第八十三話 皇帝杯(春)へ向けて
イオカップが終わった翌日。
白雷ジムの調教棟には、朝早くから活気が戻っていた。
「おはようございます……」
まだ筋肉痛が残る体を引きずるようにして、フリアノンは調教棟へ入ってきた。
ミオは既にタブレットを広げ、今日のスケジュールを確認している。
その隣には、スーツ姿の村瀬の姿もあった。
「ノンちゃん、おはよう。体は大丈夫か?」
「はい……少し痛いですけど、走れます……」
「そうか」
村瀬は短く返事をしてから、タブレットに視線を落とした。
その表情には、既に次の戦いへの思考が滲んでいた。
「昨日のレース、ようやったな。三着やったけど、最後の伸びは素晴らしかったで」
「でも……勝てませんでした……」
フリアノンは俯き、両手をぎゅっと握った。
悔しさはまだ胸の奥で冷たい棘になっている。
「負けたレースを悔やむのは結構。ただ、同じことを繰り返さないために、次に何をするか考えろ」
村瀬の厳しくも真っ直ぐな言葉に、フリアノンは顔を上げた。
その視線の先には、村瀬が開いている春までの出走計画が映っている。
「次は……皇帝杯(春)、ですよね」
「そうや。三月末、D1長距離戦。春の古馬頂上決戦や」
ミオがタブレットを指でスクロールさせながら言った。
「去年ノンちゃんが勝ったレースやな。春の皇帝杯制覇から一年。今年も連覇狙うで」
「……連覇……」
その言葉を口にした瞬間、フリアノンの胸が高鳴った。
去年は、がむしゃらに走って、気づけば勝っていた。でも今年は違う。狙われる立場、挑戦を受ける立場だ。
「ガルディアス、ラディウス、アスティオン、クロエ……もちろん強敵揃いや。でもノンちゃんには去年の経験がある。今年はそれを活かす番やで」
ミオは笑いながらも、真剣な目をしていた。
「でも……」
フリアノンは小さな声で言った。
「わたし、本当に……去年より強くなってるのかな……」
その問いに、ミオも村瀬もすぐには答えなかった。
代わりに村瀬がタブレットを閉じ、フリアノンの目を真っ直ぐに見つめた。
「お前は去年よりも強い。だが、周りも去年より強い。それだけだ」
「……」
「勝ちたければ、もっと自分を磨け。感情に飲まれず、冷静に。だが、感情を捨てるな。それがお前の走りだ」
厳しい言葉。だけどその奥には、フリアノンへの信頼が滲んでいた。
フリアノンは深く息を吐き、小さく頷いた。
「……はい。わたし、がんばります」
「よっしゃ、それでこそノンちゃんや!」
ミオが笑って背中を叩く。その力強さに、フリアノンも小さく笑った。
「今日から皇帝杯(春)に向けて、追い込み練習に加えて、持久力強化もやるからな。長距離戦はスタミナ勝負や。覚悟しいや?」
「はい……! がんばります!」
フリアノンの返事に、ミオも村瀬も微笑んだ。
春は、すぐそこまで来ている。
冷たい空気の奥に感じる、かすかな温もり。
新しいシーズンの始まりと共に、フリアノンの戦いも再び動き出す。
(負けない……絶対に負けない……わたしは、勝つ……!)
拳をぎゅっと握りしめたフリアノンの瞳には、春の皇帝杯のゴール板が、もう見えていた。




