第九十八話「クロエ、勝利の夜に思う」
レースが終わり、控室から出たクロエは、ジムの車に乗り込むまでの間もどこか落ち着かない様子だった。
ヴェルナーが運転席に座り、無言でエンジンをかける。走り出してしばらく、クロエは助手席で小さく震える手を膝の上で握り締めていた。
「震えているのか?」
ふいにヴェルナーが言った。その声には驚きも呆れもなく、ただ淡々とした響きがあった。
「……べ、別に……寒いだけ……」
「嘘をつくな。お前が寒がるような気温ではないだろう」
クロエは顔を赤くし、唇を噛んだ。
――だって、嬉しかったんだもん。
フリアノンを、ノンを、あの子を、初めて実力で負かした。
今までだって勝ったことはある。でも、それは相手が調子を崩していたり、不運に見舞われたときばかりで、「真正面から勝った」という実感が持てなかった。
だけど今日は違った。
「先行有利だ、前に上がれ」というヴェルナーの指示通り、いつもより早めに動いて、最後まで脚を残してゴールした。
――あの子の追い込みを、かわした。
ゴール後、息が苦しくなるほど泣きたかった。悔しくて泣くことは何度もあったけど、嬉しくて泣きそうになるなんて、いつ以来だろう。
「泣いてもいいんだぞ」
ヴェルナーの声が、夜道にやわらかく響いた。
「は、はぁ!? 誰が泣くかっ……!」
クロエは慌てて顔を背け、窓に映る自分の赤い目元を睨んだ。こんな情けない顔、絶対に見せられない。
「……でも……ありがと」
か細い声で呟くと、ヴェルナーは微かに笑ったように見えた。
車はやがて、クロエたちが拠点とする烈風ジムの寮へ到着した。夜空には、秋の星座が冷たく瞬いている。
部屋に戻ったクロエは、シャワーを浴びたあと、ベッドの上で膝を抱えて座った。濡れた髪からぽたりと水滴が落ち、パジャマの袖を濡らす。
――わたし、本当に勝ったんだよね。
何度も呟いてみる。口に出すたびに、胸の奥がくすぐったくて、くやしいほど嬉しかった。
(でも……次は……)
思い出すのはフリアノンの顔。ゴール後、悔しそうに俯いていたあの横顔。思わず追いかけて声をかけに行った。あの子の顔を見たら、どうしても言いたくなった。
「今日は勝ったけど……でも次は負けないから……!」
強がりじゃない。本気の言葉だ。あの子と、もっと高いところで競い合いたい。そのためなら、どんなきつい調教だって耐えてみせる。
「……負けないから……絶対に……!」
クロエはベッドの上でぎゅっと拳を握り締めた。爪が食い込み、痛みが走る。
でも、その痛みさえも心地よかった。あの日負け続けていた自分はもういない。今ここにいるのは、フリアノンに並び、そして越えられる自分だ。
ベッドサイドの棚に置かれた、一昨年のクイーンズカップの優勝メダル。その隣には、今日のディリークラウンカップの優勝リボンが新たに加わっている。
「次は……皇帝杯(秋)……絶対に……勝つから……!」
小さく呟いた声は、深夜の寮の部屋に吸い込まれていった。




