第九十一話「ジュピターカップ前夜」
夜の白雷ジム。
外は春の終わりを告げる涼しい風が吹き抜け、月が明るく夜空を照らしていた。
トレーニングルームの片隅で、フリアノンはひとり静かに目を閉じていた。
今日で最終調整も終わり。あとは明日の本番を待つのみだった。
(ジュピターカップ……去年は病院のベッドで終わった……)
あの時のことを思い出すたび、胸が締め付けられる。
病室で天井を見つめ、泣き続けた夜。
「走りたい」と叫びたいのに、身体は動かず、何もできない自分が悔しかった。
(でも……今年は……!)
ふと背後から、スニーカーの音が聞こえた。
振り向くと、ミオが手に缶コーヒーを二つ持って立っていた。
「ノンちゃん、起きとったんか」
「……はい」
ミオはにっこり笑って、フリアノンの隣に腰掛けた。
そして、コーヒーのプルタブを開けて渡してくれる。
「今さら緊張しとるんか?」
「……ううん。緊張……してます」
素直に認めるフリアノンに、ミオは笑い声をあげた。
「そらそうやわな。ジュピターカップはD1でも最高峰やし。しかも、ファン投票一位や。期待も重圧もハンパやないやろ」
「……はい……でも……」
フリアノンは缶コーヒーを抱えたまま、小さく俯いた。
「わたし……勝ちたいんです」
ミオはその言葉に驚きもせず、むしろ微笑みながら頷いた。
「知っとるよ。うちが知っとるノンちゃんは、弱気やけど、本当は誰よりも負けず嫌いや。わかっとる」
「……ミオさん……」
ミオは優しくフリアノンの髪を撫でた。
「大丈夫や。明日はノンちゃんの走りをしてきぃや。結果はあとからついてくる。そやろ?」
「……はい……」
その時、扉の向こうから別の足音が聞こえてきた。
現れたのは村瀬だった。
「お、まだ起きてたか。夜更かしはダメだぞ、明日に響く」
「……すみません……」
フリアノンは慌てて立ち上がる。
だが村瀬は笑顔で首を振った。
「いいんだ。今日は眠れなくても仕方ないさ。だが、ひとつだけ覚えておけ。お前はもう、去年のフリアノンじゃない。あれから一度も逃げずにここまで来た。自分を誇れ」
「……はい……!」
その言葉に、フリアノンの胸の奥が温かくなる。
すると、廊下から別のサイドールたちの声が聞こえてきた。
「おいフリアノン! お前明日は逃げるなよ!」
振り向くと、そこにはガルディアスが腕を組んで立っていた。
その隣には、アスティオンが静かに佇んでいる。
「ガルディアス、言葉が乱暴だ。……だが、彼の言う通りだな。フリアノン、明日は己を信じろ。それだけで十分だ。」
「……アスティオン……」
低く落ち着いた声音に、フリアノンは胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じた。
そして、さらにもう一人。
「フリアノン、明日は必ず倒すから」
クロエだった。冷たい視線を向けているが、その奥に熱い炎が宿っていた。
「……クロエさん……はい……!」
最後尾から走る自分。
逃げるガルディアス、沈着に構えるアスティオン、そして、クロエ。
(わたしは……わたしの走りをする……!)
みんなが去った後、夜空を見上げる。
星が滲んで見えたのは、冷たい風のせいじゃない。
(絶対に……勝ちたい……!)
涙を拭い、拳を握り締めるフリアノン。
明日は――己のすべてを懸けた決戦の日。
その瞳には、迷いも恐れもなかった。




