限界OL、隣のイケオジに餌付けされる
読み切りです!
陰のあるイケオジとのイチャイチャです!
午前2時。
踏切に、望遠鏡を担……がねんだわなぁ。これが。
はー、ヤバい。スト零どんだけ飲んだんだ私。袋3つとかマジありえねぇわ。
どれもこれもあのクソ上司が無理難題押し付けるから主食が酒になんだってーの!20代女子の胃袋をアルコール消毒液と化してどうするつもりだよ。バカかよ。
はー。とっとと帰って寝るか。明日休みだし、1日中ゴロゴ……ロ。
ん?あれって、確かお隣のイケオジだよな。名前は、えーと……。
あっそうだ。
「こんばんはー。『霧島さん』。ゴミ捨てっすか」
私の声に、マンションのゴミ捨て場で背を向けていた人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
街灯の頼りない光の下。アイロンがぴしっと当たった黒いシャツに、これまた皺1つないスラックス。ゴミ捨て場にいるとは思えないほど、浮世離れして端正だった。
絵に描いたようなイケオジってきっとこういう人のことを言うんだと思う。
「……こんばんは、花恋さん。こんな時間に、その……大量の『戦利品』を持って、どうされたのですか?」
「戦利品って。あはは、ただの空き缶っすよ。週に一度のデトックス……なんて」
私は、ガシャガシャと景気のいい音を立てるビニール袋を地面に置いた。
霧島さんは、私の足元のスト零の山を、まるで未確認物体でも見るような目で見つめている。
「……これだけの量。昨日今日で空けたわけではないのでしょう?」
「いやー、実はここ二、三週間っすね。仕事が修羅場で。……あ、引かないでくださいよ。お隣さんに引かれると、私、明日からこのマンションで生きていけなくなるんで」
私が自嘲気味に笑って髪をかきあげると、霧島さんがすっと一歩、距離を詰めてきた。
あれ。このおじさん、こんなに背、高かったっけ……。
白檀――サンダルウッドの、清潔で少しだけスパイシーな香りが、私のアルコール塗れの鼻腔をくすぐる。
「……花恋さん。その顔色、そして首筋の血管の浮き方……。相当、栄養が偏っていますね。これでは血液の質が……いえ、健康が損なわれる一方です」
「健康、ねぇ……。そんなの、スト零の底に沈めてきましたよ」
「……いけませんね。心配だ。……少し、私の部屋へ来ませんか。ちょうど、煮込み料理が余っているのです」
「は? 逆ナン……じゃないよね。えっ、おじさんの手料理? えー、どうしよっかなぁ……」
普通なら警戒する場面。でも、この時の私は泥酔していたし、何より霧島さんの「オジサマとしての包容力」に、「グー……」と胃袋が勝手に応答してしまった。
「……赤ワインでじっくり煮込んだ、牛すね肉です。……今の君には、質の良い鉄分が必要だ」
「……うわっ、ワードが強い。牛すね肉かぁ……負けた。行きます。……あ、これ、お礼のスト零っす。一缶どーぞ」
私が袋から「期間限定・完熟梅味」を差し出した。
……ん?あれ?……霧島さん、一瞬だけ、唇の端に「牙」のような鋭いものを見せた気がしたけれど……。まぁいいか。いいのか……?
「……お気持ちだけ、いただいておきます。……さあ、こちらへ」
――――
「お邪魔しまーす……ってすご!やば!めっちゃ綺麗な部屋!」
一歩足を踏み入れた瞬間、私は自分の部屋の惨状を思い出して、回れ右して帰りたくなった。
いや、マジで。同じ家賃の間取りとは思えないくらい整理整頓がされていて、そこら中の家具がモデルルームのような輝きを放っている。
「玄関広ー! 床が見えてる! 洗濯物ちゃんと干してある! これ、本当に同じ部屋ですか!? 」
私が騒いでいる間も、霧島さんは「ふふ」と上品に笑い、慣れた手つきで私の上着をハンガーにかけてくれた。その所作がいちいち優雅すぎて、自分のスウェット姿が急に恥ずかしくなってくる。
「……君の部屋も、片付ければ同じようになりますよ。ただ、今は少し……生活に余裕がないだけの話です」
「余裕っていうか、人間としての尊厳をスト零に売却済みなんですよねぇ……。うわっ、キッチンもピカピカじゃん。何これ、不法侵入したお掃除ロボットが全自動でやってるレベルじゃないっすか?」
私は感動のあまり、まだ冷たいキッチンの天板をなぞった。指一本汚れない。
霧島さんは「そんなに驚かなくても」と言いながら、棚から重厚なクリスタルグラスを取り出した。
「さあ、座ってください。今、温めますから。……それから、食事の前にこれを。喉が渇いているでしょう?」
差し出されたのは、琥珀色の、見たこともないほど澄んだジュース。
「特製のハーブコーディアルです」なーんて言うけど、なんかこう……表面に微かな熱気が揺らめいているような、不思議な飲み物だった。
「おっ、さすがイケオジ。飲み物までオシャンティー。いただきまーす!」
一気に煽ると、喉の奥がジンと熱くなって、頭の芯がふわっと解けるような感覚が襲ってきた。スト零の「ガツン」とは違う、脳みそが高級な真綿で包まれるような、そんな多幸感。
「……あれ? なんか、これ……ヤバい。めっちゃ美味しいけど、なんか……すごい……。視界がピンク色になってきた気がするんですけど……」
「……ハーブにはリラックス効果があるのですよ。……さあ、花恋さん。ゆっくり食べて、ゆっくり眠りなさい。……明日には、すべてが良くなっていますよ」
霧島さんの声が……さっきより……ずっと低く、耳の奥……まで響く。
マジか……。少しだけ……、お言葉に、あま、え、て……。
――――
「……少しだけ……、お言葉に、あま、え、て……」
微かな呟きと共に、彼女の身体からふっと力が抜けた。
私の腕の中に倒れ込んできたその重みは、羽毛のように軽く、そして驚くほど熱い。
「……おやすみなさい、花恋さん。悪い夢は、すべて私が預かりましょう」
ソファに横たわった彼女の頬を、指先でそっとなぞる。
自堕落な生活を送っていると言いながら、その肌は白く、瑞々しい。
そして何より、剥き出しになった首筋から、ドクドクと力強い鼓動が伝わってくる。
芳醇な、しかし毒に汚された血の香り。
ジャンクな食事と安酒で濁っているはずなのに、なぜこれほどまでに私の「渇き」を刺激するのか。
「……っ」
喉の奥が、焼けるように疼く。
数百年、理性の鎖で繋ぎ止めてきた獣が、彼女の無防備な寝顔を前にしてのたうち回るように暴れだしていた。
少し、味見をするだけだ。
これは彼女を私の管理下に置き、壊れかけた身体を立て直すための「トリートメント」なんだ。
自分にそう言い聞かせながら、私は眼鏡を外し、彼女の首筋に顔を寄せた。
「……ああ、なんて……いい匂いだ……」
唇が触れる。
驚くほど熱い肌。そこへ、私の冷たい牙をゆっくりと、愛おしむように添える。
本来なら、恐怖に目を見開かせるための牙。
だが、私はそこに「麻痺」と「多幸」の魔力を限界まで込めた。
(痛みなど、知らなくていい。君はただ、私の毒に蕩け、私なしでは眠れぬ身体になればいい……)
牙を沈める。
微かな皮膚の抵抗感の後、溢れ出してきたのは、期待を遥かに超えた至高の甘露だった。
「ん……ぅ……」
眠りの中で、花恋さんが小さく声を漏らす。
それは拒絶ではなく、快感に背中を丸めるような、無垢な反応。
その熱い吐息が私の首元にかかるたび、私の理性という名の城壁が、音を立てて崩れていく。
(……足りない。もっと、もっとだ。君のすべてを飲み干し、私の魔力で塗り潰したい……!)
喉を鳴らし、彼女の生命を啜る。
――私は今、この愚かで愛おしい人間に、どうしようもなく「執着」し始めている。
――――
なぜ、彼女だったのか。
理由は、ひどく単純で……そして、ひどく傲慢なものだった。
隣の部屋から漂ってくるのは、若々しい活気などではない。
安っぽいアルコールの臭いと、保存料まみれの食事の匂い。そして、深夜まで不規則に響く、疲れ切った足音。
初めてゴミ捨て場で彼女を見た時、私はその「不健康の極み」のような姿に、不覚にも目を奪われてしまった。
「……まるで、泥の中に咲く花のようだ」
不規則な生活で荒れた肌、クマの浮いた目。
だが、その奥で脈打つ鼓動は驚くほど力強く、私の喉を容赦なく焼き焦がす。
普通なら、そんな「毒」にまみれた獲物は避けるべきだ。
だが、私の奥底に眠る蒐集家としての本能が囁いた。
(この泥をすべて取り除き、私の手で丁寧に、完璧に磨き上げたら……一体、どれほど甘美な雫を滴らせるようになるのだろうか?)
彼女を「救いたい」のではない。
ただ、私好みの「極上の獲物」に造り変えたかったのだ。
私が与える食事で血を浄化し、私の魔力で精神を安らげ、私の牙で支配する。
安酒などで濁った彼女の人生を、私の色だけで塗り潰していく過程を想像するだけで、心臓のない胸が疼いた。
「……さあ、花恋さん。君を、世界で一番贅沢な『家畜』にして差し上げましょう」
それは愛よりもずっと重く、慈しみよりもずっと残酷な、私なりの「興味」の形だった。
――――
「ねぇ花恋。アンタ最近肌ツヤよくない?……化粧水変えた?」
きっかけは同僚の咲からの何気ない一言からだった。
言われてみれば、鏡を見るたびに「え、私こんなに顔色良かったっけ?」と自分でもビビることが多くなった。
「いや、変えてないよー。でもさ、食生活は変わったかも。実はお隣さんに餌付け……もとい、夕食ご馳走してもらっててさ」
「は? お隣さん? 何そのラノベみたいな設定。材料費とか渡してる?」
「渡そうとしたんだけどさ、『実家が太いし趣味だから要らない。君が美味しそうに食べるのが報酬だ』なーんて、ドラマの台詞みたいなこと言われちゃって。まぁ、お言葉に甘えまくってるわけ」
実際、そうだった。
霧島さんの家で夕食をご馳走になった後、気がついたら自分のベッドで寝ていることが増えた。
不思議なことに、食べた瞬間の多幸感と満足感はしっかりあるのに、具体的に何を食べて、どうやって部屋に戻ったかの記憶だけが、スポーンと抜けてるんだよね。
……まぁ、寝落ちしちゃうくらいリラックスしてるってことなんだろうけど。
「花恋。アンタそれ、『スパダリ』ってヤツじゃない?」
「……スポドリ?」
「『スパダリ』! スーパーダーリン! 容姿端麗、高身長、高収入、おまけに家事まで完璧。そんなの絶滅危惧種の王子様じゃん!」
「ダーリンって!! そんなんじゃないってば、もー! あの人、たぶんただの『世話焼きなおじさん』だよ」
私は顔を赤くして否定したけど、胸の奥が少しだけムズムズした。
その頃、隣の部屋では。
霧島が昨夜花恋の体内へ送り込んだ「魔力と栄養の配合表」を眺めながら、満足げに目を細めていた。
(……ふむ。肌ツヤが良くなった、か。同僚にも気づかれるほどに。……次はもう少し、私への依存度を高めるために、鉄分を強めてみるとしようか……)
――――
「霧島さーん、今日のワイン、キンキンに冷やした方が美味しくないっすか? 私、入れときますねー!」
キッチンへ向かう私の背中に、リビングで新聞を広げていた霧島さんが声をかけてきた。
「ああ、構いませんよ。……ですが花恋さん。一番下の、黒いパーテーションで仕切られた引き出しだけは、絶対に開けないでくださいね。私の、大切な薬が入っていますから」
「はーい、了解でーす!」
薬ね。ま、おじさまだし、高血圧の薬とかかな?
……もちろん、私には別の目的がある。霧島さんに「毒だ」と言われて没収されかけた、マイ・ベストパートナーこと『ストロング零・ダブルレモン』!これをこっそり冷やして、後でこっそり飲む。あー楽しみー!
ワインボトルを並べ替え、その最下。
霧島さんが言っていた『開けるな』という黒い仕切りのすぐ手前に、私はスト零を押し込もうとした。
「……あ、あれ?入りきらない……。でもなー……駄目って言われてるけど……まっ、仕方ないか」
私は「絶対にダメ」と言われたその黒い引き出しを、指先でほんの数センチ、軽い気持ちで引いてしまった。
「…………え?」
隙間から見えたのは、薬の瓶なんかじゃなかった。
重厚な黒い内装のなかに、整然と並べられた透明なビニールパック。
そこには、ドロリとした、嫌に生々しい『赤色』が詰まっていた。
「……輸血……用……血液バッグ……? A型……B型……?」
あまりの恐怖に、持っていたスト零の缶が手から滑り落ち、床に転がって乾いた音を立てた。
パックのラベルには、病院で見るようなマジもんの印字。
ジュースやおもちゃなんかじゃない。これは、最近まで誰かの体の中を流れていたはずの、本物の血。
「……な、何これ。霧島さん、何者……? もしかして、闇医者……?」
「……『絶対に開けないで』と、言ったはずですが」
背後から、温度を失った声がした。
振り返ると、キッチンの入り口に霧島さんが立っていた。
いつもなら優しく微笑んでいるはずの眼鏡の奥、その瞳が、暗闇の中で『禍々しい紅味』を帯びて発光している。
「あ、いや……、これ、は……。あの、スト零、隠そうと……」
「……隠した『毒』のついでに、私の食事まで見つけてしまうとは。君は本当に、聞き分けのない猫ですね」
霧島さんが一歩、踏み出す。
その瞬間、彼の背後から黒い霧のような威圧感が溢れ出し、部屋の空気が一気に冷え込んだ。
「霧島、さん……? その目、なに……。これ、本物の血、ですよね……?」
「……ええ。私の主食です。そして、私をこれほどまでに飢えさせているのは……他でもない、君だということも……教えてあげましょうか?」
霧島さんが目の前に詰め寄る。
いつもなら安心するはずのサンダルウッドの香りが、今は死の香りにしか感じられない。
彼は私の肩を掴み、牙を剥くように唇を歪めた。
――――
私はリビングのソファで、優雅に新聞を広げていた。
キッチンからは、花恋さんの鼻歌が聞こえてくる。
「霧島さーん、今日のワイン、キンキンに冷やした方が美味しくないっすか? 私、入れときますねー!」
「ああ、構いませんよ」
私は微笑んで応えた。
彼女を私の「獲物」として、そして「唯一の隣人」として飼い慣らし始めて数週間。
私の食事である輸血パックは、冷蔵庫の最下段、黒い仕切りの奥に厳重に隠してある。彼女には「大切な薬だ」と釘を刺してあるし、律儀な彼女なら、禁を破ってまで中を覗くことはないだろう。
……そう、高を括っていたのだ。
(ふふ、今夜の彼女は一段と血色がいい。私の料理と魔力に、少しずつ、確実に染まっている……)
そんな独占欲に満ちた悦びに浸っていた、その時だった。
――ガシャァン!
キッチンで、何かが床に転がる乾いた音が響いた。
続いて、彼女の息を呑む音が聞こえる。
「……え? ……輸血……用――」
その震える声を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい戦慄が走った。
新聞を持つ指が、わずかに震える。
(まさか、開けたのか? ……いや、なぜ。彼女には必要のない場所のはずだ。あそこには、私の……)
私は音もなく立ち上がり、キッチンの入り口に立った。
そこには、冷蔵庫の最下段を全開にし、腰を抜かしたように座り込んでいる花恋さんがいた。
彼女の手元には、私が厳重に没収したはずの『ストロング零』の缶が、無残に転がっている。
……理解した。
彼女は、私との約束を破って「毒」を冷やそうとし、その過程で、偶然にも私の秘密に触れてしまったのだ。
「……『絶対に開けないで』と、言ったはずですが」
私の口から出たのは、自分でも驚くほど冷酷な声だった。
隠し通せなくなった焦燥と、裏切られたという独占欲が混ざり合い、瞳が紅く疼く。
隠し持っていた牙が、彼女の恐怖に呼応するように、じわりと熱を帯びて伸びていく。
「霧島、さん……? その目、なに……。これ、本物の血、ですよね……?」
(ああ……バレてしまった。もう、慈悲深い『隣人』のフリはできない)
私は一歩、彼女へ詰め寄った。
震える彼女の肩を掴む。恐怖に引き攣ったその首筋。
そこからは、パニックで加速した心臓が、これまでになく芳醇な血の香りを撒き散らしていた。
(……ちょうどいい。隠し事がなくなったのなら、今この場で、君を真実の『家畜』にしてあげよう)
私は牙を剥き出しにし、彼女を絶望の淵へと突き落とそうとした。
――――
「……あ、あのさ、霧島さん……! そりゃ私が悪いよ。スト零飲もうとしてたし……」
震える声。だが、そこに込められていたのは、私が期待していた絶望の悲鳴ではなかった。
彼女は、恐怖で腰を抜かしながらも、どこか「申し訳なさそうに」私を見上げている。
「けど、なんか……怖い……。それに……その……牙……」
牙。
彼女の視線の先にあるのは、獲物を引き裂くための、私の誇り高き吸血鬼の証。
だが、彼女にそう指摘された瞬間、私は……生まれて初めて、自分の身体の一部を「気味が悪いもの」として突きつけられたような、筆舌に尽くしがたい羞恥心に襲われた。
(怖い……? 牙が……?)
当然だ。私は怪物なのだから。
だが、彼女のその「ひどくまともな」言い草はどうだ。
まるで、マナーの悪い隣人に注意するかのような、あるいは……。
「……霧島さん、今、すっごく変な顔してるよ……。なんか、必死っていうか……余裕ないっていうか……」
必死。余裕がない。
その言葉が、私の胸に鋭い杭のように突き刺さる。
私は彼女を管理し、慈しみ、完璧な環境で飼育してやろうと思っていた。
それなのに、今の私はどうだ。
約束を破ってストロング零を冷やそうとした小娘一人に動揺し、瞳を赤く光らせ、牙を剥き出しにして……。
(……ああ。私は今、最高に格好悪いのではないか?)
数百年を孤独に、優雅に生きてきたこの私が。
一人の人間の、それも二十代の「不健康女子」の正論めいた怯えに、ここまで狼狽している。
「……霧島さん?」
彼女が、恐る恐る私の顔を覗き込んでくる。
その瞳に映る私は、冷酷な捕食者などではない。
ただの、『隠し事がバレて逆ギレしている、情緒の不安定なおじさん』だった。
(……死にたい。いや、私はもう心臓は止まっているが……土に還りたい)
私は、伸ばしかけていた手を力なく下ろした。
牙が、自分の意思とは無関係に、情けなくヒュンと引っ込んでいくのを感じた。
――――
「ねぇ。一つ、聞いてもいいですか?……なんでご飯食べさせてたんです? その……血がほしかった……から?」
彼女のその静かな問いは、先ほどの「牙が怖い」という言葉よりも、ずっと深く私の存在を抉った。
彼女の瞳は、もう恐怖だけではなかった。
信じていた隣人に、実は「家畜」として太らされていたのではないかという、ひどく悲しい疑念。
その曇った瞳を見た瞬間、私は自分の喉元に杭を打ち込まれたような衝撃を受けた。
「……それは」
否定したかった。
だが、事実はどうだ。
私は彼女がゴミ捨て場に捨てる「毒」に目をつけ、その血を浄化し、私好みの「極上の獲物」に造り変えようとした。
毎日毎日、栄養バランスを考え、魔力を込めた食事を与え、彼女の身体を慈しんできたのは……すべて、私という怪物の欲望を満たすためだ。
(……そうだ。私は、彼女を『食事』として育てていた。……それの何が悪い? 私は吸血鬼で、彼女は獲物だ。……それが世界の理ではないか)
頭の中では、傲慢な吸血鬼としての本能がそう叫んでいる。
けれど、声が出ない。
床に転がったストロング零の缶と、震える手で自分の首筋を隠そうとしている彼女の姿。
それを見ていると、自分の行いが、気高く高尚な「飼育」などではなく、あまりに自分勝手で醜悪な「搾取」に思えてならなかった。
「……血が、欲しかった。……ええ、否定はしません。私は君を、私の血肉にするために……君の生活に、入り込んだ」
絞り出すように答えた私の声は、自分でも驚くほど惨めに震えていた。
「君を健康にし、君の身体を整えれば、最高の血が手に入る。……私は、そんな、浅ましい理由で……君に、嘘を……」
言えば言うほど、自分が最低の怪物に思えてくる。
彼女に美味しいと言わせたかったのも。
彼女の肌にツヤが戻るのを喜んだのも。
すべては「自分のため」だったのか?
私は、彼女の顔を見ることができず、ただ視線を床に落とした。
牙はもう完全に引っ込んでいた。
今の私は、最強の吸血鬼などではない。
ただ、一番傷つけたくなかった相手に、自分の「底意地の悪さ」をバラされてしまった、情けない男だった。
「…………すまない。……本当に、すまない、花恋さん」
私は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
次に来る言葉は、絶縁か、拒絶か。あるいは、軽蔑か。
彼女から下される「判決」を待つ時間は、永遠のように長く、冷たかった。
――――
「霧島さん……それって、あんまりにも『無責任』すぎませんか!?」
「…………へっ?」
情けない声が出た。
絶望されるか、軽蔑されるか。そんな覚悟をしていた私の鼓膜に飛び込んできたのは、「無責任」という、予想だにしない弾丸だった。
「霧島さん、私って野良猫か何かですか?そうやって飼おうともしないくせにエサだけ与えて……」
「…………」
彼女の瞳に、強い光が宿る。
さっきまでの恐怖はどこへやら、彼女は一歩、また一歩と、牙を持つ怪物である私に詰め寄ってきた。
「なんか……今の話聞いてたら、勝手にエゴ通して私のこと、ただの自己満のためっていうか……その……無責任です! 最後まで、面倒、見てくれないんですね」
ガツン、と。
脳内に、鈍い衝撃音が響いたような気がした。
無責任。最後まで、面倒を見てくれない。
(……ああ。私は、何をしていたのだ)
彼女の血を浄化し、彼女を極上の獲物に造り変える。
そんな「飼育」という名の搾取を、私は完璧な計画だと思っていた。
だが、彼女の言う通りだ。
もし彼女の血が完成し、私がそれを飲み干して満足してしまったら?
その後の彼女の人生を、私はどうするつもりだった?
ただの「食事」として使い捨て、また次の獲物を探すのか?
……無理だ。そんなこと、できるはずがない。
「……面倒を、見ない……? 私が……?」
「そうだよ! 餌だけやって、美味しくなったらハイさよならって……! 私、そんなの、無理ぃ……!だったら、最初からスト零飲ませてよ! 期待、させないでよ……っ!もう、『餌付け』されちゃったんだからぁ!」
彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
それは死への恐怖ではなく、「あなたにとって私は、ただの使い捨ての食料だったのか」という、切実な問いかけ。
(違う。そんなつもりでは……)
いや、最初はそんなつもりだったのかもしれない。
だが、毎日彼女の「美味しい」という笑顔を見て。
安酒を没収して小言を言い、彼女の肌がツヤを帯びていくのを、自分のことのように喜んでいた。
「ううっ……。ひぐっ……ゔぇーん……!」
それはもう、単なる「捕食者と被食者」の関係など、とっくに超えていたのだ。
「……花恋さん。私は……」
私は、震える手で、彼女の肩を掴んだ。
今度は、獲物を押さえつけるためではない。
逃がしたくない。失いたくない。
この人を、自分の命……いや、永劫に続く死の時間が尽きるまで、私の隣に繋ぎ止めておきたい。
「……無責任、でした。……あまりに、浅はかだった」
私は彼女の前に、膝をついた。
最強の吸血鬼が、ストロング零の缶が転がる床の上で、一人の人間の女性に跪く。
「……最後まで、いや、永遠に……君の面倒を見る『責任』を、私にください」
「…………えっ?」
「君を、ただの食事として見たことはありません。……君の、その図太く、愛おしい命そのものに……私は、魅了されてしまった……」
――――
「……最後まで、いや、永遠に……君の面倒を見る『責任』を、私にください」
床に膝をつき、私の手を宝物のように捧げ持つ霧島さん。
さっきまで「バケモノだー!」ってビビってたはずなのに、そのあまりに真剣で、あまりに重すぎる瞳に見つめられて、私の脳内は完全にキャパオーバーを起こした。
「え、ちょっ……責任って、それ……プロポーズ!? てか霧島さん、顔! 顔が良すぎてズルいんだってば! 卑怯! 影があるイケオジの全力求愛とか、スト零10缶分の破壊力あるから!」
「……花恋さん。茶化さないでください。私は、本気です」
霧島さんがゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、部屋の空気が甘く、濃く変わった。
彼の手が私の腰に回り、逃げ場を塞ぐように引き寄せられる。
「あ、マジだ……これマジなやつだ……。え、待って、霧島さん。吸うの? 今から吸うの!? ちょっと、心の準備! 歯磨き……じゃなくて、首とか洗ってないし! 恥ずかしいし!」
「……大丈夫ですよ。すべて、私に任せて」
「任せらんないよ! 怖いって! 痛いの!? 痛いのは無理! 注射も嫌いなんだから!」
私がアセアセと両手をバタつかせていると、霧島さんがフッと、優しく、けれど絶対に拒絶を許さない温度で私の耳元に唇を寄せた。
「……痛みは、私がすべて溶かしてあげます。……君を、私の共犯者にしたい。……いいですね?」
「ひゃっ!? ……もう、わかったよ! 責任、取るって言ったもんね!? だったら、もう……勝手にして!」
私は自棄気味に目をギュッと閉じた。
心臓の音が、ドクドクと霧島さんの腕に伝わっているのがわかる。
次の瞬間、首筋にひんやりとした感触。
そして、鋭いものが「プスッ」と刺さる微かな感覚のあと――。
「…………あれ?」
痛くない。
それどころか、そこから全身に、とろとろに甘い、熱い「何か」が流れ込んでくる。
脳みそが。脊髄が。
スト零を飲んだ時の「感覚を殺す麻痺」じゃなくて、全身の神経が「多幸感」で塗り潰されるような、とんでもない感覚。
「ぁ……なに、これ……。霧島、さん……?」
「……私の魔力です。……心地よいでしょう? 君の体の中、すべてを私の色で書き換えていく……」
霧島さんの声が、直接脳内に響く。
彼は、私の血を啜りながら、同時に自分の魔力を流し込んでいるのだ。
気がつけば、私は彼のシャツをぎゅっと掴んで、自分から首を差し出していた。
(やば……。これ、スト零より依存性高いわ……。私、マジでこのおじさんに『飼われる』んだ……)
朦朧とする意識の中で、私は自分の人生が、完全に「普通の隣人」からログアウトしたことを悟ったのだった。
――――
朝日が、遮光カーテンの隙間から残酷に差し込む。
私の腕の中には、昨夜、私のすべてを賭けて「誓い」を立てた愛しい女性が眠っている。
(……ああ。ついに、彼女を私のものにした。この首筋に残る紅い痕こそが、私たちが永遠に結ばれた証……)
私は、彼女の寝顔を慈しみながら、その瞬間を待っていた。
目覚めた彼女が、昨夜の甘美な記憶に頬を染め、私に恥じらいながら微笑みかけてくれる……そんな、吸血鬼としての数百年来の夢を。
だが、現実は非情だった。
「…………うう、ううー……。頭痛ぇ…………」
彼女は目を開けるなり、感動の再会ではなく、二日酔いの泥酔客のような唸り声を上げた。
「……グライナー、全種、イッキした時の……痛みだわ、これ……。脳みそがシェイカーで振られてるみたい……」
「………………」
私のロマンチックな余韻は、その一言で粉々に砕け散った。
「グライナー」。あの、若者が羽目を外して飲む毒々しい色のリキュールか。……私の神聖な魔力注入を、あんなものと同列に扱うとは。……全く。
――――
「……ん、あれ。霧島さん? おはよ……。いや、おはようじゃないわ。何これ、頭ガンガンするんだけど」
私はズキズキする頭を押さえながら、のそりと起き上がった。
あー、やらかした。昨日の記憶、断片的に脳内再生される。
霧島さんが膝ついて、なんか重いこと言って、私の首に……。
「あ、そうだ。吸われたんだっけ。……霧島さん、あれ、絶対なんか混ぜたでしょ。魔力とかいう不純物。グライナーのベリー味みたいな甘い匂いしたもん」
私は霧島さんのベッドの上で、彼から借りたブカブカのTシャツ(ノーブラ)と、いつもの短パン姿で胡坐をかいた。
隣で、霧島さんが魂が抜けたような顔で固まっている。
「……花恋さん。……せめて、もう少し別の例えはありませんか。私は昨日、持てる技術のすべてを注いで、君を……」
「いや、技術とかいいから。今の私、完全に『飲まされた後の翌朝』の顔してるからね? 鏡見なくてもわかるわ」
私は首筋をさすった。痛みはない。
でも、そこを触るとなんか、変な感じがする。
霧島さんの方を向くと、眼鏡をかけ直した彼が、悔しそうに、でもどこか愛おしそうに私を見つめていた。
「……頭痛は、私の血を分けたことによる拒絶反応です。……すぐにお茶を淹れましょう。栄養も、水分も、今の君には必要だ」
「お茶……。あ、おにぎりも食べたい。梅のやつ」
「……わかりました。……本当に、君という人は……」
霧島さんは溜息をつきながら立ち上がり、キッチンのほうへ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、私はふと、自分の肌を触ってみる。
(……あれ。頭は痛いけど、肌、めちゃくちゃプルプルじゃん。……スト零じゃあこうはならないんだよなぁ……よし)
「霧島さーん! おにぎり、二個ね! あと……お茶!高いやつにして!」
「……ええ。一生分、用意してありますよ」
キッチンから返ってきた声は、呆れているくせに、昨日よりもずっと近くに感じられた。
――――
それからというもの、私の生活は一変した。
冷蔵庫の主はスト零から「霧島さんお手製の栄養ドリンク」に代わり、首筋には消えない「お隣さんの印」が刻まれている。
相変わらず、霧島さんの愛は重いし、私はアセアセしてばかりだけど。
あの「頭痛」さえ乗り越えれば、この飼い猫生活も案外悪くないなぁ……なんて。
窓の外に広がる、午前二時の踏切の音を聞きながら。
私は、隣で私のために夜食を作る、世界一過保護な吸血鬼の背中を眺めていた。
【完】
いかがでしたかー?
ラブコメ初めて書きました。頑張って書きました。
お酒の名前はちょこっと変えてます。
普段は悪役令嬢ものや異世界ファンタジーものを書いています!




