初期装備の女剣士キャラクター。その初々しい様子に親しみを覚える。酒場のカウンターの隣に座り、愚痴をこぼし始めたその口から


「チートに手を出しちゃおうかな」


 そんな言葉が出たのに反応し、つい、チートなんてクズだ、などと発言してしまっていた。


 腕前の程を確かめるべくクエストに誘ってみれば、案の定コウは初心者で、ドラゴンの突進に防御や回避もままならず、為す術もなく弾き飛ばされ、翻弄されている。とりあえずしっかりガードしておけ、とゲーム内チャットで伝えておいて、自分がドラゴンの相手をする。

 装備はコウに合わせた初期装備で来ていたが、初心者の登竜門的な、それほど強くはないドラゴンを討伐するクエスト。モンスターの動きもしっかり頭に入っている。さして苦戦することもなく、隙を見ては斬りかかり、退き、また斬りかかる。尻尾を切断し、爪を破壊し、危なげ無くトドメを刺すと、それを見ていたコウが、チャットで叫んだ。


「師匠と呼ばせてください!」


 その時から、二人の師弟関係が始まった。


   *


 師匠オッサムの技巧はすさまじかった。そしてその修業は厳しかった。毎日決まった時刻にギルドホールの決まった場所で落ちあうと、すぐさまクエストに出発する。最低限の防具も付けさせてもらえず、丸裸のままドラゴンに挑まされる。


「無闇に突っ込むな! 動きをよく観察しろ! 予備動作を見切れ!」


 オッサム自身、ドラゴンの攻撃を受けながら、それをこともなげに受け流し、その合間にチャットで指示を飛ばしてくる。一体どのようにプレイしているのだろう、操っているプレイヤーには手が三本あるのではないかと感嘆するばかり。両手でぎこちなくコントローラーを握り締める甲一には、とてもキーボードに手を伸ばす余裕など無い。


「フラッシュを使え! フェイントにひっかかるな! 緊急回避!」


 一人でプレイしている時には思いもつかなかったアドバイスが、矢継ぎ早に飛んでくる。甲一は必死になってコウを操り、走らせ、剣を振らせた。防御や回避が追いつかず、何度もドラゴンの攻撃を食らってしまう。体力ゲージが、あっという間に削られていく。


「まだ諦めるな! 諦めたらそこでクエスト終了だ!」


 画面の隅を流れる言葉を目に、必死で歯を食いしばる。師匠のように、カッコ良くなりたい。格好良くありたい。

 師匠と共に挑むようになって、これで何度目のクエストだろうか。回復薬も底をつき、毒に犯され、体力ゲージはほぼ真っ赤。


「今だ! 弱点を狙え!」


 コウが繰り出した渾身の一振りが、ドラゴンの首を撥ね飛ばした。


   *


「師匠のおかげです」


 今日は奢らせてくださいと請われ、並んで腰をかけるギルドホールのカウンター。コウが発した感謝の言葉に、思わず乙美の顔がにやけるが、画面の中のオッサムはきりりとした無表情のままだ。頬の筋肉を引き締め、その凛々しい顔にふさわしい台詞を、キーボードで打ち込む。


「何を言ってる。まだ序の口だ」

「はい、まだまだです。これからも色々教えて下さい!」


 素直に返事をしてくる、礼儀正しい女剣士。このキャラクターの向こうにいる、言葉遣いの綺麗なこの人物は、リアルではどんななんだろう、などと乙美は思う。しかし、ネットゲームの中では、プレイヤーのリアルな事柄については進んで話題にしないのが礼儀である。だから、乙美自身も、コウを操るプレイヤーのことが気になりつつ、自分でもリアルに関することを口にしたことはなかった。


 そう、その時までは。いつも以上に師匠師匠と持ちあげられて、つい、油断したのだ。


「今日はもう無理だな。明日テストがあるから」

「テスト?」

「分数の割り算なんだけどな。これがさっぱりで」

「分数?」


――しまった。


 そう思ったのは、キーボードの決定キーを叩き、チャットを送信してしまった後だった。


「師匠って……小学生?」


 チャットウィンドウに現れたコウの言葉に、心臓が止まる。全てがぶち壊し、そう思い、目の前が真っ暗になった。


  *


 予想外のオッサムの言葉に、甲一は驚き呆れていた。

 分数の掛け算割り算と言うと、小学校5年生か、6年生くらいだっただろうか。オッサムの渋い外見と、大人びた口調、落ち着いた正確なゲームプレイの腕前に、甲一は、師匠を操る人物のことを、自分より年上の男だと思い込んでいたのである。


「まあ……な」


 画面の中では、カウンターに腰を掛けた老剣士が、ごまかすようにグラスを口にしていた。どこまでもワイルドでダンディなその姿が「分数」という言葉とはあまりにかけ離れていて、思わず噴きだしてしまう。どんな小学生が、と思うその笑いを噛み殺し、相手にだけバツの悪い思いをさせておくのは申し訳なく思って、甲一は聞かれる前に打ち込んだ。


「恐れ入りました。自分は中二です」

「……そうか」

「そんなに離れてないですよね。年齢なんか関係ない。師匠は師匠です」


 正直な気持ちだった。

 チートに走ろうと考えていた自分を諌め、フレンドになってくれたばかりか、根気強く、何度もクエストに付き合ってくれ、アドバイスをしてくれた。自分にはとても有意義だったが、師匠にとってはろくに実りのない、じれったい時間だったに違いない。その厳しい指導は手加減が無く、クエストでヘマをするたびに、厳しい叱咤の言葉が飛んだ。それに腹を立て、なにくそと悔しく思いつつ、コウを立ち上がらせ、ドラゴンに立ち向かって行った、これまでの日々。

 教えを受ける相手として、選択に間違いは無かった。軽い気持ちで始めたネットゲームで出会った師匠。いつしか甲一は、オッサムの背中を、人生そのものの師のものとして仰いでいた。年下でも、小学生でも関係ない。師匠は師匠。その言葉に、てらいはなかった。


 しかし。


 続いて師が口にした言葉は、そんな甲一の思いを裏切るものだった。


   *


「師匠は師匠です」


 乙美は、そのコウの言葉に舞い上がっていた。


 自分のうっかりが原因で、小学生と知られてしまった。しかも相手は中学二年生だという。

 子どもにとって、三年の歳の差はとても大きい。そしてそれ以上に、小学校と中学校という身分の間にある隔たりは、断崖絶壁にも等しい。それが乙美の前に厳然として立ちはだかる。乙美からすれば、コウは既に大人なのだ。

 モンパンのプレイヤー層は、もっぱら中高生である。ついで多いのが大学生、社会人プレイヤー。小学生など、ほとんどいない。それは乙美も、なんとなく知っていた。腕前なら、文句は言わせない、そう言い切るだけの自身はあったが、ランドセルと学生服という決定的な違いの前には、プレイの上手下手など何の意味も持たない。大人のコウが、子供の自分を師匠と呼び慕ってくれることは金輪際無いだろう、そう思い込んだ。


 その矢先の、コウの言葉。年齢でなく、自分という人間を認めてもらえた。そんな喜びが、つい、相手におもねるような言葉を言わせたのだった。


「そうか……。よし、テストなんて忘れよう! これからクエストに行くぞ!」

「えっ?」

「いや、分数とかいくらやっても理解出来ないし。隣の奴に見せてもらうからいいんだ」


 乙美が算数の授業についていけなくなったのは、分数の計算がきっかけだった。

 先生が黒板に書く図の意味が、まったく分からない。つうぶん? やくぶん? 周りの子達が苦もなく理解しているようなのに、自分の感覚とのズレが埋められない。放課後に何度も先生に聞き返しているうちに、なんとなく、先生がうんざりしているのが分かってしまい、理解出来ないままに、質問をするのをやめてしまった。

 塾に行っている友人たちは、学校の授業よりもだいぶ進んだ部分を勉強している。去年までは同じくらいの成績だった子たちに、テストの度に点数が引き離されていく。そんな状況に、焦りと、言いようのない寂しさを感じていた。学校で親しげに会話をしながら、相手の表情の裏に、塾に通っていない子、落ちこぼれ、という感情が透けて見える。そんな気がして、自分から相手を避けるようになっていた。いつの間にか、ひとりぼっちになっていた。


 だから、モンパンに一層のめり込んだ。そしてそこで、コウに出会った。無条件に自分の価値を認めてくれ、自分の言葉を受け止めてくれる弟子が、いつの間にか心の支えになっていたことに、乙美は自分自身では気付いていなかった。


 そして、その愛弟子が口にした言葉が、乙美の胸を貫く。


「見せてもらうって……それ、カンニングじゃないですか」


 カンニング。

 自分では一度として意識したことがなかったその言葉の犯罪的な響きに、心臓がきゅっとなる。その思いを打ち消したくて、何も考えず、慌てて言い訳をする。いや、言い訳じゃない、ちょっとした……ちょっとした説明だ。


「えっ……いや、そんな大げさなもんじゃないから」

「そんなの、師匠らしくないですよ!」


 私らしくない? 私のことなんて、小学生だっていうことも、今まで知らなかったくせに。

 自分のことを無条件で崇拝している、そう思っていた弟子のあからさまな非難の言葉に、思わずカッとなって、キーボードを叩いていた。


「リアルのことに口を出すなっ!」

「出しますよ。インチキはクズのすることだって。師匠が教えてくれたんじゃないですか」

「ゲームとリアルは違うんだよ。分数なんて、分からなくてもいいんだ」

「よくない! 諦めたら終わりって言ったのは師匠でしょ!?」

「お前に何が分かるっ!」

「分かりますよ! たった一人の弟子ですよ!?」

「その弟子の分際で説教とか生意気だっ!」


 老練な剣士の仮面は、いつの間にか、剥がれ落ちていた。そして


「師匠……見損ないました」


 チャットウィンドウに表れた、決定的な一言。


 今まで積み上げてきた尊敬が、信頼が、音を立てて崩れていくのを感じる。


 分かっていた。そんなことは、言われなくても分かっていた。けど、それから目を背けていた。授業についていけなくなり、級友たちから置いてきぼりにされ、その現実から目を背けて、モンパンに逃げ込んでいた。そこで師匠と呼んでくれる者がいるから、耐えてこられた。

 その人にだけは言われたくなかった言葉が、乙美の心を引き裂く。


 オッサムを立ち上がらせ、無言でギルドホールを立ち去らせた。素っ気ないログアウト画面が、涙に歪む。乱暴にパソコンの電源を落とすと、そのままベッドに身を投げ出し、枕に顔を押し付ける。

 両親が帰ってくるにはまだ数時間。ひとりぼっちの家に、少女の嗚咽が響いた。


   *


 女剣士コウ一人が取り残されたギルドホール。その画面を前に、甲一は頭を抱えていた。


 言い過ぎた。


 その思いが、激しく甲一の心を苛む。間違ったことは言っていない。しかし、これまでに師匠から受けた恩を忘れ、無遠慮に、ずけずけと、リアルでのことを責め立ててしまった。友だち欲しさにモンパンを始め、チートに手を出そうかなどと軟弱なことを考えていた自分のことを棚に上げて。


 リアルの事情など知らずとも、師匠が、意味もなく努力を怠るような人間ではないことは、これまでクエストを共にしてきた自分が、誰よりもよく知っているはずだった。その師匠が弱音を吐くとは、よほどのことだろうに。その内心を慮ることが出来ず、支えてやることも出来ず、一方的に依存だけしておいて非難するなど、何が弟子だろうか。忸怩たる思いに歯噛みする。


 分数の計算。そこでつまずいたまま、いい加減にしておけば、以後の算数、中学に上がってからの数学で、ひどく苦労するはめになる。成績に苦しむ級友たちの姿を見ていて、甲一にはそのことがよく分かっていた。

 オッサム。その老剣士の向こうにいる、おそらくオサムという名前の、小学生の少年。そのひたむきで誠実な人柄に、思いを馳せる。自分を導いてくれた師匠に報いるには、どうすればいいか。


 頭を抱えていた両手をおろし、ゆっくりと顔を上げる。涙に滲んだ画面に向かってキーボードを叩くと、本棚から小学校時代の教科書を取り出し、分数のページを開いた。


   *


 結局、昨晩はあのまま寝入ってしまい、分数のテストは、案の定、散々な出来だった。


 その日は残りの授業でも、乙美はずっと机から顔を上げることができなかった。放課後になるやいなや、級友たちの楽しそうな声から逃げるように、教室を飛び出す。これ以上はないくらいに気落ちしつつ、とぼとぼと帰宅した。

 机に座ると、いつもの習慣で無意識にパソコンの電源を入れる。そこで昨晩のことを思い出してしまった。

 モンパンのアイコンがクリックできない。そこには、もうコウはいないのではないか。もう二度と愛弟子に会うことができなかったら、このゲームを続ける意味などあるのか。


 臆病な思いに、何度も挫けそうになりながら、最後は半泣きで、モンパンを起動した。


『いつもの時間、いつもの場所で』


 乙美の目に飛び込んできたのは、そんなメッセージだった。


 ギルドホールの酒場に足を踏み入れる、既にコウがカウンターで、ほとんど指定席になっている椅子に座っているのが見えた。昨日までと何ら変わらないその光景に胸を撫で下ろしつつ、やはり不安は尽きぬまま。いつもならその隣に座るところを、やや気後れを感じて、一つ開けた席にオッサムを座らせる。


 気付いたコウが、挨拶もそこそこに、切り出してきた。


「今日は、農場に行って見ませんか?」


 モンパンにおける「農場」とは、オフラインモードの拠点である「村」に付随した設備である。

 薬草を採取できる畑や、鉱石を採掘できる鉱山などがこじんまりとあつまった設備であり、クエストを進めることで、畑や採掘ポイントなどの設備を拡張することもできる。モンパンシリーズで代々受け継がれている、サブゲーム的な要素だ。

 とは言え、農場は、あくまでオフラインでの利用を前提とした部分である。プレイヤー同士が集い、クエストで遊ぶ時間が最優先にされるオンラインモードでは、利用されることはあまり無い。オッサムとコウは、ほとんど手付かずの状態にあるそこを訪れていた。

 そこでコウが、乙美の使っている算数の教科書の出版社をチャットで聞いてくる。乙美がランドセルから教科書を取り出し、表紙を確認してそれに答えると、コウは、自分が小学校のときに使っていたものと同じ会社のものであると返してきた。さらにコウが続ける。


「三年くらいじゃ、内容はそんなに変わっていないと思います」

「……」

「分数、どの辺りから分からなくなったか、教えてください」


 昨日に引き続き、リアルでの悩み事を話題にされて正直嫌な思いをしながら、乙美はページ数と、単元の内容、問題の内容を伝えた。チャットは数式を送るには向いていないので、なかなかに面倒だった。苦労してそれを伝えると、コウが尋ねてくる。


「ところで師匠、この農場には畑があります」

「?」

「肥料は3つのウネのうち一つだけ最大に使って、全部のウネに薬草を植えるとして……薬草は何本収穫できます?」


 何が言いたいのか。今や師匠の威信は地に堕ちたとはいえ、ことモンパンに関しては、弟子に教えられるほど落ちぶれてはいない。乙美はリアルで鼻を鳴らしつつ、即座に数字を返した。


「正解!」


 パソコンの画面の中で、コウが感情表現アクション「拍手」をしている。それがどうしたと訝しく思い、そして。


――あっ!


 小さな驚きが、乙美の心を打った。


「七時まで農場やったら、クエに連れていってください。師匠」


 驚きが、じわじわと理解へと氷解していく。チャットウィンドウに現れたコウの言葉が、くしゃりと歪んだ。それを振り払うように、ぶんぶんと首を縦に振る。それが見えるはずもないのに、コウがぴったりのタイミングで頷き返してくる。


「じゃあ師匠、次は三箇所ある採掘ポイントで……」


   *


 四月。


 甲一は、中学三年生。ようやくチート抜きのプレイを楽しめる友人を見つけ、ゲーム同好会の一員として、有意義なプレイを楽しんでいる。今日は入学式。新歓行事で、新たな同士を見つけなければ。。

 もっとも、今年は受験の年。両親からは、モンパンは夏休みまで、と釘を刺されていた。モンパンにはまりつつ、勉強をおろそかにしないようにと頑張って、なんとか引き出した譲歩だ。御の字とすべきだろう。


 乙美は、その入学式の列に並びながら、考えていた。塾に通う友人たちに引けを取らない成績で小学校を卒業し、晴れて中学生。この学校には、ゲーム同好会というサークルがあるらしい。中学生になりたてで、そんな会に入ろうとしたら、両親は嫌な顔をするかもしれない。でも、ゲームがマイナスばかりでないことは、乙美自身が既に証明していた。文句は言わせないつもりだ。


 師弟はそれぞれに、互いの新生活を相手にどのように伝えようかと、楽しい考えを巡らすのだった。


 実際、小中学生でゲームと勉強の両立は難しいと思いますが……夢物語です。


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― 新着の感想 ―
[一言] 凄く良かったですw良い話だと思いました。 こういう綺麗にハッピーエンドで終わる話は好きですw
[良い点] オンラインゲームという素材が楽しいです。 二人の視点の切り替えの流れが自然だと感じました。 プレイヤーキャラの言動を挟んでいるのが効いているのでしょうね。 こういう表現方法、好きなんですが…
[一言] ゲームハマるよな 僕は、両立無理だなー オンラインだと近場の人間には、何故か会わないだよな システムでそうしてるのか?と思う程 師弟関係も逆性別も逆 この二人の先を見てみたいかも 楽しかった…
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