安らぎの場所
気が付くと春之助は、何処かも分からない場所にいた。
少し歩くと、市場と海が広がる場所へたどり着く。
そこは不思議と心が安らぐ世界。
新鮮な魚、気さくな板前、釣りを楽しむ老爺。
好きなものだけに囲まれた楽園のような時間。
しかし海面に映った自分の姿を見た時、春之助はあることに気付いてしまう。
そして選択を迫られる。
「此処は、何処だ?」
気付いたら春之助は、行ったこともない場所にいた。
空一面は、夕焼けで綺麗なオレンジ色に染まっている。
そして、周りには袋を手に持ち、帰る主婦達が春之助を横切って行く。
恐らく、買い物をした帰りなのだろう。
現在の時期は秋だが、まだ暑さが残っている筈だ。
しかし、暑さは感じない。
それに、特別涼しいとか、暖かいとか、寒いとか、そんな感じでもない。
只、何だか心が安らぐような感覚である。
普通なら、突然知らない場所にいたら、頭は混乱し、あたふたする筈だが、不思議とそれすらもしない。
「何故、此処にいるのか。どうやって、此処へ来たのか。どうやって、帰ればいいのか」
春之助は、そんなこともどうでもよくなっていた。
春之助はしばらく歩いていると、市場へと辿り着いた。
横には、綺麗な海があった。
どうやら、此処は魚市場のようだ。
市場を歩いていると、新鮮な魚がいっぱい並べられていた。
春之助は魚と釣りが大好きな為、大きな沢山の魚達を見て思わず興奮した。
そして自然とお腹も鳴る。
そんな春之助の姿を見た、中年男性の少し小太りな板前が声をかけてきた。
「よう、兄ちゃん。初めて見る顔だね。腹が減っているのかい? 丁度、新鮮な鰤と鯛と河豚が取れたんだ。よかったら、刺身食べるかい?」
「何だか、心を読まれているようだ」
春之助は、そう思い、新鮮な鰤と鯛と河豚の刺身を試食した。
その味に春之助は感動した。
「喜んでいる。楽しんでいる。泳いでいる。まるで、魚達と一緒に遊んでいるようだ」
あまりの美味しさに涙を流している春之助を見て、板前は安らかな表情で今度はこう言った。
「俺は……いや、此処は、お金は取らないんだ。兄ちゃん、いい食いっぷりだから気に入った。捌いといてあげるから、後から魚を取りに来な。さっき、兄ちゃんが試食した鰤と鯛と河豚。どれか、一つだけ選んでいいよ」
春之助は少し悩んだ末、「それじゃあ……河豚で」と答えた。
板前は微笑んだ。
「兄ちゃん、見る目があるね。どうやら、兄ちゃんは魚が大好きなようだ。此処から真っ直ぐに行けば、釣りが出来る場所がある。よかったら行って来な」
「やはり、この気さくな板前さんに、心を読まれいるみたいだ」
春之助は再びそう思った。
そして、急に釣りがしたくなってきた。
「しかし道具がない……」
「兄ちゃん、道具ならいらないよ。行けばそこに、自分が欲しい道具があるから」
板前は、三度、春之助の心を読んだかのように言った。
「しかし、悪い気はしない。寧ろ、心は安らかだ」
春之助は微笑み「ありがとうございます。では、また来ます」と言い歩き始めた。
しばらく歩くと、釣り場へと辿り着いた。
足場もいい。
釣りをするには最適である。
オレンジ色の夕焼けと、青い海に導かれるように、春之助は更に海のすぐ側まで近づいた。
気付いた時には、春之助の両手には釣り道具があった。
しかし、驚きもしなかった。
まるで当然かのように、春之助は釣りをする身支度を始めた。
ふと横を見ると、一人の麦わら帽子を被ったこれもまた、少し小太りな老爺が椅子に座り、静かに釣りをしていた。
「私のお爺さんに似ている」
容姿ではない。
春之助の祖父は痩せていた。
しかし、雰囲気が似ていた。
会ったことすらないが、とにかく身内の感じがした。
気付いたら、春之助は老爺に話しかけていた。
「お爺さん……釣れているかい?」
老爺はゆっくり春之助の方を向き、安らかな表情で言った。
「あぁ、此処はいつでも釣れるよ」
「いつでも?」
思わず春之助は、声が漏れてしまった。
「あぁ、いつでも……。よかったら、クーラーボックスの中を見るかい?」
老爺がそう言い、春之助はクーラーボックスの中身を見た。
その中には、三十センチは軽く越えている鯵や鯖、そして他にも沢山の魚が入っていた。
「陸っぱりからこのサイズの鯵や、鯖は珍しい。お爺さん! 凄いね!」
春之助は、また思わず興奮してしまった。
すると、老爺は再び、安らかな表情でこう言った。
「わしが凄いのではないよ。この海が凄いのだ。兄ちゃんもすぐに釣れるさ。それに、此処の海で釣れた魚は、本当に美味しいのだよ。わしは此処に来てからは、ずっと釣りをして、釣れた魚は市場にいる人達にあげたり、自分で料理をして食べたりしている。そして、また釣りをする。その繰り返しだ。さぁ、兄ちゃん。わしの横で、一緒に釣りをしよう。」
春之助はそう言われ、老爺と釣りをした。
春之助も、沢山大きな鯵や鯖が釣れた。
春之助の頭の中は、幸福感で溢れていた。
もう、他のことなど考える暇がない程だ。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
春之助のクーラーボックスの中も、新鮮な魚でいっぱいになった。
それを見ていると、再びお腹が空いてきた。 老爺はそれが分かったかのように、何処からか七輪を持ってきていた。
「今日はわしが、下処理をしてやろう。」
老爺はそう言い、釣れた沢山の魚の鱗を取り、内臓を取り、海水で魚を綺麗にして七輪の上に乗せた。
すると、口から涎が出る程の海の香りが、春之助の鼻を通り抜けた。
春之助は、焼きたての鯵や鯖を老爺と食した。
言うまでもなかった。
美味すぎて、春之助の身体は喜んでいた。
最低でも十匹は食しただろう。
あっという間に食べ終えた。
次の瞬間、海の香りに釣られた沢山の人々が春之助と老爺の前に現れた。
残っている魚を七輪で焼き、春之助と老爺はその人達に沢山あげた。
人々は、貪るように魚を食べていた。
それを見ていると、春之助はまた釣りがしたくなってきた。
海の側まで行くと、海面に何か映っているのが分かった。
「これは……私か?」
海面に映っていたのは、自分の姿だった。
春之助は、その光景を見て全てを思い出した。
春之助は目を細め、じっとその光景を眺めていた。
「独りか……。誰も来てない」
春之助は絶望した。
それに、憎悪すら感じた。
その姿を見た老爺が、春之助のお腹に指をさして口を開いた。
「兄ちゃん、よく自分のお腹を見てごらん」
言われた通りに見ると、春之助のお腹には黄色い糸のようなものがあった。
目に意識を向けないと、分からない程の細さである。
その糸は、海面に映っている自分の姿へと続いていた。
この糸が、何を意味するのか春之助は分かっていた。
そして、老爺は続けてこう言った。
「兄ちゃん……あんたはまだ間に合う。わしも、同じ体験をした。だが……わしは切ったよ。自分で。此処が、わしの本当の安らぎの場所だと思ったからだ」
それを聞いて、春之助は切ない顔をした。
しかし次の瞬間には、もう笑顔になっていた。
先程までの絶望も、憎悪すらも、完全に消えていた。
「お爺さん……刺身包丁あるかい?」
老爺は、そっと春之助に刺身包丁を渡した。
春之助は、何の一切の迷いもなく、その細い黄色い糸を刺身包丁で切った。
すると、海面に映っていた自分の姿はすぅーと消えていった。
「これで良いのだ。こんな、自分の姿なんて、釣りたくもない。それに、私も此処が、安らぎの場所であるのだから」
そして次の瞬間には、もう全く別のことを考えていた。
「そう言えば、あの気さくな板前さんが『河豚の刺身をくれる』って言っていたなぁ。後で、取りに行かなければ……。だが、もうひとっ釣りしてからにしよう」
春之助は、安らかな表情で老爺にこう言った。
「お爺さん、釣りをしよう」
春之助がそう言うと、先程までオレンジ色だった空は、真っ赤に染まった。
「あぁ……そうだな」
老爺は目が濁り、ニヤリとして答えた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
彼は現実を諦め、自分の安らげる世界を選びました。
しかし、その選択は正しかったのでしょうか?
果たして、彼のいる場所は本当に安らぎの場所だったのでしょうか?




