第七十三話「クロエの逆襲」
年が明け、各ジムでは新年恒例の決起集会や祈願祭が終わり、再び苛烈なトレーニングが始まっていた。
烈風ジムの調教場に、その日も一人の少女サイドールが立っていた。
「はあっ……はあっ……!」
クロエ、6歳。去年のクイーンズカップでフリアノンに敗れた悔しさは、年を越えても彼女の胸に強く刻まれていた。
「もっと……もっと速く……!」
軽量化された練習用アーマーを装着し、加速補助装置を最小出力にして走る。吹き荒れる冷たい風がクロエの髪を激しく揺らした。
「クロエ、今日のメニューはもう終わりだ」
そう声をかけてきたのは、ナビゲーターのヴェルナー・クロイツだった。四十代後半の静かな紳士。普段は優しい口調の彼も、レースとなれば氷のように冷徹であった。
「まだいける……まだ全然走れる……!」
「無理をするな」
クロエは足を止め、荒い息を吐いた。頬に張り付いた髪の間から、ギラリとした瞳が覗いている。
「……ヴェルナーさん……」
絞り出すような声だった。
「あたし……負けたくない。フリアノンに……もう二度と、負けたくない……!」
膝に手をつき、震える声で言うクロエ。その体は限界を迎えていたが、心はまだ戦場に立っていた。
「クロエ。お前は十分に強い。しかし、それ以上を求めるなら……まずは心を整えることだ」
「心……?」
「そうだ」
ヴェルナーはクロエの肩に手を置いた。その手は冷たかったが、同時に温もりを感じさせる優しさがあった。
「お前はいつも、フリアノンを意識しすぎている。もちろん、彼女を超えたいという気持ちは大切だ。しかし、それだけでは勝てない」
「じゃあ……どうすればいいの……?」
クロエはヴェルナーを見上げた。雪雲に覆われた空の下、その瞳には涙が滲んでいた。
「お前はお前のレースをすることだ。フリアノンに勝つことだけを考えるな。お前の強さを信じろ」
「……あたしの……強さ……」
「そうだ。お前にはお前の走りがある。それを信じて走れ。……フリアノンではなく、自分自身と戦え」
クロエは俯いたまま、小さく震えた。拳を握り締める。
――自分自身と、戦う。
その言葉は、敗北の痛みでぐちゃぐちゃになった彼女の心に、真っ直ぐ突き刺さった。
「わかった……やってみる……!」
顔を上げたクロエの瞳には、決意の炎が宿っていた。ヴェルナーは微かに笑みを浮かべると、
「よし。では今日はここまでだ。しっかり休め。戦いはもう始まっている」
「はい……!」
クロエは涙を拭い、真っ赤に腫れた目で空を見上げた。雪雲の隙間から、薄い冬の陽が覗いている。
――フリアノン、次に会うときは、絶対に勝つ。
その決意と共に、クロエは氷のような風が吹き荒ぶ烈風ジムの調教場を後にした。




