第九話:揺れる心
木星圏で行われたD3幻想杯が終わって数日。
白雷ジムでは、いつもと変わらない日常が流れていた。
(……いつもと変わらない……でも……わたしの中は、少し変わったかもしれない……。)
フリアノンは整備室の片隅で、一人機体のメンテナンスデータを眺めていた。
Jクラス初勝利から練習メニューもハードになり、ユリウスと共に過ごす時間も増えていた。
そのことが、彼女の胸に小さな灯をともしていた。
(ユリウスさん……。)
彼の落ち着いた声、穏やかな笑顔、的確で優しいナビゲート。
どれもが、フリアノンにとって憧れであり、淡い想いの源だった。
(……でも……わたしはサイドール。人間と……そういうことは……叶わない……。)
そうわかっていても、胸の奥がほんのりと温かくなる気持ちは、止められなかった。
◇
「ノンちゃん!」
突然、元気な声が響いた。
スレイプニルがトレーニングを終えて駆け寄ってくる。
「今日は早いね。メニュー全部終わったの?」
「う、うん……ちょっと、早く終わっちゃって……。」
「さっすがノンちゃん!Jクラス勝った勢いそのままだね!」
屈託ない笑顔。
この笑顔に、何度救われただろう。
「でも……スレイは……Sクラスで……すごい……。」
「えへへ……でも、この前負けちゃったし……。」
スレイプニルの瞳が少しだけ曇る。
D3幻想杯。マーメルスに負けた悔しさは、彼女の中でまだ消えていないのだろう。
「マーちゃん、やっぱり強いよね。」
フリアノンがそう言うと、スレイプニルは力強く頷いた。
「うん……でも、次は負けない!それに……ノンちゃんも……。」
「えっ……?」
「ノンちゃんも……いつか、Sクラスに上がってきてね。」
スレイプニルの笑顔には、揺るぎない信頼があった。
(……わたしも……スレイと一緒に……あの舞台で……。)
◇
ふと、休憩スペースのモニターが目に入る。
そこには、マーメルスのインタビュー映像が流れていた。
『当然の結果よ。あたしは至高の血族、マーメルスなんだから。』
傲慢で高飛車。
でも、その背後に隠された圧倒的な誇りと孤独を、フリアノンは少しだけ理解していた。
(マーちゃんも……怖いのかな……。負けることが……自分が……。)
そんなことを考える自分に、驚く。
少しずつ、周りが見えるようになってきたのかもしれない。
◇
夕方。
訓練を終えて機体のコックピットに座ると、ユリウスがゆっくりと近づいてきた。
「お疲れさま、フリアノンさん。」
「……ユリウスさん……。」
彼の声を聞くだけで、胸が高鳴る。
「最近、表情が変わったね。」
「え……?」
「少しずつ、自分に自信が持てるようになってきた。いいことだよ。」
穏やかに笑うユリウス。
その横顔を見つめるだけで、息が苦しくなる。
「……あ、あの……。」
言いかけて、言葉を飲み込む。
(ダメだよ……何を言おうとしてるの……。)
◇
「フリアノンさん?」
「……な、なんでもないですっ!」
慌ててコックピットから飛び降りると、彼は不思議そうに首を傾げた。
(好き……でも……言えない……。)
コロニーリングの外に広がる宇宙が、赤く染まっていく。
(もっと……強くならなきゃ……。マーちゃんにも、スレイにも、ユリウスさんにも……恥ずかしくないわたしに……。)
◇
遠くで響く整備機械の音。
白雷ジムの日常は、今日も静かに続いていく。
でもその中で、フリアノンの心には確かに変化が生まれていた。
(……わたし……もっと……速くなる……。)
その小さな決意が、いつか大きな風を巻き起こす。
そんな未来を、彼女自身もまだ知らなかった。