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潮待ちのレール ― 雪待つ待合 ―  作者: たむ


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第七章 待つ人の手

 人が待っているとき、いちばん先に時間を引き受けるのは、たぶん手なのだろう。


 足はまだ床についている。

 声はまだ出ていない。

 顔つきも、遠目にはそれほど変わらない。

 けれど手だけは、待ちの長さを先に知ってしまう。

 帽子の縁をなぞる。

 膝の上で指をひらく。

 袋の口を整える。

 襟に触れる。

 手袋を外すかどうか迷う。

 第十作のここまで、駅のベンチでも港の詰所でも坂の腰掛けでも、待つ人はみな、まず手に小さな遅れを出していた。

 全部を止めない。

 けれど、手だけが一度だけ待合に入る。

 そのことに気づいてから、湊には春口の冬の待ち方が、以前よりずっと具体に見えるようになっていた。


 翌朝も、雪は来なかった。


 来ないまま、空だけが少し低い。

 宿の庭先の鉢の土は湿っているのに、白くはならない。

 港のほうから聞こえる音も、駅へ向かう坂の足音も、どこか抑えられている。

 春口の人たちは、こういう朝に“今日は降らないのか、まだ分からないのか”を、きっと空の色だけでなく、身体の速度でも測っているのだろう。

 それが待合へ人を少し長く留める。

 そして待っているあいだ、手が先に何かを始める。


 朝食のあと、汐里は帳場の前に立ったまま、自分の手をしばらく見ていた。

 指先を開き、閉じ、また何事もなかったように帳面へ視線を落とす。

 その仕草に、湊は思わず声をかけた。


「どうしましたか」

「少し」

 汐里が言う。

「手のことを考えてました」

「待つ人の」

「はい。母の記録にも、いろいろ出てくるでしょう」

「ええ」

「自分でも、宿の中で誰かを待つときって、先に手が動いてる気がして」

「どういうふうに」

「鍵を並べ直したり」

「ええ」

「湯呑みの向きを直したり」

「……」

「すぐ必要じゃないことを、少しだけやる」

「それって」

 湊は言った。

「かなり待合的ですね」

「そうなんです」

 汐里は少しだけ笑った。

「宿の人って、外の待合だけじゃなくて、帳場でも手で待ってるんだなって」


 その気づきは、第十作の終盤にふさわしかった。

 待合は場所であると同時に、待ち方でもある。

 駅のベンチに座ること。

 港の詰所で立ち上がってまた座ること。

 坂の腰掛け場で手をこすること。

 そして帳場で、鍵や湯呑みを少しだけ整え直すこと。

 春口では、待つ人の手が、町じゅうのあちこちで同じように動いているのかもしれなかった。


 その日の午前、篠原は古い宿の覚え書きの写しを持ってきた。

 澄江のものではなく、もっと前の代の女中らしき手になる短い記録だという。

 紙の端に、こうあった。


 ――長く待つ人は、言葉より前に手が動く。

 ――手が落ち着けば、その人はたいてい次のことを言える。

 ――だから帳場では、先に手を見ている。


「先に手を見ている」

 汐里が読み上げる。

「すごいですね」

「ええ」

 湊も頷く。

「顔よりも」

「声よりも先に」

「手なんですね」

「そうみたいです」

 篠原が言う。

「宿の人は、昔からそうやって人の“順番”を見ていたのかもしれません」

「立つ順番、上がる順番、話す順番」

 湊が言うと、篠原は静かに頷いた。

「そうです。そして、そのどれもがまず手に出る」


 その整理で、第十作の待合が一気に宿の仕事へつながった。

 澄江が人の立つ順番を邪魔しなかったように、宿の人はまず手を見ていた。

 手がまだ待っているのか。

 もう次へ進めるのか。

 それを見て、声をかける順番を決める。

 そう考えると、宿とは部屋を貸す場所である以上に、“人の順番を少しだけ待つ場所”なのだろう。


 昼前、宿へ小さな荷物を届けに来た配達の若い男がいた。

 土間へ入り、段ボールを下ろし、伝票を出そうとして、そこで一度だけ手を止めた。

 寒さのせいか、あるいは中へ上がるほどではない仕事の距離感のせいか、指先がほんの少し迷う。

 その瞬間、汐里は何も言わず、帳場の内側で待った。

 男が自分で伝票の向きを整え、ようやく顔を上げてから「こちらへ」と受け取る。

 あまりにも自然で、しかし第十作を通って見れば、そこには見事な“待合の技術”があった。


「今の」

 男が帰ったあと、湊が言う。

「ええ」

 汐里が答える。

「手を見てました」

「はい」

「どうして分かったんですか」

「何となくです」

「でも」

「でも?」

「その“何となく”が、母から来てるのかもしれないと思いました」

「……」

「手がまだ仕事の外にあるときって、すぐ話しかけると少しずれるんです」

「そうですね」

「少し待つと、自分で次の順番へ来る」

「それが分かるようになってきた」

「たぶん」


 その“たぶん”もまた、春口らしかった。

 人は、自分の成長を明快には自覚しない。

 だが、いつのまにか手を見るようになり、声をかける順番を待てるようになっている。

 汐里もまた、第八作の橋、第九作の坂を経て、第十作では人の手の順番を見る人になり始めているのだろう。


 午後、湊は一人で駅の待合へ行った。

 今日は誰か特定の姿を追うというより、ただその部屋の中で“待つ人の手”がどう見えるかを確かめたかった。

 白い空はまだ晴れない。

 雪も来ない。

 だからこそ待合のベンチには、少し長く座る人がいる。


 中には若い女が一人いた。

 旅行鞄を横に置き、列車を待っているのだろう。

 だが時刻表を見るのでも窓の外を見続けるのでもなく、膝の上に置いた手袋の指先を一本ずつ整えている。

 乗ること自体は決めているはずだ。

 それでも、まだ“立つ番”が来るまでは手が待っている。

 それが、いまではよく分かった。


 女は列車の音が近づく少し前に、手袋をそろえ終えて、ようやく鞄の持ち手を取った。

 その順番が、とてもきれいだった。

 先に手。

 次に立つ。

 最後に外へ出る。

 待合とは、人がその順番を静かに整える場所なのだろう。


 湊はそのとき、不意に父の手を想像していた。

 父の顔や背中や息については、ここまで何度も考えてきた。

 だが、父の手はどうだったのだろう。

 帽子の縁。

 膝の上。

 切符。

 待合のベンチの端。

 父もまた、立つ前に一度だけ手をほどき、何かの順番が追いつくのを待ったのかもしれない。

 そう思うと、父はまた一段と近い人になった。

 人は、手の小さな動きにまで降りてきたとき、初めてほんとうに生活の中へ戻るのかもしれなかった。


 宿へ戻ると、汐里が夕方の支度をしていた。

 帳場の前に鍵が並び、小さな湯呑みが二つ伏せられている。

 その手つきを見ていると、彼女もまた自分の手で夜を待ち、客を待ち、外から戻る人の順番を待っているのだと分かる。

 第十作は、待合という場所の巻である以上に、“待つ人の手”の巻でもあるのだろう。


「相沢さん」

 汐里が、鍵をひとつ並べ直しながら言う。

「はい」

「母って、たぶん人の手を見てたんでしょうね」

「ええ」

「そして」

「そして?」

「自分の手でも、少しずつ待ってた」

「……」

「帳場で、土間で、坂の途中で」

「そうですね」

「それが、母の静けさだったのかもしれない」

「かなり本質的だと思います」

 湊は静かに言った。


 夜、ノートにはこう書かれた。


 ――待つ人の時間は、まず手に出る。

 ――帽子の縁、手袋、伝票、鍵、湯呑み。

 ――春口では、人は手で順番を整え、手で少しだけ待ち、それからようやく次の時間へ出ていく。

 ――父の遅れも、澄江の静けさも、その小さな手の順番の中にあったのかもしれない。

 ――第十作は、待合を人の内部の技術として見つめる巻になってきている。


 書き終えたころ、外はもう完全な夜だった。

 雪は来ない。

 だが来ないままの日の長さが、今日はかえって静かに胸へ残る。

 待合とは、たぶんそういう“来ないもののために少し長くなる時間”も受け止める場所なのだろう。

 そして第十作も、次の終盤でそのことを静かに結んでいくのだろうと、湊は思った。

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