第九十九話「皇帝杯(秋)前夜」
秋雨前線が去り、冷たい空気と澄んだ星空が戻ってきた夜。
白雷ジムの調教棟では、フリアノンがひとり、整備された練習コースを歩いていた。夜風に揺れる白い髪を押さえながら、いつもより静かなジムの空気を胸いっぱいに吸い込む。
(明日が……皇帝杯……)
去年、念願の初制覇を果たしたレース。そして春には二連覇を成し遂げた。今年の秋も、同じ舞台に戻ってこられた。
けれど、去年と同じ気持ちでいられない自分がいる。あのジュピターカップでの故障が、まだ心の奥に残っている。あの日、ゴール後に視界が真っ白になり、意識を失った恐怖。医務室で目覚めた時、ミオと村瀬が泣きそうな顔で立っていた光景。
「ノンちゃん!」
背後から声がした。振り返ると、薄暗い照明の向こうからミオが駆けてくる。息を弾ませて、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「何してんねん、こんな時間に……明日やぞ?」
「ごめんなさい……ちょっと……落ち着かなくて……」
フリアノンは小さく笑った。ミオは彼女の顔を見て、心配そうに眉を寄せる。
「怖いんか?」
問いかけに、フリアノンは少しだけ視線を逸らした。
「……少しだけ……」
「そら怖いわな。でもな、ノンちゃん」
ミオはフリアノンの肩に手を置き、真っ直ぐ目を見つめた。
「うちかて怖いんやで? でもな……それでも、ノンちゃんと一緒に明日も走りたいって思うんや。せやから……一緒に、勝とうな?」
「……はい……!」
フリアノンの目に、涙が滲む。けれど、それは恐怖や不安の涙ではなく、決意の光に変わっていた。
二人がそうしていると、背後から重い足音が響いた。
「おーい、夜練か?」
現れたのは村瀬だった。手には温かいココアの缶を二つ持っている。
「ほら、これでも飲め。冷えるやろ」
「ありがとうございます……」
缶を受け取ると、フリアノンは両手で包み込むようにして口をつけた。甘くて温かいココアが喉を通り、冷え切っていた心が少しずつ解けていく。
「ノン、去年の今頃もこうして夜に出てきてたよな」
村瀬の言葉に、フリアノンは小さく笑った。
「はい……あの時も……すごく怖くて……でも……」
「でも?」
「でも……今は……去年よりも、少しだけ自信があります……」
「そっか……なら大丈夫やな」
村瀬はそう言って笑い、隣で黙って聞いていたミオの頭をぽんと叩いた。
「ほら、明日に備えて寝るぞ。ノン、今日はもう終いや。明日は長い一日になる」
「……はい……!」
その返事に迷いはなかった。
***
一方その頃。
烈風ジムの寮では、クロエが自室で鏡の前に立っていた。ユニフォーム姿でフォームの確認をしている。背後にはヴェルナーが腕を組んで立っていた。
「どうだ、気持ちは?」
「ふん……あいつには絶対負けない……!」
クロエの声は震えていなかった。鏡越しに映る自分の瞳を見て、小さく笑う。
(わたしは、わたしの走りをするだけ……)
一昨年クイーンズカップを制した栄光も、昨年負け続けた悔しさも全て背負ってきた。今年はその全てを勝利に変える。
「必ず勝つから……!」
小さく呟いた声は、静かな寮の部屋に吸い込まれていった。
***
そして、アスティオンとユリウス。
二人は地球圏の宿泊ホテルの屋上で、夜風に吹かれていた。
「明日は、勝つんだろ?」
ユリウスの問いかけに、アスティオンはいつもの冷静な声で答える。
「もちろん。僕の目標は、勝つこと以外にありませんから」
「よし……頼りにしてるよ、アスティオン」
優しく微笑むユリウス。その笑みはかつてリュミエルに向けていたものと同じ柔らかさだった。
アスティオンは夜空を見上げ、瞬く星々を冷たい瞳に映す。
(この空に誓う……必ず勝つ)
その決意は、誰よりも冷たく、そして熱かった。




