第一話
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第一話
その子は、静かに生まれた。
アルケシア王国、ヴェルグレイヴ伯爵家。夜の静寂に包まれた屋敷の一室で、小さな命がこの世界に現れる。
「……産まれました、旦那様」
産婆の言葉に、部屋の空気がわずかに緩む。
ヴェルグレイヴ伯爵エドガー・ヴェルグレイヴは、深く息を吐いた。
その隣で、母であるリシア・ヴェルグレイヴが弱々しくも微笑む。
「……無事、なのね」
「はい。とても、しっかりした子です」
確かに産声は上がった。だが、それはすぐに止んだ。不自然なほどに、静かだった。
暗闇だった。
何もない。光も形も存在しない場所。その中で、何かが語りかけてくる。
音ではない。言葉でもない。ただ意味だけが、直接流れ込んでくる。
お前に託す。
温かい。だが重い。優しい。だが拒めない。
理解はできない。だが、拒絶もしない。
そこで意識は途切れた。
目を開ける。
左は金、右は翠。不揃いな色の瞳が、ぼやけた世界を映す。
天井。光。人影。ひとつひとつを確かめるように、視線が動く。
「あら……?」
産婆が思わず声を漏らした。
泣き止んでいる。それだけではない。その瞳は、はっきりと焦点が合っていた。
「……この子は」
エドガーはわずかに目を細める。見られている、そんな感覚を覚えるほどに。
(……ここは、どこだ)
思考があった。まだ曖昧だが、確かに。
(暗くない。息ができる。温かい)
自分が生きていることだけは理解できる。それ以外は分からない。だが、不安はなかった。
ただ観る。
ルシアンと名付けられたその子は、奇妙なほど静かな赤子だった。
無駄に泣かない。周囲をよく観察する。音や気配に正確に反応する。そして何より、理解が早すぎた。
「奥様、ミルクを」
「ありがとう、マリア」
メイドのマリアが静かに頭を下げる。
その動き、声、間。ルシアンはすべてを見ていた。
(同じ音……繰り返している)
人が話している。意味はまだ曖昧だが、規則がある。
(これは……言葉)
記憶する。繰り返す。少しずつ繋がる。
「ルシアン」
リシアが優しく呼ぶ。何度も。同じ音、同じ響き、同じ対象。
(これが、自分)
ゆっくりと顔を向ける。リシアの表情が驚きに変わる。
「……もう、分かっているみたい」
時間は流れる。
一年、二年、三年。
ルシアンの成長は異様に速かった。歩く。話す。覚える。理解する。
「ルシアン様、お召し物はこちらに」
若い使用人のカイルが服を差し出す。ルシアンはそれを受け取り、自然に袖を通した。
「ありがとうございます」
はっきりとした発音。落ち着いた声に、カイルは思わず目を見開く。
「い、いえ……!」
すべてが、あまりにも単純だった。
(できる。分かる。でも――)
少し遅らせる。少し間違える。子供らしく振る舞う。
(目立つ必要はない)
理由は分からない。だが、それが正しいと理解していた。
五歳上の兄、アルベルトが顔を覗き込む。
「ルシアン、これ分かるか?」
簡単な問い。ルシアンは少し考えるふりをする。
「……うん」
アルベルトが嬉しそうに笑う。
「よくできたな」
(簡単すぎる)
だが、それでいい。
(これは……何だ)
空気の中に満ちている何か。目には見えないが、確かに存在する。揺らぎ。流れ。
(力)
手を伸ばす。掴めない。だが、感じることはできる。
(面白い)
ほんのわずかに、口元が緩む。
誰も気づかない。三歳の子供。ただ少し賢い子供。そう思われている。
だが、その内側ではすでに観測が始まっていた。
ふと、記憶がよぎる。意味だけが残っている言葉。
お前に託す。
(……何を)
答えはない。まだ分からない。
ただ一つ。
(この世界を、知る必要がある)
そう思った。




