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潮待ちのレール ― 雪待つ待合 ―  作者: たむ


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第一章 雪の来ない朝

 雪の気配だけがある朝、春口は少しだけ音をひかえる。


 実際には雪は降っていない。

 空もまだ明るく、海も凍ることなどない。

 けれど、町の上に薄い鉛色の雲がひろがり、風が海からではなく山のほうへ一度引くような日がある。

 そういう朝は、人も物音をひそめるのだろうかと、ときどき思う。

 港のロープが当たる音も、駅へ上がる坂の足音も、宿の戸を開ける木の軋みも、いつもより半歩だけ控えめに聞こえる。

 春口に雪はめったに来ない。

 だからこそ、雪の来ないままの気配だけが町を包む日は、実際に雪が積もるより深く“待つ”感じを生むのかもしれなかった。

 第十作で湊が最初に受け取ったのは、そういう冬の待ち方だった。


 一月の終わり、湊が春口へ戻った日の朝、列車の窓の外は白くはなかった。

 海は冬らしい硬い青灰色で、島影の縁だけが少し濃い。

 空は晴れていないが、雨にもならない。

 ただ遠くの光が平たくのびて、すべての輪郭を薄く押さえていた。

 第九作の冬灯の坂では、光は低く、灯りまでの距離を測るためのものに見えた。

 第十作の今、光はもっと均されている。

 近いものも遠いものも同じように冷えた明るさの中へ置かれ、人はそこからすぐには動き出せない。

 待合が前景化するのは、こういう朝なのだろうと湊は思っていた。


 春口駅へ着くと、ホームの白線は乾いていた。

 雪も霜もない。

 それなのに空気だけが、雪の手前のように静まっている。

 ホームの屋根の下では、二人ほどの乗客が肩をすぼめて列車を待っていた。

 改札へ向かう足は遅くない。

 ただ、皆どこかで一度だけ身体を丸めてから動く。

 冬の待合というのは、きっとああいう身体の形から始まるのだろう。

 座って待つ前から、人はすでに自分の中へ少し引いている。


 改札を出ると、汐里がいた。

 濃い藍のコートに、灰色の手袋。

 吐く息は白くないが、声を出す前に肩がほんの少しだけ縮む。

 冬の終わりが近いころの春口には、そういう細い寒さがあるのだろう。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

「今日は、雪の朝みたいですね」

「降ってないのに」

「ええ。母がよく言ってました」

「なんて」

「“こういう日は、人が待合で長くなる”って」

 その一言で、第十作の入口がひらいた気がした。

 雪の朝みたいな日。

 そして、待合で長くなる人。

 雪が実際に来るわけではない。

 けれど来そうだという気配だけで、人は少し長く待合に留まる。

 それは便や列車を待っているだけではないのだろう。

 天気に対して。

 自分の体温に対して。

 あるいは、外へ出る決心に対して。

 そうしたものすべてに、少し時間がかかる日なのだ。


 駅を出て坂を下りる。

 第九作で知ったように、冬の勾配は身体に重さを出す。

 けれど今日の重さは、坂そのものより、空の待ち方に引かれている感じがあった。

 下り坂なのに足が急がない。

 港のほうへ気持ちが早く行かない。

 雪の気配だけがある日には、町全体がいったん待合のほうへ寄るのかもしれなかった。


「篠原さんから」

 汐里が言う。

「ええ」

「今回は、待合を見たほうがいいと」

「駅ですか」

「駅だけじゃなくて」

「港も」

「はい。それから、昔は坂の途中にも小さな腰掛け場があったみたいです」

「腰掛け場」

「母の記録に、“雪の来ない日は、みんなそこで一度だけ手をこする”って」

「……」

「ただのベンチじゃなくて、待合の小さい版みたいな」

「それは」

 湊が言う。

「かなり第十作ですね」

「ええ。今回は、動く前に少しだけ留まる場所全部が主役なのかもしれません」


 その言葉に、ここまでのシリーズの地図がまた少し動いた。

 ホーム。

 港。

 橋。

 坂。

 それらを通ってきたあとで、待合へ戻る。

 だが第五作の待合へそのまま戻るわけではない。

 第十作では、待合はもっと生活に散っている。

 駅のベンチ。

 港のガラス戸の内側。

 坂の途中の小さな腰掛け。

 宿へ戻る前の縁台のようなもの。

 人が“まだ外へ出る決心がつききらない時間”のための場所が、春口の町にはいくつもあるのだろう。


 宿へ着くと、帳場の前の空気にも今日は少し待ち方があった。

 客がいないから静かなのではない。

 台所の音も、掃き掃除の音もある。

 それでも、町全体がいま少しずつ何かを待っている感じがある。

 雪かもしれない。

 あるいは、降らないで終わるという確認かもしれない。

 待つ対象がはっきりしないまま、身体だけが留まる。

 そういう時間のために待合は存在するのかもしれなかった。


 居間の卓には、すでに篠原が資料を広げていた。

 今日は布鞄のほかに、駅舎の古い見取り図、港の詰所の写真、それから町の略図に小さな印がいくつもついている。

 その印は、主要な場所ではなく、少し脇のものばかりだった。


「おかえりなさい」

 篠原が言う。

「ありがとうございます」

「今回は、待合です」

「ええ」

「ただし、駅の待合だけではない」

「町じゅうの」

「そうです」

 篠原は略図の上に指を置いた。

「春口は、動く町ですが」

「はい」

「同時に、動く前に人を一度だけ留める場所の多い町でもある」

「雪の気配のある日は特に」

 汐里が言うと、篠原は頷いた。

「ええ。雪は来ないかもしれない。けれど、来るかもしれないというだけで、人は少し長く腰を下ろす」

「それって」

 湊が言う。

「外の天気を待ってるだけじゃないですよね」

「もちろんです」

 篠原は静かに答えた。

「自分の中の動き出す気持ちが、外の寒さや空の色に追いつくのを待っているんでしょう」


 その言い方に、第十作の主題がはっきりした。

 動き出す気持ちが、外の寒さや空の色に追いつくのを待つ。

 待合とは、ただ交通のための設備ではない。

 人の内部の遅れを、外の天気と同じ速度にそろえるための場所なのだろう。

 第五作の霧のホームでは、父はその遅れを抱えたまま決めきれなかった。

 第十作では、その遅れそのものを、もっと静かに、もっと日々の町の中で見ていくことになるのかもしれなかった。


 篠原は、古い見取り図の端を示した。


「駅の待合室はもちろんですが」

「ええ」

「港の詰所の脇にも、冬だけ使われる腰掛けがあったようです」

「冬だけ」

「寒い日に、便を待つ人や、出るか出ないか決めかねる人が座った」

「……」

「さらに、坂の途中の小さな屋根付きのベンチも」

「それは」

 汐里が言う。

「母の“手をこする場所”ですね」

「たぶんそうでしょう」

 篠原は頷いた。

「雪の来ない日は、そうした小さな待合が町じゅうで少し長く使われた」


 雪の来ない日。

 その曖昧さが、第十作にはよく似合う気がした。

 確定した困難ではない。

 けれど、何もないわけでもない。

 だから人は、すぐには動かず、一度だけ腰を下ろす。

 この巻で描く待合は、そういう曖昧な天気と、曖昧な気持ちの接点なのだろう。


 その日、午後遅くになっても雪は来なかった。

 ただ空は白く、港の向こうの島影だけが少し近く見える。

 日が落ちるのが早く、夕方の入り方も静かだった。

 湊は二階の部屋の窓から、駅のほうをぼんやり見ていた。

 見えない待合。

 見えない腰掛け。

 だが、そこに誰かが長く留まっているかもしれないと思うだけで、春口の冬の地図はまた少し深くなる。

 第十作は、ここからさらに駅の待合、港の待合、そして坂の途中の小さな待合へと入っていくのだろう。

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