05
冷たい――風。
ペトリコールを香らせる、風。
雨水が混ざって、肌を裂くような、冷たい――風。
髪を撫で梳く……――。
「か、ぜ――じゃないっ!」
オスカーは落ちていた。
薄黒い雨雲の中を。濁った大気がそのまま姿を得たような生臭い雷雲の中を。
暗雲の中には赤い人工的な煌めきがいくつも見え、そして彼の肉体は――風を切り裂いて落下していた!
「オ、スカー……目を、覚ま、し……」
「ア、アビス!?大丈夫か!?」
頭上から聞こえるアビスの声に彼が目をやると、彼女は暗い雲海の中を一生懸命皮膜を張った触手を広げ、息も絶え絶えにオスカーを抱えたまま飛ぼうとしていた。
全身から黒い体液を垂れ流し、それがボタボタと降って来てオスカーの肌を伝う。
冷たい雨が飛び交う雲中を今にも途絶えそうな意識の中、何とか風だけを受け止めて姿勢を制御するのに専念し、稲妻に直撃しないように彼を守りながら落下していたのだ。
「ごめ、ん……オスカー……守り切る、つもりだった、のに……体が、もたない」
「ここまで守ってくれたのか……うわぁっ!?こ、ここは!?ここはどこなんだ!?」
まだヒリと額に痛みが疼くオスカーの横を、暗黒色の稲妻が空間を引き裂く。
その雲中は明らかに、先ほどの『混界』などという泥中とは状況が異なった。彼らの頭上からは雷鳴と雨音に混ざって腹の底をひっかき回すような重苦しくどろりとした機械音が響いてくる。
「ここ、は……ボルテクスの渦の中心……混界と現界との、境界線を超えた先にある、ボルテクスの中の、世界……」
「世界――」
二人の体が雨雲を切り裂き、突き抜ける。
そして目に飛び込んできた光景、それは――。
「街!?街だっ!?!?」
遥か遠くの地上を埋め尽くしてギラギラギトギトと輝く無数のネオンの海。
喧騒と極彩色の煌めきを纏う高層ビル群、家屋の数々。
空中にすら広告を掲示するネオンが浮遊し、大気にも色を齎している。
落下していくオスカーの横を、恐らく車としか解釈しようのない乗り物が横切り、激しくクラクションを鳴らし飛び去って行った。何度も何度も行き交ってゆく。
今まで暗黒の中を漂っていた二人の視神経を刺す輝き。耳をつんざく喧騒。
そんな『大都会』が、暗雲を抜けた彼らの眼下を埋め尽くし、どこまでもどこまでも、視界の果てまで広がっていた!
「こんな街があの渦の先にあったのか!?」
「本の中で、記されていた街……あのままじゃ、ボルテクスの激しい流れで、オスカー、バラバラ……だから、飛び込んだ……わた、し、が……生き……た、め……」
「ア、アビス?アビス!」
アビスの力が次第に失われているのがオスカーを包む触手を伝ってくる。
直後、彼女は遂にバランスを崩し、姿勢制御を失った二人の体が空中で錐揉み状に乱れる!
「う、うわぁあっ!?まずい!!!」
生憎パラシュートなど持っていない!
ひっくり返ったオスカーの視界に夜空が映る――と、彼は思っていた事だろう。
「――て、天井!?」
しかし彼の視界一杯に広がったのは、どこまでも空を閉塞する分厚い機械仕掛けの天井。
先ほど抜けてきた雨雲の中では黒い稲妻が輝き、機械の発する航空障害灯と思われる赤い光が規則正しく連なっている。
雷雲の最中で聞こえた機械の駆動音と目に映った赤い光の正体はアレだったのだろう……などと、そんな悠長なことを考えている場合ではない。
彼の体は何の助けもなくどんどん眼下の都市へと落下しているのだから!
「このままじゃ結局バラバラだ!」
「オ……スカー、横」
「横?――」
『プァーン!!!!』
「ぐはっ!?」
クラクションに一体何の意図を乗せていたのか。
ゴン!と二人の体を空飛ぶ車が跳ね飛ばし、気にも留めず飛び去って行く。
幸いにも打ちどころが良かったのか、或いはそれどころではないのか、大した痛みはなかったがオスカーの体は弾き飛ばされ更に激しく回転する!
ギュンギュンと周囲の輝きが渦を巻いて流れ過ぎ去る、視界の無重力シェイク。
「うわぉあぁぁあ!!!!」
「……おぇー」
背面でアビスがドス黒い吐瀉物を煌びやかなネオンの空に撒き散らそうと、もはや止める事は出来ない。
そのまま突き飛ばされた彼の体は宙に浮遊していた広告に激突!
『モルフォエナジーでェ、スッキリ爽快ィ!蝶のように舞い蝶のように刺す!』
本来地上に向けて照射されている広告音声が耳元で爆裂しようとも、耳をふさぐのも叶わない。
ネオン看板に激突したオスカーはそのまま軌道を修正され再び垂直に落下する。その次に迫るのはドローンに吊るされ宙を飛ぶ布状の液晶横断幕。
『祝!ベルゴモス区東ポート開港2500周期記念!』
「いたっ!?」
「ビ、ビリビ、ビリ……」
そんなおめでたい広告を映す見るからに繊細そうな物体に成人と寄生生物二人の重量を受け止めて支えられる訳もなく、横断幕型ネオンは真っ二つに引き裂かれて破け、激しくショートしてちょっとした電流を二人に流しながら空中で爆散!
ふと横を見ればビル群の窓にヒト影が見て取れる。それほど彼の体は地上へ引き寄せられていた。
ぐわんぐわんと落下する彼らの真下には、ビルとビルに挟まれた路地を跨って掛けられている物干しロープとそれに吊るされ風に揺られる洗濯物、いくつも連なってバルコニーを覆う雨避け用のカラフルなオーニングの数々。
「ぶつかる――!」
「オ、スカー……ッ!」
振り絞るようなアビスの声と共に弱々しくも黒い触手が空を裂き、ビル屋上の手すりに絡みつく、が、完全な減速には至らない!
オーニングに体が叩きつけられそれも先ほどの横断幕と同じように破きながらバルコニーに背中を衝突させ、向かい側のビル壁に掛けられていた室外機へ弾け飛ぶ。
「ぐっ!うわぁっ!がはっ!」
「あ、わ、わわわ、ぁ」
またもや衝突した後、洗濯物が干されていた物干しロープにひっかかり、いくつもの洗濯物を道連れに垂直落下。
幾度もアビスが触手を物干しロープや手すりに巻き付けながら落下速度を抑制し……。
どさり!
「うわぁっ!」
「ぐ、うぅ……」
冷たく濡れた、アスファルトの地面がオスカーの体を打った。
いや、正確には放棄されていた黒いゴミ袋の山にその体をどさりと叩きつけたのだ。アビスが減速を続けながら衝突の直前にオスカーの体を自ら引き離し、アスファルトへの衝突を極限まで軽減してクッション替わりとなるゴミ山へと彼を投げ出していた。
「っつぅ……っ!アビス!?アビス!」
全身の痛みに冷や汗を流しながらもふらふらと立ち上がったオスカーは未だその手に引き千切れたハンドルを握り締めていた事に今更気付きつつ、地面に打ち付けられアスファルトへ黒い染みを広げ倒れているアビスへ駆け寄り、小さな肩を握り揺する。
「大丈夫!?アビス!そんな、ボクの為に――」
「オス、カー……」
何とか救命作業出来ないかと彼女の白い体を起こそうとしたオスカーの目の前で、むくりとアビスが起き上がる。
「……オスカー、再度伝えるけど、この体はわたしではあるが、わたし本体ではない。わたしは、オスカーの全身の神経に存在していて、この体は、あくまで外界を認識し活動する、た、め、ため……の……げぼー」
「ちょっと、無理しないで」
ゆらゆらと立ち上がったアビスの全身からどくどくと体液が溢れ出し口から大量に吐血?しながら再びふらふらとバランスを崩して倒れそうになったのをオスカーが咄嗟に支える。
ここは路地裏で、ヒト目に触れることもそうそうなさそうだ。
「おかし、い……手、足、体、の、形状が、うまく、維持、出来な、い……何故……」
「とにかくここじゃ助けも呼べない、早く病院に……いや寄生生物って病院でいいのかな?動物病院?」
若干テンパり気味のオスカーだが、とにかく自分を庇ってくれたアビスを労わるように肩を貸してアビスをゆっくりと地面へ座らせた。
しかしその時。
「待って、オスカー」
アビスが頭部の触覚のような部位を震わせる。
それに続いてオスカーの耳にもそれは聞こえて来た。
路地の外側、大通りの方からアスファルトを蹴って走る靴の音。それも一人ではなく、バタバタと慌ただしい雰囲気だ。
「間違いねぇぜェ!この辺りに落ちたんだッ!臭う、臭うぜェ!」
荒々しい吐息混じりの男の声。
ブーツにしては何か硬い物が地面をこするような音も混じっている。
「ダズー!アンタの鼻なんてアテになりゃしないんだよ!モロの見間違いなんじゃあないのかい?」
「それはないゾ、ソエリの姉御。オデも一緒に落ちて来るの見たんだゾ」
「フン、ドゴが言うなら間違いなさそうだねェ。ったく、いいから辺りを探しな!落ちてきたモン売っぱらえば来期まで酒と甘い枝にゃ困らないよ!」
ノイズ混じりで籠っているが随分と高圧的な口調の女と、間延びした低い声。
オスカーは咄嗟に、その会話内容から彼女達が追い求めているのが自分自身だと察した。
「……」
息を殺し、闇に身を紛らそうと身動きの取れないアビスと共に路地奥へ入り込もうとする。
だがオスカーの目論見も、後頭部に突きつけられた冷たく硬い感覚に撃ち破られた。
「見つけたぜぇ、おぉっとそのまま動くなよ。指滑らせて引き金引いちまうからな?オレとしても穴が空いた宝物はチーズだけで十分なのは分かるよな?」
「……オスカー」
「武器は手放す。手も上げる。ただ負傷者が居るんだ。こちらに抵抗の意思はない」
背後から響く先ほどよりは若くも雄々しい女の声。恐らくオスカーの経験からして頭部に突きつけられているのは拳銃だ。
アビスを庇うようにその背で隠しながらも、幸い言葉が通じるのを確認しつつオスカーは静かにその両手を挙げ、握っていたハンドルを手放した。
「あぁ?なんだそれ、ハハ!そんな鉄クズ大事に握りしめて、それが武器ってか?ボロキレの流れモンが、笑わせてくれるぜ。姉御!見つけたぜ!おい、こっちにゆっくり振り向きな」
「オスカー、仲間を呼ばれた」
「……」
『今は従うしかない』、そういった様子の目配せをアビスに送り、オスカーはゆっくりと振り返る。今更ながら、都会に漂うドブの臭いが鼻に突いた。
しかし彼らが目を見開き顔をしかめたのはその悪臭が原因ではない。
そう、眼前で銃を突きつける女も同じように、だ。
「なっ!?テメェソイツ、『イデア』じゃねぇか!?」
「えっ、み、耳……!?」
アビスを目にし、まるでギャンブルで思いもよらない異常な勝ち方をしてしまった、そんな歓喜と懐疑が入り混じったような表情で目を丸くし顔をしかめる女。
しわくちゃでボロボロのタンクトップ一枚とツギハギだらけのカーゴパンツを身に纏った思ったよりも小柄な姿。
片目を隠すように包帯が巻かれたその緑髪の頭にはなんと、ぴくぴくと、ひきつるように震えるネズミに似た大きな耳と、腰から伸びてピンと張りつめた尻尾があったのだ。




