04
『グルアギャォ!』
「オスカー、掴まって」
「アビス!」
大口が迫る刹那、アビスの触手がオスカーの体を巻き上げ、怪物の軌道からその体を背面側へ逸らす。
アビスへ向けてバグンと牙と牙が噛み合うが、そこに彼女の姿はない。
直後、オスカーの体から光が僅かに分離し、それは再びアビスの形を作り出した。
「あくまで本体はボクの中にいるってことか」
「オスカーさえ傷つかなければ、わたしは死なない」
『ぐくぅるる……』
虚無を食んだ怪物は収まる事のない怒りに瞳を震わせながら二人を見上げる。
真っ赤な舌を舐めずり、その鋭い爪をオスカーに向けて振りぬいた。咄嗟の判断で彼は手で握りしめていたハンドルでそれを受け止める。
到底耐えられる訳もないはずだが、しかし、そうはならなかった。
「こん、のっ……!」
10mも超すであろう体躯を持つ怪物の振るう剛腕に対し、オスカーはほぼ対等にその攻撃を受け流していたのだ。
彼が攻撃を受け止めている隙に、アビスが張り巡らせた無数の触手が怪物の鰭を縛り付け、締め上げる。ミシミシと肉にめり込み組織を引き裂く音が泥に響き、やがてボクンという音を鳴らして骨を砕いた。
『アギャァス!?』
恐らく捕食者として今までその力を疑う事の無かった怪物に、経験したことのない痛みが走る。
腕がひしゃげ、黒い体液を撒き散らしながら先ほどまで獲物に過ぎなかった彼らから距離を取るように闇を泳ぐ。しかし怒りと恐怖が入り混じったうめき声は、未だその執着と殺意を手放していない事を訴えていた。
「あいつは、『混獣』。恐らく、形態からして、『蛇鯨混獣』と呼称される、大型種。わたしの、推測が正しい場合、急所は眼球」
「アビスはアイツがなんだか知ってるのか?」
「混獣は、この『混界』に棲息する、固有生物。捕食の為ではなく、殺戮の為に獲物を狙う、独特な生態を持つ物が、そう呼ばれている」
蛇鯨混獣と呼ばれた怪物は、ガチガチと牙を鳴らし、わきわきと鋭い爪を躍らせると、その尾を大きく翻しオスカーへ向けて打ち付けようとしてくる。
怪力は大きな海流となって彼の体を闇の中でもみくちゃにするが、先ほどまでの重圧から解放された彼はすぐさま態勢を立て直すと、直後に襲い掛かって来た牙を躱し、背中に並ぶヒダを掴む。
背面に取り付いたオスカーを引き剥がそうと蛇鯨混獣はその体を激しくうねらせながら闇をのたうつ。自分の細腕からは今まで得られることのなかった力を振り絞って食いつきながらも、手を離すことなく食いしばるのは困難だった。
「オスカー、体、少し借りても良い?」
「っ!わかった!」
オスカーの返答に、アビスはこくりと頷くと、すぐさま彼の体へまるで幽霊が取り憑くように入り込む。直後、オスカーの首に巻いていたマフラーからアビスの操っていた物と同じ触手がうねり出し、それは複雑に絡み合って腕を形成すると蛇鯨混獣の背中に力強くしがみついた。
触腕はオスカーの意思と連動し、新たに生えた手足として機能する。また一歩、また一歩と、切り立った崖をクライミングした時の記憶を思い起こしながら、オスカーはその歩みを進めた。
「フフッ、なるほど」
『どうしたの、オスカー』
不思議と笑みが漏れたオスカーの頭の中で、アビスの声が響く。
「これは便利だなって思って。こうやってしがみついてよじ登りながら、まだ二本も腕が自由に使えるんだから、さ!」
『ウルグァアアアアィ!!!』
いくら力任せに振り落とそうとも離れないオスカーにいよいよ恐怖した混獣の口内へ、触腕が滑り込む。上顎を掴み、閉じようとする力を振り切って、逆向きに顎を裂いていった。
『気に入ってくれたなら、よかった』
『グゥウウウ、グゥアアアッ!!!』
暴れのたうつ混獣の背にしがみついたオスカーの眼前に、煌々と輝く赤い瞳が持ち上げられる。
『オスカー、目を』
オスカーと目線が合い、見開かれた紅の球に向けて、オスカーは右手に握り絞めたハンドルのねじ切れ鋭く尖った切っ先を向けた。
「悪いけど、相棒の敵は討たせてもらうよっ!」
『――ッ!』
突き、刺し、穿った。鉄の杭となったハンドルは、深く深く混獣の眼球内に突き刺さった。
ぬるりとした感覚がオスカーの腕を這う。ずぐずぐと肉を押し裂き、抉り、無数の血管と神経を断ち切り、そして引き抜かれた。
『ギィギャァアアアァ……』
打って変わって真っ赤な血を撒き散らし、慟哭する混獣。
死に際の獣はより激しく体をうねらせ、遂に外敵をその身から引き離すことに成功したが、暗闇の中に幾本もの赤い軌跡を描いたのち、それは精気を失ったように硬直し、ただただ無力に闇を漂うのみとなった。
命を失ったヒダのきらめきが失われ、闇へと溶けていく。
重苦しく白い肉の巨木は、そうして闇の奥へ、奥へと沈んでいった。
「はぁ……はぁ……やった」
「なんとか、生き残れた、ね」
アビスがするりと姿を現すと、マフラーから伸びていた腕が泡のように溶けて消失する。
貧血にも似た凄まじい倦怠感がオスカーを襲った。
「オスカー、すまない。血と肉を使いすぎた。わたしの判断で、わたしの腕を、使わせてしまった、から」
「そりゃ……あんな便利なのタダで使えるワケないよね……でも、ありがとう。おかげで無事だよ」
少なくとも今、死ぬことはなかった。
それだけで十分なのだ。
「これから一緒に生きるしかないってことでいいんだよね、アビス」
「わたしは、わたしの命を、オスカーから切り離して生きることは、出来ない。オスカーが、『生きたい』と願ったように。わたしも、生きたい。それに――」
アビスは目を一瞬伏せ、それが了承されるか不安そうに、言葉を続けた。
「わたしは、オスカー、あなたの記憶の中で、知ってしまった。『知りたい』という欲求を。『選びたい』という感情を。ただの『石』でしかなかったわたしが、一体何者で、なんのために生きているのか、わたしは――」
「分かってる。無理に追い出したりするつもりなんてないよ。なによりボクの命を救ってくれたんだ」
たどたどしく、自分の心にすら困惑するような様子で語るアビスに、オスカーは少し笑みをこぼしてそう答えた。
そこに居るのは、まるで幼少の頃の自分の鑑映しのようでもあったから。自分自身を作り出した原風景が、そのまま人の形を持ってそこにいるかのようだった。
だからこそ、彼は笑んだのだ。姉がかつて自らへそうしたように。
触手を操り、人に寄生し、奇妙な力を持つその存在さえも、人と全く変わらない、単純な疑問に苛まれる一人のあどけない少女に違いなかった。
彼女は『同じ』なのだと。
そこに彼女を拒絶出来る理由などない、と。
だからこそオスカーは自らに寄生した目前の少女に対して親しみを覚えた。
少なくとも、オスカーに彼女を自らの肉体から追い出すという選択肢は浮かばなかった。最も、アビスの生態や状況からしてそうすること自体不可能なのを何となく察していたのもあるだろうが。
「よろしく、アビス」
オスカーはアビスに、手を差し出した。
「……オスカー、この体はわたしではあるが、わたし本体ではない。わたしは、オスカーの全身の神経に存在していて、この体は、あくまで外界を認識し活動するための――」
「はは、分かってる。そうじゃないよ」
彼女はしばらく何かを探るようにボーっと手を見つめた後、白い袖の中から小さな手を始めて現した。
真っ白な、真っ白な肌をした小さな手だ。
「オスカーの記憶から、これは握手という行為。信頼を示す、そういう意味と受け取って、いい?」
「うん。一緒に生きていくしかないならさ、せっかくだし仲良くしないとなって」
オスカーの言葉に、アビスは彼の手を、そっと握り返した。
「一緒に探しに行こう、アビス」
「うん……よろしく、オスカー」
たどたどしく、おぼつかない足取りで、彼の言葉を真似てアビスは答えた。
二人は確かに手を取り合い、頷き合った。
もはや後戻りできない奇妙な友情の始まりを刻み込むように。
「――それで、アビスはここについてどれくらい知ってるの?」
「わたしは、知らない。わたしの話す言葉や、情報、それは全部、オスカーの記憶に、由来してる。最初に、オスカーがわたしに触れた時、たくさんの記憶、見た」
「さっき見た走馬灯はアビスが記憶を探ってたって事か……だとしてもおかしくないか?あの怪物、『混獣』って言ったっけ。ボクはそんな存在知らないよ」
オスカーの疑問に、アビスは記憶を辿るように語る。
「オスカーの、記憶の浅い部分には残っていない。でも、奥深くに放置されていた、昔読んだ本の記憶。それに描かれていたことと、類似していた」
「本?……本!姉さんの本のことか!?」
「その本に描かれていた『混界』と、この空間の状況は一致する」
姉の遺品整理の時に、適当に読み飛ばしたあの本。
そこに描かれたサインはしっかりと記憶していたが、内容までは朧げだった。
どうやらアビスはオスカーの意識していない記憶からも、一度でも目にした事ならばある程度情報を汲み取る事が出来るらしい。
「ここは、次元と次元の狭間。数多の別世界が浮かぶ亜空間。見える光の全てが、ひとつひとつの宇宙であり、世界。そう、本には記されていた」
暗闇に輝く無数の光。
星々のように見えるそれらは、全てがそれぞれ別の次元であり、世界だと言う。
オスカーの額にほんの一瞬だけ、冷や汗が伝った。
とんだ場所に落っこちてしまったと。
「は、はは、参ったな。これじゃあ元の世界を探すのも大変そうだ……あの光はは?」
オスカーの指し示す先で一際大きく、赤黒く輝くものがあった。
中心にぽっかりと暗黒の穴が空いた、赤い輪にも、瞳孔のようにも見える。
「あれは、ボルテクス。この混界の、中心の渦。あの中には――」
アビスがそう言いかけた、その時。
二人の体に、グンという力が加わる。
それは渦潮が巻く渦中へ突然放り込まれたらこんな感覚なのだろうな、と言い表す他にない抗いがたい強い力だった。
「なんだ!?」
「恐らく、ボルテクスが原因。たぶん、活動期というものに入った」
状況を確認する間もなく、暗闇の中心に浮かぶ赤い輝きは渦を広げ、妖しく不気味に瞬いた。
そう、この状況にあってその渦潮は、ブラックホールのようなものだ。
全てを飲み込み粉砕する、暗黒の渦なのだ。
「ま、まずくないか?」
「まずい。でも、脱出手段も、ない」
「そんな――うわっ!」
暗黒を漂っていた混獣の死体が渦の力に引き寄せられ、オスカーに衝突する。
その重量に弾き飛ばされ、より勢いよくオスカーの体はボルテクスへと引き寄せられ、闇の流れの中で身体がもみくちゃにされる。
「ごぼっ!く、くそっ!アビス!平気!?」
「わたしは、問題ない。わたしの本体はオスカーの体に――」
「そうだった!でもこのままじゃ一緒にバラバラだ!!」
無数の光が過ぎ去ってゆく。浮遊物が体をかすめ、暗黒の海流は赤黒い色を帯び始め、オスカーを含めた付近の輝きまでも飲み込まんとしている。
彼の目には、混獣に噛み潰されくしゃくしゃの鉄塊となったかつての相棒が取り残され、遠ざかっていくのが見えた。遠く、遠くへと。
海流に揉まれ、混ぜられ、ひっくり返され、再び溺れそうなほど呼吸が詰まる濁流の連続。
「このままじゃ――っつぅぐ!?」
その時、オスカーの額に強い衝撃が加わった。
どこからか漂流し流れ飛んできた岩のような物体が頭部に直撃したのだ。
「オスカー、頭部に強い衝撃、出血がある。今の状態では止血も再生も行えない」
全身から力が抜け、視界が霞む。先ほどの貧血も相まって、かなり消耗していたところの一撃だ。
激流の中で自由に身動きも取れずされるがままのオスカーとは対照的に、アビスは何事もないように傍を浮遊し、寄り添い、瞳を覗き込んだ。
赤い、赤い瞳が映る。
「オスカー……わたしが、連れて行く。わたしは、オスカーを、死なせない。わたしが、わたしを、死なせないために」
「アビ……――」
オスカーの意識が消え失せようとする最中、アビスの袖から伸びた無数の触手がオスカーを包み込んだ。
数本の触手は枝分かれして半透明の皮膜を形成し、流れを掴む。
海流に巻き込まれ飛び交う無数の異物の間を縫うように、アビスはただ寡黙に飛び続けた。
どこまでも、どこまでも、渦の中心を目指して。
見知らぬ世界で意識を失ったオスカーに、行く先は分からない。
産まれたばかりのアビスにもまた、進むべき先に進むことしか出来ない。
覚束ない足取りで、二人は飛ぶ。
二人の旅路は、今この時始まったのだ。
――EP:01【深淵】 終。




