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潮待ちのレール ― 雪待つ待合 ―  作者: たむ


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第三章 港の詰所

 港の待合は、駅の待合より少しだけ曖昧だ。


 駅には時刻表がある。

 列車は遅れることがあっても、来るか来ないかはおおむね決まっている。

 だから駅の待合で人が抱えるのは、主に自分の側の遅れだ。

 出るか。

 見送るか。

 ホームへ出るか。

 その決めきれなさを、ベンチの木とガラス戸の向こうに少しだけ置く。

 港は違う。

 便は天気に左右される。

 荷はずれる。

 出るつもりでも出ない日がある。

 だから港の待合では、自分の気持ちだけでなく、外の都合まで一緒に待たなければならない。

 雪の来ない日の港の詰所が、人を駅より長く留めるのはそのためなのかもしれなかった。


 昼を少し回ってから、湊と汐里は篠原とともに港へ下りた。

 朝の白さはまだ空に残っているが、雨にも雪にもならないまま、光だけが薄く平たくなっている。

 風は弱い。

 だから余計に、町全体が“まだ決まらない空”の下で息を潜めているように感じられた。

 坂を下る足も、急ぐには急ぎにくい。

 港の用事が先にある日ですら、こういう空では人は少しだけ待合寄りになるのだろう。


 詰所は、岸壁の脇に寄り添うように建っていた。

 古い板壁にガラス戸がつき、内側には簡素な長椅子が二つ。

 壁際に貼られた運航表はところどころ日焼けしている。

 ストーブがあった形跡はあるが、いまは使われていないらしい。

 それでも戸を開けると、外より半歩だけ風が薄くなった。

 冬の待合に必要なのは、たぶんその“半歩だけ”なのだろう。

 完全に守られると、人はかえって決められなくなる。

 少しだけ外の気配を残したまま、少しだけ腰を落ち着ける。

 春口の待合は、どこもそういう加減を持っている気がした。


 中には誰もいなかった。

 だが、さっきまで人がいたような気配はある。

 長椅子の端に残る薄い湿り。

 戸口近くの床に乾きかけた泥。

 窓の曇りの拭い跡。

 それらが、詰所がただの物置ではなく、“少し長く留まる人の場所”であることを静かに示していた。


「ここは」

 汐里が辺りを見回して言う。

「駅より、さらに決めきれない感じがありますね」

「ええ」

 篠原が答える。

「駅では、列車は来る前提です」

「はい」

「でも港では」

「便が出るかどうかから、もう揺れている」

「……」

「だから詰所は、待つ場所というより、“様子を見る場所”に近い」

「様子を見る」

 湊が繰り返す。

「自分の気持ちも、外の空も、海の機嫌も」

「そういうことです」


 様子を見る。

 その言い方が、港の待合にはよく似合った。

 駅の待合が“動く直前の遅れ”を受ける場所なら、港の詰所は“まだ動くかどうか自体が決まらない時間”を受ける場所なのだろう。

 それは第七作の夜航の岸壁より、もっと手前にある時間でもある。

 夜の港へ出る前。

 便に乗るかもしれず、見送るだけかもしれず、何もせず帰るかもしれない。

 そういう揺れを抱えた人が、この詰所の長椅子に少し長く座るのだ。


「母も」

 汐里が低く言った。

「ええ」

「ここに来たことがあったんでしょうか」

「かなり」

 篠原が答える。

「宿の主として、遅れた便や、戻りの遅い客のことを気にするなら」

「はい」

「ただ、それだけではないと思います」

「どういう意味で」

「澄江さん自身も、外へ出るのか、宿へ戻るのか、その中間の気持ちをここに置いたことがあったのではないかと」

「……」

「詰所って、そういう場所に見えます」

「そうですね」

 湊は静かに頷いた。


 長椅子に腰を下ろすと、窓の向こうに海ではなく、まず岸壁のコンクリートと停められた船の腹が見える。

 その向こうに、ようやく白い空と灰色の海の境目がある。

 景色としては開けていない。

 だがそれが、かえって港の詰所らしいと思えた。

 ここは遠くを夢見る場所ではなく、今日の便が出るか出ないか、自分がいま動くかやめるか、その程度の現実をじっと見ている場所なのだろう。


 しばらくして、中年の男が一人入ってきた。

 漁の関係者らしく、厚い上着にゴム長を履いている。

 三人を見て少しだけ会釈し、戸口に近いほうの椅子に腰を下ろした。

 すぐには喋らない。

 外を一度見て、それから両手を膝の上でこする。

 汐里が、小さく息を呑むような気配を見せた。

 澄江のメモにあった“雪の来ない日は、みんなそこで一度だけ手をこする”という一文が、そのまま目の前で起きていたからだろう。


「今の」

 湊が小声で言う。

「ええ」

 汐里も同じく小さく答える。

「母の書いていた通りですね」

「手をこする」

「どうしてなんでしょう」

 篠原は、男のほうを見ないまま言った。

「寒いから、もあるでしょう」

「はい」

「でも、それだけではない」

「では」

「手をこするくらいの短い時間で、自分が今日どちらへ行くのかを測っているのかもしれません」

「……」

「立ち上がるほどでもない、でも何もしないではいられない」

「それが手なんですね」

「そういうことです」


 男はしばらく座っていたが、やがて立ち上がり、外を見て、それからまた座り直した。

 その一度の立ち上がりと座り直しが、港の待合の時間そのもののように見えた。

 まだ行かない。

 けれど、もう行かないとも決めていない。

 雪は来ない。

 便も出るかもしれない。

 今日はやめるかもしれない。

 そういう曖昧さを、詰所は責めずに受けていた。


「父も」

 湊が低く言う。

「ええ」

「こういう座り直しをしたんでしょうか」

「十分にありえます」

 篠原が答えた。

「夜の港だけでなく、昼の港でも」

「……」

「外の事情と自分の気持ちの両方が決まりきらない人にとって」

「はい」

「港の待合は、かなり長い時間になったはずです」


 その言葉で、父の姿がまた少し増えた。

 ホームの父。

 坂の父。

 港の灯りを見る父。

 そして今は、港の詰所で一度立ち上がってまた座り直す父。

 どれも同じ父だ。

 しかも、その繰り返しこそが父という人の本質に近かったのかもしれない。

 決断しないのではない。

 動かないのでもない。

 ただ、動き始める前にもう一度だけ様子を見てしまう。

 外の空と、自分の気持ちと、今日の便の行方を。


 男が出て行ったあと、詰所の中にはまた静けさが戻った。

 だが今度の静けさは、誰もいない空白ではなかった。

 人が少し長く留まり、少しだけ手をこすり、少しだけ座り直したあとの静けさだった。

 待合とは、そういう“短い迷いの残り香”を持つ場所なのだろう。


 壁に貼られた古い運航表の端に、鉛筆で小さく数字と印が書き込まれていた。

 公式のものではなく、誰かが私的に残した覚え書きのようだ。

 篠原が覗き込み、「昔の詰所の人かもしれませんね」と言った。

 そこには、便の予定だけでなく、「様子見」「風待」「一人戻る」などの言葉が混じっている。


「一人戻る」

 湊が読み上げる。

「はい」

 篠原が頷く。

「便の数ではなく、人の動きが記されている」

「それって」

 汐里が言う。

「港の仕事の記録なのに、かなり人寄りですね」

「春口の記録は、そうなりがちです」

「……」

「動きの記録と、人の迷いの記録がきれいに分かれない」

「そうですね」

 湊も頷いた。


 詰所を出るころには、空は少しだけ暗みを増していた。

 雪はやはり来ない。

 けれど、その来なさの中に“まだ決まりきらない午後”が残っている。

 坂を少し上ると、宿の灯りはまだ入っていないが、その位置だけはもう分かる。

 待合から見える灯り。

 あるいは、まだ行くかどうかを決めていない自分を、遠くから静かに引いている灯り。

 第七作の夜航の灯りとはまた違う意味で、冬の港の待合から見上げる上の灯もまた、人のためのものなのだろう。


「相沢さん」

 汐里が歩きながら言った。

「はい」

「待合って、やっぱり時間を止める場所じゃないですね」

「ええ」

「少しだけ“決めるのを遅らせる場所”という感じがします」

「そうですね」

「その遅れがあるから」

「はい」

「人はようやく、自分の気持ちが外に追いつくのを待てる」

「……」

「母も、父も、そういう遅れを何度もここに置いたのかもしれません」

「そう思います」


 その言葉が、第十作の中心をまた少し深くした。

 待合とは、止まる場所ではない。

 遅らせる場所。

 すぐには決められないものを、少しだけ遅らせ、そのあいだに外と内の速度が合うのを待つ場所。

 駅のベンチも、港の詰所も、その意味でひどく春口らしいのだろう。


 宿へ戻る前、湊は一度だけ振り返った。

 港の詰所はもう、ただの小さな建物に見える。

 だが、あの中に座った時間を知ってしまうと、二度とただの設備には戻らない。

 そこには、人が一度立ち上がってまた座り直すだけの、しかし大事な冬の時間が確かにあるのだった。

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