03
沼底で黒く沈み逝く、オスカーの意識。
彼の脳髄から繋がる視覚、聴覚にかけて、今そこに存在するはずのない記憶の濁流が、海馬の奥底から噴き出していた。
まるでそれは一人の子供がタンスから折りたたまれて仕舞われていた衣装をひっつかみ、次から次へと引き摺りだしているような、そういった無作為さがあった。
乱暴な、記憶の氾濫。
溺れるような、息苦しさ。
深海の底で、肺が押しつぶされるような――。
「ガボッ!!!」
無数に過ぎ去った過去の記憶の奔流の中で、オスカーは意識をその手に取り戻した。
瞼は重く、呼吸は重苦しい。肺の中を満たす泥はまるで鉛だ。
これ以上に言い表しようのない苦しさが、幸いにもオスカーに自分がまだ生きていると認識させてくれた。
手には馴染み深い感覚が握られている。恐らく愛車のハンドルグリップだ。
意識を失い記憶の濁流に苛まれる中、無意識のうちに強く、強く掴んでいたのだ。
この感覚が彼の意識を肉体へと引き戻してくれたとさえ思える。
とにかく、とにかく目を開けなければ。
水面へ這い上がって、呼吸をしなければ。
鉄製のシャッターよりも重く感じられる瞼を、精一杯の気合に任せてこじ開ける。
「――っ!?」
しかしオスカーの瞳に飛び込んできたのは、想像していた暗黒の沼底とは全く異なる景色だった。
そこは、深い深い闇。
どこまでも続く、無限の暗黒。
泥で満たされたその闇の中には、淡く煌めく輝きがまばらに散らばっている。
その光景を目にしたオスカーは、そして恐らくこの光景を目にする殆どの者は、きっとこう考えるだろう。
「宇宙……!?」
無数の瞬きが散らばる、暗黒の世界。
宇宙空間にも似た闇に、オスカーは放り出されていたのだ。
いや、正しくは沈んでいたというのが正しいのかもしれない。
闇のように見えるそれは間違いなく泥でもあった。重く、黒く、まとわりつく泥。
深海とすらも言い表せるのかもしれないが、上も、下も、右も左も限りが無い。
落ちてきた水面は一切見当たらず、ただそうした空間にぽつんと、彼だけが浮いていたのだ。
ただ不可解な事がひとつあった。
ここが宇宙にしろ深海にしろ、肺を満たす物が闇にしろ泥にしろ。
とっくに窒息で絶命していてもおかしくない状況にありながら、耐えがたい息苦しささえあれど、むしろ昏倒状態から目覚めこうして生存しているのだ。
彼の眼下には自分の体があり、その手にはハンドルが握られ、そしてそのハンドルは見慣れたバイクにしっかりと繋がっている。
見慣れた、バイクに――。
「……!」
そこでオスカーは気付く。
愛車の側面に大きく描かれていた製造メーカーのロゴ。確かに刻印されていたそのロゴが、じわりじわりと、水に浮かばせたちり紙のように溶け始めていたのだ。
それだけではない。モスグリーンだった塗装も、軽量で頑丈な外装も、分厚いタイヤも、身に纏っていたマフラーも、爪の先も、髪も。
衣服は徐々にほつれ、一本一本の繊維へと解かれていくように、彼に纏わる身の回りの全てが、この闇に溶け始めていたのだ!
「ごほっ!ごぼぼ……!」
この空間を満たす泥のような物質がなんにせよ、鉄も布も肉も関係なく徐々に融解させる性質があるとするのならば、ただ事ではない。
一刻も早くこの空間から抜け出せなければ、徐々に肉も、骨も、内臓も、脳髄までも、この服のように一本一本の繊維よりも細かく分解され、闇へと溶けて消え失せてしまう。
既にひりひり、ぴりぴりとした感覚が肌の表面を駆け巡り始めているのが感じられるのだ。残された時間に猶予はない。
「どこか……がぼっ……出口は……っ」
オスカーが重苦しくのしかかる感覚を振り切るように手足を動かそうとしたその時。
『ゴルバゴギャア!!!』
「なんだ――っ!?」
肌を振るわせるような獣の咆哮。暗闇より迫る、蠢きうねる影。
それは獲物を見つけた肉食魚のように、唸り声を上げながらオスカーへと迫ってくる。
「生き物か……っ!?デカいぞ!?」
近くに寄れば寄るほど、10mは超すだろう体躯を持ったその異様の全容が明らかになる。
ぬらりとした白い体表に、僅かに煌めきを帯びてゆらめくヒダ。鰭のような部位には発達した五指と爪が供えられ、バックリと裂けるように開かれた無数の牙を備える口の上には、暗黒の中でも妖しく光を放つ真紅の単眼が見開かれていた。
『イギャアアアアア!!!!!』
「ま、まず……げぼっ!ごほっ!」
のたうつウツボとワニを合成したような異形の怪物が、今まさにオスカーへと喰らい付かんとその大口を開いて迫り来ていた!
剥き出しの敵意、獲物に対する明らかな殺意。
旅先で野生動物に襲われ危うく片腕を失いかけた記憶と恐怖心が鮮明に蘇る。その時は陸地で何とか身を隠すことで難を逃れる事も出来たが、ここは水底。
海中で狂暴な生物に襲われた経験とその対処法など彼は持ち合わせていない。
「こ、のっ――!」
両手でバイクのハンドルを強く握りしめ、体を溶かしまとわりつく泥から全身を引き剥がす事を意識して、オスカーは全力でその身を今居る場所から引き上げる。
直後。
『ギギャァアス!!!』
「っ!」
周囲の闇を打ち震わす勢いで閉じられた怪物の大顎。
牙と牙が歯車のように噛み合い、そして、彼の旅に長年連れ添った相棒を、鋼鉄の車体を、プレス機に押し込めるが如く挟み込み、押し潰し、スクラップへと変形させてしまった。
「クソ――ッ!!!」
メキメキと音を立てて噛み潰され朽ち果てていく相棒を目にしながら、千切られたハンドルを左手で握り絞めオスカーは間一髪この一撃を凌いだ。
しかし怪物は鉄塊と化したバイクだったモノをぺっ、と吐き捨てると、再びその目線をオスカーに戻し、間髪入れずに唸り声をあげて大口を開く。
咄嗟に回避を試みようとしたが、周囲に一切の足掛かりもないその状況でもはやその努力も虚しく。
『グガァッ!!!』
「ぐぅっあっ!!!!???」
自身の左腕が無数の牙によって噛み潰されるのが彼の目に映った。
闇に血が滲み、肉が裂け骨が砕ける感覚が走り、直後、激痛が全身を駆け巡る。
「がぁっあぁぁああ!!!」
一瞬にして全身の血の気が引く。冷たい海中にあって物凄い勢いで体温が下がるのをオスカーは実感した。温かな血が流出し続けているのだから当然だ。
怪物は偶然にも歯間に入り込み噛み千切る事が出来なかった細い肉の枝を、その持ち主ごと頭を大きく揺さぶって引き裂こうとする。
「ぐ、ぅうっ……ッ!」
あり得ない怪力で全身を振り回されながらも、オスカーは奥歯を噛み締め、目を見開き、自分のするべき行動に思考を巡らせた。
全身を振り回され視界が乱れる。腰のホルスターに手を伸ばし銃を握るのは不可能に近い。
殺される。このままでは確実に、あの哀れな相棒と同じ肉塊に変えられてしまう。
それでもオスカーは選択肢を漁る手を止めない。全身から左腕の傷口にかけて意識を動かし続けている源を流出させながらも、怪物と同じように執拗に自意識へ喰らい付き、手放さない。
「諦める」という選択肢を選べる自分を、彼はまだ持っていないのだから。
「死んで――たまるかッ!!!」
肺の中に流れ込んだ泥を吐き出すように捻りだした彼の絶叫。
その時――。
『――あなたは』
「っ!?この、声はっ」
ただ闇に消えるしかなかったはずの彼の叫びに、応える声が聞こえる。
あの女神像に触れ、泥に沈み飲まれる時に聞こえた、あの声。
『あなたは、いきたいの?』
その声は幼く、おぼつかない、少女の声だった。
オスカーの脳裏に直接響き、訴えかける、その声。
『どうして、いきたいとねがうの?』
切迫した状況にありながら、のんびりとした言葉。
生と死を知らない、妖精の声。
それでもオスカーは切実に叫ぶ。
まだ何も知らない。
まだ見つけられていない。
何も分からない、何も選べない、深淵のまま終わり、消える。
そんなのは、最初から生まれなかったのと同じだ。
そんな御託すらも、それ以上の本能がかき消す。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
死にたくない!
だから。
「まだ……まだ!まだ生きたいんだ――っ!」
『なら――』
ふいに、言葉が発せられる方向を感じ取ったオスカーは、周囲の時が遅くなるような感覚に苛まれながら、顔をあげた。
暗闇の中に、あの白い姿があった。
女神のような形をした、あの結晶が。
『わたしに、もういちどふれて、オスカー』
「っ!」
手を、伸ばした。
必死に、ただ、鑑みることもなく。
それが唯一選べる道だというのなら、オスカーは一切の躊躇をしなかった。
牙に挟まれた腕の筋線維がぶちぶちと断裂する感覚すら気にも留めず。
手のひらを、僅かに輝く結晶の光に透かすように。
ひやりとした感覚が、オスカーの手を伝う。
さっきまで冷たい鉱物に過ぎなかった物体が、仄かに熱を帯び、微かに鼓動する。
美しかった結晶に無数の歪な亀裂が走り、赤黒い光が漏れ出し――。
そして彼女は、淡々と語った。
『これで、わたしも――生きられる』
「なっ!」
『ギャァアアゥ!!!!???』
直後、目を焦がす瞬きと無数の悍ましい触手を溢れ出しながら、女神像はまるで孵化する卵のように砕け散った。
無数の触手は怪物の胴体を刺し貫いて悶えさせ、オスカーを守るように引き剥がす。
閃光は結晶に触れていた右手から染み渡り、全身を電撃のように駆け巡った。
「こ、れは……っ!」
噛み締める牙から解放された左腕。
辛うじて皮一枚で繋がっていた、ひしゃげたハンドルを握っていた彼の腕の筋線維一本一本が、次第に集まり、寄り添い、束ねられ、本来あるべき形を取り戻していく。
やがて感覚は指先まで十全に取り戻され、全身に失われていたものが、いや、それ以上のもので満たされた。
今まで暗闇に溶かされ続けていた感覚ももはやその肌には感じず、衣服こそ元には戻らなかったが、これ以上溶ける様子もない。
全身にのしかかっていた泥の重圧すらも、今や空中にいるように軽いのだ。
『グ、グァガアアアア!!!!』
触手を噛み千切り怨嗟に瞳を燃やした怪物は、ぎろりとオスカーを睨みつけた。
ぬるりとした白い胴体に穿たれた穴からはどろりとした暗黒色の体液が流れ出し、内臓が滑り出てくる。
それでも怪物は諦める気配はない。奴もまた、目前にいる生命体を狩り殺すことに本能を燃やしているのだ。
再生した自らの体を唖然と眺めるオスカーの傍らに、彼の身に走った輝きと同じ光が寄り集まって、寄り添うように一人の少女の姿を形作る。
透き通るように白い肌と、白い衣服、赤い瞳、そして黒く欠落した右目の空虚に覗く、赤い輝き。
「君は……」
「わたしは、深淵。オスカー、あなたの中に、宿るもの。あなたと共に、生きるもの」
アビスと名乗ったその少女は、右目と胸の虚空から、とくとくと黒い体液を流している。
それは涙のようにも、沸き立つ血のようにも見えた。
「ボクに?」
「そう。オスカー、わたしはあたなの全神経に、寄生した。そうしなければ、あなたはここで、朽ち果ててしまうから。そうしなければ、わたしは生まれることが出来なかったから」
「寄生……ボクが無事なのも、この腕が元に戻ったのも、ここで呼吸できるのも、キミのおかげで生きている、ってことか」
「そう。だからわたし達は、ふたりとも、生きなくちゃいけない」
深海生物のように美しい少女は、オスカーを見つめてそう言った。
そうしてすぐに、その目線を怪物へと戻す。
「あいつは、オスカーを、殺す。オスカーが死ねば、繋がっているわたしも、死ぬ」
『ガォアアアアア!!!!』
先ほどと様子が変わったオスカーを見て、怪物は威嚇の咆哮を鳴き叫んだ。
結晶より産まれ出た奇妙な少女アビスは、袖から触手を這い出しながらオスカーへ問いかける。
「オスカー、わたしと一緒に、あいつを、殺せる?」
「……もちろん。そうするしか今のボクらには選べないから」
左手に持っていたハンドルを右手に持ち直し、グリップをぎりと握りしめる。
それは歪にねじ切れたただの短い鉄の棒でしかない。
しかし少女の言葉に、オスカーは決意を固めた。
今まで引き金を引いた事もなければ、まして猛獣を殺したことなどもない。
しかし生きる為には、選んでなどいられない。
「一緒に戦ってくれ、アビス。ボクとキミで生き残る為に」
「わかった。わたしと、オスカーは、一緒に、生きる為に、戦う」
『ギャァアアアアアス!!!!!』
互いの血に塗れた口を大きく開き、怪物が咆哮した。
しかし、もうオスカーは怯まない。
この瞬間に初めて出会い、触れ合った二人は、切り離しようのない共生関係となっていた。
ただその事実だけで、生きる為の二つの決意を強く結びつけるのには十分だった。




