第八十一話 イオカップ前夜
「明日がイオカップかぁ……」
フリアノンは白雷ジムの調教棟で、軽めの最終調整を終えたあと、ストレッチ用マットの上で天井を見上げていた。
冬の澄んだ空気は冷たいが、屋内の温度は快適に保たれていて、ほんのりとした暖かさが心地いい。それでも、フリアノンの胸の奥には、小さな冷たい塊がひっそりと居座っていた。
「ノンちゃん、大丈夫か?」
隣でバランスボールに腰掛けたミオが声を掛けてくる。調教後のチェック表をタブレットで確認しながらも、フリアノンの表情から不安を読み取ったようだった。
「……うん、大丈夫。ちょっと……ドキドキしてるだけ」
「そらそうやろ、イオカップやもん。長距離戦やし、出走メンツも強い。緊張するのは当たり前や」
ミオはタブレットを膝に置き、フリアノンの背中をぽんぽんと優しく叩いた。
その温かさに、フリアノンは少しだけ目を細める。ミオのこの優しさに、何度救われてきただろう。
「でも、ガルディアスさんもラディウスさんもアスティオンさんもいるし……わたし、まだイオカップ勝ったことないし……」
「勝てへん思うん?」
ミオの問いかけに、フリアノンは小さく首を横に振った。
「……勝ちたい、勝ちたいけど……わたし、いつも届かなくて……」
去年もそうだった。あと少し、ほんの一歩届かなかった。勝つためには何が足りないのだろう。スタミナ、スピード、気持ち、全部をもっと磨かなければならないのに、明日までに間に合うのだろうか。
すると、横から別の声がした。
「不安は当然だ。だが、それを越えてきたのがお前だろう?」
村瀬だった。スーツ姿のまま、調教棟にやってきて、ミオとフリアノンを見下ろしている。厳しくも優しい目だった。
フリアノンは慌てて起き上がった。
「む、村瀬さん……!」
「勝てない理由を数えるより、勝つために必要なことを思い出せ。お前は追い込みでここまできた。明日も同じだ。自分の走りをするだけだ」
短い言葉だけど、その響きはフリアノンの胸にずしんと届いた。
そうだ、フリアノンは追い込みで勝ってきた。最後尾からでも前を捕まえてきた。それが彼女の走り。
「ノンちゃん。わたしらがついとる。大丈夫やで」
ミオが笑ってくれる。その笑顔に、フリアノンはほんの少しだけ、胸の冷たさが溶けるのを感じた。
「ありがとう、ミオさん……村瀬さんも……わたし、がんばる。絶対、がんばるから……!」
「……ああ」
「うちも信じとる。さ、帰ってしっかりご飯食べや。明日に向けてエネルギー溜めるんやで?」
ミオに引っ張られるように立ち上がると、フリアノンはジムの廊下を歩きながら、明日のレースを思い描いた。
ガルディアスは逃げるだろう。ラディウスもついていくはず。アスティオンは中団で脚を溜める。そしてフリアノンは……最後尾から全部を追いかける。
(勝ちたい……勝ちたい……!)
不安も恐怖もある。だけど、それ以上に、この胸の奥には燃えるような願いがあった。
フリアノンは勝ちたい。ただそれだけ。
そして、夜。部屋のベッドに横になっても、明日のレース展開を何度も思い浮かべては寝返りを打った。
窓の外には、月が静かに光っていた。




