第七十二話「訣別の時」
朝の調整を終え、白雷ジムのロビーでミオと軽くストレッチをしていたフリアノンの元に、一通のメッセージが届いた。
「……マーちゃんが……?」
文字を追うフリアノンの瞳が大きく揺れる。読み終えるより先に、全身が強張り、手が震えた。
「ノンちゃん? どないしたん?」
「ミオさん……マーちゃんが……故障したって……」
「えっ……!」
ミオも目を見開いた。フリアノンはそのまま飛び出すように立ち上がると、病院へ向かう準備を始めた。
病室には、静寂が満ちていた。
カーテン越しに差し込む昼下がりの光の中、ベッドに横たわるマーメルスは無表情で天井を見つめていた。その瞳に、あの誇り高く凛々しい光はなかった。
「マーちゃん……」
フリアノンがそっと声をかける。マーメルスはゆっくりと瞼を動かし、フリアノンの方へ顔を向けた。
「……ノンちゃんか……」
「大丈夫……なの……?」
言葉にするだけで胸が痛んだ。マーメルスの身体には管が繋がれ、脳波測定の装置が微かに電子音を立てていた。
「……大丈夫じゃないよ」
マーメルスは乾いた声で笑った。だがその笑みにはいつもの強気さも、明るさもなかった。
「脳……だってさ。ノンちゃんもなったろ? でも、私のは……酷いんだって。治ったとしても、もう……走れないってさ……」
「そんな……」
喉が詰まり、フリアノンは言葉を失った。
「悔しいよ……悔しいに決まってる……っ」
マーメルスは唇を噛み締めた。細い肩が震えていた。強い彼女が、どれだけ走ることを誇りにしていたか。どれだけ勝負の世界を愛していたか。フリアノンは知っていた。
「まだ……私は……やれると思ってたのに……」
消え入りそうな声が、ベッド脇の空気を震わせた。
「……私……どうしたらいいんだろ……」
フリアノンは、ただ黙ってマーメルスの手を握った。何も言えなかった。励ます言葉も、慰める言葉も、全てが空虚に思えた。
「……繁殖入りが決まったんだって」
沈黙を破ったのはマーメルスだった。虚ろな瞳を天井に向けたまま、感情の抜け落ちた声で告げる。
「もう……レースには……戻れない」
フリアノンは涙を堪えた。自分もかつて覚悟した恐怖。大好きなレースを二度と走れなくなる絶望。それがどれほどマーメルスを苛んでいるか、痛いほどわかった。
(どうして……どうしてこんな……)
震える唇を必死で結び、フリアノンはマーメルスの手を強く握りしめた。だが、言葉は出なかった。
マーメルスは、フリアノンの手を握り返さなかった。ただ静かに、涙を流すこともなく、冷たい瞳で天井を見つめ続けていた。
帰り道、フリアノンは青く晴れ渡った春の空を見上げた。冷たい風が頬を撫でる。
(私だって……いつこうなるか……わからない……)
走れることは当たり前じゃない。明日も走れる保証なんてどこにもない。そんな当たり前の事実が、心を鋭く刺した。
(それでも……私は……走る)
涙で滲んだ空を睨みながら、フリアノンは小さく、だが確かな決意を抱いた。
(マーメルス……あなたの分まで……私は……)
吹き抜ける風の中で、フリアノンはそっと拳を握り締めた。




