月曜日の女性客
恵子は、今日も売り場に立っていた。ここは大阪の老舗デパートの、子供服売り場。私鉄ターミナル駅の階上にあるこのデパートは、創業は江戸時代の呉服商にまで遡る。戦後になって全国各地に支店を出し、今やその名前とお店の包装紙を知らない人はいないというほどの、名門デパートにのしあがった。
恵子がこのデパートに就職したのは、三年前の春だった。大学を卒業してかねてから希望していた総合職として、デパートの本社に勤務したのが最初だった。一年目は研修の名目で、身だしなみや言葉遣いなどの接遇について、先輩社員たちからみっちり叩き込まれた。その後、外商部やマーケティング部、経理部や施設管理部などを数か月単位で経験し、デパートの真髄を学んだ。
そしてようやく二年目から、一戦力として各部署に配属されることになった。恵子は希望していたこともあり、販売部に配属された。販売部と言っても、さまざまな部門から成り立っていたが、学生のときに保育士の資格を取っていたこともあり、子供服売り場を担当することになったのは、ある意味で当然の成り行きだった。
恵子が担当する売り場には、二十名ほどの販売員がいた。そのほとんどがメーカーからの出向で、売り場全体を取り仕切るのが、係長の純一だった。
純一も恵子と同じく新卒でデパートに就職したが、入社した当初から頭角を現し、五年目には主任に昇進した。その間、職場恋愛を通してゴールインを果たし、現在は高校生と中学生の父親として、仕事も家庭も両立させている。恵子にとっては、まさに理想的な上司であった。
子供服売り場は、デパートの上層階に位置しているので、来店者数こそ少なかったが、目的を持って来店する客が多かった。そのため恵子たち販売員は、客の相談に乗るために、比較的早い段階から客に声をかけることにしていた。客との距離が近くなる分、ちょっとしたことがトラブルにつながることも多く、他の売り場以上に、丁寧な接客が求められる売り場でもあった。
ある日のことだった。恵子が売り場の陳列を正していたとき、女の子を連れた女性が現れた。ひと目で、孫とおばあちゃんという関係だとわかった。女の子は、まだ年中児ぐらいだろうか。陳列されているトレーナーを指さして、「ばあば、あの服が欲しい」とせがんだ。テレビで人気のキャラクターが、正面にプリントされたトレーナーだった。恵子は、ぜひ試着してみることをすすめた。実際に家に帰ってから着てみて、サイズ違いや着心地の悪さで、客が気落ちするのを防ぐためだった。
「ばあば、どう、かわいい?」
試着室のカーテンを開けて、まるでモデルになった気分で女の子が話した。トレーナーは、女の子の身体にぴったりだった。
「お孫さんに、よくお似合いですよ」
恵子は、女性に声をかける。
「じゃあ、まこちゃん、プレゼントはこれにしようかしら」
「やったぁ。ばあば、ありがとう。まこ、ばあば、だ~いすき」
女性は、女の子が喜ぶ姿を見て上機嫌だった。サイズの割に少々値の張るトレーナーだったが、可愛い孫のためだと女性は購入を決めた。
女性は、恵子に、
「実はこれ、孫の誕生日プレゼントなの。可愛らしく包んでもらえるかしら」
と、依頼した。
このような依頼はよくあることだった。恵子はカウンターの奥に行って、奥で作業をする担当者にラッピングをお願いした。
しばらくして、ラッピングが仕上がった。恵子は、その場にしゃがんで女の子と視線を合わせると、
「まこちゃん、お誕生日、おめでとう」
と言って、紙袋を手わたした。女の子は、
「お姉ちゃん、ありがとう」
と恥ずかしそうに答えて、にっこり笑った。
それから恵子は、おばあちゃんと手をつないで売り場をあとにする、女の子の姿を見送っていた。この仕事に就いて本当によかったと、心の底から思える瞬間だった。
そんな心弾む時間は、長くは続かなかった。しばらくして、売り場に一本の電話がかかってきた。相手は今日、女の子と一緒に来店したあの女性だった。
たまたま電話に恵子が出たので、恵子は女性の声を聞いた瞬間に、あのときの光景が脳裏に蘇った。
電話で、女性は怒っていた。声を荒げていることから、恵子はただならぬものを感じた。女性が話すには、今日は孫の四歳の誕生日だと言うことで、デパートでプレゼントの服を買った。女の子は祖母宅に帰って、そこで待っていた母親に、買ってもらったばかりの服を見せようと、ラッピングを開けた。すると、中からまったく別の服が出てきた。それを見た瞬間、女の子の顔は強張った。そして、「ばあばなんか、きらい」と言って、泣き崩れたのだった。
女性と女の子の母親は、何かの間違いだと言って女の子をなだめようとしたが、女の子は買ってもらった服を楽しみにしていただけに、気分はなおらなかった。女性は途方に暮れて、子供服売り場に電話したという次第だった。
恵子は、女性の訴えを聞いていて、最初は何のことを言っているのかわからなかったが、次第に事態が飲み込めてきた。恵子の顔は瞬く間に青ざめていった。
女の子が欲しがっていた服は、確か最後まで売れ残っていた一着だった。ラッピングしたものを間違って渡したのだとしたら、別の客がそれを持って帰ってしまったに違いない。それがどこの客か、知るすべはなかった。
これが誕生日プレゼントでなかったなら、メーカーに問い合わせて新しい物を取り寄せて、後日お詫びとともに客のもとに届けることができた。でもあのトレーナーは、女の子にとって一生に一度の、誕生日プレゼントなのだ。女の子を落胆させてしまったことは、もはや取り返しがつかなかった。
恵子は対応を考えるために、女性からの電話を一旦切った。そして上司の純一に相談した。
事態を把握した純一は、たちまち渋い顔をした。それから、しばらく考える素振りを見せた。そして何かを思いついて、手元のパソコンを触った。「あった」と、目を大きく開いて呟くと、恵子に言った。
「今から、京都店に走ってもらえない?」
恵子は、純一の言っていることがわからずに困惑した。
「係長、京都店ですか?」
「そう、京都店の在庫を確認したら、同じものがあった。誕生日プレゼントなら、今日お客のもとにお届けしないと、意味がなくなってしまう。京都には僕から電話を入れておく。だから、今すぐに行ってきて欲しい」
恵子は、純一の意図がようやくわかった。女の子が落胆している様子を想像すると、何としてでも、今日中に女の子のもとに届けたかった。恵子は取るものもとりあえず、電車に乗った。何度も電車を乗り継いで、京都店に到着した。子供服売り場でトレーナーを受け取ると、帰りの電車に飛び乗った。すでに帰宅ラッシュが始まっていて車内は混雑していたが、そんなことは気にしていられなかった。
恵子から、トレーナーを受け取ると、純一は出かける支度を始めた。
呆然と立ち尽くす恵子に、純一は、
「私が行ってくる。君は何も気にせずに、今日は帰りなさい」
と言った。
恵子は、とっさに食い下がる。
「係長、私も一緒に行かせてください。あの女の子は、私が担当した大切なお客様です。お客様に満足していただくのが、私の仕事です」
恵子は、無我夢中だった。
純一は、恵子の言葉を聞きながら少し間を置いたかと思うと、「それじゃ、行くぞ」とだけ言った。
女性宅に着いたのは、午後八時をまわっていた。女の子は、もうとっくに自分の家に帰って、寝る準備をしているかも知れなかった。
純一が、インターホン越しに来意を伝えると、しばらくして客の女性が出てきた。
「こんな時間に、一体なんですか」
と、不愛想に言う。
純一が、お詫びとここへ来たいきさつを話した。女性は、孫に嫌われたことを引きずっているのか、何も話さなかった。しばらくの間、気まずい空気が流れる。そのとき、家の奥から「ばあば」と、子供の声がした。出てきたのは、昼間応対したあの女の子だった。
恵子は一歩前に出ると、女の子の目線の高さまで身体を低くした。目に涙を浮かべて、夢中で伝えた。
「まこちゃん、今日は大切なお誕生日なのに、辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい。こんなに遅くなってしまったけど、大切な人からのプレゼントを届けに来ました」
そう言って、恵子は手に提げていた紙袋を、女の子にそっと手わたした。女の子は、一瞬、顔をしかめたが、すぐに和らげた。それからそばにいた女性に言った。
「ばあば、今日はプレゼント、ありがとう。まこ、お姉ちゃんたちに誕生日をお祝いしてもらって、嬉しかったよ」
それを聞いた女性は、途端に目に涙を浮かべた。嬉しさやもどかしさなど、様々な感情が入り混じった涙。女性が堰を切らしたかのように泣き崩れるのを、恵子は両手でやさしく支えた。
すると、女の子が不思議そうな目を浮かべて訊いた。
「ばあば、どうして泣いてるの。今日はまこの誕生日だから、みんなに笑っていて欲しいなぁ」
女性は「うん」と、恵子の腕の中で大きく頷いた。
「そうだ、まこちゃん。みんなでお誕生日の歌を歌ってみようよ」
とっさに恵子が思いついた。みんなで歌ったのは、ハッピーバースデーの歌。薄明りの玄関に、いつまでも歌声が響きわたっていた。
女性宅を出て駅までの道を歩きながら、恵子は重い口を開いた。
「係長、今日は本当に申し訳ありませんでした」
純一は、前を向いたまま答える。
「いや、君が謝ることじゃないよ。君はきっちりと、自分の仕事をこなした。満足して頂けたかどうかはわからないが、お客様に誠意を伝えることができた。私たちの仕事は、物を売ることじゃない。お客様の心に寄り添うこと、そのために、できる限りのことをする」
「『お客様の心に寄り添うこと』ですか……。私、あの女の子を見ていて、自分が幼かった頃のことを、思い出してしまいました」
そう話す恵子の口調は、しんみりとしていた。
「子供の頃と言うと?」
「あっ、はい。母に連れられてデパートに行ったときに、母とはぐれて迷子になったことがありました。ちょうど混雑した日だったので、あたりを探してみたけど、母はどこにも見当たりませんでした。私は、多分泣いていたのでしょうね。それに気づいた店員さんが、『どうしたの?』と、優しく声をかけてくれました。若そうな男性の方でした。私、母に怒られることが怖くて、名前を訊かれても何も答えられませんでした。困り果てた店員さんは、私を奥の部屋に連れて行って、仕事そっちのけで私の相手をしてくれました。絵描き歌を歌ってくれたり、手品を披露してくれたりして、いつの間にか私の不安は消えていました。そんなとき、母が駆けつけてきました。私は母の姿をひと目見て、店員さんのうしろに隠れました。そしたらその店員さんは、私の心の中を察してくれたのか、私に待っているように言うと、真剣な顔を作って母に何かを話しました。それから店員さんは、私に聞こえるようにわざと大きな声で、『恵子さんは、とても立派なお嬢様です。お母様が来られるのを、お行儀よく待っておられましたよ』と言いました。母はとても厳しい人でしたが、そのときは不思議にも私のことを叱りませんでした。あのとき店員さんが、母に何を話したのかはわかりません。でも、店員さんの一生懸命な姿を見て、私はこの仕事に憧れを抱くようになりました」
恵子の話に、純一は頷きながら耳を傾けていた。
恵子は話し終えると、我に返ったように慌てて付け加えた。
「あっ、すみません。余計なことを喋ってしまって……」
「いや、いいんだ。君のエピソードを聞いていて、その若い店員の姿を思い浮かべてみたよ。彼はきっと、デパートの仕事に誇りを持っていただろうね」
そう話した純一は、遠くを行き交う車の流れを見つめていた。それから少し考える素振りを見せてから、徐に打ち明け始めた。
「私が、デパートに就職したいと思ったのは、君と同じように子供の頃の体験がきっかけだった」
話し始めた途端に、純一の横顔が少し和らいだように見えた。
「私が小さい頃に、両親が離婚してしまって、私は母と二人きりで暮らしていた。母は生活を支えるために、夜遅くまで仕事をしていたので、小学生になった私は、いつも家で一人ぼっちだった。そんな私のささやかな楽しみが、日曜日に母に連れて行ってもらった、近くのデパートだった。母は最上階のレストランで、美味しいご飯を食べさせてくれた。それから屋上に上がって、いっぱい乗り物に乗せてくれた。当時はね、今みたいに遊べる場所は少なかったから、デパートの屋上と言えば家族連れの憩いの場だった。『こんなことしかできなくて、お母さんを許してね』と、母はいつも口癖のように話していたけど、私は十分楽しかった。夢がいっぱい詰まった場所で、母と一緒に過ごせるだけでよかった。だから、大きくなった私は決心した。あの場所で、人々に元気を与える仕事がしたいとね」
純一の言葉は、最後は力強い口調になっていた。
気がつけば、恵子たちは地下鉄の駅の入り口に差しかかっていた。
「私は、これから仕事に戻って報告書を書くから、君はまっすぐに家に帰りなさい」
純一が発した言葉に、恵子は「私も……」と言いかけたが止めた。
恵子は、電車の窓の外を流れる無機質な明かりをぼんやり眺めながら、もの思いにふけっていた。純一が言った『夢がいっぱい詰まった場所』という言葉が、脳裏に浮かんできた。まこちゃんが見せた笑顔が、それに重なって見えた。恵子は、「明日も頑張ろう」と、心の中で自分に言い聞かせたのだった。
恵子がフロアに立っていると、繰り返しやってくる客がいた。恵子は、その度に客の相談に乗っていたので、客とはすぐに顔なじみになった。客との話の中で恵子は真っ先に、その人が今、どんな思いでいるのかを想像してみた。その人にはどんな家族がいて、どういう生活を送っているのかを知ろうとした。ただ商品を売りつけるだけなら、そんなことに時間を割く必要はなかったが、客に満足してもらうためには、相手のことをよく知ることが一番だと思ったから。
顔なじみになった客のほとんどは、少しずつ恵子に心を許すようになった。恵子は決して焦らなかった。どんなに忙しくても、どれほど時間がかかろうとも、恵子は客の話に耳を傾け続けた。
客の中には、わざわざ恵子を指名してくる人も少なからずいた。恵子にとっては、それほど嬉しいことはなかった。
そんな中で、恵子には一人、気になる女性がいた。年齢は、恵子よりも少しだけ上だろうか。細身で髪のきれいな女性だった。決して派手ではない服装からは、どこか清楚な雰囲気が漂っていた。
その女性は、決まって月曜日の午後に現れた。子供服売り場に来るくらいだから、結婚して子供がいてもおかしくなかった。だけど、女性が来るときはいつも一人だったことが、恵子は少し気になっていた。女性は、男の子用の服を買っていった。どれも三歳ぐらいの子供が着る服だった。季節によって、女性が選んだ服は違ったが、売り場を訪れる度に必ず一着は買っていった。
その日も月曜日で、その女性は現れた。黒と白のワンピース姿だった。
女性は、薄手の生地のパーカーを、じっと見つめていた。可愛らしいフードがついたパーカーだった。恵子は他の客にしているように、自然な形で声をかけた。
「こちらは、初夏の時期にぴったりの、通気性のよい素材を使用しております。あのう、失礼ですが、お子様用でしょうか」
女性は、声に出すことなく、ゆっくりと頷いた。
「こちらは、サイズが豊富にございます。お子様の身長はどれほどでしょうか」
恵子はさり気なく聞いたつもりだった。
だけど女性は、突然首を何度も横に振った。まるで、首がちぎれてしまいそうなほどに。
恵子は戸惑った。何か女性にとってまずいことでも訊いたのだろうかと、胸に手を当てて考えてみた。しばらく沈黙の時間が流れた。
「これにします。これを送ってください」
女性は慌てたように、パーカーを恵子にわたした。女性はレジで会計を済ませると、渡された発送伝票に、送り先の住所を書いた。さっきの慌てぶりとは違って、じっくり時間をかけて丁寧に書いていた。
女性が売り場を去るのを見届けてから、恵子は女性が書いた伝票を何気に見た。宛先は奈良市で、宛て名は〇〇一樹様とあった。差出人名の欄には住所は書かれておらず、○○佳恵とあった。〇〇に入る苗字が同じだったので、近い間柄なのだろうか。
恵子は狐につままれたような、不思議な感覚に陥った。さっきの女性が、差出人欄に住所を書いていないということは、宛て名の○○一樹という人物とは、同居をしているということだろうか。それならば、家に帰って直接渡せばよいものを、どうして高い配送料を支払ってまで配送を依頼したのだろうか。
恵子は、さっきの女性の慌てた様子が気になったが、それ以上客のプライベートなことをあれこれ詮索するのは憚られた。女性が書いた送り状にもう一度目を遣ってから、パーカーとともに奥の作業員に手わたした。
それからその女性は毎週月曜日に来店すると、子供服を買っては同じように配送を依頼してきた。配送先は変わらなかった。女性は口数が少なく、いつしか何かを思いつめたような、虚ろな表情を浮かべるようになっていた。
恵子の、○○佳恵という女性に対する思いは、週を追うごとに高まっていった。何か事情があるのならば、力になりたかった。だから、上司である純一に相談することにした。
恵子は、○○佳恵という客に寄り添いたいがために、その人のことを調べてみたいと言った。
恵子から相談を受けた純一は、顔をしかめる。恵子の仕事に対する情熱は十分すぎるほどわかっていた。だけど、一介の販売員に過ぎない恵子に、客のプライベートに関わることに首を突っ込ませてもよいものだろうか。純一は悩んだ。十分すぎるほど悩んだ。そして答えを出した。
恵子を呼び出して、純一はこう告げた。
「君がどうしてもと言うのならば、一個人として、客に関わってみることだ。このことは、私の内で留めておく。もしも何かあったら、責任は私が取る。だから君は、客のためになることをやりなさい」
恵子は、
「ありがとうございます。必ず、お客様の気持ちに寄り添ってみせます」
と、目を輝かせながら答えた。
次の休みの日、恵子は大阪の私鉄ターミナル駅にいた。地下のホームからは、奈良や伊勢志摩、名古屋方面へと向かう電車が、次々と出ていった。
恵子は、急行に乗った。車内は冷房がほどよく効いていて、気持ちがよかった。電車が地上に出ると、夏の太陽の光が窓から突き刺してきた。目的地の駅までは、三十分ほどの道のり、車窓をぼんやり眺めながら、客の女性に思いを馳せていた。
電車は大阪平野を横断し、山裾をすすみながら高度を稼いだ。一瞬、大阪の街並みが眼下に広がったかと思うと、長いトンネルに入った。そしてトンネルの中で県境を越えた。
恵子が降り立った駅は、閑静な住宅街にある駅だった。近くに学校が多く、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
駅を出た恵子は、そのまま住宅街に入った。静かなところだった。ときおり、広い道路を車がゆっくりと通り過ぎていく。家々の敷地が広く取られ、空間にゆとりが感じられた。蝉の鳴き声が、住宅の木々から聞こえては止んだ。額に汗がにじんだ。恵子は、日傘片手にハンカチを額にやった。
どれほどの距離を歩いただろうか。うしろを振り向くと、駅ははるかかなたに小さく見えている。一軒の住宅の前で、恵子は足を止めた。洒落た洋風の建物だった。鉄製の門扉の横に、ローマ字で『〇〇〇〇』と書かれた、表札を見つけた。
恵子は、しばらく門の前に立って、中の様子を伺った。広い庭には、誰もいないようだった。大きく深呼吸をしてから、インターホンを押した。しばらくして、年配の女性が応答した。恵子は、来意をできるだけ丁寧に伝えた。
女性は、
「そういうことでしたら、どうぞ中にお入りください」
と言って、恵子を家の中へと案内した。
恵子が通されたのは、玄関を入ってすぐの応接間だった。女性は、「外は暑かったでしょう」と言って、グラスに注いだ緑茶を出してくれた。
家の中は、静まり返っていた。どうやら他の家族は留守のようだった。
恵子は、改めてここを訪れた経緯を、一から話した。目の前の女性は、終始、恵子に視線を合わせながら、穏やかな表情で耳を傾けていた。
恵子の話が終わると、女性は天井を見つめた。その様子は、話してもよいものかどうか、思案しているかのようだった。そして少し時間を置いてから、徐に口を開いた。
「一樹は、佳恵が産んだ子供です」
「佳恵さんが産まれた子供?」
恵子は、状況を理解できないでいた。女性は、表情を変えることなく続けた。
女性の話によると、女性は佳恵の母にあたり、ここは佳恵が生まれ育った場所だった。佳恵は大学を出て、かねてからの夢だった高校の教壇に立った。仕事は順調で、すぐに二歳年上の人と職場恋愛をして、やがて結婚した。結婚して早々に、身ごもった。生まれてきたのは、元気な男の子だった。『一本の太い樹』に育つことに願いを込めて、『一樹』と名づけた。
佳恵は幸せの絶頂にいた。でも、そんな日々は、長くは続かなかった。夫の不貞が発覚した。佳恵は悩んだ挙句、夫と別れることを決意した。当然ながら、子供は佳恵が引き取った。佳恵は、一樹が立派な人に育つことだけを願って、その後も教壇に立ち続けた。
しかし、神様は残酷だった。一樹が三歳になった頃のことだった。保育園からの帰り道、佳恵と一樹は事故に遭った。一台のトラックが、母子の乗った自転車に突っ込んできたのだった。佳恵は一命をとりとめたものの、一樹は即死だった。のちに、一樹が亡くなったことを知らされた佳恵は、取り乱してパニックになった。
その後、実家に戻った佳恵は、仕事を辞めた。とても続けられそうになかったから。家族の目を盗んで、何度も自殺を企てるようになった。
現在、佳恵は病院で療養を続けているのだという。幸い、佳恵の容体は安定してきているので、週一回の外出の許可が下りるようになった。それが月曜日だった。
女性の話を聞いていた恵子は、身体の震えが止まらなかった。いつも売り場に通っていた佳恵に、そんな辛い過去があったことは、よもや想像すらできなかった。
女性は、間を置いてから続けた。
「佳恵が、月曜日にデパートに行っていたのには、実は理由があるのです。それはね、あの子が小さかったときに、私がいつもデパートに連れて行っていたからです。私の仕事の休みが、月曜日でしたから。デパートであの子と一緒に服を選んで、それから屋上のレストランでケーキを食べて、本当に楽しかった。幸せでした」
女性の話を聞いていた恵子は口をつぐんだ。ショックのあまり、とてもすぐには言葉を返せなかった。それから恵子は、佳恵のために自分にはどんなことができるのかを、必死になって考えた。考えに考え抜いた。そして、ようやく口を開いた。
「佳恵さんは、十分に辛い思いをされました。だけど今は、必死に生きようとしています。デパートにやってきて、自分の過去の足跡と、懸命に向き合っています。私たちはいつだって、そんなお客様の心に寄り添っていたいです」
そう言って、恵子は答えを導き出した。
月曜日のデパートは、客足が鈍っていた。それでも何かを求めて、ここにやって来る人は必ずいた。
恵子は、いつものように、ショーケースの中を整えていた。ふと、フロアに目を向けると、そこには二人の女性が、虚ろな表情を浮かべながら立っていた。佳恵と、その母親だった。
恵子は、二人に近づくと、
「いらっしゃいませ。お探しの商品をご用意しておりますので、どうぞこちらへ」
と言って、二人を別の部屋に案内した。
部屋の扉を開けると、真ん中にテーブルが置かれ、その上に何かのシルエットが見えた。
それを見た瞬間、佳恵はそれが何であるのかに気がついた。佳恵はその場に泣き崩れた。泣いて、泣いて、止めどなく涙が溢れた。
「佳恵さん、あなたが探していたのは、これです」
そう言って、恵子が手に取ったもの……それは、大きなうさぎのぬいぐるみだった。一樹が幼い頃に大事にしていたそのぬいぐるみには、佳恵が今まで一樹に宛てて送り続けた服が着せられていた。
佳恵は、恵子からぬいぐるみを受け取ると、染みついた一樹の匂いを確かめるように、強く抱きしめた。
「佳恵さん、一樹くんは、あなたの愛情を受け取って、今もちゃんとここに生きています。だから、これからはこの一樹くんと一緒に、前を向いていて欲しいです。あなたは決して、一人ではありません」
部屋の中では、佳恵のすすり泣く声が、いつまでも聞こえていた。
次の月曜日、佳恵は売り場に現れなかった。恵子は、複雑な気持ちだった。本当にあれでよかったのかと、自問自答を繰り返していた。
恵子が陳列棚の服をたたみなおしていたとき、純一から呼ばれた。
「実はね、さっき○○さんという人から、売り場に電話があった。君に伝えて欲しいと言って、伝言を承ったよ」
そう言って、純一がメモ用紙を手渡してきた。恵子がそっとメモを開くと、そこにはこう書いてあった。
「ありがとう。またいつか、必ず子供服売り場に行きます。そのときは、相談に乗ってください」
恵子は、佳恵の姿を想像してみた。
「もう、うしろは振り返らない」
瞼に焼きついたその姿が、恵子にそう語ったような気がした。
ふと、純一の方を振り返ってみる。純一は、客からの電話に耳を傾けていた。
恵子は知っていた。自分が幼い頃、迷子になった自分を助けてくれた人のことを。そしてあのとき、その人が母にかけた言葉を。
「お嬢様にデパートに来て頂き、楽しい思い出を作って頂きたいのです。ですからどうか……」
純一は、電話の向こうの客に向かって、優しく微笑みかけていた。




