第八十八話「震える羽根」
春。皇帝杯(春)の二連覇達成で湧く白雷ジムに、さらに明るいニュースが舞い込んだ。
「ノンちゃん、聞いたか? ジュピターカップのファン投票、結果出たで!」
いつものようにミオが駆け寄り、タブレットをフリアノンへ差し出した。その画面には大きく、
【ジュピターカップ ファン投票結果】
1位 フリアノン(白雷ジム)
と記されていた。
「……わたし、また一位……?」
震えるような声で呟くフリアノンの周囲には、村瀬調教師や他のスタッフたちも集まってきていた。
「当たり前だろう。春の皇帝杯二連覇の勢いや。今、女子サイドールで一番人気があるのはフリアノン、お前や」
村瀬は珍しく満面の笑みを浮かべ、フリアノンの肩をポンと叩いた。
スタッフたちも「おめでとう!」と次々に声をかけてくれる。
しかしフリアノンの表情は晴れなかった。
タブレット画面に映る自分の名前。その輝きが、今はどうしようもなく怖かった。
「ノンちゃん、どないしたん? そない浮かへん顔して」
ミオが小さく首を傾げる。
フリアノンは少し唇を噛んでから、ぽつりと呟いた。
「だって……去年……」
去年のジュピターカップ。
ファン投票で一位に選ばれ、皆が祝福してくれたあの日を、フリアノンは今でもはっきり覚えていた。
そして――レースで、ゴール前に倒れ込むようにして走り終えたことも。
気が付いたときには病院のベッドの上。
医師から告げられた「軽い脳障害」という言葉。
『後遺症は残らない』と説明されたものの、その恐怖は、身体ではなく心に深く刻み込まれていた。
「また……また、ああなったらどうしようって……わたし……」
俯いて震えるフリアノンの手を、そっとミオが握った。
「ノンちゃん。あの時は確かに怖かったかもしれへん。でも、今のノンちゃんは去年より強いで。スタミナもパワーもつけてきた。せやから、大丈夫や」
ミオは、まるで優しく叱るように微笑む。
隣で村瀬も力強く頷いた。
「もちろん無理はさせない。何かあったらすぐにレースを止めさせる。だが、お前は前より成長している。そのことを忘れるな」
周囲の温かな言葉に、フリアノンは胸が詰まった。
自分一人で走っているわけじゃない。
ここには支えてくれる人たちがいる。
――でも、それでも。
不安が完全に消えたわけではなかった。
去年の記憶はあまりにも鮮烈すぎて、心の奥底に張り付いたままだ。
(わたし……今年は、無事にゴールできるのかな……)
そう呟きながらも、フリアノンは恐る恐る、しかし確かに、その羽根を広げる準備を始めようとしていた。
ファンが選んでくれた舞台。
逃げ出すこともできる。
でも、それを選ばなかったときにしか、見えない景色がある。
そして、その景色を一緒に見たいと願ってくれる人がいる限り――
「……わたし、頑張る」
小さな決意を胸に、フリアノンは春風が吹き込むジムの窓の外を見つめていた。




