米の大切さに気づくという学び
米が高くて、思うように買えない日が続いている。
レジの前で値札を見てはため息をつく。その瞬間はただ「困ったな」と感じるだけだが、あとで家に帰って炊飯器のスイッチを押すと、別の感情が湧いてくる。
――それでも、やっぱり米はありがたい。
炊き上がった湯気の白さを見ていると、「買えない」という不満より、「食べられる」という感謝のほうが胸に残る。不思議なものだ。米は毎日そこにあって当たり前だと思ってきたが、値段が上がったことで、その当たり前がどれほど贅沢なことだったのかを知った。
お米ができるまでには、農家の人たちの手間が何重にも積み重なっている。
暑さ、雨、虫、台風。
そのすべてをくぐり抜けて、一粒の白い米になる。
値段の向こうにある“人の努力”を想像したとき、米はただの食品ではなく、「誰かの時間と祈りの結晶」なのだと気づく。
そして今回、米が高くて困ったことで、ひとつの学びを得た。
「足りない」と思う瞬間こそ、本当のありがたさが見えるということだ。
不便は嫌いだ。でも、不便が教えてくれる真実もある。
米が高くなったことで、食卓に並ぶ一杯のごはんが、以前よりも重みを持つようになった。
感謝が、少し深くなった。
次に米を茶碗によそうとき、きっとまた思うだろう。
――今日も食べられる。ありがたい。
その気づきこそが、今回の何よりの「学び」だった。




