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メトロカオス  作者: 混眼ルイ
EP:01【深淵】

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02

 白いシーツ、白いカーテン、白い天井。

 そして医者の白い服。

 術後の傷が僅かに疼くが、しかし押華は表情ひとつ歪めることなく、ただ茫然とカルテを読み上げる医者の眼鏡に反射する自分の顔を見つめていた。


「摘出手術後の経過も良好です。尿道も問題なく機能しています。術後跡もあと数か月ほどで殆ど目立たなくなることでしょう」

「えぇ、えぇ、ありがとうございます先生。ほら、押華、ボーッとしてないで!」

「……ありがとうございます」


 母の手が彼の後頭部を包み込み、深く押し込まれるままに押華は礼の言葉を読み上げる。

 彼にはこの手術の意味と必要性を理解出来る程の考えを持ち合わせていなかった。そしてそれは今も変わらない。

 ただ茫然と、風もなければ揺れる事のないこの白いカーテンと共に、白いシーツにしわひとつ付けることなくそこにただただ居るだけだった。


「これで安心よ、押華。痛くなかったでしょう?腕の良い先生で良かったわね」

「うん」

「来年から始まる学校生活も、これで悩みがなくなるのよ。いじめられることもないわ。よかったでしょう?」

「うん」

「あなたは堂々としていればいいのよ。男の子でもない、女の子でもない。あなたはあなたなのよ、押華。あなたは『特別』よ。何を言われても気にすることはないの」

「……うん」


 母の言葉が彼の耳を通り抜けていく。


 正直、あまりこの時の事は覚えていない。生まれつき二つの性別を持って生まれ、そのどちらとも体から切り離す為に受けた手術。

 自分自身に選択した覚えなどなかったのだから、記憶が曖昧でも仕方ない。

 将来発生するであろう『生き辛さ』を切り離す為の手術だと両親はよく言って聞かせてきた。産まれ持ってしまった『他と違う形』を正してあげるのが親の責任だとも。

 自分からしてみれば、別に不自由を感じた覚えもなかった。


『両方でもあった』物が『どちらでも無くなった』からといって、何も変わらない。

 何も。




「なぁおい!お前なんでうんこルームばっか入るんだよ!」

「……」

「しっこだろ?うんこしてぇときにこまるんだよ!使われてるとさぁ!」


 楕円形を更に歪めたような体型の少年が押華に詰め寄る。事情を何となく知っている者も、特別その話の流れに割って入るような事もしない。


「なぁ聞いてんのかって!」

「ごめん。気を付けるよ」

「気を付けるってよォ、じゃあオンナトイレでも使うのか?なぁ!」


 教科書を胸元に抱き寄せた押華の薄い肩を、少年の分厚い掌が押し退ける。

 同世代と平均して明らかに細身な彼の体は簡単にふらついて、ロッカーに背中を打ち付けた。

 周りにも聞こえるような大きな声でまくしたてる少年の声を前にしても、押華はただ特別な反応を表に示さない。「気にすることはない」からだ。

 それにこれは母からそうするように言われた、「気遣い」の結果のひとつでもある。

 周囲から漏れ聞こえる快不快入り混じったこそばゆい小声すらも、彼の心を揺することはあまりなかった。


「なァ押華ってよぉちんこあんのかよ?」

「おれもみたことねー!」

「それは――」

「いいってばよ!見ればわかっからよォ!」


 衣服をわし掴む手。手。手。

 しかしそれでも彼は気にしない。

 どうすればいいのか。自発的にどうするべきなのか。

 それを判断する意思がそもそも無いかのように、彼は教科書を胸に抱き寄せ続ける他にする行動がなかった。


「ちょっと!太田!やめなさいよ教室で!」

「なんでとめんだよ!お前は気にならねぇのかよ!」

「ほんと男子ってサイテー!察しワルすぎ!押華ちゃんは病気なんだよ!」

「ビョーキ!?ウゲーッ!」


 押華との間に割って入る女子の声。教室が一層騒がしくなって、廊下の外まで声が漏れ聞こえる。

 そうして引き寄せられるように担任の教師がドアを勢いよくスライドさせた。


「おいお前らうるせーぞ!声が廊下まで聞こえて――おい何してんだ!」

「センセー!太田くんたちが押華ちゃんをいじめていますぅ!」

「いじめてねェよ!コイツがうんこルームばっか使うから!」

「……」


 ズボンを下ろされ、それでもただ立ち尽くしている押華を担任は抱き寄せるようにして肩を引き、教壇の方へと引き離した。

 体育教師の丸太のように太い腕は、押華の胴体よりも遥かに図太く感じられる。


「あんなァお前ら!サイテーだぞこんな事して!」

「でもオレら押華がビョーキだなんて知らねーし」

「押華は病気なんかじゃねぇんだよ!誰だそんな事言った奴は!」

「萌実でぇーす。萌実が言いましたー」

「なによ!わたしは……」

「ったくよぉ、いいかお前ら!大事な事を教えるぞ!押華はお前らとは『別』なんだよ!こいつァ産まれた時から大変な思いをしてなァ――」


 教師の言葉が教室のざわめきを抑えつける。


 あぁ。そうだった。こうして自分の正体が明かされる時も、自分が選択することはなかった。

 太田に事実を詰め寄られる時も、萌実に病気がうつるからと教科書をゴミ箱へ捨てられていた時も、自分にはどういう反応を示せば良いのか選択する事が出来なかった。

 教師が述べる言葉の数々も、それによって太田や萌実といった周りの人間の数々との関係がどうなっていったかも。

 自分が選択出来ていれば、何か変わっていたのだろうか。




「それはな~、押華。まだお前自身が、お前自身に気付けていないからだな」

「ボク自身……?」


 思い出が香る草原で、姉は木陰に腰を下ろしながら蒸し暑さにひらひらと手を仰ぎながら答えた。

 蝉時雨が辺りを飛び交って、ぎらぎらとした日差しから逃げるように押華は姉の座る木陰へ侵入する。

 大概の季節で着古したコートと古めかしいカウボーイハットを身に纏っていた姉も、炎天下では流石にそれらを脱ぎ捨てて、タンクトップ一枚で汗ばんだ肌を必死に乾かそうとしていた。


「そうだ。自分が何者か分からない。だから自分の意見も分からない。それじゃあ何かを選択することなんて到底出来やしないさ」

「う、うーん……」

「なぁに、押華が落ち込むことじゃないさ。皆大なり小なり、自分を探してるモンだ。形にならない、掴みどころの無い、手で掴もうとしても指と指の隙間を流れ落ちちまうような――押華はただちょっとそこが大きいだけさ。それは誰のせいでもねぇよ」


 熱がりの姉の肌から滲み出る熱気を、押華は僅かに感じながら横に腰かけていた。

 肌着になった彼女を見て押華も初めて気付くが、彼女の腕や首にはいくつもの古傷が目立って見える。それらは旅先でついたモノなのか、過去のちょっとした喧嘩でついたモノなのか。彼に判別出来そうにはなかった。


「ただいずれ分かるさ。いや、分からざるを得なくなる。何も選ばずに生きていける人間なんて居やしない。言葉も傷も思い出も、そうやって降り積もっていけばいくほど、否応なしにも自分という存在に気付かされていくもんさ」

「……そうみたいだね」


 押華への言葉を編みつつも、「あ~あっちぃ……なんでこの国の夏ってばこんな熱いかね」なんてぼやいている。そんな会話の姿勢の中に、彼は今しがた姉の発した言葉の裏付けを感じていた。

 炎天の中でも対照的なまでに汗ばむ事もなく涼しい顔をしている押華は、膝を抱き寄せ草原を飛ぶ蜻蛉に目線をじっと向けた。


「姉さんはどうだった?」

「分かんね。今もずーっと。じゃなきゃ今頃しみったれた実家に彼氏の一人でも連れて来てるさ。『あたしはコイツと結婚するんだ!』なんて言ってな。地元に腰を据えちゃったりして」

「……あんまり想像つかないね」

「ハハ!だろ~?」


 そう言って押華の背中を叩く姉の姿こそが、まさに『彼女』という存在をこれでもかと表しているようだった。


 姉さんほど、図太くて図々しくて、豪快な人を未だに知らない。

 ボクの前に現れる姉さんはいつも自信に満ち溢れてて、表情を曇らせた事は一度も――少なくとも、ボクの事で両親と言い合いになっていた時を除いては見たことがない。

 でも今になって思い出してみれば、姉さんの自信や豪快さは当然のようにそこにある物ではなかったのだろう。

 少なくとも実家を飛び出して、地元を離れて、その背中に追いすがろうとする後ろめたさからアクセル全開で振り切ろうとするような。

 西部劇と時代劇に憧れて、貪欲なまでに世界を渡り歩いてきた姉の偉大な背も、いくつもの選択を積み重ねた結果に過ぎないのだろう。




「じゃあ結局、ボクってなんだったんだ」


 姉の遺品整理をしながら押華は静かにぼやいた。

 世界各地を渡り歩いていた姉だったが、実は地元から暫く離れた片田舎にトレーラーハウスを設置していたのだ。

 彼女の友人が押華を唯一の肉親として「遺品の整理が必要だから」と連れ添ってくれた。元よりこの頃には姉は両親とは殆ど絶縁状態で、彼しかあてがなかったのだ。


「ポスターも本も、実家にあったのを持ち出したのばかりじゃないか」


 たった一部屋の狭い空間には、旅先で拾い集めてきたものや今まで読み漁ってきた書籍などが所狭しと堆く積まれている。

 日に焼けた映画のポスター、どこの国のモノとも分からない銘柄の酒、ブラウン管のテレビにはビデオデッキが繋げられており、近くにはテープがだらしなく伸びきったVHSカセットが無造作に転がっていた。

 恐らくビデオを見る時も睡眠を取る時も食事をする時もその全てに扱われていたであろう赤茶色の革ソファーにはうっすらと埃が積もり、無造作に置かれた一冊の本もまた時の蓄積の餌食に晒されていた。


「どっから買ってきたんだろ、こんな本」


 押華は軽く手で埃を掃ってソファーに軽く腰を下ろすと、擦れた表紙の本を手に取る。カバーは外れているのか、読み古されたそれはタイトルすらも判別できないほど擦れて汚れていた。

 ぱらぱらとめくってみれば、幸いにも本文は読み解く事が出来る状態だった。しかしそれは軽く目を通してみても、なんとも荒唐無稽な、架空都市の探訪記に過ぎない内容。

 あくびが出るような代物だったが、巻末には作者の直筆のサインとメッセージが記されていた。


『興味と、意志と、希望を翼に。そうすれば――どこへだって思いのまま!』

「興味と意志と……あの時言われたの、これの引用じゃあないか」


 筆跡からして相当古いものだ。擦れたインクの状態を見るに、姉は幾度となくこのサインを開いては見返していたのだろう。

 時期にしてこのサインが描かれたのは姉が幼少の頃くらいだろうか。

 彼女にはきっと、この言葉が、この本の筆者こそが、飽くなき冒険へと誘う切っ掛けとなったのだろう。

 押華はそっと、その本をソファーに戻した。

 彼女はここに居ない。しかしもし帰ってきた時に、この本がここに無ければきっと姉は悲しむだろう。

 そんな気がしたからだ。


「なら、ボクにとってのこの本は――」


 胸の中に燻った、あの言葉。

 誰とも知らない作家が記したメッセージの、姉なりのアレンジ。

 それはふつふつと、彼の心を奥底から焚き付けるようだった。

 押華は結局、それ以外の遺品には手を付けずトレーラーハウスを後にした。


 ボクが扉を開けて外へ歩み出ていく、その後ろ姿が見える。

 そうだ。ボクはこの日、「旅に出よう」と初めて自分で選択したんだ。

 姉の後を追うような言葉に、必死に引き留めようとする両親を引き離して。

 一心不乱に軍資金をかき集めて。免許と愛車を手に入れて。

 そうして、新しく名乗ったんだ。「オスカー」を、今の名を。

 過去を脱ぎ捨てる為じゃない。

 純粋に、ただただ純粋に、世界を見たくって。




 その国は砂塵に覆われていた。

 少しでも口を開けば、舌の上と奥歯が味のしないザラメでトッピングされるようだった。あの夏の日よりもぎらつく日差しは、しかし故郷よりも息苦しくは感じなかった。

 安宿に向かったオスカーは荷物を下ろし、フロントの不愛想な受付と話す。


 決して流暢に言葉が通じる訳ではない。お互い、ある程度共通した言語で、おぼつかないひな鳥の足取りのような言葉使いでコミュニケーションを取る。

 幾度かの躓きがありながらも、身振り手振りも交えて無事鍵を受け取ることが出来た彼は、狭苦しく床の硬い部屋で一人、机に座って頬杖を突き、そこから見える砂ばかりの景色を眺めた。


 この国に来るまでも、いくつもの街や村、そして人々を見てきた。

 都会も、高原も、森林も、南海も、そして今は砂漠にいる。

 そのどれもが多様で、様々な色彩を放っていた。

 時には地元の方々の仕事を手伝って。時には命の危機すら覚える状況に巻き込まれて。

 そうした生活を七年続けていくうちに彼が手に入れたのは、様々な国の色とりどりな通貨と一丁の拳銃だった。

 その僅かな荷物と年季が刻まれたバイクだけが、彼が旅路で得たものを象徴するのに十分なのだ。


 試射以外で未だ一度も引き金を引いた事のない拳銃を机に取り出し、メンテナンスをしながら枯れた大地をただ眺める。

 自分はこの旅で何を手に入れただろうか。

 何を「自分」に積もらせることが出来ただろうか。

 何かを選択出来る自分を得られただろうか。

 未だその感覚はない。

 両手で包み掴もうと指と指の隙間を流れ落ちていくような感覚。

 いや、それ以上に、汲み取るべき器に、大きな大きな穴が空いている。

 どこまでも暗く、深い穴が、ぽっかりと。

 様々な人と関わり合い、様々な世界を見て、しかしそれでもいくつもの結び目が蓄積せず、溶けて、うやむやになっていく。

 今まで見ていく景色の中に、自分の姿を見出すことは出来なかった。

 この砂漠に一滴の水滴を落とすようなものだ。


 次はあてもなくどこへ向かおうか。

 オスカーはそう思いながら銃を仕舞い、ふと遠方を見るとひとつの小さな物体が景色を横切った。

 それが一匹の白い兎だというのは、彼の視力からすれば判断は容易だ。

 砂漠にしては珍しい色をしたその兎は、軽快に、そして慎重に用心深く、砂の中を駆けていった。

 どこまでも走り去ってゆく兎が見えなくなるまで眺めていたオスカーは、干からびたマットレスと背中を密着させる。


 そういえば地元でも一度、野生の兎を見たことがあった。

 あの痩せた細身の兎は、今どうしているだろうか。


「……いや、寿命からすれば死んでるか」


 姉の後ろ姿と、跳ねる兎の後ろ姿。

 それは交互に、彼の脳裏で反復横跳びを続けた。

 今はもう見る事の出来ない、二つの姿。


「……」


 ほんの思い付きだ。

 もう一度、あの草原を見たい。

 姉の姿も、兎の姿も、そこになかったとしても。

 あの本をトレーラーハウスのソファに残して来た時のように、それをもう一度目にしたいと思った時に、それがそこにあるという安心感。

 オスカーはただそんな思い付きで、地元への便を取った。


 ボクは握ったんだ。

 帰路に着くためのバイクのハンドルを。

 いつもどこかへボクを連れて行ってくれた、ハンドルを――。

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