01
青い草が香る山道。髪を撫で梳く風は爽やかで、木々のざわめきが通り過ぎていくのを肌で感じる。
枝葉で隠れた日差しは木漏れ日となって淡く道を照らし、この国の、この季節の暖かくも寒くもない穏やかな心地よさを息吹かせていた。
『っつーかさ、地元帰ったンなら連絡くらいくれよな!』
「たまたま通りがかっただけだよ」
褪せた灰髪の青年はうねる山道を唸るバイクに跨って駆け抜ける。
思い出の景色も時が経てば木々は伸び、草は枯れて生え変わり、花々の彩もその姿を変えているものだ。
その最中を今まで姉の背でしか感じる事の無かった風の中で見てみれば、自分があの時と比べて幾分かは視点が高く変わった事を伝えて来るだろう。
『同窓会も相変わらず来ねーしよ。毎年メールよこしてやってンだからたまには顔出せよ押華――じゃなかった、今はオスカーだったか?』
「どっちでもいいよ。昨日まで海外に居たしさ、誘ってくれる気持ちは嬉しいけど」
『そーやってのらりくらり地元付き合い躱してばっかじゃ苦労するぜ?』
ハンズフリーで会話する青年は、幼馴染の言葉に表情を変える事はなかった。
しつこい誘いに対して良くも悪くも感じていない。自身を誘ってくれる好意は確かに認めているが、彼にはそれを打ち消す気まずさが地元にあるのだろう。
旅人オスカーの跨るモスグリーンの無骨なバイクには様々な荷物が括られ今までの旅路を物語る。頑丈な機能性を持つマシンは、端的に彼の在り方を映すようだった。
決して大型ではなくむしろ小柄かつ古めかしい年式なのが見て取れるが、必要十分に手を加えられており粘り強く坂道を駆けあがる様は、長旅の相棒として小まめな手入れを受けながら大事にされてきたのが伺える。
『俺っちとしても寂しいからよ、そりゃお前さんがお袋とは上手く行ってねーのは知っちゃあいるけど……たまには顔出してくれよな』
「別に両親の事は気にしてないよ。たまたまタイミングが合わないだけ。次来た時はこっちから連絡するよ」
『ったく相変わらずのシャイだなオスカーは!』
「少しはマシになったと思うけどね。運転中だからそろそろ切るよ。電話ありがとう」
『あいよ!あんまダチを心配させンなよ!』
通話を終えたオスカーは久々に呼ばれた元の名を少し懐かしむように、山道の景色と共に名残惜しそうに気持ちの中で反芻させた。
もう地元と旧名を捨ててから七年になる。行方不明になった姉の背を追うように出た旅路と新たな名も、もう随分とこなれてきた。
海の外の見知らぬ人々に名前を伝えるのにはそう苦労しなかったが、ふと地元に帰ったという噂が流れてみれば、こうして過去をじんわりと思い出す機会に晒されるものだった。
バイクを減速させたオスカーは舗装された道路から外れるちょっとした脇道に視線を移す。砂利が散らばり雑草に薄ら覆われた獣道が雑木林の向こうへとひっそり迎え入れるように小さな口を開く。
「ここだ。まだ道が残ってて良かった」
ちょっとした悪路でも彼の小柄な相棒は難なく乗り越えてくれる。肩と荷物を揺らす振動を今は一人でしか感じられない事に彼は自身の成長と、ほんの僅かな寂しさを胸に燻らせた。
小さな手で必死に掴まっていた安定的な背中の安心感も、今は遠い記憶の中。しかしこうして辿ってみると、存外その景色の面影は随所に残されているようだ。
「あのねじれた木が見えたら右折……」
老いさらばえて爛れた樹皮を纏うねじれた樹木を目印に更に道を右へ。
秘密の合言葉のように目印を辿って、オスカーは姉と共に土産話を語らった二人だけの秘密の草原を目指した。
もう一度、あの白い花が印象深い草原に行こうと思い立ったのも、彼のほんの気まぐれだった。枯れた砂塵の国で借りた安宿の干からびたマットレスの上で、ただぼんやりと過去の記憶を辿っていた時に過った、単なる思い付き。
その日のうちに船便へ乗って母国へと戻り、ただあの草原へと行くことだけを目的に愛車を走らせていたのだ。
そもそも姉と最後に会ったのも十年前だ。姉がハンドルを握るバイクの後ろで見ていただけの景色を記憶だけ頼りにしてここまで辿れたのは、本人からしてみてもなんと記憶力のしぶとい事かと感心した。
しかしそんな彼に、一握の違和感が足元より忍び寄る。
「――ん?機嫌悪いな、どうしたんだ?」
先ほどからタイヤの調子が悪い。滑るような、空回りするような、沼地で足回りを奪われた感覚を思い出す。
今までの旅路でも何度かこうした不調はあったが、彼がバイクを止めて足元を確認してみるとその原因が見て取れた。
「……オイルかな?これ」
砂利道に走る一筋の黒い液体。それがタイヤを滑らせ、空回りさせていたようだ。
今まで通ってきた道にも轍となってそれは残されていて、彼はオイル漏れを疑ってバイクの様子を見る。
「漏れてる訳でもないか」
それもそのはず、地元へ帰る前に点検は行っている。いくら年季が入っているとは言え、この相棒に至ってそう簡単にガタが来るはずもない。
指先に黒い液体を少量付着させ、親指と人差し指で軽くこすり合わせると、それはなかなかの粘度を持ちオイルよりもヘドロやタールに感覚が近い液体なのが分かる。
「オイルでもないし、自然な泥にしては――えっ、なんだこれ」
地面にしゃがみこんでいた彼のブーツにじわりと迫る黒い液体に、咄嗟にオスカーは立ちあがった。気味の悪いことにその液体は今まさに、自分が向かおうとした雑木林の奥地から流れ出て来ていたのだ。
それは一筋の小さな道のようになって、オスカーへまるで「辿ってこい」と言わんばかりだ。
「今日日、産廃の不法投棄でもされたのか?」
嫌な臭いと風景に、オスカーはハンドルを握ってバイクを手で押しながら本来の行く先でもあった道の先を目指す。
次第に足元の液体はその量を増してゆき、そうして目的の場所に行きつく頃には――。
「なんっ!?なんだ……!?」
あの草原は、黒い泥沼になっていた。
青々とした草や白い花は見る影もなく、地面から湧き出した油田のように黒い液体で辺りが満たされている。ぬかるんだ地面によって土壌が緩んだのか、木々さえも沼へ向かって傾いて、いくつか枯れ果てた幹が沼の中で横たわっていた。
それだけ沼に近付く頃には水位が上がっており、彼の踝辺りは既に黒い泥に沈んでいる。ブーツだったのは幸いで、スニーカーで来ていれば水没は必至だ。
車輪も次第に泥で足を取られ、手で押すのが困難になった。
「石油でも湧き出したのか?まさかそんな訳――なんだアレは?」
沼から引き返そうとした彼の目に映ったのは、その沼のど真ん中に沈む、ひとつの白い物体だった。ここから見ても分かるくらい、それはハッキリと目立って、木漏れ日を受けて艶やかに光を反射している。
乳白色の水晶の塊のようで、もしそうだとしたらその大きさは子供一人分程度でかなりのものだ。
そして彼の見間違いでなければ――それは女神像のような、ぼんやりとしたヒト型の輪郭をしているのだ。
「像?どうしてこんな所に?」
思いもよらない好奇心を誘うその姿に、オスカーは多少の恐怖を覚えれどバイクを精いっぱい押しながら沼の中を歩んだ。
物体に寄れば寄るほど、沼は深くなるのに気付いてはいた。しかしその水晶で象られた歪な女神像の、虚空を湛えた顔面の穴からどろどろと液体が流れ出し続けているのを目にすれば、怖いもの見たさが勝ってしまう事もあるだろう。
何よりも魔性というものがあるとするならば、それは正にこの女神像こそが放つものに違いない。
オスカーは無意識に――いや意識的だったのかもしれないが、そのつるりとした女神像に触れようと手を伸ばした。
ほんの指先だけでも、触れようと。
そうして彼は初めて、足元の沼底に、地面がなくなっていた事に気付いた。
「――っ!?しまった!!」
ぐらりとした浮遊感。否応でも意識が引き戻される。
底なし沼にはまりそうになった時の心得が脳裏に過り、オスカーは咄嗟に余計な身動きを封じて身に着けていた荷物を手放し、手の届く範囲に掴めるものを探ろうと見渡す。
既に腰まで沼へと引き込まれる中、オスカーは傍らで横たわっていた愛車のハンドルへと必死に手を伸ばし――たが、掴んだ傍からバイクまでも共に沼へと沈む。
沼の底の大穴が、次第にその範囲を広げ始めていたのだ!
「まずいっ!」
次第に泥底へと引き込まれる勢いも増し始め、胸、首へとその体を飲み込んでいく。
こうなれば冷静さを保つのも難しく、オスカーは必死に浮上しようと手足をばたつかせ、何かを掴もうと手を伸ばし続けた。
こんな所で溺れる訳にはいかない――!
こんな所で死ぬ訳には――!
藁にもすがる思いだった。
それが自分を沼へ沈めた原因だったとしても、彼は必死に掴もうと、女神像へと手を伸ばした。
するりとした感覚が指先に触れた。あの白い水晶の、冷たい感覚だ。
沈みゆく視界の中で、オスカーは確かに、その手で顔の無い彼女を掴んでいた。
だがしかし、彼の視界は黒く、黒く包まれた。
どぷんとした感覚と共に、バンダナを巻いた頭の先まで埋もれていた。
それもそうだ。掴んだ女神像すらも、共に沼底へと沈んでいたのだから。
呼吸困難で遠のく意識の最中。
『あなたは――』
脳裏に過るその言葉。
しかしその言葉の意味を咀嚼する間もなく。
彼の体は力を失い、暗黒の底へと落ちていった。




